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馬の声が聞こえるようになったと思ったら実は馬は全員元人間だった。  作者: ペンは休み休みもて(ペンもて)
第2章「売れ残りの馬券おやじ」

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第21話 調教助手・戸川ミサキの一日




 午前3時。


 戸川ミサキの一日は、まだ暗いうちに始まる。


 目覚ましを止めて、布団を畳む。


 顔を洗って、ジャンパーを着る。


 外はまだ真っ暗だ。


 自転車に乗って、ペダルを踏む。


 息が白い。


 ミサキは事務所の鍵を開けて、電気をつけた。


 時計は3時20分を指している。


 梶先生はまだ来ていない。


 ミサキは長靴に履き替えて、手袋をはめた。


 馬房の並ぶ通路へ出る。


 ときどき、奥の方で干し草を噛む音がする。


 カミノイッテの馬房の前に立つ。


 灯りをつけると、栗毛の背中が動いた。


「おはようございます」


 カミノイッテは首を上げた。


 じっと見ている。


 ミサキは馬房の戸を開けた。


「出ますよ」


 カミノイッテは動かない。


 ミサキの顔をじっと見たまま、まばたきもしない。


「……出ますよ」


 もう一度言うと、やっと一歩が出た。


 ミサキは口取りを持って、隣の空き馬房へ移す。


 カミノイッテは素直に歩く。


 まず、汚れた敷き藁を熊手でかき出す。


 匂いが立つ。


 冬の朝の冷たい空気に、温かい匂いが混ざる。


 黙々と手を動かす。


 考えごとはしない。


 手順だけを追う。


 きれいになった床に、新しい藁を敷く。


 空になった馬房に、干し草を入れる。


 ここまでで4時を過ぎた。


 空き馬房から、カミノイッテを戻す。


 馬房の前に立つと、またじっと見られる。


「入りますよ」


 ミサキが戸を開けると、カミノイッテはすんなり入った。


「検温します」


 ミサキは馬房に入る。


 カミノイッテの横に立って、手をかける。


 体温計を差し込む。


 カミノイッテは動かない。


 耳だけがミサキの方を向いている。


 いつもこうだ。


 ミサキが触ると、カミノイッテはじっとして動かなくなる。


 他の馬は尾を振ったり、足を踏み替えたりする。


 この馬は止まる。


 まるで、ミサキの手を待っているみたいに。


 ……考えすぎだ。


 ミサキは首を振った。


 体温計が鳴る。


 抜いて、数字を見る。


 38度1分。


 平熱だ。


「38度1分。問題ないですね」


 ミサキはカミノイッテの肩を一度叩いた。


 カミノイッテは耳を少し動かした。


 ブルル、と鼻を鳴らした。


 ミサキは体温計を拭いて、記録用紙に書いた。


 その間、カミノイッテはミサキの背中を見ていた。


 5時を過ぎた頃、事務所のドアが開いた。


 梶先生だ。


「戸川、朝の冷えは馬に響くからな。敷き藁は多めで頼むよ。お前は若いから薄着で済むかもしれんが、馬はそうはいかん。あと手袋。指先は出しておきたいのは分かるが、手がかじかんだ状態で体温計を落としたらどうする。馬がびっくりするだろうが」


 ミサキは「はい」とだけ返した。


 カミノイッテの馬房の前にしゃがんで、脚元を触る。


 右前脚を持ち上げて、膝を曲げる。


 次に飛節。


 熱はない。


 腫れもない。


「ホープフルまであと何日だ。11日だぞ。GⅠだ。あの馬は使える。間違えるなよ。うちの馬房が空いてきたのも、あの馬の走りでなんとかせにゃならん」


 ミサキは黙って左前脚を曲げた。


 カミノイッテが首を下げて、ミサキの背中を見ている。


 梶先生の小言は続く。


「それから、あの坊主が来たときに何か言ってなかったか。相沢も相沢だ。返し馬で手応えがどうだの、耳がどうだのいちいちメモに書く前に背中で覚えろと言ってるんだ。お前からも言ってやってくれ」


 ミサキは「そうですね」とだけ返した。


 カミノイッテは顔を動かして、ミサキを目で追った。


「この馬、調子は悪くない。毛艶もいい。今日の坂路も無理はさせんでいい。時計は出なくていい。ただ気分よく走らせてやってくれ。なにしろGⅠだからな。GⅠというのはだな……」


 梶先生はまだ言っている。


 ミサキは馬装を整える。


 カミノイッテの顔は梶先生には向かない。


 ミサキの手元を見ている。


「引き運動は長めでいい。冷えてるから。坂路は他厩舎との兼ね合いで7時を過ぎるとすぐ混む。お前は7時に出せ。他の馬と離して行かせろ。無理はさせるなと言ったな。無理というのはだな……」


 ミサキは無言で手綱を取った。


「出ますよ」


 梶先生の前を、馬が通る。


 先生は一瞬だけ言葉を止めて、馬の尻を見送った。


 カミノイッテは振り返って、ミサキを見た。


 ミサキの手に力が入る。


「……なんだ、あの馬、またお前のこと見てるな」


 梶先生が言った。


 ミサキは振り向かなかった。


「人に慣れてますから」


 そう言って、通路の先へ歩き出した。


 引き運動はゆっくりだった。


 ミサキは手綱を引いて、馬の横を歩く。


 カミノイッテは歩きながら、ときどきミサキの方を向く。


 坂路の入り口に着いた。


 他厩舎の馬が2頭、入り口で待っていた。


 ミサキは時計を確認した。


 7時ちょうど。


「上だけ軽く。気分よく」


 ミサキは乗り役に伝えた。


 乗り役は別の助手だった。


 男の助手が鞍に跨ると、カミノイッテは一瞬耳を伏せた。


 ミサキは横に立って、肩を叩いた。


「行ってきます」


 乗り役が言った。


 カミノイッテはミサキを見た。


 ミサキはうなずいた。


 馬は前を向いた。


 坂を上がっていく。


 しばらくして、カミノイッテが坂路から戻ってきた。


 汗をかいている。


 脚取りはしっかりしていた。


 ミサキは手綱を取って、歩かせた。


 カミノイッテは戻ってきてすぐ、ミサキの顔を見た。


 じっとした。


 ミサキはその目を見返した。


「おかえりなさい」


 カミノイッテは鼻を鳴らした。


 ブルル。


 小さく、短く。


 ミサキは肩に手を置いた。


 熱が伝わってくる。


 体は温かい。


 冬の朝に、馬の体温だけが本物みたいに熱い。


 洗い場は日が当たっていた。


 風はまだ冷たい。


 ミサキはホースを持って、水を出した。


 指先で確かめてから、カミノイッテの肩にかける。


 馬は少しだけ身を震わせた。


 スポンジに水を含ませて、首から洗っていく。


 汗を流すだけだ。


 カミノイッテは大人しかった。


 洗い場の紐に繋がれたまま、動かない。


 耳だけがミサキの動きを追っている。


 ミサキは手を動かしながら、この馬の癖を頭の中で並べていた。


 ひとつ。


 ミサキが顔を見ると、じっとする。


 馬房でも、引き運動でも坂路のあとでも。


 他の馬は目が合ってもすぐ逸らす。


 この馬は逸らさない。


 じっと見て、それから鼻を鳴らす。


 ふたつ。


 考え込むと、右前脚で地面を叩く。


 3回。


 トントントン。


 一定の間隔で、きっちり3回。


 みっつ。


 ゲートの手前で頭を下げる。


 入る直前だけだ。


 他の馬は嫌がって後ずさりする。


 この馬は下げる。


 まるで、何かを確かめるみたいに。


 そこまで考えて、ミサキは手を止めた。


 スポンジから水が落ちる。


 ……考えすぎだ。


 癖は癖だ。


 どの馬にもある。


 そう思って、また手を動かした。


 カミノイッテは尻尾を少し振った。


 水しぶきが跳ねて、ミサキのジャンパーにかかる。


「冷たいですよ」


 ミサキは言った。


 カミノイッテは知らん顔をしていた。


 脚元のケアに移る。


 ホースを変えて、水を細くする。


 右前脚から。


 膝の下へ当てる。


 水の音が一定になる。


 トントントン。


 ミサキは手を止めた。


 見ると、カミノイッテの右前脚が地面に着いたところだった。


 3回。


 叩いた。


 またか。


 ミサキは水を当て続けた。


 今のは何を考えていたんだろう。


 分からない。


 分かるわけがない。


 馬の考えていることなど、誰にも分からない。


 でも、この音を聞くと決まって思い出すものがある。


 競馬場の新聞の匂いだ。


 子供の頃の競馬場。


 匂いだけが、なぜか残っている。


 なぜこの音で、その匂いなのか。


 理由は分からない。


 聞かれたら、答えられない。


 ミサキは首を振って、水を当て直した。


 左前脚。


 飛節。


 熱はない。


 腫れもない。


 水を止めて、タオルで拭く。


 カミノイッテは拭かれるまま、こちらを見ていた。


 まただ。


 じっと見ている。


 ミサキはタオルを当てたまま、少しだけ見返した。


「何か言いたいことでもあるんですか」


 カミノイッテは鼻を鳴らした。


 ブルル。


 短く。


 答えにはなっていない。


 ミサキは手綱を取った。


「戻りますよ」


 カミノイッテは歩き出した。


 歩きながら、一度だけ振り返った。


 ミサキは黙って引いた。


 北海道の坊ちゃんが来ると、この子は急におしゃべりになる。


 休憩室のストーブが赤く燃えていた。


 灯油のにおいが部屋にたまっている。


 ミサキはテーブルの端で弁当を広げていた。


 煮物と卵焼き。


 箸を持つ手がかじかんでいる。


 ドアが開いて、相沢が入ってきた。


 ヘルメットを取った髪が風で固まっている。


「……お疲れさまです」


 相沢は小さく言って、ミサキの向かいに座った。


 コンビニの袋からおにぎりを出す。


 嬉しそうだった。


 口元が少しゆるんでいる。


「どうしたんですか」


「いや、あの」


 相沢はおにぎりのフィルムをはがしながら言った。


「坊ちゃんの言うこと、全部当たるんですよ」


 声は小さい。


 でもはっきりしていた。


「この前の併せ馬も、残り200で手綱を緩めたらちょうどそこから馬が伸びました。気分よく走れてました」


 ミサキはお茶を一口飲んだ。


「そうですか」


 ミサキは弁当の卵焼きをつついた。


「相沢さん」


「はい」


「おかしいと思わないんですか」


 相沢はおにぎりを置いた。


「12歳の子が、乗ってもいない馬の動きを言い当てるんですよ。しかも全部」


「……でも、坊ちゃんはあの馬の生産者の息子ですし」


「それでもです」


 ミサキは箸を置いて、相沢を見た。


「あなたはプロの騎手ですよね。背中で感じたことを信じないで、子供の言うことを信じるんですか」


 相沢はうつむいた。


 手元のおにぎりを見ている。


「すみません」


「謝ることじゃないです」


 ミサキは少し声を落とした。


「ただ、私には分からないんです。あの子が何を根拠に言ってるのか。何で毎回、あんなに正確なのか」


 相沢はしばらく黙っていた。


 それから、ぽつりと言った。


「僕の師匠も、馬と話してるみたいな人でしたから」


 相沢の声は、ストーブの燃える音に吸われそうなくらい小さい。


 ミサキは湯のみのふちを親指でなぞった。


 煮物の汁が冷えている。


「馬と、話す」


 ミサキは繰り返した。


「そういう表現はよく聞きますよ。ベテランの厩務員さんでも使う人はいます」


「そうですよね」


 相沢は困ったように笑った。


「でも師匠は本当に、馬に聞いてました。耳をこうやって、近づけて」


 相沢が自分の耳を指さす。


「それで、馬が鼻を鳴らすとうんうんってうなずくんです」


 ミサキは卵焼きを口に入れた。


 甘い。


 冷めても甘い。


「それだけですか」


「それだけです」


 相沢はおにぎりを握り直した。


「でも、師匠の言うことはよく当たってました。だから僕、坊ちゃんのこともああいう人なのかなって」


 ミサキは答えなかった。


 箸で弁当箱の隅をつつく。


「戸川さんは、なんで調教助手に?」


 相沢が聞いた。


 ミサキは顔を上げた。


 相沢はすぐに「あ、すみません。急に」と手を振った。


「いいですよ」


 ミサキはお茶を飲んだ。


 口の中の甘さを流す。


「馬が好きだったからです」


「それだけですか」


「それだけです」


 今度はミサキが言う番だった。


 相沢は笑わなかった。


「そっか。僕もそうです」


 それ以上は何も聞いてこなかった。


 ミサキは弁当の蓋を閉じた。


 休憩室の窓から、遠くの坂路が見えた。


 子供の頃、府中に一度だけ行ったことがある。


 父に連れられて。


 新聞の匂いがした。


 インクと、紙と、少し湿った土。


 父はずっと新聞を読んでいた。


 レースが始まると、新聞を丸めて前の人の背中越しに馬を見ていた。


 あの日の父の横顔を、ミサキは覚えていない。


 覚えているのは匂いだけだ。


 父は、そのあといなくなった。


 新聞の匂いも、もうどこにもない。


 この仕事を選んだ本当の理由を、ミサキは誰にも話したことがない。


「戸川さん」


 相沢が立っていた。


 いつの間にか食べ終わっている。


「ホープフル、勝ちたいですね」


 声は相変わらず小さい。


 でも、目はまっすぐだった。


 ミサキは小さくうなずいた。


「そうですね」


 二人は別々に休憩室を出た。


 夜の8時。


 見回りの時間だ。


 ミサキは通路の電気をつけた。


 どの馬も静かだった。


 寝藁の音が、たまに聞こえるだけだ。


 最後にカミノイッテの馬房の前に立つ。


 灯りが栗毛の背中を照らしていた。


 首がこちらを向く。


 目が合う。


 じっと見ている。


 ミサキは鉄格子に手をかけた。


 カミノイッテは近づいてきた。


 鼻先がミサキの手のひらに触れる。


 湿っていて、温かい。


 ミサキはその首筋をゆっくり撫でた。


「あんた、なんでそんなに私の顔を見るの」


 声は自分でも小さいと思った。


 カミノイッテは答えない。


 ブルル、と鼻が鳴った。


 何か言われた気がした。


 気のせいだ。


 馬は、しゃべらない。


 ミサキは手を引いた。


 カミノイッテはまだこちらを見ている。


 トントントン。


 右前脚が地面を3回、叩いた。


 新聞の匂いがした。

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