第19話 乗り替わり会議
「正直に言う。GⅠなら、もっと上手い騎手がいる」
梶先生が言った。
美浦トレーニングセンター、梶厩舎の事務所。
11月の終わり。月に1回の美浦行きを、父さんが前倒しにした。
小さな部屋にストーブが一つ。
俺と父さんと相沢さんと、梶先生。
四角いテーブルを囲んで座っている。
源さんと戸川さんはいない。
馬房で待っているはずだ。
「いいか、坊主」
俺を見た。
「ホープフルSはGⅠだ。このクラスになると話が違う」
梶先生は指を2本立てた。
「一つ目。相手が強くなる。札幌や東京で走った馬ばかりじゃない。関西の馬も来る。あのレースはその年の2歳のトップが揃う。実力が拮抗してるから、技術で勝負が決まる」
2本目の指を折った。
「二つ目。これが一番大事だ」
梶先生はテーブルを一度だけ叩いた。
コン。
「騎手同士のやり取り。GⅠのスタートラインは、目配せ一つで場所が決まる。ここは譲らない、ここは行かせる。手綱のわずかな動きで相手に合図を送る。そういう経験を積んでいる騎手と、積んでいない騎手では、スタートから道中までで大きな差が出る」
俺は黙って聞いていた。
「東スポ杯で見たろ」
梶先生は俺の顔をのぞき込んだ。
「向こうの騎手が内を開けた。あれは手綱の動きでカミノイッテに合図を送ったんだ。ここに来い、と。相沢はそれにまんまと引っかかった。あの騎手はGⅠを何勝もしてる。そういう合図に慣れてる」
俺はうなずいた。
見ていた。
「相沢は悪くない。東スポ杯の乗り方も、悪くはなかった」
梶先生は相沢さんの方を向いた。
相沢さんは膝の上で両手を握っている。
声は出さなかった。
「だが、GⅠであの手の誘いを全部かわすのは、今の技術じゃ難しい。わかってるな」
相沢さんの肩が、わずかに動いた。
うなずいたのか、震えただけなのか、俺にはわからなかった。
「それでだ」
梶先生は俺と父さんを交互に見た。
「リーディング上位の騎手に頼んでみる。あの馬なら乗ってくれるはずだ。今まで何度も顔を合わせてる。話くらいは通る」
父さんは腕を組んだまま、何も言わなかった。
「無理強いはしない。だが、坊主、父さん。俺は勝ちたい。カミノイッテに勝たせたい。GⅠで勝たせたい。そうなれば、この馬の価値が変わる。厩舎の状況も変わる。頭を冷やして聞いてくれ」
俺は缶のお茶を一口飲んだ。
ぬるくなっていた。
営業で言えば、大きな案件の担当者を変える、ってところか。
でも、外れた人間は傷つく。
それは、俺も何度も見てきた。
父さんは黙ったまま、窓の外を見た。
薄い曇り空が広がっている。
相沢さんは、まだ手を見ていた。
握りしめた指が、白くなっていた。
相沢さんが顔を上げた。
目はテーブルの上を見ていた。
「……僕は」
小さな声だった。
ストーブの音にかき消されそうな声。
「降ります」
俺は缶のお茶を握ったまま動かなかった。
社内会議で「担当外れます」と言う営業マンの声に似ていた。
「……すみません」
相沢さんは頭を下げた。
梶先生は止めなかった。
父さんも何も言わなかった。
「あの」
俺は口を開いた。
「カミノイッテは、相沢さんがいいって言ってます」
言った瞬間、部屋の空気が固まった。
営業で言えば、会議室で場違いな提案を出した時の沈黙に近い。
「ははは」
梶先生が笑った。
短く、乾いた笑い声だった。
「馬がしゃべるか」
キャップの下から俺を見る目は、完全に子供の冗談扱いだった。
冗談じゃない。
でも、ここで説明はできない。
相沢さんも顔を上げた。
困ったような笑みを、口の端に浮かべていた。
小さく笑っただけで、何も言わなかった。
そうだよな。普通、そうなるよな。
34歳の俺が聞いても信じない。
まして12歳の子供の言葉だ。
父さんは何も言わなかった。
窓の外を見ている。
俺は缶のお茶を置いた。
「ちょっと、源さんと話してきます」
梶先生は「ああ」とだけ言った。
俺の背中を見送る目は、もう次の話に向いていた。
俺は事務所を出た。
カミノイッテの馬房は、事務所を出て通路の奥から3つ目だ。
馬房の前に立った。
鉄の扉の向こうで、源さんが干し草を噛んでいる音がした。
ザリ、ザリ。
「用がある顔だな」
源さんは干し草をもう一度噛んだ。
「何だ。もう乗り替わりが決まったのか」
「まだです」
「まだか」
鼻を鳴らした。
「じゃあ、何しに来た」
「相沢さんのことです」
「あいつか」
「はい」
「ヘタだ」
即答だった。
「乗り方がヘタだ。基本ができてねえ。手綱がバラバラだ。脚も合ってねえ。体が力みすぎだ。重心が前すぎんだよ。あいつは自分の体すらうまく使えてねえ。それで馬の体なんざ動かせるわけがねえ」
「でも、源さん」
「何だ」
「東スポ杯は悪くなかったと思いました」
源さんは干し草を飲み込んだ。
喉がゴクリと動いた。
「悪くはねえよ」
ぽつりと言った。
「悪くはねえが、上手くもねえ。そこそこだ。そこそこの乗り方でGⅠは勝てねえ」
講釈の始まりだ。
俺は心の中で小さくため息をついた。
「俺はな、兄ちゃん。40年、馬券を買ってきた。何百回、馬が勝つのを見てきた。そのたびに思った。あの騎手は馬に合ってるな、こいつは合ってねえな、って。合う合わねえは、技術だけじゃねえ。タイミングだ。馬のリズムに自分のリズムを合わせられるかどうかだ」
「源さんのリズムに、合ってますか。相沢さん」
源さんは答えなかった。
干し草をもう一束、口にくわえた。
噛む音だけがした。
俺は待った。
営業で言えば、顧客の沈黙の後が本音の入り口だ。
そこで源さんは右前脚を上げた。
トン。
トン。
トン。
3回。
考え込んだときの癖だ。
3回目の蹄の音が止まると、源さんは鼻を大きく鳴らした。
フン、と。
「……あいつの手はよ」
低い声だった。
干し草を噛む音が消える。
「優しいんだよ」
唐突だった。
商談の途中で、いきなり部長が「実はうちの嫁が」と切り出す唐突さに似ている。
「手が、ですか」
「そうだ。ゲートの中でだ。スタート待ってる時だ」
源さんは鉄格子に首を近づけた。
鼻息が俺の手にかかる。
「1回だけだ。軽くな。首の根元を撫でる。それだけだ」
「……それで?」
「それで落ち着くんだよ」
源さんはそこで鼻を鳴らした。
「ゲートに入るときはよ、嫌でも緊張するんだ。馬の体ってのはよ、人間が思ってるより正直だ。心臓がドクドク言う。脚が震える。頭の中がぐらぐらする。人間と同じだ」
「それがよ、あの手で撫でられると、体の力が抜けるんだ。変な話だがな。ゲートの中が少し狭くなくなる」
言いながら、源さんの耳がぴくりと動いた。
自分で言ってて照れている。
「勘違いすんなよ。上手いから好きとかじゃねえ。ヘタだ。やっぱりヘタだ。ただあの手だけは、他の奴と違う。余計な力が入ってねえ。普通の騎手はよ、ゲートの中で馬を落ち着かせようとして手綱を引く。そうすると逆に馬は焦る。なのにあいつは、何もしねえ。ただ撫でるだけだ」
「東スポ杯もですか」
「東スポ杯もだ」
源さんは鉄格子に額を押し当てた。
ゴツ、と小さな音がした。
「あのレース、あいつがへまをしたと思ってるだろ」
「梶先生は、外に出すのが遅れたって」
「違う」
「誘いに乗ったのは俺だ」
はっきりと言った。
「向こうの騎手が内を開けた。合図だった。ここに来い、って。馬にゃわかるんだよ、そういうの。あいつが気づく前に、俺が気づいた。で、入っていった。自分からだ」
「自分から」
「そうだ。あいつは止めようとしてた。外に出そうとしてた。でも俺の脚が勝った。あいつの手綱が追いつく前に、俺が内に潜り込んだ。外に出すのが遅れたんじゃねえ。俺が先に動いたんだ」
源さんはそこで一度、息を吐いた。
「悪かったな。あれで負けた」
「……源さん」
「慰めるな。お前みたいなガキに慰められたくねえ」
俺は慰めてない。
「馬ってのはよ、目の前の隙間が開いてると、入っちまうんだ。考える前に、体が先に動く。それが俺の悪い癖だ。人間だった頃からな。待つのが嫌いなんだよ。待ってると損する気がする」
「でもよ」
源さんは小さく言った。
「あの手で撫でられると、少しだけ待てるんだよ。少しだけな。それだけの話だ。大したことじゃねえ」
大したことだ。
ゲートの中で一度だけ首を撫でる。
それだけで、この馬が待てるようになる。
「俺はよ、あいつの手が嫌いじゃねえ。それだけだ。好いてるわけでもねえ。嫌いじゃねえ。いいな。覚えとけ。忘れたら蹴るぞ」
「蹴らないでください」
「蹴る。馬だからな」
馬だから、という理屈はよくわからないが、源さんはそういう馬だ。
源さんはもう干し草に顔を戻した。
ザリ、ザリ。
話は終わり、という合図だ。
俺は馬房の前から一歩下がった。
嫌いじゃない、は、営業の世界で言えば「悪くはない」だ。
決裁は下りないが、温度感はゼロではない。
なら、温度を上げる方法があるはずだ。
馬が言っていました、では誰も信じない。
「お客様がこう言ってます」は、営業マンの常套句だ。
裏付けがなければ、ただの推測だ。
源さんが言ったこと。
ゲートの中で、相沢さんは源さんの首を1回だけ撫でる。
それで源さんは落ち着く。
それを、人間が確かめられる形に変える。
俺は事務所に向かって歩き出した。
頭の中で、一つの図を描く。
ゲートの中。
相沢さんの手。
源さんの首。
それを見ている目。
誰の目か。
それをどうやって見せるか。
ドアの前に立った。
胸の中は、いつもどおり静かだ。
平熱のまま。
俺はドアを開けた。
「梶先生。お願いがあります」
ドアを開けたまま言った。
「ノートパソコン、使ってもいいですか」
梶先生は一瞬、目を細めた。
「動画か」
「はい」
「……まあ、いい。使え」
梶先生は机の上のノートパソコンを手前に引き寄せ、画面を俺の方に向けた。
梶先生のパソコンには、厩舎で撮った動画のフォルダが並んでいる。
「戸川さんが撮ったゲート試験の動画、ここにありますよね」
「ある。調教の映像は一応全部保存してある」
「それと、新馬戦と東スポ杯のレース映像」
「全部入ってるはずだ」
「まず、ゲート試験からです」
動画を開いた。
画面に、美浦のゲートが映る。
ゲートの中の源さん。
相沢さんが手綱を握っている。
俺は再生を一時停止した。
「ここです」
画面を指差した。
「相沢さんが、ゲートの中で手を動かしてます」
映像の中で、相沢さんの左手が動く。
源さんの首の根元。
一度だけ、撫でる。
源さんの体が、わずかに緩む。
筋肉の張りが、ふっと抜ける。
「……何だ」
梶先生が前のめりになった。
「見てください。この後のスタートです」
再生ボタンを押した。
ゲートが開く。
源さんが飛び出す。
スタートは決まっていた。
「……悪くない出だ」
梶先生がぽつりと言った。
「はい。次、新馬戦です」
俺は動画を切り替えた。
札幌競馬場。
ゲートの中の源さんと相沢さんが、小さく映っている。
「ここです」
再生を一時停止した。
相沢さんの手。
手綱を握っている。
首には触れていない。
撫でていない。
「……撫でてないな」
梶先生が言った。
「はい。このレースは出遅れました」
再生ボタンを押した。
ゲートが開く。
源さんの反応が一拍遅れる。
2馬身、出遅れた。
「……確かに」
梶先生は腕を組んだ。
「最後、東スポ杯です」
動画を切り替えた。
東京競馬場。
ゲートの中の源さんと相沢さんが、小さく映っている。
梶先生が画面に顔を近づけた。
「ここです」
再生を一時停止した。
相沢さんの左手。
源さんの首の根元。
一度だけ、撫でる。
ゲート試験と同じ動き。
「撫でてます」
再生ボタンを押した。
ゲートが開く。
源さんが飛び出す。
スタートは決まっていた。
「……確かに」
梶先生がもう一度言った。
低い声だった。
相沢さんの視線を感じた。
俺は顔を上げなかった。
数字と映像だけを並べる。
それが営業の仕事だ。
「もう一つあります。東スポ杯のパトロールビデオです」
「向正面です。ここから止めながら見せます」
画面の中に、芝のコーナーが映る。
塔の上から撮った映像だ。
カミノイッテは前のほうにいる。
キングスレガリアのすぐ外だ。
「ここです」
俺は一時停止した。
キングスレガリアが、ラチから少しずつ離れていく。
内側に隙間ができ始めている。
梶先生は画面に顔を近づけた。
「見えてる。内が開く手前だ」
俺は少し進めた。
キングスレガリアが半歩外へ出た。
内側の隙間が広がる。
「このコマです。相沢さんの手綱を見てください」
画面を拡大した。
相沢さんの手。
右の手綱が引かれている。
外へ出そうとしている。
「外へ引いてます」
「……ああ」
梶先生の声が低い。
もう少し進めた。
カミノイッテの首が動く。
内へ向いている。
手綱は外へ引かれているのに、首が内へ向いている。
「手綱は外。首は内。逆です」
もう少し。
カミノイッテの前脚が内へ踏み出している。
手綱に逆らうように。
俺は一時停止した。
「騎手が内に入れたんじゃありません。馬が自分で入りました」
「相沢さんは外へ出そうとしてた。でもカミノイッテの首が先に内を向いた」
部屋が静かになった。
ストーブの火がポンと鳴った。
相沢さんが息をのんだ音がした。
梶先生は画面を見ていた。
腕を組んだまま動かなかった。
父さんも画面を見ていた。
身じろぎもしなかった。
3人とも画面を見ていた。
俺だけが3人を見ていた。
声を聞いたとは言わない。
ただ画面を指差しただけだ。
相沢さんの唇がわずかに開いている。
何か言おうとして、止まった。
父さんは動かなかった。
俺が今まで見てきた父さんの目の中で、一番遠い目だった。
牧場の馬を見る目ではない。
馬主として馬を見る目でもない。
何か別のものを見ている目だった。
「それと、もう一つ」
俺はキーボードから手を離した。
「リーディングの騎手に頼む、という話でした」
梶先生はうなずいた。
「ああ」
「その騎手は、ホープフルSで別の馬に乗る予定じゃないですか」
梶先生は俺を見た。
キャップの下の目が細くなった。
「……なぜそう思う」
「先週の重賞を勝った2歳馬に、その騎手が乗ってました。次はホープフルだって、ニュースに出てました」
営業で言えば、競合の案件状況を確認してから動く、ということだ。
当たり前の話だ。
梶先生はキャップを被り直した。
スマホを取り出す。
画面を指でなぞる。
親指が止まった。
梶先生はスマホをテーブルの上に置いた。
画面を下にして。
置き方が丁寧だった。
丁寧すぎた。
「……決まってた」
低い声だった。
梶先生はスマホを置いたまま腕を組んだ。
「……あの馬なら来ると思ったんだがな」
梶先生は独り言のように言った。
来なかった。
騎乗依頼は早い者と強い馬が勝つ。
リーディング上位の騎手は、とっくに手が埋まっている。
聞く前に調べる。
それが営業の基本だ。
梶先生は腕を組んだまま俺を見た。
「坊主」
「はい」
「お前、いくつだ」
「12です」
梶先生は俺の顔を3秒見た。
ストーブの火がポンと鳴った。
「嘘つけ」
嘘はついていない。
12だ。
中身は34だが、書類上は12だ。
父さんが、窓の外から目を戻した。
腕を組んだまま言った。
「……馬主は俺だ」
声は低かった。
「相沢で行く」
それだけだった。
理屈はなかった。
理由を聞かれたら「そう思ったから」で終わらせる顔だ。
母さんに何か言われても、この顔で押し通すのだ。
梶先生は父さんの顔をじっと見た。
何か言おうとして、やめた。
背もたれに寄りかかって、天井を見た。
「……わかった」
低い声だった。
「馬主が決めたことだ。それで行こう」
梶先生はそう言って、一度だけうなずいた。
相沢さんは、ずっと下を向いていた。
肩が、わずかに震えている。
「……ありがとうございます」
声がかすれていた。
相沢さんは椅子を引いて立ち上がった。
そのまま深く、頭を下げた。
腰のあたりまで折るような、深いお辞儀だった。
「必ず、結果を出します」
小さい声だった。
でも、震えていなかった。
帰り際、厩舎の通路でカミノイッテの馬房の前を通ったとき、後ろから呼び止められた。
「……あの」
振り返ると、相沢さんが立っていた。
通路の灯りが後ろから当たっている。
顔は半分影になっていた。
「……なんで、そこまで」
相沢さんは言いかけて、口を閉じた。
「僕なんかに」
続きは、ほとんど聞こえなかった。
「源さんの指名なので」
俺は言った。
それだけだった。
営業で言えば、決裁権者が決めたことです、という答え方だ。
相沢さんは、しばらく俺を見ていた。
それから、首をかしげた。
「……源さん?」
「はい」
「カミノイッテの、こと?」
「はい」
相沢さんはもう一度首をかしげた。
今度はゆっくりと。
「……そう、ですか」
わかったような、わからないような声だった。
相沢さんは小さく頭を下げて、通路の奥へ歩き出した。
ジャンパーの背中が、少しずつ小さくなる。
角を曲がる前に、一度だけ振り返った。
俺はうなずいた。
相沢さんは、頭を下げて、角の向こうに消えた。
通路に、静けさが戻った。
馬房の向こうで、源さんが干し草を噛んでいる。
ザリ、ザリ。
「聞いてました?」
俺は馬房の鉄格子に手を置いた。
ザリ、ザリ。
「聞いてた」
干し草を飲み込む音がした。
「次は誘いに乗らねえ。……たぶん」




