第20話 併せ馬と通訳
蹄の音が2つ重なっている。
12月の最初の土曜。美浦トレーニングセンターの坂路。
月に1回の美浦行きで、俺と父さんは梶先生の後ろについて、坂路の上の柵の外に立っていた。
11月の終わりに来たばかりだが、こっちは12月の分だ。
相沢さんは今日は騎乗がない。明日の中山に1鞍だけだそうだ。
坂路の下に、2頭がいる。
内が青鹿毛。ブチカマシだ。
外が栗毛。源さんだ。
鼻先の位置が揃っている。
「いいか、坊主」
梶先生が柵に手を置いたまま言った。
「併せ馬というのはな。2頭で並んで走らせて競らせる調教だ。1頭で走らせるより、馬が本気を出す」
梶先生はキャップのつばを上げた。
「今日は3本。2本は流すだけで、3本目で脚を使う。カミノイッテは外に置く。外から内を抜く練習だ」
「わざと不利な方に置くんですか」
「そういうことだ。本番で外から行くかもしれん。そのときに慌てないようにする」
2頭が動き出した。
常歩から速歩。
速歩からキャンター。
蹄の音が重なった。
ダ、ダ、ダ、ダ。
坂路のウッドチップが後ろへ跳ねる。
内をブチカマシが行く。
青鹿毛の背中が一定の高さで上下する。
外を源さんが行く。
栗毛の尾がまっすぐに伸びている。
「いいぞ。揃った」
梶先生が小さく言った。
2頭の首の差が半馬身。
開かない。
詰まらない。
坂路の半分を過ぎたところで、源さんの頭が内へ向いた。
少しだけ。
「お」
梶先生が声を上げた。
源さんの前脚が内へ入っていく。
ブチカマシとの間が詰まる。
その瞬間、外の手綱が動いた。
相沢さんの右手だ。
いや、左手が先に動いた。
手綱が張って、源さんの首が外へ戻される。
「今の、見たか、坊主」
「内に入ろうとしました」
「ああ。相沢が戻した」
梶先生は腕を組んだ。
「あれを放っておくと、本番で内に突っ込む。東スポ杯と同じだ」
東スポ杯。
キングスレガリアの誘いに乗って、内に入って負けたレースだ。
「戻せたのは、収穫だ」
2頭が坂路のてっぺんを越える。
ダ、ダ、ダ。
ダ、ダ。
パカ、パカ。
止まった。
止まった先から、鼻を鳴らす音が聞こえる。
ヒヒン。
言葉にはならない。
まだ、聞こえない。
源さんが首を振った。
ブチカマシが耳を後ろへ倒した。
2頭が坂路の横の下り道を歩いて、柵の前まで戻ってきた。
声が届く距離だ。
「ガードを下げるな」
低い声。ブチカマシだ。
「るせえな。あれは内が空いてたんだよ」
「空いてても入るな。相手の懐に頭から突っ込むのと同じだ」
「競馬は内が得なんだよ。基本だろ」
源さんが前脚でウッドチップを2度蹴った。
「ケンカじゃねえんだ。減点もねえし、内を通せば距離が詰まる」
「当たったら終わりだ」
ブチカマシの声が一段低くなった。
「お前の首が折れる」
「へいへい。先輩は心配性だな。トラックの車線変更と同じだよ。車間が空いてりゃ入る。入らねえと後ろが詰まる」
「イン突きは馬券の基本だ。外を回るのはロスだ」
「ロスでいい。相手の外に出ろ。当たらずに抜け」
「抜けなきゃ意味ねえだろ。競馬は勝たなきゃ話になんねえんだよ」
2頭の鼻先が柵のすぐ向こうで並ぶ。
吐く息が白い。
人間たちにはブルル、ヒヒンの応酬にしか聞こえていない。
梶先生が「元気だな」と笑っている。
俺は柵に手を置いたまま、やりとりを聞いていた。
空いた枠に飛び込みたい営業と、事故前提で止めに入る安全管理だ。どっちも現場ではよく見る。
「お前、口だけは一人前だな」
「口は減らねえからな」
ブチカマシが鼻でひとつ、強く息を吐いた。
それきり、2頭とも黙った。
2本目の前に、相沢さんが馬の上で手綱を持ち直した。
「相沢」
梶先生が柵から身を乗り出した。
「左を先に動かすな。両手で一緒に」
相沢さんは自分の左手を見た。
それから手綱を持ち直した。
右手を先に、左手を後から添える。
握る位置がさっきまでと少し違う。
「……やってみます」
小さい声だった。
2頭がゆっくりと坂路の下へ降りていく。
「今の、わかったか、坊主」
「左手が先に出る癖です」
「そうだ。あれが出るとな、馬の首が片側だけ引かれる。真っすぐ行きたくても行けん。両手が一緒なら、首は真ん中に残る」
梶先生はキャップのつばを下げた。
「簡単なことだ。簡単なことが、いちばん直らん」
2本目。
坂路の中ほどで、源さんの頭がまた内へ向いた。
さっきより、小さい。
首がほんの少し傾く。
その瞬間、手綱が動いた。
左右、一緒に。
源さんの首が真ん中へ戻る。
「よし」
梶先生の声はそれだけだった。
2頭が下り道を歩いて、柵の前まで戻ってくる。
「今の、どうだ」
「……小さくなりました」
「そうだな。1本目は半分まで詰まった。今のは、その半分も行ってない。もう1本、行けるか」
「行けます」
声はまだ小さかった。
でもさっきより少しだけ、はっきりしていた。
「足を止めるな」
ブチカマシが低い声で言った。
「止めてねえよ。歩いてんだ」
「気持ちで止まるな。2本目で小さくなった。次は、もっと小さくしろ」
「わかってるって。先輩は口が硬いな」
「口は硬くていい。お前の頭が柔らかいのが問題だ」
源さんが鼻を鳴らした。
ボクサーとトラック運転手の打ち合わせは、だいたい平行線で終わるらしい。
「3本目は、少し強く行く」
梶先生が言った。
父さんが腕を組んだまま、小さくうなずいた。
「見とけ」
俺に言った。
「はい」
3本目。
1本目より、明らかに速い。
ウッドチップが後ろへ高く跳ねる。
内をブチカマシが行く。
青鹿毛の背中が沈み込むように上下する。
外を源さんが行く。
半馬身。
開かない。
詰まらない。
源さんの頭は一度も内を向かなかった。
残り200m。
坂が一番きついところで、源さんの前脚が伸びた。
手綱が軽くなった。
相沢さんがわずかに手を前に出す。
源さんの首がさらに伸びる。
栗毛の背中が青鹿毛の背中と並んだ。
並んで、そのまま半馬身前へ出る。
「……伸びたな」
梶先生が低くつぶやいた。
父さんは何も言わなかった。
腕を組んだまま、2頭を見ていた。
2頭が下り道を歩いて戻ってくる。
相沢さんが馬の上で、何度も手綱を握り直している。
右手と左手を一緒に。
その手つきがさっきまでより少しだけ自然に見えた。
2頭が柵の前で止まった。
ブチカマシが先に口を開いた。
「当たらずに抜けたな」
短かった。
源さんは耳を一度、後ろへ倒した。
「……外も、悪くねえ」
声が小さい。
すぐに鼻を鳴らした。
「まあ、相手が先輩だからだろ。本番は内だ」
「言い訳はいい」
源さんは前脚でウッドチップを一度蹴った。
それから首を半分だけ回して、背中の相沢さんをちらっと見た。
「……今日のは悪くねえ」
ぼそりと言った。
俺にだけ聞こえる声だ。
梶先生には届いていない。
相沢さんの手元を見る。
左右が揃っている。
営業で言えば、決裁の場で手が震えなくなった新人だ。
洗い場には湯気が立っていた。
源さんの体に水が流れていく。
栗毛が濡れて黒っぽく見える。
戸川さんがスポンジで泡を立てながら、前脚の付け根を洗っていた。
俺は洗い場の横の柵に背を預けて立っていた。
後ろで人の気配がした。
相沢さんだった。
騎乗服のまま、ヘルメットを抱えている。
汗で前髪が額に張り付いている。
相沢さんは俺の横に来ると、源さんの方を向いたまま言った。
「今日、いつ反応してくれたのか分からなくて」
小さい声だった。
洗い場の水音に半分消える。
「3本目で伸びたのは分かったんです。でも、どこでこっちの合図が通じたのか。僕が何かしたからなのか、馬が自分で行ったのか。分からなくて」
俺は源さんを見た。
されるがままに立っている。
耳だけがこっちを向いていた。
俺は柵から背を離して、源さんの首の横に立った。
小声で聞く。
「3本目、どこで行くって決めたんですか」
戸川さんが泡を流す音で、俺の声は消える。
「残り200だ」
源さんは前を向いたまま言った。
「手綱が軽くなった時。あそこで、行っていいって分かった」
俺は相沢さんの方を向いた。
「3本目の、残り200だと思います」
「残り200……?」
「手綱が軽くなったところです。相沢さんが手を前に出した」
相沢さんの手が止まった。
それから自分の手を見た。
手綱を握っていた形のまま、指を開いて、閉じた。
「……そうです」
相沢さんはうなずいた。
「そこで緩めました。確かに、あそこです」
なんで分かるんですか、とは聞かれなかった。
相沢さんはヘルメットを足元に置くと、騎乗服のポケットに手を入れた。
小さいメモ帳が出てきた。
端が折れて、使い込まれている。
ペンのキャップを歯で外して、何か書いた。
『残り200、手綱を緩める』
字は小さかった。
でもゆっくり丁寧に書いていた。
営業で言えば、商談の要点をその場でメモするタイプだ。
新人の頃は誰でもやる。
6年目でやる人はあまりいない。
「……ありがとうございます。覚えておきます」
相沢さんはメモ帳を胸のポケットに戻した。
声はまだ小さい。
でも迷いがなかった。
横で水音が止まった。
戸川さんの手がスポンジを持ったまま止まっている。
泡がスポンジから落ちて、コンクリートに流れた。
キャップのつばの下から、目がこっちを見ていた。
相沢さんが通路の奥へ戻っていったあと、戸川さんがホースを置いた。
「坊ちゃん。少し、いいですか」
飼い葉部屋は乾いた草のにおいがした。
戸川さんが戸を閉めた。
壁に積まれた燕麦の袋。床にこぼれた藁。
音が急に遠くなる。
「坊ちゃん、本当は何を見てるんですか」
声は静かだった。
いつもの丁寧な職員口調のまま。
「9月の燕麦の件もそうです。動画だけで、産地を替えたのを当てました」
戸川さんは腕を組んだ。
「相沢さんの件もそうです。さっきの残り200も。東スポ杯の前の電話も」
言葉がひとつずつ積まれる。
「全部、当たっています」
俺は何も言わなかった。
「勘で片付けるには、回数が多すぎます」
キャップのつばの下から、目がのぞく。
逃げ場はない。
営業で言えば、値引き交渉の最終局面だ。相手はこっちの原価を知りたがっている。
「勘です」
俺は言った。
「全部、たまたま当たっただけです」
戸川さんはしばらく俺を見ていた。
それから、ゆっくり息を吐いた。
「……そうですか」
腕を組んでいた手をほどいた。
「すみません。変なことを聞きました」
声はまたいつもの距離に戻っていた。
戸川さんは戸に手をかけた。
そこで、ぽつりと言った。
「あの子のことなら、私が一番知ってるはずなんですけどね」
背中越しの声だった。
それだけ言って、戸川さんは飼い葉部屋を出ていった。
馬房に戻ると、源さんは干し草を噛んでいなかった。
俺は鉄格子に手を置いた。
「戸川さんに聞かれました。なんで分かるんだって」
源さんは前を向いたままだった。
しばらく黙っていた。
「……あの人、何か言ってたか」
声は低かった。
いつもの講釈はなかった。
俺は少し考えた。
それから、そのまま伝えることにした。
「源さんのことは、自分が一番知ってるはずだって」
源さんは答えなかった。
干し草のにおいだけが馬房の前に漂っている。
右前脚が上がった。
トン、トン、トン。
地面を3回、叩いた。
その癖、何の意味なんだろう。




