第23話 ホープフルS
ゲートの前で、馬たちが枠の中に収まっていく。
係員の誘導が、機械のように正確だ。
相沢さんの白と青の背中が、ゲートの中で小さく動いた。
何をしているかは、この距離からじゃ見えない。
でも、たぶん。
首を撫でている。
あの人が、ゲートの中でやることは決まっている。
《全馬、ゲートに収まりました。16頭、スタートの体勢が整いました》
《スタートしました》
ゲートが開く音は、ここまで届かない。
届くのは、蹄の音だ。
ドドドド、と地鳴りのように芝を叩く。
16頭が、一斉に弾けた。
《揃ったスタートです。各馬横一線の出だし》
俺はカミノイッテを目で追った。
栗毛。
額の星。
中団の、外目。
相沢さんの白と青が、その上で低く構えている。
出遅れは、ない。
むしろ、いい。
梶先生の「スタートだけは遅れるな」を、きっちり守っている。
《内から3番手につけたのはキングスレガリア。1番人気、内の好位を確保します》
《カミノイッテは中団の外。7番人気、外を回る形になりました》
俺は柵に手をかけたまま、その位置を頭に入れた。
中団の外。
内の荒れた芝を避けて、距離は伸びる。
でも、脚は溜まる。
相沢さんの「外から行く」が、もう始まっている。
――――――――
出た。
悪くねえ。
乗り役、ちゃんと遅れずに出やがった。
前が速い。
分かってたことだ。
みんな行きたがるんだよ、この時期の2歳は。
内はもう、ガタガタいってる。
蹄が跳ねるたびに、芝が削れてる音がすんだ。
俺は外だ。
このまま、黙って行く。
兄ちゃんが言った。
今日は何も考えるな、って。
だから、考えねえ。
脚だけだ。
脚と、前の連中の背中だけ見てりゃいい。
――――――――
《1コーナーに差し掛かります。先頭争いは激しく、外からも被せていく》
《キングスレガリア、3番手の内をキープ。折り合いも完璧です》
鹿毛が、内で静かに走っている。
長い首が、前の馬の背中を睨むように伸びていた。
あれは、勝ち方を知っている馬の走りだ。
慌てない。
焦らない。
ただ、そこにいる。
1コーナーを、16頭が駆け抜けていく。
蹄の音が、遠ざかる。
スタンドのざわめきが、少しだけ戻ってきた。
向正面に入った。
スタンドから一番遠いところだ。ここで隊列が決まる。
《向正面、1000mの通過は61秒台。平均ペースです。隊列はやや縦長、先行争いが落ち着いてきました》
61秒台。
俺は頭の中で数字を置いた。
速くも遅くもない。
平均。
でも、この時期の2歳で2000mを平均で流れたら、最後の坂で脚が削られる。
後ろで溜めた馬が台頭する展開だ。
相沢さんの「外から行く」は、この数字を見越している。
《内からキングスレガリア、依然3番手。カミノイッテは外8番手のまま、じっと我慢しています》
母さんが柵に手をかけたまま小さく言った。
「まだなの」
「まだ」
俺は短く返した。
牧野さんが隣で腕を組んでいる。
無精ひげを撫でる手が、さっきから止まったままだ。
この人も、もう黙っている。
――――――――
向正面。
前がちょっと緩んだ。
これだ。
内を見る。
空いてる。
1頭分、ぽっかりと。
あそこに入りゃ、距離は詰まる。
脚も使わずに済む。
……いや。
待て。
兄ちゃんが言った。
今日は何も考えるなって。
考えるなって言われて、今、考えてる。
バカか俺は。
でも、入らねえ。
内が空いてる。
……空いてるけど、行かねえ。
あれは罠だ。
キングスレガリアが内を押さえてる。
同じ手は食わねえ。
外だ。
このまま、外。
距離は食う。
食っていい。
最後に脚が残ってれば、それでいいんだ。
――――――――
俺は柵を握る手に少しだけ力を入れた。
源さんが動かなかった。
内が空いた。
俺にも見えた。
1頭分、ぽっかりと。
でも、栗毛は外のままだった。
「入らないの」
母さんが聞いた。
競馬はあまり分からない人だ。
それでも、穴が空いていることくらい見えるらしい。
「入らない」
俺は答えた。
《3コーナーの下りに入って、各馬、勝負どころ》
坂が近づく。
下りだ。
ここからペースが上がる。
俺は柵に手をかけたまま、息を止めていた。
母さんも牧野さんも、もう何も言わない。
スタンドのざわめきが、水を打ったように静かになった。
――――――――
3コーナー。
坂が下る。
ここで動くか、動かねえか。
前の連中の背中が、ちょっと詰まった。
脚が上がりかけてる。
来てるな。
乗り役が動く。
左手が先に出た。
分かる。
分かるんだよ、その手は。
左から先に動かす癖だ。
でもな、それだと俺の首が左に振られる。
走りがブレる。
……お。
止めた。
自分で止めやがった。
手綱を両手に持ち直してる。
そうだ。
それでいい。
両方そろえて、真っすぐ。
来い。
どんと来い。
よし。
スイッチ入った。
俺が自分で行く。
右手前に替える。
外だ。
外を回る。
――――――――
栗毛が、外へと進路を取った。
内の馬たちを避けて、外の外。
その分だけ、走る距離が長くなる。
でも、その分だけ、脚が使える。
俺は柵を握ったまま、その背中を目で追った。
白と青が、低い。
相沢さんは、押していない。
馬が行くのを、待っている。
「行け」
誰かが叫んだ。
俺じゃない。
俺は叫ばない。
平熱だ。
指先だけが、少し熱い。
《カミノイッテ、外から上がってきました。7番人気、外々を回って進出を開始します》
実況の声が、スタンドに響く。
ざわめきが、少し戻ってきた。
「来たぞ」
牧野さんが、無精ひげを撫でながら低く言った。
《キングスレガリアは内で脚を溜めています。まだ動きません。カミノイッテ、差を詰めてきました》
《4コーナーを回ります。カミノイッテ、外から並びかけてきました。先頭はまだ内。差は詰まっています》
コーナーを、馬たちが回っていく。
栗毛が、外からぐんぐん上がってくる。
白と青の背中が、前の馬たちに並んだ。
並んだ。
並んだぞ。
俺は、息を吸った。
父さんが、腕組みを解いた。
最後のコーナーを、16頭が回りきる。
そして、直線。
ゴール前の、あの急坂が待っている。
《4コーナーを回って先頭に立ったのはキングスレガリア!1番人気、内から抜け出した。2番手以下を突き放す。差は3馬身!》
直線が、目の前に開けた。
栗毛はまだ外の外。
相沢さんの背中が沈む。
手綱が動く。
外から差す。
あの作戦を、最後までやり切るだけだ。
《キングスレガリア、先頭!差は2馬身!2番手に外からカミノイッテ!カミノイッテが来た!》
鹿毛が、前で一人だけ違う景色を見ている。
長い首がぶれない。
脚の回転が落ちない。
強さが、形になって見える。
――――――――
直線だ。
坂だ。
見えてる。
前が、一人だけ抜けてやがる。
鹿毛の野郎、逃げ切る気だ。
いいぜ。
行く。
脚、まだある。
止まってたまるか。
――――――――
《カミノイッテ、外から一気に差を詰める!差は1馬身!キングスレガリアとカミノイッテの一騎打ちだ!》
栗毛が、坂に差し掛かる。
蹄が、地面を深く叩く。
外の芝を、蹴り上げる。
白と青が揺れない。
相沢さんが、体をひとつ押し込んだ。
――――――――
坂だ。
登れ。
登れよ、俺。
前はまだ遠い。
でも、見えた。
肩が並びかけてる。
耳の先が、あいつの首のとこまで来てる。
心臓がでけえんだよ、こっちは。
負けるかよ。
――――――――
《急坂でカミノイッテ、外から並びかけた!キングスレガリアと並んだ!先頭はカミノイッテか!》
栗毛の鼻先が、鹿毛の鞍のあたりまで来る。
一完歩ごとに、地面が近い。
俺は柵を握ったまま、息を止めていた。
並んだ。
本当に並んだ。
ゴールは、まだ先だ。
《カミノイッテとキングスレガリア、並んだままゴール板を駆け抜けました!2頭、ほとんど同時!先頭はどちらか、分かりません!》
実況の声がスタンドに突き刺さる。
歓声が一瞬、割れた。
誰もが隣の人の顔を見ていた。
勝った、のか。
負けた、のか。
分からない。
俺は柵を握ったまま、ゴール板の向こうを目で追っていた。
2頭の蹄が、芝を蹴る。
鼻面の位置が、最後まで入れ替わらない。
ふたつの塊が、そのまま減速して流れていく。
――――――――
抜かしたか。
いや、分かんねえ。
あいつの鼻がまだ横にいる。
俺の鼻が先か。
あいつの鼻が先か。
最後の一完歩。
前に出たつもりだった。
でも、分かんねえ。
胸が痛え。
脚が止まらねえ。
まだ走れって言われてるみてえだ。
――――――――
栗毛が、外ラチ沿いでようやく駈歩をやめた。
相沢さんが、首をポンポンと叩いている。
俺には、その顔は見えない。
母さんが隣で、目を閉じていた。
手はまだ柵を握っている。
指が白い。
牧野さんが、手すりに身を乗り出して叫んだ。
「どっちだ!どっちだぁ!」
声が裏返っている。
59歳の獣医が、競馬場で声を張り上げている。
この人はずっとこの日のために休診日にしたのだ。
無精ひげの頬が紅潮している。
父さんは、動かない。
手すりを握ったまま、目だけでゴール板の先を見ている。
あの人は、この世で一番叫ばない人だ。
俺も叫ばない。
《2頭、際どい勝負です。ゴール板の判定は写真に委ねられました》
「ハル」
母さんが、ようやく目を開けた。
声が震えている。
「どっちなの」
「分からない」
俺は正直に答えた。
一完歩の差。数センチの差。それで8,000万円が動く。
ターフビジョンに「写真判定」の文字が出たまま、時間だけが流れていく。
スタンドのざわめきは、待ち時間に比例して少しずつ熱を帯びていた。
「内だろ、どう見ても内だ」
「いや、外が差してた。最後に伸びたのは外だ」
「同着だよ。あれは同着」
知らないおじさんたちが、それぞれ自分の見たいものを見ている。
馬券を持っている人間の目なんて、だいたいそういうふうにできている。
俺は柵に手をかけたまま、じっとターフビジョンを見ていた。
指先が冷たい。
たぶん、気温のせいだ。
母さんは隣で、もう何も言わない。
指を折るのもやめた。
牧野さんは手すりに肘をついて、画面を睨んでいる。
無精ひげが、さっきから微動だにしない。
父さんは腕を組んで立っている。
いつもの無言。
この4人の中で、俺が一番落ち着いている。
……はずだった。
俺は、無意識に開いた自分の手のひらを見た。
柵を握っていた手。
そこに、三日月型の爪の跡がくっきりと残っている。
痛みはない。
でも、跡が白くなっている。
俺は手を閉じた。
心臓は、ふつうに動いている。
呼吸も、乱れていない。
平熱だ。
平熱のまま、手のひらだけが正直だった。
ターフビジョンに、ゴール前のスローモーションが流れた。
歓声が一瞬、止む。
何万人の視線が、同じ画面に吸い寄せられた。
栗毛と鹿毛。
外と内。
二つの影が、ゴール板に重なるように駆け込んでくる。
スローで見ると、脚の運びがはっきり分かった。
鹿毛の首が伸びる。
栗毛の鼻先がその首の横から、ほんの少しだけ前に出る。
最後の一完歩。
地面を蹴るたびに、鼻先が数センチずつ前へ出ている。
外の栗毛が。
カミノイッテが。
「……外じゃないか?」
誰かが言った。
声は、スタンドのどこからともなく湧いてきた。
「外だろ。今の、外が前だった」
「いや待て、まだ分からん」
「見ろよ、鼻先。外が1つ分出てる」
観客の声が、少しずつ「外」に傾いていく。
傾いていくのが、肌で分かった。
俺の隣で、母さんが息を呑む音がした。
牧野さんが手すりを握り直した。
父さんは、まだ動かない。
「外だ……」
「外が勝ったんじゃないか」
「7番人気だぞ、これ」
スタンドが、ざわり、と揺れた。
俺はターフビジョンから目を離さない。
まだだ。
まだ確定じゃない。
写真判定の結果は、映像じゃなくて電光掲示板に出る。
営業で言えば、口頭の内諾だ。
契約書に判を押すまでは、何も決まっていないのと同じだ。
電光掲示板は、まだ沈黙している。
電光掲示板が、点いた。
一拍、遅れて。
一番上に、白い数字が浮かぶ。
「8」
その下に「2」。
着差の欄に、小さく「ハナ」。
勝ちタイム、2分01秒2。馬場良。
《7番人気のカミノイッテが、1番人気キングスレガリアをハナ差で破りました。生産者である久世牧場にとって、これが初めてのGⅠ勝利です》
読み終わってから、ようやく意味が体に落ちてきた。
――勝った。
ハナ差で。
源さんが、キングスレガリアを鼻先ひとつ分だけ先に抜けた。
スタンドが、一拍おいて、割れた。
「うおおおおっ」
「8番だ!8番!」
「ハナ差かよ!ハナ差!」
「7番人気!単勝18倍!」
「……主取りの馬が、1億の馬を負かしたのか」
「セリで売れなかった馬だろ、あれ」
悲鳴にも似た歓声が、波になって押し寄せる。
さっきまで「内だ」「同着だ」と言っていたおじさんたちが、今度は一斉に手のひらを返している。
「見たか今の!外だって言っただろ!」
言ってない。
絶対言ってない。
俺はその声を聞きながら、心の中で静かにツッコんだ。
馬券を持っている人間の記憶は、当たった瞬間に都合よく書き換わる。
母さんが、隣で固まっていた。
手すりを握ったまま、動かない。
目だけが、電光掲示板の「8」を凝視している。
「……はち」
唇が、小さく動いた。
「はち、ばん」
復唱している。
決算処理が、まだ終わっていないらしい。
「ハル」
母さんが、ようやくこっちを見た。
「これ、勝ったってこと?」
「勝った」
俺はうなずいた。
「ハナ差で。カミノイッテが1着」
母さんは、ゆっくりと手すりから手を離した。
それから、ふっと息を吐いた。
長い、長い息だった。
ずっと我慢していたのが、やっと出たみたいな。
「……よかった」
それだけ言って、母さんは黙った。
普段あれだけ早口な人が、二言しか言わない。
それが、この人の本気の喜び方だと俺は知っている。
牧野さんは、隣で両手を上げていた。
「やったぞ!」
声がでかい。
でかすぎる。
「やったぞ坊!勝った!ハナ差だ!」
「牧野さん、声」
「うるせえ!獣医が叫んで何が悪い!」
牧野さんは俺の肩をバンバン叩いた。
「見たか!最後の坂!あの伸び!俺が診た脚だぞ!」
「診たのは脚だけじゃないですか」
「脚が大事なんだよ馬は!」
正論だった。
反論できない。
父さんは、動かなかった。
腕を組んだまま、電光掲示板を見ている。
表情は、変わらない。
「父さん」
俺が言うと、父さんは前を向いたまま短く返した。
「見た」
それだけだった。
父さんは振り返らない。
ウイナーズサークルは、芝の匂いと人の熱気が混ざっていた。
夕方の光が、スタンドの上から斜めに差し込んで、馬体を金色に縁取る。カミノイッテの栗毛が、汗でまだ濡れている。鼻先からは、相変わらず白い息がゆっくり漏れていた。
戸川さんが手綱を引いてカミノイッテを正面へ向ける。白と青の勝負服の相沢さんは、まだその背に跨がっている。
「坊ちゃん、こっちこっち」
戸川さんが手招きした。声が弾んでいる。目が笑っていた。
母さんと牧野さんが、係員に連れられてウイナーズサークルの中へ入ってくる。母さんはきょろきょろと周りを見回している。
父さんは、俺の隣に立っていた。
腕組みを解いてだらりと両手を下げている。何も言わない。相変わらず無言。
カメラマンが、三脚の位置を直しながら声を張った。
「はーい、それでは並んでくださーい。馬主さん、調教師さん、騎手さん、厩務員さん。あ、ご家族の方もどうぞ。馬を中心に横一列で」
戸川さんがカミノイッテの左側に立ち、相沢さんは馬上。梶先生が右側で、父さんがさらにその隣。俺と母さんと牧野さんは、空いている場所に収まった。
カミノイッテのすぐ横だ。
源さんの声が聞こえる。
「兄ちゃん、写真か?」
小さく、かすれた声だった。さっきまでレースの話をしていた声とは別人みたいに疲れている。
俺は口を動かさず、ほとんど唇の形だけで返した。
「記念だよ。勝ったから」
鼻を鳴らす音がした。ブルル、と短く。
「そうかよ」
源さんはそれきり黙った。
栗毛の首が、ほんの少しだけ高く上がった。胸を張るみたいに。いや、本当に胸を張っている。カメラの前で。
こいつ、意外と嬉しいんだな。
俺は心の中でだけツッコんだ。口には出さない。
カメラマンが、右手を上げた。
「はーい、撮りますよー。笑ってくださーい」
俺は、営業スマイルを作った。口角を上げて、目を細める。前世からの癖だ。こういう場では、自然とそういう顔になる。
カメラマンが、もう一度声を張った。
「それでは、撮ります!せーの」
パシャ、という軽い音。
その瞬間、俺は横目で父さんを見た。
父さんが、笑っていた。
口元が、はっきりと上がっていた。目も、細くなっている。あの無口な父さんが、歯まで見せて笑っている。俺が知らない顔だった。子供の頃から一度も見たことがない顔だった。
シャッター音は一瞬で終わった。
父さんは、もう元の無表情に戻っていた。腕を組んで、前を向いている。何事もなかったみたいに。
でも、確かに笑った。今この場所で。
俺は前を向いたまま、心の中でだけ言った。
見たよ、父さん。
俺は、カミノイッテの肩に手を置いた。
毛が、まだ湿っている。体温が、手のひらに伝わってくる。心臓が、早鐘みたいに鳴っているのが分かった。レースが終わって、もう何分も経っているのに。
俺は、カミノイッテの肩から手を離した。
手のひらに、馬の熱が残っている。
平熱の俺の手が、今だけは、少し熱かった。
検量室前は、人だかりができていた。
口取りを終えた父さんと俺は、係員に促されるまま白い柵の前に立った。隣に梶先生。背が低い先生は、キャップを目深にかぶり直している。その仕草を、さっきから3回は見た。
冬の午後だというのに、戻ってきたカミノイッテの背中からは白い湯気が立ち上っていた。戸川さんが手綱を引いて歩いてくる。相沢さんが背中に跨がったまま、片手で首を撫でていた。
検量室の前で、カミノイッテが止まる。
鼻面から、荒い息が白く噴き出していた。汗で毛が首のところに張りついている。馬体が、まだ熱い。見ているだけでこっちまで汗ばみそうな熱量だった。
「……見たか」
源さんの声が、俺だけの耳に落ちてくる。
息の切れた、低い声。普段の軽口はどこにもなかった。
「……外から、差したぞ」
それだけだった。
二言。
たった二言で、今日の全部を言い切った。
俺は無言でうなずいた。声は出さない。父さんが隣にいる。他の誰かにも聞かせる必要はない。これは、馬と俺の、勝った日の話だ。
源さんは、それきり黙った。首がゆっくり下がる。腹が大きく波打って、呼吸のたびに鼻先から白い蒸気が漏れる。
戸川さんが手綱を短く持ち直して、相沢さんを見上げた。
「お疲れさまです」
相沢さんの声はやっぱり小さい。でも、その目は笑っていた。
「……勝てましたね」
声の最後が、少し震えていた。
「勝ちましたよ」
戸川さんの声が、裏返っていた。
相沢さんが鐙を外して、ゆっくりと下馬する。着地した拍子に、膝が一瞬笑った。それでもすぐに立ち直って、カミノイッテの首に手を置いた。
「よく走ってくれた」
相沢さんが言った。
馬の耳が、相沢さんの方へ向く。
戸川さんが、手綱を握ったまま一歩前に出た。
「相沢さん……!」
そのまま、両手を広げて突進した。抱きつく寸前。
相沢さんが、ぱっと半歩横に逃げた。俊敏だった。レース直後の脚とは思えない。
「え、や、ちょっと」
「いいじゃないですか!」
「汗、かいてますから」
「こっちだって汗かいてます!」
「そういう問題じゃ」
戸川さんは一歩引いた相沢さんに、なおも迫る。相沢さんは検量室の壁際まで下がった。本気で逃げている。女性に迫られて壁際に追い詰められる騎手。図にすると、ちょっとおかしい。
横で聞いていた父さんが、ぼそりと言った。
「検量、行け」
短い声だった。
相沢さんが、はっと我に返って「あ、はい」と検量室へ向かう。戸川さんが、その背中にまだ手を伸ばしていたが、あと一歩届かなかった。
梶先生が、隣で鼻をすすった。
振り返ると、キャップのつばをぐっと下げて、顔を隠している。肩が小刻みに震えていた。
「……よくやった」
しわがれた声だった。
それだけ言って先生はまた鼻をすすった。つばの下から、光るものが一筋こぼれる。
父さんは、黙ってカミノイッテを見ていた。相変わらず無言。
カミノイッテの鼻先から、まだ白い息が上がっている。
白い湯気が、冬の空に溶けていく。
場内のスピーカーから、ざらついた音が流れ始めた。
『勝利騎手インタビューです。本日のホープフルステークスを制しましたのは、カミノイッテ号。騎乗されました相沢騎手です』
スタンドの歓声がまた少し大きくなる。ウイナーズサークルの前にも、人だかりができていた。
インタビュアーが、相沢さんにマイクを向けた。相沢さんは、一瞬だけこっちを見た。
『相沢騎手、GⅠ初勝利、おめでとうございます』
相沢さんは、小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
声は、やっぱり小さい。場内に響くかどうか、ぎりぎりの声量だ。でも不思議とその声は、ざわめきの隙間をすり抜けて俺のところまで届いた。
『最後の直線、外から素晴らしい脚でした。どのような気持ちで追われましたか』
相沢さんは、一度だけ深呼吸をした。
「馬を、信じました」
相沢さんは、それ以上何も言わなかった。マイクを持つ手が、少し震えている。でも声は震えていなかった。
その言葉が、スタンドに吸い込まれていく。
インタビューが終わって、人混みがほどけていく。
ウイナーズサークルの白い柵を出たところで、父さんが足を止めた。俺も止まる。母さんと牧野さんは先に行って、売店のほうを眺めている。あの2人はもう次のことを考えている顔だ。
夕方の光が、通路のコンクリートを橙色に染めていた。人の流れが左右に分かれていく。その真ん中を、静かにこっちへ歩いてくる男がいた。
銀縁眼鏡。白髪まじりの短髪。仕立てのいいジャケット。
鷹司玲司。
鷹司ファームの代表だ。今日1番人気のキングスレガリアを送り出して、ハナ差で負けた人。
玲司は歩きながら、静かに拍手をしていた。パン、パン、と。急ぐでもなく、大きく鳴らすでもなく。通路のざわめきに紛れるくらいの音で。
父さんの隣に来て、止まった。
「おめでとうございます」
穏やかな声だった。悔しさを一切表に出さない。そういう訓練をしてきた人の声だ。
父さんは黙ってうなずいた。いつもの無言。でも、頭は下げた。あの父さんが頭を下げた。
玲司はそれを見て少しだけ目を細めた。それから、視線を俺に移した。
俺は頭を下げた。
「今日は、ありがとうございました」
「礼を言われる筋合いはないよ。うちは負けたんだ」
玲司は笑った。嫌味のない笑い方だった。それが逆に、この人の強さなんだろうなと思った。
「ただね」
玲司はジャケットの内ポケットに手を入れかけて、やめた。何か言いかけて言葉を選び直した顔だった。
「物差しが、少し狂ったようだ」
静かな声だった。
俺は顔を上げた。
玲司は続けなかった。説明しない。言い訳もしない。ただ、眼鏡の奥の目が俺をまっすぐ見ていた。
「また会おう」
それだけ言って玲司は人の流れに戻っていった。
背中が遠ざかる。まっすぐだった。負けた人が、あんなにまっすぐ歩けるものなのか。
「物差しが、狂った」
俺は小さく復唱した。
人の流れが、また動き出す。
通路の向こうから厩務員に引かれた馬が1頭、こっちへ歩いてくる。
鹿毛。すらりと長い首。四肢の先だけ黒い。額に細い流星。
キングスレガリアだ。
引き上げの途中らしい。まだ汗が引いていない。長い首が、通路の灯りを浴びてつやつやと光っていた。
俺は父さんの半歩後ろに立ったまま、その馬を見た。
厩務員の人が軽く会釈していく。父さんが、また小さく頭を下げた。
すれ違いざま。
鹿毛の耳だけが、こっちを向いた。
長い首が、ほんの少しだけ俺のほうへ傾く。
「いい騎手になったね、彼は」
静かな声だった。
丁寧で、声を荒げないあの声。
俺は息を止めた。
キングスレガリアはそれだけ言って、そのまま前を向いた。長い首が、ゆっくりと通路の先へ進んでいく。厩務員の人が、何も気づかずに手綱を引いている。振り返りもしない。
俺は立ち尽くしていた。
彼は。相沢さんのことだ。
馬が、騎手を評した。
当たり前のことのように、さらりと。
鹿毛の背中が、通路の曲がり角で消えた。
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
「ハル」
父さんが、前を向いたまま言った。
「美浦、寄るぞ」
それだけだった。
俺はうなずいて、父さんの後ろをついていった。
通路の先で、母さんがまだ指を折っている。牧野さんが、無精ひげを撫でながら何か喋っている。いつもの光景だ。
あの馬は、何なんだろう。
俺はコートのポケットに手を突っ込んだ。
美浦トレセン、梶厩舎。
夜の8時を回ったあたりだ。
馬運車から下ろされたカミノイッテは、自分の馬房に戻るとすぐに寝藁の上で脚を休めていた。栗毛の背中が、白い蛍光灯の下でまだ汗ばんで見える。
父さんと梶先生は、事務所で何か話し込んでいた。たぶんレースの回顧と、今後のこと。無口な父さんと涙もろい先生の組み合わせは、妙に静かな会議になる。
俺は馬房の前に一人で立っていた。
通路には消毒液の匂いがうっすら残っている。夜の厩舎は静かだ。遠くで馬が寝返りを打つ音が、ときどき聞こえるくらい。
カミノイッテが、ゆっくり首を上げた。
栗毛の耳が、俺のほうを向く。
「兄ちゃん」
源さんの声が、聞こえた。
疲れているのに、声ははっきりしていた。レース直後のあの掠れ声とは違う。静かな、落ち着いた声だった。
「明日、少し時間あるか」
俺は、馬房の鉄格子に手をかけたまま黙って聞いていた。
「……話がある」




