第22話 年の瀬のパドック
12月26日。中山競馬場。
朝の9時すぎ。
久世家が全員そろって競馬場に来るのは、これが初めてだ。
母さんは入場門をくぐった瞬間から、指を折っていた。
「新千歳から羽田まで3人。大人3枚。往復で」
声が早い。
「宿は昨日のビジネスホテル。1泊3人で朝食付き。今日の入場料は大人2人分で、15歳未満はタダ。駐車場は使ってないからゼロ」
俺は聞いていない。
母さんは聞いてほしいわけでもない。
これは決算だ。
牧場の留守は、近所の人に頼んできた。
「で、馬券代は?」
俺が言うと、母さんは指を止めた。
「まだ買ってない」
「買うの」
「買うわよ。せっかく来たんだから」
競馬場に来て最初にやることが家計の話。
久世スタイルだ。
父さんは前を歩いている。
背中が無言。
振り返らない。
牧野さんはその隣を歩いていた。
56歳。町の獣医。
無精ひげ。
休みの日にわざわざ飛行機に乗って、馬の応援に来ている。
「坊、見ろよ。あれがパドックだ。馬がぐるぐる回るんだぞ」
声がでかい。
競馬場に着いてからずっとこのテンションだ。
誰が一番楽しみにしていたかと言えば、多分この人だ。
「牧野さん、診療所はいいんですか」
「休診日にした」
即答だった。
「獣医が馬を見に来て何が悪い」
悪くない。
堂々としていてむしろ清々しい。
「それにしても寒いな」
牧野さんが首をすくめた。
冬晴れで、風はない。
でも中山の朝は冷える。
「牧場の朝よりはマシでしょ」
「慣れの問題だ。北海道の寒さは体が知ってる。こっちは油断する」
油断する寒さって何だ。
俺はコートの襟を立てた。
母さんが隣に並んで、息を白くしながら言った。
「お父さん、パドックの場所分かるの」
父さんは歩きながら一言だけ返した。
「看板がある」
それだけである。
看板は確かにあった。
競馬場の案内表示が、パドックの方向を指している。
母さんはその看板をちらりと見て、また指を折り始めた。
「昼ごはん、競馬場の中だと高いのよね」
「中のフードコートでいいだろ」
「メニューによる」
この人にとって昼飯も予算である。
俺はスマホで今日のレース番組を確認した。
ホープフルステークスはメインの11レース。
発走は午後の3時台だ。
まだ6時間以上ある。
牧野さんが言った。
「時間あるな。最初から全部見るか」
「馬券買うんでしょ」
「当てて昼飯を豪華にする」
母さんが初めて笑った。
「当てたらね」
声だけは明るい。
目は笑っていない。
これが我が家の応援団である。
スタンドの入口で、母さんが立ち止まった。
「ねえ、ハル。GⅠって勝ったらいくらもらえるの」
俺は振り返らずに答えた。
「1着の本賞金は8,000万円」
母さんが止まった。
指を折る手も止まっている。
口が開きかけていた。
空気が3秒ほど止まった。
「……で、いくら?」
もう一度聞いた。
聞こえなかったわけじゃない。
たぶん頭が処理を拒否している。
「8,000万円」
今度はゆっくり言った。
母さんはまばたきを2回した。
それから自分の指を見た。
折りかけていた指が、何の数字だったか分からなくなった顔をしている。
「……はち、ぜろ、ぜろ、ぜろ、まんえん」
小声で復唱し始めた。
決算処理に入った。
父さんが前を向いたまま言った。
「見とけ」
それだけだった。
母さんは父さんの背中をじっと見た。
「見とけって、何を」
父さんは答えない。
歩き出す。
その後ろ姿に、母さんが早足でついていく。
「ねえ、あなた。見とけってまさか本当に勝つ気でいるの」
声が少し高い。
「牧野さん、この人こんなキャラだった?」
牧野さんは無精ひげを撫でながら笑った。
「さあな。俺は獣医だから馬のことは分かるが、夫婦のことは分からん」
分かる分からないの問題でもない気がする。
俺は母さんの背中を見ながら、心の中でそろばんを弾いておいた。
育成費、輸送費、預託料。
この遠征の飛行機代と宿代。
それらを全部足しても、8,000万の8割から引けば黒字になる。
営業なら数字で語る。
母さんは、そこでやっと黙った。
「……8,000万」
母さんがまだ言っている。
しばらく頭から離れないらしい。
父さんは振り返らない。
「見とけ」
2回目だった。
珍しい。
父さんが同じ言葉を繰り返すのは、本気の時だけだ。
俺はコートのポケットに手を突っ込んだ。
朝の中山はまだ静かだった。
メインレースのパドック。
俺は父さんの計らいで、馬主エリアの柵の際に立っていた。
母さんと牧野さんは、外の見物席の人垣の中だ。
電光掲示板には、オッズと馬体重が並んでいた。
カミノイッテは7番人気。
単勝18.2倍。
馬体重470kg。
前走からプラス2kg。
キングスレガリアは1番人気。
単勝1.8倍。
柵の外から、観客の声が聞こえた。
「前走は内に閉じ込められただけだって」
「いや、格が違うだろ」
「生産者が馬主で、セリで主取りだった馬だってよ。泣けるな」
パドック解説のラジオが、ざらついた音で流れている。
「カミノイッテ、前走は内で脚を余しての2着。折り合い面の課題は残りますが、力は足りています」
7番人気は妥当な数字だ。
俺は柵に手をかけたまま、馬体重を頭に置いた。
戸川さんに引かれて、栗毛が近づいてくる。
人のざわめきが一瞬遠くなった。
源さんの声が聞こえた。
「いいか兄ちゃん、中山の2000ってのはな」
早口だ。
歩きながら、首を小さく上下に振っている。
「スタート地点は正面スタンドの前の直線の途中だろ。そこからまず1コーナーまでが短い。ダッシュが遅いと内に締められて終わる」
俺は黙って聞いていた。
声は俺にしか届いていない。
柵の外の観客には、元気のいい馬が鼻を鳴らしているようにしか見えない。
「1コーナーから向こう正面までな、内を回ると距離は短いが、開催の終わりで芝が荒れてる。外を回ると距離が伸びる。どっちを取るかで体力の使い方が変わるんだよ」
まだ続く。
講釈が長い日は、だいたい緊張している日だ。
「それで2コーナー回って、勝負どころは3コーナーの坂の下りからだ。あそこはな、下りながらスピードに乗る馬と、我慢する馬がいる」
戸川さんが手綱を軽く張った。
源さんは一瞬首を上げたが、歩調は乱さない。
「ゴール前の急坂だ。あれを2回上がる。2回目は本当に脚が残ってないと止まる。中山は最後の坂でドラマが起きるんだよ」
1周目が終わった。
2周目に入っても、声は止まらない。
「今日のペースはな、たぶん速い。みんな前に行きたがる。前走の勝ち馬も外から来るし、内の馬も引かない。ペースが上がれば上がるほど、後ろで脚を溜めた馬が」
俺は柵に手をかけたまま、小声で言った。
「今日は何も考えないで」
声は、俺にも聞こえるかどうかの小ささだった。
でも源さんには届いた。
源さんは、歩きながらしゃべるのをやめた。
首がまっすぐ前を向いた。
脚だけが、いつもの調子で地面を踏んでいる。
俺はそれ以上、何も言わなかった。
戸川さんが「どうしたんですか、急に静かになって」と首を撫でた。
源さんは答えない。
栗毛が冬の日差しに照らされて、やけに明るく見えた。
次の周で、鹿毛が柵の前に来た。
長い首が先に来て、体が後からついてくる。
キングスレガリアだ。
すれ違いざま、耳だけがこっちを向いた。
「今日は内を空けない」
キングスレガリアは、そのまま静かに通り過ぎていった。
長い首が、冬の日差しに照らされてきれいだった。
俺は柵に手をかけたまま、その背中を見送る。
前回は内を空けて、源さんを誘い込んだ。
今日は空けない。
つまり、最初から封じに来る。
営業で言えば、先に値段を提示して相場を作るタイプだ。
「止まれー」
係の人の声がパドックに通った。
パドックのざわめきが一瞬、低くなる。
騎手控室のほうから、色とりどりの勝負服が出てきて横一列に並ぶ。
相沢さんもその中にいた。
白地に青い縦縞。
俺の位置からは、背中しか見えない。
観客に向かって頭を下げた。
一礼。
柵の外から拍手が起きた。
母さんも牧野さんも、あの人混みのどこかで見ているはずだ。
「乗馬」
号令がかかった。
騎手たちが散っていく。
相沢さんはまっすぐこっちに歩いてきた。
パドックの中では、父さんと梶先生が並んで立っていた。
父さんは腕組みをしている。
いつもの無言。
梶先生はキャップを押さえながら、相沢さんに近づいた。
「いいか。無理に前へ行くな」
相沢さんは小さくうなずいた。
「はい」
「スタートだけは遅れるな。あとは任せる」
「……やってみます」
声は、俺のところまで届くかどうかの小ささだった。
父さんは何も言わなかった。
ただ、相沢さんの肩を一度だけポンと叩いた。
営業で言えば、最終確認なしのゴーサインだ。
相沢さんは戸川さんの横に立った。
戸川さんが手綱を短く持ち替える。
カミノイッテは、静かに立っていた。
耳が、相沢さんの方を向いている。
相沢さんが鞍に手をかけ、戸川さんが左脚の膝下を抱え上げた。
脚上げ。
体がふわりと持ち上がる。
相沢さんは慣れた動きで跨った。
鞍の上で姿勢を整え、鐙の長さを直す。
それから、いつものように栗毛の首を一度だけ撫でた。
源さんの耳が、ぴくりと動いた。
何か言いたそうだったが、声は聞こえない。
「前へ」
号令がかかった。
戸川さんに引かれて、カミノイッテがゆっくりと歩き出す。
栗毛の背中が、冬の日差しに照らされて光った。
相沢さんは前を向いている。
俺は柵に手をかけたまま、それを見送った。
源さんは、あれからしゃべっていない。
最後の周。
本馬場へ出る地下馬道の手前で、カミノイッテが柵の際を通った。
馬上の相沢さんが、少しだけ身をかがめた。
「坊ちゃん」
小さい声だった。
「カミノイッテに伝えてもらえますか。『今日は外から行く。信じてくれ』って」
俺は声を潜めた。
周りには人のざわめきがある。
でも、この距離なら届く。
「相沢さんから。『今日は外から行く。信じてくれ』だそうです」
源さんは歩きながら、耳だけをこっちに向けた。
しばらく足音だけが続く。
トン、トン、トン。
右前脚が3回。
「……乗り役がヘタなんだよ」
低い声だった。
講釈でも悪口でもない。
事実を確認するような、静かな声。
そう言いながら、源さんは首を少しだけ下げた。
ゲートの前でやる、あの一礼と同じ下げ方だった。
俺は相沢さんを見た。
「了解、だそうです」
たった一言を、それっぽく訳しておく。
源さんが「了解」なんて言うわけがない。
でも相沢さんは小さくうなずいた。
「……ありがとうございます」
そのまま前を向く。
戸川さんが手綱を短く持ち、地下馬道へと歩き出す。
カミノイッテの栗毛が、薄暗い通路へ吸い込まれていく。
相沢さんの背中はまっすぐだった。
スタンド前の柵には、もう人が鈴なりだった。
母さんと牧野さんが、最前列近くに場所を取っていてくれた。
本馬場に、出走馬が出てくる。
返し馬が始まった。
馬が次々にスタンド前を駆けていく。
蹄の音が地面を叩く。
芝の切れ端が跳ねる。
母さんが柵に手をかけて首を伸ばした。
「どれがうちの」
「栗毛。額に星」
牧野さんが指を差した。
「来るぞ」
栗毛がこっちへ向かってくる。
相沢さんが低く構えている。
蹄の音が大きくなる。
柵が近い。
柵の前を抜けるとき、源さんの声が届いた。
「兄ちゃん」
風に乗ってきた。
「前は速い。内は荒れてる」
通り過ぎる。
声が遠ざかる。
「兄ちゃん、差しだ」
もう聞こえない。
栗毛の背中が本馬場の向こうへ走っていく。
母さんが振り返った。
「今なんて言ったの」
「何も」
牧野さんは無精ひげを撫でている。
「いい脚してるな」
俺は柵に手をかけたまま、その背中を見ていた。
返し馬が終わる。
馬が順番にゲートのほうへ歩いていく。
スタンドのざわめきが、少しずつ低くなった。
誰かが息を吸う音が聞こえる。
俺も息を吸った。
スターターが台に上がった。
外から行く、と言った騎手。
差しだ、と言った馬。
珍しく、意見が合っている。




