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馬の声が聞こえるようになったと思ったら実は馬は全員元人間だった。  作者: ペンは休み休みもて(ペンもて)
第2章「売れ残りの馬券おやじ」

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18/33

第18話 東京スポーツ杯2歳S




《スタートしました!》


 9番の栗毛が、出た。


 揃った10頭の中で、遅れていない。


――――――――


 ゲートの中。


 何も考えない。


 前だけ見る。


 隣の鹿毛がどうとか知ったことか。


 俺は俺の走りをするだけだ。


 スタートの音が腹に響いた。


 体が先に出た。


 悪くない。


 外の9番からでもロスなく出られた。


 周りが一斉に前へ殺到する。


 俺は無理に前を追わない。


 40年の経験がそう言う。


 2コーナーまで短いんだ。


 焦るな。


 外を走らされるのがいちばん損だ。


「内へ」


 体が左へ切れ込む。


 外から来た分、行き足をつけて内のポジションを取りに行く。


 2コーナーが近い。


 前を見た。


 先頭は2番。


 その後ろ、内ラチ沿いに1番の鹿毛がいる。


 俺はちょうどその外。


 2番手の鹿毛の外め。


 悪くない位置取りだ。


 前のペースは速すぎない。


 まだ余力がある走り方だ。


 こいつ、2番手で折り合ってやがる。


 2コーナーを回る。


 傾いた地面を左前脚が掴む。


 内ラチ沿いを走る鹿毛の後ろ姿が近い。


 手を伸ばせば届きそうな距離にいる。


 向正面に入った。


 風が正面から吹いてくる。


 まだ何も仕掛けない。


 俺はキングスレガリアのすぐ外で呼吸を整えていた。


――――――――


 双眼鏡の中で隊列がほどけていく。


 向正面。


 先頭は2番。


 その後ろに1番の鹿毛。


 キングスレガリアだ。


 2番手。


 すぐ外に栗毛。


 白地に青い縦縞。


 源さんだ。


 縦に長い列だ。


《向正面を通過します。先頭は2番。2番手に1番キングスレガリア。その外に9番カミノイッテ》


 俺は双眼鏡を少しだけ動かした。


 鹿毛の首筋を見る。


 鞍上の手が動かない。


 楽をしている。


 そう見える走り方だ。


 単勝1.4倍。


 それだけの理由がある。


 俺は栗毛の耳を見た。


 両方とも前を向いている。


 相沢さんの手綱は短い。


 体は小さい。


 悪くない。


 悪くないが、まだ何もしていない。


《前半は緩やかな流れ。隊列は縦長です》


 父さんは腕を組んだまま黙っている。


 俺も黙っている。


 双眼鏡の視界がわずかに揺れた。


 鹿毛が動いた。


 内ラチから少し離れる。


 俺は目を細めた。


 半馬身。


 もう少し。


 もう少し離れる。


 ラチと鹿毛の間に、馬1頭分の隙間ができた。


「……空けた」


 俺はつぶやいた。


 父さんは何も言わない。


 双眼鏡を握る手に少しだけ力が入った。


 俺は視界の中で栗毛を探した。


 白地に青い縦縞。


 まだ外にいる。


 まだ、その隙間には入っていない。


――――――――


 内が空いた。


 鹿毛の尻が外へ半馬身ずれた。


 ラチと鹿毛の間に、馬1頭ぶんの穴が開いた。


 あの野郎。


 昨日の言葉を思い出す。


「内を空けておくよ」


 丁寧な声だった。


 嫌味のない声だった。


 だから余計に腹が立つ。


――罠か。


 そう思った。


 競馬歴40年。


 こういうのは大概罠だ。


 内を開けておいて、入ってきたところを閉める。


 昔からある手だ。


 分かってる。


 分かってるが。


 俺は内を見た。


 ラチ沿いの芝がきれいに続いている。


 誰も走っていない。


 誰も走っていない道だ。


「売られた喧嘩だ」


 口の中で言った。


 買わねえでどうする。


 江戸っ子は意地で生きてんだ。


 手綱がわずかに緩んだ。


 体が内へ向く。


 鹿毛の尻が近づく。


 ラチの白い線が目の端を流れる。


 風が止んだ。


 外から来た風が、鹿毛の背中に遮られる。


 内ラチ沿いに入った。


 蹄の下が硬い。


 芝が薄い。


 ここだ。


 この道だ。


 鹿毛は何も言わない。


 前を向いたまま、静かに走っている。


 横目で見ても、こっちを見ない。


 3コーナーが近づいてくる。


 左に曲がる。


 手前は左。


 地面が傾く。


 俺はラチ沿いを内の、いちばん内を走っていた。


――――――――


《3コーナーから4コーナーにかけて、各馬一斉に動き始めました》


 鹿毛が外へ出た。


 内ラチから離れる。


 半馬身。


 1馬身。


 源さんの真横から、するりと前に出る。


「……出した」


 俺はつぶやいた。


 キングスレガリアが外へ持ち出した。


 源さんは内に残った。


 2番の真後ろ。


 ラチ沿いの、いちばん内。


《キングスレガリア外から上がっていきます。カミノイッテは内で進路を探す形》


 相沢さんの左手が先に動いた。


 手綱が引かれる。


 外へ出す合図が、一拍遅れる。


「……左手が先だ」


 父さんは黙っている。


 相沢さんは気づいていない。


 自分が左手から引くことを。


 外に出したい。


 馬は外に出たがっている。


 その一瞬で、外の進路が閉じた。


《カミノイッテ、内で詰まっています。前が壁になりました》


 外は鹿毛。


 内はラチ。


 前は2番。


 箱の中だ。


 俺は双眼鏡を握り直した。


 視界の中で源さんの耳が、両方とも後ろへ倒れている。


 怒っている。


 あの耳の倒し方は怒っている。


《4コーナーを回ります。先頭は2番。内にカミノイッテ。外からキングスレガリアが並びかける》


 源さんはラチ沿いを走っている。


 逃げる2番の真後ろ。


 前に出られない。


 外に出られない。


 鹿毛が外で蓋をしたまま、前へ出ていく。


《カミノイッテ、前が詰まって動けません》


 相沢さんの手がもう一度動いた。


 今度も左手が先だった。


 ラチが近い。


 蹄が白い線を踏みそうになる。


「……まずいな」


 父さんが初めて口を開いた。


「まだだ」


 短かった。


 双眼鏡の視界で、源さんの耳が片方だけ外へ向いた。


 怒りが、計算に変わった音がした。


 気がした。


《4コーナーを回り終えて、直線に向きます》


 隊列が向きを変える。


 白い柵が視界の端を流れていく。


 源さんはまだ内にいる。


 前は2番。


 外は鹿毛。


 俺は双眼鏡を握ったまま、息を止めていた。


 父さんは腕を組んだまま動かない。


 直線が近づいてくる。


――――――――


 直線に入った。


 坂の手前だ。


 前が詰まっている。


 2番の尻。


 すぐそこにある。


 キングスレガリアは外から抜けていった。


 もう先頭だ。


 5馬身は前。


 あっさり抜けやがった。


 誘いに乗ったのは俺だ。


 前が開かねえ。


 2番がバテてくれねえと動けねえ。


 待つしかねえ。


 待つのも競馬だ。


 40年、待ってきたんだ。


 外れ馬券を握って待ってきた。


 あの頃よりマシだ。


 今は走って待ってる。


 2番の背中が揺れた。


 手綱が動いた。


 騎手が必死に押してやがる。


 押しても伸びねえ。


 もう脚がねえんだ。


 2番の尻が外へよれた。


 半馬身。


 1馬身。


 ラチと2番の間に、道ができた。


「今だ」


 俺は自分から行った。


 待ってましたとばかりに前へ出る。


 誰に言われたわけじゃねえ。


 俺が決めた。


 意地の分だけ前へ出る。


――――――――


《カミノイッテ、内から伸びてきた!》


 実況が叫ぶ。


 白地に青い縦縞がラチ沿いを抜け出してくる。


 俺は双眼鏡を構えたまま動かない。


《先頭はキングスレガリア。5馬身》


 父さんが一歩前に出た。


「5馬身」


 俺は口の中で繰り返した。


 スタンドがざわつく。


 隣の男が「9番だ」と声を上げる。


 聞こえていないふりをする。


《残り300を切って、カミノイッテが2番手に上がりました》


 源さんの栗毛が2番手に浮上する。


《キングスレガリアとの差は2馬身》


「2馬身」


 父さんは何も言わない。


 スタンドの声が大きくなる。


「差せ」「届け」「行け」


 周りの観客が手すりに身を乗り出す。


 俺は双眼鏡を動かさない。


 呼吸を忘れている。


 心拍数だけがやけに落ち着いている。


――――――――


 前の鹿毛が大きくなってくる。


 さっきまで遠かった。


 今はもう尻が見える。


 脚が動く。


 まだ動く。


 まだ終わってねえ。


 こっからだ。


 こっからが俺の生きてきた時間だ。


 40年分の競馬場の帰り道を全部ぶち込む。


 外れ馬券の分まで走れ。


「約束どおり、空けておいたよ」


 前の鹿毛が、こっちを見ずに言った。


 うるせえ。


――――――――


《カミノイッテ、ものすごい脚で差を詰める!》


 実況が裏返る。


 父さんが腕を解いた。


 両手で手すりを掴む。


 スタンド全体が揺れている。


 地鳴りみたいだ。


 それでも俺は叫ばない。


 歯を食いしばるでもない。


 双眼鏡の向こうに栗毛の脚が映る。


 前へ出るたびに鹿毛が近づく。


《残り100!カミノイッテ、半馬身まで迫った!》


「半馬身」


 俺の声は自分でも聞こえない。


 スタンドの歓声にかき消される。


 父さんが手すりを握ったまま前のめりになる。


《キングスレガリア、まだ前!カミノイッテも並びかける!》


 鹿毛と栗毛が並んでゴールへ向かう。


《ゴール!キングスレガリア、強い!しかし2着に突っ込んだのはカミノイッテ!》


 栗毛がゴール板を駆け抜ける。


 鹿毛の半馬身後ろ。


 届かなかった。


 俺は双眼鏡を下ろす。


 手が震えていない。


 自分でも不思議なくらい冷静だった。


「届かなかったな」


 父さんは返事をしない。


 電光掲示板を見ている。


 着順が並ぶ。


 1着「1」。


 2着「9」。


 その横に「1/2」の文字。


 半馬身。


 勝ちタイム、1分46秒8。良馬場。


「半馬身か」


 父さんが小さく言った。


 それだけだった。


 スタンドのどよめきがまだ続いている。


 誰かが「2着は9番だぞ」と叫んでいる。


「6番人気だぞ」「馬連ついてる」


 源さんの栗毛はもうゴール板の向こうで速度を落としている。


 相沢さんが手綱を緩めて、首を叩いている。


 遠い。


 この距離では声は届かない。


 届かなくても、あの背中は怒っている。


 俺には分かる。


 悔しがっている。


 検量室の前に回った。


 2着の馬が入る枠の前で、父さんと並んで待つ。


 梶先生が先に来ていた。


「おう、坊主」


「……2着でした」


「見てたよ。よく走った」


 梶先生は腕を組んだまま、馬道のほうを見ている。


 日が傾きかけている。


 スタンドの影が馬道まで伸びてきていた。


 やがて、白地に青い縦縞が戻ってくる。


 戸川さんが引く源さんの栗毛。


 相沢さんを背にしたまま、ゆっくりと歩いてくる。


 首は下がっていない。


 耳は前を向いたままだった。


 負けた馬の耳じゃない。


 それでも負けた。


 枠の前で止まる。


 相沢さんが左足を抜いて、するりと下馬した。


 着地の音は小さい。


 鞍を外す手つきも丁寧だ。


 外した鞍を両腕に抱えたまま、こっちへ向き直る。


 帽子を取った。


 前髪が汗で張りついている。


「すみません」


 声は小さかった。


「僕が……外に出すのが遅れました」


 頭を下げた。


 下げたまま動かない。


 俺は何も言えなかった。


 違う。


 違うと分かっている。


 でも言えない。


 言えば全部を説明しなければいけなくなる。


 父さんは何も言わない。


 俺の隣で、腕を組んだまま源さんを見ている。


 源さんの耳が、わずかに動いた。


「違う」


 低い声だった。


 人間には聞こえない。


 俺にだけ聞こえる。


「兄ちゃん、違う。俺が誘いに乗ったんだ」


 鼻をひとつ鳴らした。


 ブルル、と空気が震える音。


 相沢さんが顔を上げる。


「すみません。僕が……」


「だから違うっつってんだろ」


 源さんの声は荒い。


 戸川さんが手綱を持っているのに、源さんは黙らない。


 でも人間には鳴き声にしか聞こえない。


 戸川さんが手綱を握り直した。


「暴れないでください、カミノイッテ」


「暴れてねえよ。暴れてるのはこっちの腹の中だ」


 俺は源さんの肩に手を置いた。


 汗で熱い。


 毛の下で心臓がばたばたと動いている。


「源さん」


「俺が悪いんだ。あいつは悪くねえ。兄ちゃん、そう伝えろ」


 伝えられるわけがない。


「分かってる。分かってるよ」


 源さんは右前脚で地面を3回叩いた。


 トン、トン、トン。


 考え込むときの癖だ。


 俺は何も言わない。


 相沢さんにも、源さんにも。


 どちらにも言えない。


 相沢さんがもう一度、頭を下げる。


「後検量、行ってきます」


「ああ」


 梶先生が頷いた。


 相沢さんは鞍を抱え直して、検量室のほうへ歩いていく。


 背中が小さく見える。


 左手が、わずかに開いたままだった。


 源さんの耳が、その背中を追っていた。


「あいつ、まだ自分のせいだと思ってやがる」


「違うんだよ、兄ちゃん。あれは俺の選択だ」


 俺は答えない。


 答えられない。


 戸川さんが源さんを引いて、検体採取所のほうへ向かう。


 栗毛の尻が、夕日の中で小さくなっていく。


 右前脚が一度だけ、地面を強く踏んだ。


 梶先生がキャップを取って、禿げた頭を一度撫でた。


「いいか、坊主」


 馬道の先を見ながら言う。


「向こうの乗り役、わざと内を開けたんだ。ラチ沿いに隙間を作って、カミノイッテを誘い込んだ」


 俺は黙って聞いていた。


「カミノイッテは誘いに乗った。あいつの気性なら仕方ねえ」


「乗り方も悪かった。外に出すのが一拍遅れた。あの手綱の引き方、左手が先に出る。今日、初めて気づいた。本人も気づいてねえだろう」


「それでも、開いてからは一番速かった。直線の脚はこの馬が一番だ。前が開いてから、5馬身を半馬身まで詰めた。脚は通用する」


 梶先生はそこで一呼吸おいた。


「負けたのは乗り方と、性格だ」


 性格は直らない。


 なら、乗り方でなんとかするしかない。


「賞金は入った。この着順ならホープフルSに出られる。出るぞ」


 父さんは腕を組んだまま、馬道の先を見ていた。


「……そうか」


 それだけだった。


 通路の向こうが急に騒がしくなった。


 カメラのレンズが夕日を反射している。


 白髪まじりの短髪に銀縁眼鏡。


 仕立てのいいジャケット。


 鷹司玲司が記者に囲まれている。


 向こうもこちらに気づいている。


 一瞬だけ目が合って、すぐに外された。


 父さんが一歩、体の向きを変えた。


 記者の輪を抜けた鷹司玲司が、蒼真を連れてこっちへ歩いてくる。


 銀縁眼鏡の奥の目は笑っている。


 口元も笑っている。


 仕立てのいいジャケットに夕日が当たって、肩のラインだけがやけに明るく見えた。


「やあ、久世さん」


 玲司が父さんの前で足を止めた。


 父さんは軽く頭を下げた。


 俺も続けて頭を下げる。


「お見事でした」


 父さんが言った。


 玲司はゆっくりと首を振った。


 それから、俺のほうを見た。


「いいえ、こちらこそ。実にいい物差しでした」


 物差し。


 つまり、カミノイッテのことだ。


 勝った馬の馬主が、負けた馬を物差しと呼ぶ。


 温度感が分かりやすい。


 こちらが測られた側で、あちらは測る側。


 決裁権を持っているのはいつも向こうだ。


 蒼真が一歩前に出た。


 胸を張っている。


 勝った馬の馬主の息子というより、勝った馬の本人みたいな顔だ。


「君のところの馬、惜しかったね」


 声が高い。


 必要以上に通る声だ。


「半馬身差まで来るとは思わなかったよ」


「2着ですから」


 蒼真は鼻で笑った。


「負けは負けだろう。2着もビリも同じことさ」


 そういう考え方もある。


 持ち帰って検討します。


「次はホープフルで」


 玲司の目が、少しだけ細くなった。


 口元は笑ったままだ。


 蒼真が眉を上げた。


「馬鹿かね、君。次も勝つに決まっているだろう。僕たちのキングスレガリアは、君のところの馬とは格が違うんだよ」


 格。


 また分かりやすい言葉を出す。


 玲司は何も言わない。


 この人は笑っているときほど何かを見ている。


「君のところの馬はなかなかだったよ。本当に。内を走った判断も、直線の脚も」


 玲司が言った。


「でも、キングスレガリアはまだ強くなる。今日は力を全部使っていない。だからホープフルも勝つよ」


 穏やかな声だ。


 事実を確認するだけですと言わんばかりの口調。


「そうですね」


 それだけ答えた。


 父さんは何も言わない。


 腕を組んだまま玲司の顔を見ている。


 玲司が父さんに軽く会釈した。


「今日はありがとうございました。また競馬場でお会いしましょう」


 父さんが頭を下げる。


 俺も頭を下げた。


 玲司が背を向ける。


 蒼真がその横に並ぶ。


 勝ち誇った背中が二つ、夕日の中を歩いていく。


 記者たちがまたカメラを向ける。


 シャッター音が何度か聞こえた。


 あの親子は、ああいう場所に立つことに慣れている。


 俺は違う。


 父さんも違う。


 慣れてなくていい。


「行くぞ」


「はい」


 俺は歩き出す。


 馬道のほうから、馬運車のエンジン音が聞こえた。


 どこかの厩舎の馬がもう帰るらしい。


 音は低くて長い。


 その夜、府中の駅前のビジネスホテル。


 6階の部屋。


 窓の外に街灯が並んでいる。


 ベッドが二つ。


 テレビは消してある。


 父さんは窓際の椅子に座っていた。


 上着を脱いで、シャツの袖をまくっている。


 俺はベッドの端に座って、缶のお茶を飲んでいた。


 明日は朝いちばんの便で帰る。


 宿題は持ってきている。


 やっていない。


 携帯が鳴った。


 テーブルの上で、画面が光っている。


 父さんが手を伸ばす。


「……梶先生」


 俺に言ったわけじゃない。


 名前を確認しただけだ。


 俺は缶を膝に置いた。


「……ああ」


「……はい」


「……そうですか」


 父さんは背もたれに寄りかかったまま話している。


 声は低い。


 向こうの声は聞こえない。


 梶先生はよくしゃべる人だ。


 電話でもよくしゃべるに違いない。


 父さんの相づちが、その長い話の切れ目に入る。


「……ええ」


「……分かっています」


「……はい」


「……相沢が、ですか」


 父さんが少しだけ上体を起こした。


 俺は缶を持ったまま、動かなかった。


 相沢さん。


 左手が先に動く人。


 本人は気づいていない。


「……リーディングの、ですか」


「……乗れるんですか、その人は」


 父さんの指が、テーブルの縁を一度だけ叩いた。


 トン。


 源さんじゃない。


 父さんだ。


 この人が指を動かすときは、たぶん考えている。


「……いや」


「……分かります」


「……ええ、それは分かります」


「……はい」


「……そうですね」


「……はい」


「……大きいですね、それは」


 父さんが黙った。


 長い沈黙だった。


 電話の向こうで梶先生がしゃべり続けている。


 父さんは聞いている。


 聞きながら、何も言わない。


「……乗り替わり、ですか」


 俺は顔を上げた。

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