第24話 【ホープフルS】主取りがGⅠ獲ったぞ
【ホープフルS】主取りの馬がGⅠ獲ったぞwww
1:名無しの馬券オヤジ ホープフルS(GⅠ)中山芝2000m 良 1着カミノイッテ 7番人気 単勝18.2倍 2着キングスレガリア 1番人気 着差ハナ 2分01秒2 カミノイッテは1歳サマーセールで手が挙がらず主取り。
2:名無しの馬券オヤジ フロックだろ
3:名無しの馬券オヤジ キングスの仕掛けが遅れただけ
4:名無しの馬券オヤジ 1番人気がハナ差で負けたなら実力差はほぼゼロ
5:名無しの馬券オヤジ 7番人気で単勝18.2倍ってことは市場は完全に無視してたんだな
6:名無しの馬券オヤジ いや、このペースで2000踏めるのは地味にすごい
7:名無しの馬券オヤジ 母父がスタミナ型だから2400で化けるぞ
8:名無しの馬券オヤジ その母父ネタ毎回言ってるけど今回ばかりは信じる
9:名無しの馬券オヤジ サマーセールの購買者、全員息してない
10:名無しの馬券オヤジ 手が一度も挙がらなかった馬がGⅠ馬www
11:名無しの馬券オヤジ これマジで主取り?
12:名無しの馬券オヤジ セリで買わなかった人たち今ごろ何してるの
13:名無しの馬券オヤジ 俺は単勝18.2倍を買ってた者です
14:名無しの馬券オヤジ お前が一番の勝ち組かよ
15:名無しの馬券オヤジ 外から差したってのがまた痺れる
16:名無しの馬券オヤジ >>2 フロックでGⅠ取れるほど競馬は甘くない
17:名無しの馬券オヤジ とりあえず今日は酒がうまい
18:名無しの馬券オヤジ 俺サマーセールで下見した者だけど
19:名無しの馬券オヤジ あの時「胴が詰まってる」って言ったの誰だよ
20:名無しの馬券オヤジ 俺だよ!俺が言ったんだよ!
21:名無しの馬券オヤジ 「この父じゃ先が続かない」って言いながら素通りした俺が通りますよ
22:名無しの馬券オヤジ 俺も「胴が詰まってる」派だった。今ごろその胴でGⅠ獲ってる
23:名無しの馬券オヤジ サマーセールのカタログまだ取ってあるんだけど見返すたびに胃が痛い
24:名無しの馬券オヤジ ちなみに相沢トオルってこれがGⅠ初勝利らしいぞ
25:名無しの馬券オヤジ マジか。あの小さな声の騎手がようやく掴んだのか
26:名無しの馬券オヤジ 梶の爺さん調教師、預託馬が減ってたところだったんだろ
27:名無しの馬券オヤジ 検量室の前でキャップのつば下げて鼻すすってたって聞いた
28:名無しの馬券オヤジ 爺さんの涙は反則だろ。こっちまで来る
29:名無しの馬券オヤジ 主取りの馬と初GⅠの騎手と泣き虫の爺さんか。泣くわ
30:名無しの馬券オヤジ 胴が詰まってたのは俺の目だったってオチかよ
31:名無しの馬券オヤジ 生産者も馬主も久世って何者
32:名無しの馬券オヤジ 北海道の小さな牧場だろ
33:名無しの馬券オヤジ 毎年1頭だけ自分の名義で走らせてるらしい
34:名無しの馬券オヤジ しかもそれがGⅠ獲った
35:名無しの馬券オヤジ 牧場の規模的に主取りになるのは分かる
36:名無しの馬券オヤジ でもその1頭がこれ
37:名無しの馬券オヤジ 久世の倅は馬が分かるって地元じゃ有名らしい
38:名無しの馬券オヤジ 座敷わらしでも飼ってるのか
39:名無しの馬券オヤジ それだ
40:名無しの馬券オヤジ 牧場に座敷わらしがいる説
41:名無しの馬券オヤジ いや座敷わらし関係ある?
42:名無しの馬券オヤジ 馬の才能を引き寄せるタイプの座敷わらしだ
43:名無しの馬券オヤジ 生産者の息子が何か見抜いてるって噂
44:名無しの馬券オヤジ 小学生だろ
45:名無しの馬券オヤジ その小学生がどうして見抜くんだ
46:名無しの馬券オヤジ だから座敷わらし説
47:名無しの馬券オヤジ 久世牧場の座敷わらしに単勝お願いしたい
48:名無しの馬券オヤジ お賽銭はニンジンでいいか
49:名無しの馬券オヤジ 座敷わらしにニンジンは草
50:名無しの馬券オヤジ むしろ好物だろ
51:名無しの馬券オヤジ 来年のダービー候補だろ
52:名無しの馬券オヤジ それはさすがに気が早い
53:名無しの馬券オヤジ いやいや2歳GⅠ勝った時点でダービー候補でいいだろ
54:名無しの馬券オヤジ 血統が足りない
55:名無しの馬券オヤジ >>7 母父スタミナ型って言ってるけど所詮マイナーだろ
56:名無しの馬券オヤジ でも今日のレース見て無理とは言えなくない?
57:名無しの馬券オヤジ 直線の伸びは本物だった
58:名無しの馬券オヤジ キングスが相手でもう一回やれば普通に負ける
59:名無しの馬券オヤジ そのキングスに勝ったんだが
60:名無しの馬券オヤジ 次もキングスと当たるのか
61:名無しの馬券オヤジ それは胸熱
62:名無しの馬券オヤジ 主取り vs 1億円
63:名無しの馬券オヤジ それだ
64:名無しの馬券オヤジ ダービー、主取り vs 1億円
65:名無しの馬券オヤジ 最高かよ
66:名無しの馬券オヤジ その構図でダービー行ったら競馬場が揺れるぞ
67:名無しの馬券オヤジ 俺はもう揺れてる
◇
3学期の初日。教室のドアを開けた瞬間、俺は悟った。これは面倒くさいやつだと。
「久世だ!」
「来た!」
「テレビ見たぞ!」
「すげえすげえ!」
「GⅠってやつだろ!」
「1億の馬に勝ったんだってな!」
椅子を引く暇もなかった。男子女子が入り混じって、俺の机の周りに人垣ができる。まるでセール品の前に群がる主婦みたいな勢いだ。前世の営業で慣れてるはずの俺でも、さすがにこれは引く。
「落ち着いて。ね?落ち着いて」
俺は両手を軽く下げて、営業用の声を出した。平熱のまま。
「お前んとこの馬だろ?」
「久世んち牧場なんだって?」
「聞いてないんだけど!」
「聞いてないんだけど」って、こっちの台詞だ。俺は昨日まで冬休みだったんだぞ。
「うん。まあ、そうだね」
俺は口元だけ笑わせて答えた。
「運が良かっただけだよ。ハナ差だったし」
「ハナ差って何?」
「鼻の先っぽの差。つまり紙一重ってこと」
「紙一重!」
「かっけー!」
何がかっけえんだ。紙一重は褒め言葉じゃない。
「単勝18.2倍だったんだって?」
「それって人気なかったってことだろ?」
「なんで勝てたの?」
「なんでって……走ったから、かな」
「答えになってねえ!」
ツッコミまで飛んできた。教室の空気は完全に俺を中心に回っている。俺は前世でもこんなに注目されたことなんてない。せいぜい、月間目標達成したときの部内表彰くらいだ。
「久世君とこの馬、主取りだったんでしょ?」
女子の一人が、少し小声で聞いてきた。周りが「主取り?」「何それ」とざわつく。
「セリに出したけど、買う人がいなかった馬のこと」
俺は簡潔に答えた。
「へえ……」
「でも、それで勝ったってこと?」
「だから運が良かったんだよ」
俺はもう一度同じことを言った。これ以上は言わない。言っても伝わらないし、言いたくもない。
「ねえねえ、久世って馬が分かるって本当?」
突然、誰かが言った。俺の背中が、ほんの少しだけ固くなる。
「……誰がそんなこと言ったの」
「お母さんが、地元でそんな噂があるって」
「噂は噂だよ。僕は普通の小学生」
俺は肩をすくめて、椅子を引いた。座る。これ以上は立ってられない。
「普通の小学生がGⅠ馬作るかよ」
「そうそう」
「それ座敷わらしだろ」
「出た、座敷わらし」
「久世牧場には座敷わらしがいる説」
「それネットで見た!」
教室がどっと沸いた。俺は内心でだけため息をついた。ネットの俺の評価、座敷わらし。前世の俺34歳、元営業座敷わらし。なかなかの転落だ。
「座敷わらしじゃないよ。ただの牧場だよ」
俺は鞄から教科書を出しながら言った。もうこの話題、終わらせたい。
そのとき教室のドアが、すっと開いた。
空気が、一瞬で変わった。さっきまで俺を囲んでいた連中が、さっと道を開ける。誰も何も言わない。ただ、視線がドアの方へ流れていく。
鷹司蒼真だった。
色白の顔に、定規で測ったようにきっちり分けた黒い前髪。冬の朝の光を受けて、その髪がつやつやと光っている。コートを脱いでハンガーにかける所作まで、妙に様になっている。腹が立つ。
俺の机の周りにできた人垣を静かに見渡している。表情は変わらない。いつもの気取った顔のままだ。でも、その目は笑っていなかった。
教室が、しんと静まり返った。
誰かが「おはよう」と言いかけて、飲み込んだ。鷹司のこの空気を、みんな知っている。鷹司ファームの御曹司が、本気で機嫌が悪いときの空気だ。
俺は教科書を机に置いたまま、鷹司を見た。鷹司も俺を見ていた。
鷹司は俺の机の前で止まると背筋を伸ばしたまま、ゆっくりと口を開いた。
「久世君」
声は、意外なほど静かだった。でも、その静けさが逆に教室のざわつきを全部吸い取っていく。
「……ハナ差だ」
鷹司は、俺の目をまっすぐ見ていた。黒い前髪の下で、目だけがやけに光っている。悔しさで、奥の方がぐらぐら煮えているのが見えるようだった。
「次は、皐月賞で決着をつけよう」
誰かが息を呑む音がした。
俺は、ゆっくり瞬きをした。頭の中は、意外なほど冷静だった。ああ来たか、と思う。この男は負けたままでは終われない質なのだ。前世の俺なら「お客様、それは営業的に」とかなんとか言って、うまく流していたところだ。
「……そうだね」
俺は、教科書に手を置いたまま答えた。平熱の声を心がける。熱くなったら負けだ。いや、勝ち負けでもないんだけど。
「そうだねとは何かね!?」
教室のあちこちから、くすくすという笑いが漏れる。
「もっと驚き給えよ!」
鷹司は、一瞬だけ唇を引き結んだ。
「ハナ差など……ッ」
声が、ほんの少し裏返った。
「ハナ差など誤差だ!誤差!」
上品な口調が、途中から崩れている。クラスメイトたちが、ぽかんとしている。そりゃそうだ。いつも気取っている御曹司が、声を裏返らせて「誤差だ!」なんて叫ぶ姿は、なかなかお目にかかれない。
いや、誤差って……勝負は勝負だろ。
でも口には出さない。ここで変に刺激しても面倒なだけだ。
鷹司は、ふう、と一つ息を吐いた。それから背筋を伸ばしたまま、少しの間黙った。
「……君の馬は、強かった」
ぼそり、と鷹司が言った。
「僕は、あのレースを何度も見た。何度も、何度もだ。どこに敗因があったのか、君には分かるかね」
「分からないよ」
即答した。これは本音だ。
「馬が走っただけだから」
鷹司は、じっと俺を見ていた。しばらく、値踏みするような視線。やがて、ふっと表情を緩めた。いや緩めたというより、何かを吹っ切ったような顔だ。
「そうか。ならば、いい」
そう言って、鷹司はすっと右手を差し出した。
白くて、指の長い手だった。爪の先まで手入れが行き届いている。俺の手は、冬の牧場作業でかさついている。同じ12歳とは思えない。
「次は、僕の勝ちだ」
鷹司は、真っ直ぐに言った。
「だが、今回は君の勝ちだった。それは、認めよう」
教室内が、ざわりと揺れた。誰かが「おお……」と声を漏らす。
俺は、数秒だけその手を見た。
握手。
小学生の、それも教室の真ん中でこうも芝居がかった握手を求められるとは思わなかった。まるで少年漫画のライバル宣言だ。いや、実際そういう空気だ今。
俺は、ゆっくりと手を伸ばした。
鷹司の手は、思ったより熱かった。冬の朝だというのに、手のひらがじっとりと汗ばんでいる。
悔しさが、まだ冷めていない証拠だ。
俺は、その手を握り返した。
「……うん」
それだけ言った。
鷹司は、ふん、と鼻を鳴らすと俺の手を離して背を向けた。そのまま自分の席へ向かう。歩き方は、いつも通り背筋が伸びている。でも、耳の先がほんのり赤いのが見えた。
あれ、恥ずかしがってるな。
クラスメイトたちがようやく息を吐く。何人かが「なんだったの今の」「かっこよかった」と囁き合っている。俺は、握った右手をそっと開いた。手のひらに、少しだけ汗が移っていた。
チャイムが鳴った。
鷹司はもう前を向いていた。背筋がいつも通りまっすぐで、後ろ姿まで気取っている。さっきの赤くなった耳は、もう見えない。
先生が教壇に立った。担任の先生だ。眼鏡の奥で、教室をぐるりと見回している。
「冬休み、大きなニュースがありましたね」
先生が、少し笑いながら言った。
教室が、またざわっと揺れる。何人かが俺のほうをチラチラ見ている。俺は教科書の上に両手を置いて、営業スマイルの半分くらいの顔を作った。平熱。あくまで平熱。
「久世、テレビ出てたもんな」
先生が言った。教室がどっと笑う。
「出てないです。馬が出てたんです」
俺は静かに返した。
「そうか。馬か」
先生はうなずいて出席簿を開いた。それ以上は追及してこなかった。さすが大人だ。空気を読むのがうまい。
俺は、窓の外を見た。
グラウンドは雪で真っ白だった。朝の光が当たって、ところどころが銀色に光っている。向こうの校舎の屋根にも雪が積もっている。誰も踏んでいない雪の面が、やけにきれいだった。
雪を見ていると、どうしても年末のことを思い出す。
言ったところで誰も信じない。信じないどころか、俺の頭のほうが心配される。久世の倅は馬が分かるんじゃなくて、馬の声が聞こえるらしいぞなんて噂が立てば、座敷わらし説がさらに加速するだけだ。前世の俺の株が、ますます下がる。
源さんの話、まだ誰にもしてない。
◇
12月27日。ホープフルSの翌日の昼前、俺は美浦の梶厩舎にいた。
冬の厩舎は、外より少しだけ暖かい。馬の体温と、糞尿の匂いと消毒液の匂いが混ざっている。決して心地いいとは言えない空気だ。でも俺はこの匂いが嫌いじゃない。牧場の子だから、というだけでもない。前世の営業時代、どこの事務所にもこういう「生き物のいる場所」の匂いはなかった。だから妙に落ち着くのだ。
戸川さんは別の馬の世話に追われていた。角を曲がるたびに「坊ちゃん、そこにいてくださいね」と声をかけてくる。俺はそのたびに手を振って、カミノイッテの馬房の前に立った。
カミノイッテは、寝藁の上に立っていた。
レースの翌日だというのに脚はもうすっかり落ち着いている。栗毛の背中は乾いていて、白い蛍光灯の下でゆるやかに光っている。鼻先が、鉄格子の隙間からひょこっと出てきた。
「兄ちゃん」
源さんの声だ。
昨日の夜と同じ静かな声。
「おう。来たよ」
俺は鉄格子に手をかけた。声は小さくした。近くに人はいないが、癖のようなものだ。
源さんは、すぐには答えなかった。
馬房の中で、栗毛の巨体がゆっくりと横に揺れる。蹄が藁を踏む、かさ、かさ、という音だけが聞こえる。俺は黙って待った。前世の営業で、沈黙を埋めるのは悪手だと叩き込まれている。相手が話すまで待つのが、一番いい。
やがて、源さんが口を開いた。
「昨日のレースな」
低い声だった。
「見てたろ、兄ちゃん」
「見てたよ。スタンドで。それに、そのあと映像を何回か」
「何回も見たのか」
「うん。何回も」
「物好きだな、兄ちゃんは」
源さんは、ふっと鼻を鳴らした。ブルルという短い音。笑ったつもりらしい。
「まあいい。せっかくだ。講釈を聞かせてやる」
来た。
源さんの講釈は長い。競馬歴40年の馬券オヤジの講釈は、とにかく長い。前世の俺が居酒屋で隣の席のおじさんに捕まったときのことを思い出す。あれと同じだ。いや、あれより長いかもしれない。
「向正面だ。内に1頭分隙間が空きやがった」
「隙間?」
「そう。キングスレガリアが内の3番手にいるだろ。あの辺りだ。前の馬がちょっと外に膨らんで、内がぽっかり空いたんだよ。あそこに入れば楽ができる。誰だって入りたくなる」
「入らなかったの?」
「入らねえよ」
源さんは即答した。
「空いてるけど、行かねえ。あそこは罠だ」
「罠」
「あのタイミングで内に突っ込んだら、最後の直線で前が壁になる。俺は40年、その壁に何度も泣かされてきた男だぞ。馬券でな」
前世の話が混ざっている。でも俺は指摘しない。いちいち突っ込んでいたら、この馬の講釈は日が暮れる。
「だから外を回った。回り道だが、あれが正解だった」
源さんはそこで一度止まった。考え込んでいるのか、それとも俺が食いつくのを待っているのか。
「それで、3コーナー」
俺のほうから促した。こういうときは聞き役に徹するのが一番いい。
「そうだ、3コーナーだ。ここが昨日の肝だな」
源さんの声が少しだけ低くなった。得意げというより、噛みしめるような響きだ。
「相沢がな、両手をそろえやがった」
「両手をそろえる?」
「ゴーサインだ。馬に『いくぞ』って教えるんだよ。手綱をそろえて、合図を送る。あれでな俺も腹をくくった」
藁を踏む音が、今度は強く鳴った。源さんが前脚を上げたのだろう。
「俺が自分で手前を替えた。相沢が合図をくれたからな。そこで外から上がった。ぐっと、な」
俺は目を閉じた。映像が浮かぶ。何度も見た、あの4コーナーの光景だ。栗毛が外からじわじわと進路を取っていく。内の馬たちが、次第に後ろへ流れていく。
「そして、最後の急坂だ」
源さんの声が、そこで急に小さくなった。
「キングスレガリアがいた。内から抜け出してきやがった。あいつも強かった。並んだときは、正直、負けたかと思った」
源さんの声が、ぷつりと止まった。
馬房が静かになる。
外の通路で、誰かがバケツを置く音がした。遠くで馬が嘶く。それだけだ。源さんは黙っている。
かさ、と藁が鳴った。
蹄が地面を叩く。1度。2度。3度。
右前脚で、3回。
俺は目を開けた。源さんは、もう何も言わなかった。鼻先が鉄格子から引っ込んで、馬房の奥でじっと立っている。栗毛の背中が、蛍光灯の下でゆっくりと上下していた。
蛍光灯の白が、寝藁の上に四角い影を落としている。
「なあ、兄ちゃん」
しばらくして源さんが口を開いた。さっきまでの講釈の声じゃない。もっと低くて、もっと乾いた声だった。
「俺、前世でよ。家族がいたんだ」
俺は鉄格子から手を離しかけて、やめた。そのまま握り直す。黙って聞く。
「女房と、娘が一人」
源さんは、鼻先を鉄格子に近づけたままぼそぼそと続けた。
「娘はな、今で言うと兄ちゃんと同じくらいの歳の頃があった。小学生だ。俺はその頃、競馬ばっかりでよ。家の金もずいぶん使っちまった」
藁がかさ、と鳴る。
「女房には、さんざん泣かれた。給料日になると金が消えるんだ。当然だよな。全部、馬券に変わってたんだから」
自嘲するような、短い鼻息。
「娘は、俺の顔を見ると逃げるようになった。それでもな、一度だけ連れて行ったことがあるんだ。府中の競馬場に」
「府中」
「そうだ。東京だ。パドックでな、娘が馬を見て目を輝かせやがった。『お父さん、馬って大きいね』って。俺はそれを聞いて、ああ、と思ったよ。今日は当てるぞってな」
源さんの声が少しだけ明るくなった。でも、すぐに沈む。
「当たらなかった。全レース、1頭も来やしねえ。俺は一日中、新聞の前に噛り付いてた。娘が隣で『お父さん、お腹すいた』って言うのを『ちょっと待ってろ』って。そればっかりでよ」
藁が鳴る。源さんが、首をゆっくり横に振った。
「夕方になって、ようやく帰ろうってなったとき、娘が俺の手を握ってきた。小さい手だった。冷たかった。一日中、何も食わしてなかったからな」
俺は、何も言わなかった。
「俺はその手を振りほどいちまった。『今、大事なところだから』って。最終レースの締め切り前だったんだ。今思えば、馬鹿だよな。何が大事だ」
源さんは、少し黙った。
「家に帰ってから、女房と大喧嘩した。そんで俺は家を出た。そのまま、帰らなかった」
かさ、と藁が鳴った。蹄が、ゆっくり動く音。
「それきりだ」
俺は、鉄格子に手をかけたまま目を閉じた。冬の厩舎の匂いが、やけに濃く感じた。馬の体温と、糞と、消毒液。生き物のいる場所の匂いだ。
源さんは、それきり黙った。鼻先が鉄格子の隙間からゆっくりと引っ込んでいく。馬房の奥で、栗毛の巨体がひとつ大きく息を吐いた。
俺は、何も言わなかった。言う言葉を、見つけられなかった。
しばらくして通路の向こうから戸川さんの声が聞こえた。別の馬に声をかけている。いつもの調教助手の声だ。
「ちょっと脚がむくんでますね。晩に冷やしましょうか」
源さんの耳が、ぴくりとそっちを向いた。
かさ、と藁が鳴った。
源さんが馬房の奥から戻ってくる。ゆっくりした足取りだった。栗毛の巨体が、白い蛍光灯の下でぼんやりと明るい。蹄が寝藁を踏む音が、だんだん近づいてくる。
鼻先が、鉄格子の手前で止まった。
「兄ちゃん。……あの調教助手、俺の娘だ」




