第25話 守秘義務
「言うなよ、兄ちゃん。今さら父親ヅラできるか」
源さんの声はやけに低くて、のっぺりしていた。叱るでも頼むでもない。ただ、そういうものだと決めつけたような声だった。
「あいつには、俺のことなんかわからねえんだ。馬の鳴き声にしか聞こえてねえ。それでいいんだよ」
俺は鉄格子から手を離せなかった。冷たい鉄の感触が、指の腹に食い込む。離したらこの会話が終わってしまいそうな気がした。
「でも、源さん」
「兄ちゃん」
源さんが、俺の言葉を遮った。鼻先が鉄格子のすぐ向こうで小さく揺れている。
「あいつの人生に、俺はもういねえんだ」
藁が、かさ、と鳴った。
「いや、最初から、まともにはいられなかった。競馬に金つぎ込んで、家を空けて女房には泣かれて、娘の手を振りほどいた。そういう男だ、俺は」
鼻息がひとつ、白く濁った。
「今さら、なんだってんだよ。調教助手になって、馬の世話してまっとうに働いてる。それでいいじゃねえか。俺が、馬の姿でのこのこ顔出して。お前の父ちゃんだ、なんて。笑わせるな」
俺は、口を開いた。
「でも、伝えたほうがいいと俺は――」
「兄ちゃん」
また遮られた。今度は、少しだけ強く。
「頼むよ」
その声は、かすれていた。喉の奥で何かを飲み込むみたいな声だった。
「俺は、カミノイッテだ。競走馬だ。それで、ダービーを勝つ。それだけだ。それだけでいいんだ」
蹄が、地面を叩く。1度。2度。3度。
右前脚で、3回。
「だから、言うな。兄ちゃん。約束だ」
俺は、何も言えなかった。
約束、ねえ。
前世の営業の癖で俺の頭は勝手に別のことを考え始めていた。こういうとき、営業はどうするか。顧客から「これは社外秘にしてくれ」と言われたとき、どう返すか。
答えは決まっている。決裁をもらうまでは、口外しない。それだけだ。
ふと、前世の記憶が浮かんだ。新入社員の頃、会社の会議室で受けた研修だ。長いテーブルに資料が並んでいて、ホワイトボードに「情報管理」と書いてあった。講師が「顧客情報は許可なく第三者に開示しないこと」と繰り返していた。当たり前のことだ。当たり前すぎて、誰も真面目に聞いていなかった。
そのとき、前に座っていた部長の背中が目に入った。広い背中だった。スーツの皺が、肩のところで寄っていた。俺はその背中を見ながら、ぼんやりと「ああ、この人はこういうのを守ってきたんだろうな」と思った。名前も顔も、もう思い出せない。背中だけが、やけに鮮明に残っている。
守秘義務。顧客の秘密は、顧客の許可なく話せない。
それが営業の基本だ。基本中の基本。口が軽い営業は、信用を失って終わりだ。俺は前世で、その辺りだけは叩き込まれた。
まあ、今回は顧客が馬だけどな。
頭のどこかで冷めた声がした。馬の守秘義務。NDA。しかも口頭で結ばされた。書面も何もない。証拠もない。もし俺がここで口を滑らせても、誰も証明できない。馬は喋らないからな。いや、喋ってるんだけど人間には聞こえない。
最強の守秘義務だ。守らなくてもバレない。守ったところで誰も褒めない。
そんなことを考えている自分に、少し腹が立った。
俺は、鉄格子から手を離した。指の腹に、鉄の冷たさがまだ残っている。
「分かった」
声が、思ったより低く出た。
「言わない。約束する」
源さんは、しばらく何も言わなかった。鼻先が、鉄格子の向こうで小さく上下している。呼吸の音だけが聞こえる。藁の匂いと、馬の体温と消毒液の匂い。冬の厩舎の空気が、やけに静かだった。
やがて、源さんが鼻を鳴らした。ブルル、という短い音。笑ったつもりなのか、それとも違うのか俺には分からなかった。
「すまねえな、兄ちゃん」
「謝らなくていいよ」
「そうか」
源さんは、それきり黙った。首をゆっくり下げて、馬房の奥へ戻っていく。蹄が藁を踏む、かさ、かさ、という音がだんだん遠くなる。栗毛の背中が、蛍光灯の白い光の下でゆっくりと丸くなった。
俺は、馬房の前にしばらく立っていた。
◇
12月28日。俺は羽田発の新千歳行きの飛行機の中にいた。
父さんは腕を組んで目を閉じている。もう寝ている。口が半開きだ。無口な男の寝顔は、黙っているときよりずっと無防備で、ちょっと笑ってしまう。
母さんは窓の外を見ながら、独り言のように言った。
「ホープフルSの賞金が入るのは今日。で、そこから進上金が引かれてうちの取り分がいくらになるか、だよね」
「……そうか」
寝ている父さんが返事をした。返事なのか寝言なのか分からない。
「『そうか』じゃないよ。はいはい、ちゃんと聞いてる? うちはGⅠ馬の生産牧場になったのよ。看板が変わるの。帳簿も変わるの」
「……見とけ」
「見てるよ。ずっと見てるよ」
母さんは早口でまくしたて、それからふっと黙った。窓の外には雲しかない。その雲を見たまま、指で膝をとんとんと叩いている。あの速さで喋るときの母さんは、たいてい何かを計算している。
俺は座席に背中を預けて、目を閉じた。
飛行機が、ゆっくりと降下を始めた。
俺は、源さんの約束を胸の奥にしまった。誰にも言わない。当分、ずっと。
飛行機は雪の上に、静かに降りていった。
◇
年が明けた。1月の久世牧場は、電話が鳴りやまなかった。
「はい、久世牧場です。……ああ、ハナコの次の仔ですね。……え、買いたい? いくら出すって?」
母さんは台所の電話を持ったまま、目を細める。受話器を耳に当てたまま、空いた手で冷蔵庫の扉を開けて、卵を取り出している。電話と家事を同時にこなすのが母さんの芸だ。
「……ふうん。その値段ね。持ち帰って検討します」
母さんはそう言って電話を切る。切ったあと、俺のほうをちらっと見た。
「今の、いくらだったと思う?」
「……分かんない」
「相場の倍よ。倍。GⅠ馬の母ちゃんだからって、みんな色気を出してくるのよ」
母さんは卵をボウルに割り入れながら、鼻で笑った。
電話はそれだけじゃない。「うちの繁殖牝馬を預けたい」というのも来る。母さんはそのたびに「何頭? いつから? 獣医の証明は?」と畳みかける。相手が「ええと……」と詰まると、母さんは待たない。「決まったらまたかけ直してください」と言って切る。切るのが早い。前世の営業で言うところの「温度感の低い見込み客」を瞬時に見極めているわけだ。我が母ながら恐ろしい。
父さんはというと厩舎にいる。電話は母さんに任せきりだ。たまに台所に来て、母さんの話を「……そうか」と聞いて、また戻っていく。あの「……そうか」には、たぶん「頼んだぞ」と「すまんな」が半分ずつ入っている。無口な男の三語は、だいたいそういう構造だ。
ハナコさんは厩舎で、いつも通りだ。俺が顔を出すと「坊主、食ったかい」と聞く。GⅠ馬の母になっても、口癖は変わらない。
◇
2月のある晩。台所はストーブの熱と、鍋の残り香でむっとしていた。
母さんが帳簿を広げ、電卓を叩いている。指の動きが速い。パチ、パチ、と音が規則的で途中からリズムが変わった。速くなった。前世で言うところの、数字が合ったときの音だ。
「……ふう」
母さんが電卓を置いて、息を吐いた。
「今年は、黒字すれすれじゃなくて黒字」
「……そうか」
父さんが茶碗を持ったまま答えた。いつもの三語だ。でも今日の「そうか」は、ちょっとだけ音が違った。底が浅いというか、軽いというか。
「『そうか』じゃないよ。黒字。ちゃんとした黒字。GⅠ馬の母がうちにいるってだけで、世の中の見る目が変わるんだからね」
母さんは帳簿を閉じて、湯呑みを両手で包んだ。指先が赤い。あの速さで叩いていたからだ。
俺は味噌汁の椀を置いて、ふと厩舎のほうを見た。窓の外はもう真っ暗で、雪がちらついている。
このところ、父さんはハナコの馬房の掃除がやけに丁寧だ。藁を替える手つきが、前よりゆっくりしている。糞を掻き出す熊手の動きに、妙な間がある。無口な男が言葉の代わりにするとしたら、あれはきっとそういうことなんだろう。
俺は夕飯の皿を流しに運んで、玄関で長靴をはいた。かぽっと足が入る。冷たいゴムが、足首にきゅっと吸いつく。懐中電灯を引っつかんで、外へ出る。
雪が顔に当たる。息が白い。厩舎の窓に、明かりがひとつ灯っていた。
厩舎の引き戸を開けるとむっとした馬の匂いと、寝藁の乾いた香りがした。外の雪の気配が、背中からすうっと入ってくる。ハナコさんの馬房の前だけ、電球がひとつ橙色に灯っていた。
鹿毛の巨体がのっそりとこちらを向く。額の白い筋が、電球の下でぼんやり浮かんでいた。
「坊主、こんな時間に何しに来た」
ハナコさんの声はいつも通り低くて、少し掠れている。怒っているわけじゃない。ただ、そういう声なのだ。
俺は馬房の前にしゃがみ込んだ。鉄格子の隙間から、ハナコさんの鼻先がゆっくり出てくる。ふん、と短い息が冷えた空気に白く溶けた。
「話したいことがあるんです」
「ああ、聞くよ。どうせろくでもない話だろ」
ハナコさんは鼻を鳴らした。笑ったわけでも、呆れたわけでもない。女将の勘で、なんとなく察している顔だった。昔、店の暖簾をくぐる客の顔を見ただけで、今日は愚痴を聞かされるのか借金の相談か、それともただ飯を食いに来たのか、全部わかったという。そういう目をしている。
俺は、膝の上で両手を組んだ。指が冷たい。鉄格子の鉄の冷たさが、まだ残っている。
「美浦で、源さんに言われたんです。戸川さんが、源さんの前世の娘だって」
ハナコさんの耳が、ぴくりと動いた。
「それで、源さんに口止めされました。誰にも言うなって。約束だって」
「……あの馬がかい」
ハナコさんの声が、少しだけ低くなった。
「あの馬はね、昔っからそうだよ。肝心なことは、自分ひとりで抱えて誰にも言わない。馬になっても治らないんだから、世話がないよ」
俺は顔を上げた。ハナコさんは、鉄格子の向こうでじっと俺を見ていた。黒い目が、電球の光を小さく映している。
「なんで、あたしに話す気になった」
「……ハナコさんは、源さんのお母さんだから」
俺は、そこで一度言葉を切った。喉の奥が、少しだけつかえた。
「知る権利があると思うんです。だから」
そう言いながら、俺は心のどこかで自分に言い訳をしていた。知る権利、ね。ずいぶん立派な言葉だ。ほんとうは、自分ひとりで抱えきれなかっただけだ。約束したくせに。守秘義務とか、顧客の信用とかそういう言葉を並べて蓋をしたくせに。
結局、口を割ってるじゃないか。
胃のあたりが、きゅうと冷えた。
ハナコさんはしばらく何も言わなかった。かさ、と寝藁が鳴る。前脚を少しだけ踏みかえる音だ。
「坊主」
「はい」
「あんた、食堂って行ったことあるかい」
「え」
急な質問に、俺は変な声が出た。
「大衆食堂。カウンターがあって、壁に短冊が貼ってあっておやっさんが一人で鍋振ってるような店だよ」
「……あります。昔、何回か」
「そうかい」
ハナコさんは、鼻先を鉄格子にこつんと当てた。
「うちにもね、そういう常連がいたんだよ。毎日来るんだ。ラーメン頼んで、黙って食って金置いて帰る。無愛想な男でね」
電球が、ほんの少しだけ瞬いた。
「ある日、ぱったり来なくなった。1週間、2週間、3週間。女将のあたしは、まあ色々考えるわけだよ。体でも壊したか、店を変えたかはたまた何かやらかして逃げたか」
ハナコさんは、ふっと鼻を鳴らした。
「あれはね、3週間と4日目の晩だ。店の前、のれんの向こうに誰か立ってるんだよ。入ってこない。ただ立ってる。こっちも忙しいから放っておいたら、1時間してもまだいる。おかしいと思って出てみたら、その男なんだよ」
「その、常連さんですか」
「そう。痩せて、青い顔して、紙袋抱えてね。中身は菓子折りだったよ。店を怒らせるようなことをしたらしくて、来るに来られなかったんだと。来るに来られなかった男が、店の前まで来てるんだよ」
ハナコさんの黒い目が、まっすぐ俺を見た。
「謝りに来ない常連はね、だいたい店の前までは来てるんだよ。入る勇気がないだけでね」
俺は、何も言えなかった。
「あの馬も、きっとそうさ。娘の前まで来てる。毎日、すぐそばにいる。なのに入れない。入るのが怖いんだよ」
ハナコさんはゆっくりと首を下げた。鹿毛のたてがみが、電球の光でさらさらと揺れる。
「……あたしはね、坊主」
声が、少しだけ掠れた。
「あの馬が、娘さんとやり直すってんなら応援してやりたいよ。してやれることがあるなら、してやる」
寝藁が、かさ、と鳴った。
「でもね、あの馬は、まだそこまで行ってない。店の前で、突っ立ってるだけだ」
ハナコさんは、鼻先を鉄格子から引いた。
「あんたが、口を割ったことはまあ、いいよ。坊主が話してくれたことで、あたしもあの馬の店の場所がわかった」
「……すみません。約束、破りました」
「ばかいえ」
ハナコさんは、鼻を鳴らした。
「約束がなんだ。あんた、12歳だろ。12歳が大人の男のどうしようもない秘密を一人で抱えて、平気でいられるか。泣くんじゃないよ」
「……ハナコさん、俺、どうしたらいいですか」
「坊主」
ハナコさんが、鼻先を鉄格子にこつんと当てた。
「あんた、前世は会社の営業だったんだろ。ええと、なんだい。食品のなんとか」
「食品卸の法人営業、です」
「そうそれ。あたしに話してくれたじゃないか。前にも」
「営業ってのは、窓口なんだろ」
ハナコさんは、ゆっくりと言った。
「客と、自分の店の間に入ってあっちの言い分をこっちに運んで、こっちの言い分をあっちに運んで。板挟みで、胃を痛くする仕事だよ」
「……まあ、そうですね」
ハナコさんの黒い目が、まっすぐ俺を見た。
「窓口の仕事はね、坊主。黙ることじゃないよ。つなぐことさ」
電球の光が、鹿毛の背中でぼんやり揺れた。
「あんた、あの馬から口止めされた。分かった、約束する。それで黙ってりゃあんたはただの蓋だよ。蓋は、中身が腐るのを待つだけさ」
俺は、膝の上で組んだ手を見た。指が、まだ冷たい。
「でもね」
ハナコさんは、声を少しだけ柔らかくした。
「蓋を外せって言ってるんじゃないよ。あたしはね、味見もしないで出しちゃいけないと思うだけさ。あんたは窓口なんだから、まず自分で味見してそれからどうするか決めな」
寝藁が、かさ、と鳴った。
「分かったかい、坊主。泣くんじゃないよ。まだ何も終わっちゃいない」
俺は、顔を上げた。ハナコさんの黒い目が、鉄格子の向こうでじっと俺を見ている。怒ってもいない。慰めてもいない。ただ、現実を見ろと言っている。
窓口、ね。
前世の営業の言葉が、頭の奥でカチリと音を立てた。
窓口が黙るのは、仕事の放棄だ。顧客が「言うな」と言うなら、言わない。でもその顧客が自分で動けないなら、窓口は別の道を探す。決裁が下りないなら、決裁が下りる条件を探す。NDAだって、解除条件がなければ結べない。期間、範囲、例外規定。必ずどこかに抜け道という名の正規の手順が書いてある。
NDAの解除条件、探すか。
俺は、そう思った。声には出さなかった。ハナコさんにも、まだ言わない。戸川さんにももちろん言わない。源さんにも。
まだ、何も。
でも、探すだけなら誰も傷つかない。約束を破らずに、つなぐ道を。
「……ハナコさん」
「なんだい」
「ありがとう。なんか、ちょっとだけ見えた気がします」
「ふん。それならいいさ」
ハナコさんは鼻先を引っ込めた。鹿毛の巨体が、馬房の奥でゆっくりと向きを変える。藁を踏む音が、静かに響いた。
「帰りな。明日も早起きだろ」
「はい。おやすみなさい、ハナコさん」
「おやすみ、坊主。泣くんじゃないよ」
俺は、厩舎の引き戸を閉めた。外は雪だった。息が白い。屋根の向こうに、母さんの台所の明かりがひとつ、黄色く灯っていた。
◇
2月の終わりの夕方。居間のストーブの前で、俺は学校の宿題を広げていた。外はもう暗くて、窓ガラスに雪がちらちらと当たっている。
台所の電話が鳴った。母さんが出る。しばらく相槌を打っていたが、途中で受話器を手で押さえてこっちを振り返った。
「ハル、梶先生。代わりなさい」
俺は鉛筆を置いて立ち上がった。受話器を受け取ると、母さんは「長くなりそうなら言いなさいよ」と小声で付け足して、帳簿のほうへ戻っていった。
「お世話になっております。久世です」
『おう、坊主か。元気か』
梶先生の声は、いつも通りよく通る。電話越しでも、爺さんの早口は変わらない。
『カミノイッテは順調だ。でだ。皐月賞の前に一度使う。3月の弥生賞だ』
「弥生賞、ですか」
『そうだ。中山の二千。皐月と同じ舞台だ。ここで負けるようなら話にならんが、まあ行っとけだ。相手も揃う。いい勉強になる』
先生はそこで一度息を継いだ。受話器の向こうで、何か紙をめくる音がした。
『……ところで坊主、相沢がな、鷹司の馬の乗り方を見て師匠に似てるって言うんだ』




