第26話 弥生賞
キングスレガリアは弥生賞には来ない。
受話器の向こうで、梶先生が楽しそうにしゃべっている。
『相沢が言うんだよ。あの馬は乗り方で走ってるんじゃない、走り方で人を選んでるってな。自分が何をすべきか分かってる。騎手がどう乗ろうと、こっちの思惑が全部お見通しって面だってよ』
「はあ」
俺は相槌を打ちながらストーブの火を小さく絞った。ガラスの向こうで、青い炎がちろちろ揺れている。
『で、だ。そのキングスレガリアは弥生賞には来ん。直行だ。皐月賞まで温存する。あっちはそれでいいんだ。こっちはこっちで、お前の馬を仕上げてやる』
「分かりました」
『おう。じゃあな、坊主。また連絡する』
電話が切れた。受話器を置くと、台所の母さんが鍋をかき混ぜながらこっちを見た。
「なんだって?」
「3月に中山で走るって」
「あら」
母さんはそれだけ言って、また鍋に向き直った。
俺は居間に戻って、ストーブの前に座り直す。宿題のノートが開いたままになっている。分数の割り算が、白い紙の上で俺を待っていた。
師匠、か。
キングスレガリアの走り方が誰かに似ている。相沢さんはそう言ったらしい。でも俺は、梶先生に「師匠って誰ですか」とは聞かなかった。
聞いても、どうせ先生は笑ってごまかす。そういう気がした。
今は、弥生賞だ。
外では、雪がまだちらついていた。
◇
3月8日、中山競馬場。午後の陽はまだ高いのに、風はやけに冷たい。朝まで降っていた雨の名残で、パドックの地面はしっとりと湿っている。稍重、という掲示が遠くに見えた。
俺と父さんは、馬主エリアの柵際にいた。父さんは、いつも通り黙って腕を組んでいる。その隣に俺。小6のガキが馬主エリアにいるのは完全に場違いだが、父さんの「見とけ」の一言で今日はここに通された。馬主の計らい、というやつだ。
柵の内側では、パドックを周回する馬たちがぱかぱかと蹄を鳴らしている。腹の底に響くような、あの独特の低い音だ。ここは声が届く。馬のすぐそばまで行けば、俺にはあいつらの言葉が聞こえる。でも今はまだ、聞こえない。あの栗毛はまだ奥から出てきていない。
「GⅠ馬なのに2番人気かよ」
すぐ後ろで、おっさんが言った。ビール缶を片手に、競馬新聞を肘で小突いている。
「ホープフルはフロックだろ。あのキングスレガリアが本物だし、鷹司のもう1頭のほうが強いに決まってる」
「単勝2.4倍と3.6倍じゃ、そりゃそうだわな」
別の声が笑った。俺は振り返らない。前世の営業の癖で、こういう声は黙って聞き流すに限る。反論しても購買意欲は上がらないし、むしろ逆効果だ。……まあ、ここに購買はいらないんだけどな。
でも、ちょっとだけ思う。
フロック、ねえ。あのハナ差をおっさんは見てたのかよ。見てないだろ。新聞の数字だけ見て言ってるんだろ。
「ハル」
父さんが、ぼそりと言った。俺は顔を上げる。
「来たぞ」
柵の向こう、パドックの奥から栗毛が姿を現した。
戸川さんが引いている。黒髪を一つに束ねた、いつもの姿だ。手綱を短く持っている。その先に、カミノイッテ。
栗毛の背中が、午後の光を受けてつやつやと光っている。額の小さな星が、遠目にもはっきり見えた。脚が長い。胴が詰まっている。歩くたびに、首の下の筋肉がぐ、と盛り上がっては戻る。
カミノイッテがこっちの柵のほうへ近づいてくる。戸川さんが、軽く手綱を引いて歩調を緩めた。栗毛の鼻先が、柵のすぐ向こうに来る。
あの目が、俺を捉えた。
カミノイッテは柵のすぐ向こうで立ち止まった。
だが今日の源さんは、講釈を始めなかった。
いつもなら「兄ちゃん、聞けよ。今日の中山の二千はな」と始まって、延々と続く。
それが、今日は黙っている。
栗毛の首が、すっと横を向いた。視線の先は、手綱を握っている戸川さんの手だ。
戸川さんは手綱を短く持ったまま、柵の外の様子をうかがっている。白いシャツの袖口から出た手は、日焼けして節がしっかりしている。毎日馬に触っている手だ。荒れるに決まっている。
その指の先に、あかぎれがあった。
親指の付け根と人差し指の第二関節のあたり。赤く切れて、少し白く皮がめくれている。絆創膏もしていない。たぶん、貼ると手綱が滑るからだ。
源さんの鼻先がほんの少しだけ、戸川さんの手のほうへ傾いだ。
耳が、ぴくりと動いた。
――まずい。
俺は咄嗟に、口元を手で覆うようにして、息を吐くみたいに小さく言った。
「源さん、集中」
声は、自分でも驚くくらい小さかった。パドックの喧騒――馬の蹄の音、人の話し声、拡声器の遠いアナウンス――に混ざって、2歩離れたら絶対に聞こえない程度の音量だ。
それでも、言ってしまったことには変わりない。
源さんの耳が、俺のほうへ向いた。
「……分かってるよ」
低い声だった。いつもの江戸っ子の威勢はどこにもない。ただ、喉の奥で転がすような短い返事。
分かってる、ねえ。
分かってるならなんで手を見てたんだよ。あの手、あかぎれだらけだぞ。お前の娘が、毎朝お前の脚を冷やして蹄を洗って、手綱を引いて、その手が荒れてるのを、お前は見てたんだろ。
……そういうことだよな。
俺は小さく息を吸って、柵の鉄パイプに指をかけた。冷たい。朝の雨の名残で、鉄の表面がしっとりと濡れている。
「ハル」
父さんが、柵を握った俺の手を見て言った。
「落ち着け」
「……はい」
柵の内側で、梶先生が短く手を挙げた。合図だ。戸川さんが手綱を軽く引いて、カミノイッテの歩を進める。栗毛はもう、戸川さんの手を見ていなかった。前を、まっすぐ見ている。あの目は走る馬の目だ。俺にはそう見えた。
……ったく。さっきまで娘のあかぎれ見てたくせに、切り替えが早すぎるんだよ。そこは前世のトラック運転手じゃなくて、プロの競走馬なんだな。
俺は、柵から手を離した。
「止まれ」
係員の声が、パドックのざわめきを断ち切った。
騎手たちが整列して、深く一礼する。
相沢さんは、その列のなかでいちばん背筋がまっすぐに見えた。細身の体を白地に青い縦縞の勝負服に包んで、表情はいつも通り薄い。
戸川さんがカミノイッテの横に立ち、相沢さんの脚を持ち上げる。相沢さんはその手に膝を預けて、ひらりと鞍に収まった。手綱を両手でそろえて持つ。
「よろしくお願いします」
相沢さんの声は相変わらず小さい。
カミノイッテは騎乗を終えて、一度だけ首を振った。たてがみがばさりと揺れる。耳は前に向いていた。いい。そういう顔のとき、この馬は走る。
「行くぞ」
父さんが短く言った。俺は頷いて、馬主エリアからスタンドへ向かう。足元のコンクリートが、さっきの雨の名残で黒く濡れている。
カミノイッテが、スタート地点のほうへゆっくり歩いていく。返し馬が終わる。
ファンファーレが鳴り響いた。
トランペットの音が中山の空に高く抜けていく。スタンドのざわめきが一瞬だけ持ち上がって、それから水を打ったように静かになる。前世の営業で言えば、商談が始まる直前の3秒間みたいなもので、腹の底がすうっと冷える。
馬たちが次々とゲートの裏へ吸い込まれていく。白地に青い縦縞の勝負服が、最後のほうでゲートの枠に入った。8番。6枠の外側。
俺はスタンドの前列で、柵に手をかけたまま息を詰めていた。
――――――――
ゲートの中は、息が詰まるほど狭い。
俺の左に黒鹿毛、右に芦毛。どいつも鼻息が荒くて、まだ走ってもいねえのに汗をかいてやがる。若いな、と思う。俺は前世で52年生きたおっさんだ。ゲートの中で落ち着く方法なら知ってる。入ったら一礼。考えるのはその前に済ませる。
だが、今日はどうも落ち着かねえ。
俺は首をわずかに左へ振った。
地下馬道の出口で、あいつが手綱を離していった。あの背中だ。黒髪を束ねた、見慣れた背中。あの歩き方を思い出すと、俺はどうにも調子が狂う。
そんなことを考えてる場合じゃねえ。
分かってる。分かってるんだが、目がそっちを向いちまう。ほんの一瞬。ほんの、一瞬だ。
ブブブ、とゲートの扉が震える音がした。
まずい。まだ、頭を下げてねえ。
――――――――
《スタートしました! セプターブライトが好スタート。8番カミノイッテは、やや立ち遅れたか》
実況の声がスタンドに響き渡る。
俺は柵を握った指に力が入るのを感じていた。カミノイッテ、半馬身ほど出遅れた。ほんのわずか。だが、この舞台でそのわずかはでかい。
《セプターブライト、内からスッと前に出ます。カミノイッテは少し遅れて、中団の後ろあたりにつけます》
「出負けしたな」
父さんが、隣でぼそりと言った。声に感情はない。ただ事実を置いただけの言い方だった。
俺は頷くこともできなかった。ゲートの中で、あの馬はきっと戸川さんの背中を探していた。
俺は、拳を握った。
1コーナーを回って、馬たちが向正面へ入っていく。
スタンドから見ると集団はまだ固まっている。セプターブライトが先頭から2馬身ほど前に出て、内のラチ沿いをきれいに回っていく。
カミノイッテは中団の後ろ。ちょうど8番手あたりを、内ラチ沿いで我慢している。
《向正面に入りました。セプターブライト、リードはおよそ2馬身。1000mの通過は61秒5》
実況が数字を告げる。61秒5。稍重なら、速くも遅くもない。
俺は柵に置いた手を、少しだけ緩めた。
焦るな。
カミノイッテはまだ動かない。相沢さんも動かさない。あの騎手は、GⅠを勝ってから妙に落ち着いた。手綱を両手でそろえて、じっと我慢している。背中の丸みが、遠目にも安定して見えた。
「いい位置だな」
父さんが、ぼそりと言った。俺は頷く。
「はい。内で我慢できてます」
「そうか」
向正面の半ばを過ぎたあたりで、馬群の形が少しだけ変わった。後方の何頭かが外に進出し始めた。動きたい馬が動き出す時間帯だ。だがカミノイッテは内のまま。動かない。
分かってるな、相沢さん。
――――――――
向正面。風が前から来る。鬣が風に流されて、首の横でばたばたと鳴っている。
俺の前には、まだ馬が詰まっている。前に7頭。内ラチ沿いの、中団の後ろ。悪くねえ位置だ。脚を溜めるにはちょうどいい。相沢のやつも、手綱を動かさねえ。分かってる騎手だ。
……だがな。
俺の頭の隅で、さっきの光景がちらつく。地下馬道で、あの背中が離れていくときのあの歩き方。あかぎれの手。手綱を握る、あの指。
ちっ、と俺は心の中で舌打ちした。
何を考えてやがる、俺は。
俺は前を向いた。耳を前に立てて、風の音と蹄の音だけを拾う。
今はレースだ。あいつのことは、勝ってから考える。
前の馬が、息を荒げている。脚が上がりかけてるな。ここから、動くなら今だ。相沢、お前なら分かってるはずだぜ。
俺は、ぐっと首を前に伸ばした。
――――――――
《さあ向正面を過ぎて3コーナーに差しかかります。セプターブライト、まだ先頭。リードはおよそ1馬身半》
3コーナーを回りかけたところで、馬群の外側がざわついた。
白地に青い縦縞がすっと外へ膨らむ。相沢さんが手綱を両手でそろえたまま、内ラチから1頭ぶん外へ持ち出した。あの細身の体が、前傾してほとんど馬の首に張りつくように低くなる。合図は、たぶん手綱をほんの数センチ動かしただけだ。俺にはそう見えた。
《3コーナーです。カミノイッテ、外へ進出。相沢動きました。内から外へ、8番カミノイッテ上がってきます》
「来たな」
父さんが、小さく言った。
「はい」
俺はそれだけ返した。声が、思ったより落ち着いていた。
カミノイッテは外を回りながら、ぐんぐん位置を上げていく。中団の後ろから、一気に中団の外へ。前にいた馬たちが、内で脚を溜めているところを外から飲み込むように抜いていく。栗毛の脚が、芝を掴んで、掴んでは弾む。
《カミノイッテ外から上がってきました。残り800を切って、いま4番手。前はセプターブライトまで3馬身》
4コーナー。中山の内回りはここから一気に曲がって、短い直線へ向かう。曲がりながら遠心力で外へ膨らむ馬、内を突く馬、それぞれの思惑が交錯する。カミノイッテは外目。ロスは大きい。だが相沢さんは迷っていない。
「外、回るな」
父さんが、ぽつりと言った。心配しているのか、感心しているのか、俺にはまだ分からない。
「でも、前が開いてます」
俺は答えた。内は、セプターブライトがラチ沿いで踏ん張っていて、その後ろは渋滞している。内を突こうにも突けない。外に出すしかない。相沢さんの判断は、正しい。俺が言うのもなんだが、正しい。
――――――――
4コーナー。遠心力がかかる。脚に負担が来る。だが、関係ねえ。
前を見る。黒鹿毛の尻が見える。セプターブライト。あの1番人気の。リードは3馬身。いや、もう2馬身か。近づいてる。確実に、近づいてる。
あの黒鹿毛は、まだ余力がある顔をしてやがる。さすがは鷹司の馬だ。だが、こちらとて黙って見てるわけじゃねえ。俺はこのレースのために、この脚のために52年生きて、死んでまた走ってるんだ。ここで止まってたまるか。
相沢の手が、動いた。合図だ。行けと。分かってるよ。言われなくても、行くさ。
俺は、脚を解いた。
――――――――
4コーナーを回りきって、直線。
カミノイッテが、外からセプターブライトに並びかけた。2頭の影が、芝の上でぴったりと重なる。白地に青い縦縞と、鷹司の勝負服。先頭争いが一気に2頭の叩き合いになった。
《4コーナーを回って直線です! セプターブライト内で踏ん張る、外からカミノイッテ並びかけた! 2頭、2頭の叩き合いだ!》
隣で、父さんがわずかに身を乗り出した。あの人が、こんなふうに前に出るのは珍しい。それだけで、今がどれだけ大事な局面か分かる。
……ここだ。ここからだ。
俺は、息を止めていた。
坂の途中で、2頭の脚が止まったように見えた。
いや、止まったわけじゃない。あれは、どっちも限界まで来ているんだ。並んだまま、互いに譲らず脚を削り合っている。中山の急坂は、ああいうふうに馬をいじめる。前世で俺が取引先の倉庫の階段を昇り切ったときの、あの太ももの感じに似ている。……たぶん。俺、階段では死んでないけど。
――――――――
坂だ。ここからが、本当の勝負だ。
脚が重い。当たり前だ。2000を、この稍重の芝をずっと走ってきたんだ。脚が重くならないほうがおかしい。だが、隣の黒鹿毛だって同じだけ走ってる。いや、あいつはずっと前で走ってきた。空気を切ってた分、こっちより少しだけ余計に力を使っている。
俺は、その差を信じることにした。
セプターブライトの脚がわずかに鈍った。ほんの、ほんのわずかだ。並んで走っているから分かる。肩の動きが、半歩ぶんだけ小さくなった。呼吸が、ひとつ分だけ乱れた。
そこだ。
脚は重い。重いのに、脚の底にまだ何かが残ってやがる。
息が、まだ続く。前世の俺にはなかった深さだ。長い距離を走っても尽きねえ。
俺はもう一段、脚を送った。溜めてあった分を、ここで全部出す。前世で40年、競馬を見てきた。坂で脚が鈍る馬と、坂で伸びる馬の違いは知ってる。鈍るほうの理由も、伸びるほうの理由も頭では分かってた。だが、自分がその坂を走ってみると理屈じゃねえなと思う。ただ、行けるか行けないかだ。それだけだ。
俺は、行けた。
――――――――
《坂を上がってもう一伸び! カミノイッテ、カミノイッテ抜け出した!》
抜け出した。
あの栗毛の首が黒鹿毛の首の前に、半分だけ出た。半分。半馬身。たったそれだけ。だが、その半分はたぶん1センチも縮まらない。俺にはそう見えた。坂を上がりきったところで、もう一度脚が伸びた。あの脚は、撫でるように芝を掴んで、掴んでは前へ出る。
あの脚を見た瞬間、頭の奥で、ホープフルの夜の掲示板のレスが浮かんだ。
――母父がスタミナ型だから2400で化けるぞ。
俺は叫ばなかった。
叫ぶ代わりに、柵を握った手にぐっと力を入れた。指の腹が白くなる。爪が手のひらに食い込む。それだけだ。声は、出なかった。
《カミノイッテ、1着! 2着にセプターブライト! 着差は半馬身!》
ゴールの瞬間、スタンドが揺れた。地鳴りのような、ドッという音。俺はその中でひとつだけ息を吸って、それからゆっくり吐いた。心臓が、少しだけ速い。少しだけだ。
「やっぱり本物だな、カミノイッテは。ホープフルはまぐれじゃねえ」
俺は振り返らなかった。
隣で、父さんが息を吐いた。
「……そうか」
その一言だけだった。だがあの人の「そうか」は、たぶん他の人の「やったぞ」より重い。
掲示板に、数字が灯った。
一番上に、白く光る「8」。
その下に、着順の並びが順に埋まっていく。
「勝ちタイム、2分02秒4」
場内アナウンスが告げる。稍重、という言葉が一度だけ添えられた。
俺は、掲示板の「1」を見た。
着順の「1」の隣に、8。その並びを俺はしばらく黙って見ていた。前世で、売上表の一番上の行に自分の担当した案件の名前が載ったときのことを、ふと思い出した。あのときも俺は叫ばなかった。ただ、静かに数字を見ていた。……あのときは、誰も隣にいなかったけどな。
「ハル」
父さんが、双眼鏡をケースに戻しながら言った。
「行くぞ」
俺は頷いた。
口取りの写真は、思ったよりあっさりと終わった。
ウイナーズサークルで、カミノイッテが真ん中に立つ。相沢さんが跨ったまま、勝負服の襟を正してカメラに向かって姿勢を整える。梶先生は馬の横でにこにこしながら腕を組んでいる。父さんはいつも通り仏頂面で、でも微妙に背筋が伸びている。あの人の場合、あれが「嬉しい」の最大出力だ。
「はい、撮りますよー」
係員の声がして、パシャ、パシャパシャ。軽快なシャッター音が数回続く。白地に青い縦縞の勝負服が、午後の光にやけに映えていた。
写真が終わると、流れで検量室前へ向かう。
検量室の前で、相沢さんがカミノイッテの背からすっと降りた。
「……勝てました」
相沢さんが、父さんの前に立って言った。頭を下げる。声は小さい。でも、ちゃんと聞こえる大きさではある。
「おう」
父さんはそれだけ返した。あの人にしては上出来なくらいの返事だ。
梶先生が隣で破顔する。
「これで皐月の権利は取った。2000でこの上がりなら、2400は持つ。見てみろ、脚元もまだ余裕がある。いい騎乗だったぞ、相沢」
「……はい」
相沢さんは短く頷いて、鞍を抱えて検量室の中へ入っていく。
俺は、その背中を見送りながら、ふと気づいた。
相沢さん、謝らなかった。
前のあの人なら、間違いなく「すみません、ありがとうございました」の二段構えだった。勝っても謝り、負けても謝り、雨が降っても風が吹いてもまず謝る。口癖というより、呼吸みたいな人だった。それが今日は「勝てました」の一言だ。
変わったな。
俺は柵の外で、小さく息を吐いた。
隣では戸川さんがカミノイッテの汗を拭いている。黒髪を束ねた横顔が、馬の首に近い。あかぎれのある手が、白いタオル越しに栗毛の肌を拭いている。丁寧な手つきだった。馬の首筋から肩、胸元、脚の順番で拭き上げていく。俺はその手を見ていた。……あの手だ。源さんが、パドックで目で追っていた手。
馬のそばだ。声が聞こえる位置だ。
戸川さんが、馬の汗を拭き終わった。
それから、戸川さんは何も言わずにカミノイッテの首を撫でた。
1回。2回。
戸川さんが首を撫でた途端、源さんの耳が、ぴたりと止まった。
カミノイッテは首を少し下げて、じっとしている。汗を拭かれて、撫でられて、されるがままに立っている。
源さん、黙ってる。
戸川さんが手を離した。
「お疲れさまでした」
声は、いつも通り丁寧で、距離がある。戸川さんは馬に話しかけている。馬の声が聞こえない、普通の人間の声で。
カミノイッテは、小さく鼻を鳴らした。ブルルというより、ふん、という短い音。
それから戸川さんは手綱を持ち直して、馬の横に立った。その横顔は、やっぱり何も知らない顔だ。源さんが前世の父親だなんて、知らない顔。馬の鳴き声にしか聞こえない声に、毎日「お疲れさまでした」と言っている。
俺は黙って見ていた。
「ハル」
父さんが、ぼそりと言った。
「……美浦、寄るぞ」
俺は頷いた。
振り返ると、戸川さんがカミノイッテを引いて、検体採取所のほうへ歩き出すところだった。馬の脚が、地面をゆっくりと踏んでいく。勝った馬の脚には見えないほど落ち着いた歩き方だった。
あの背中が、夕方の光のほうへ吸い込まれていく。
俺は、その後ろ姿を少しだけ見てから、父さんのあとを追った。
表彰式は確定を待って、短く済んだ。父さんは帽子を取って、黙って頭を下げていた。
美浦に着いたのは、夜の8時を回ったころだった。カミノイッテを乗せた馬運車は、ひと足先に着いていた。
3月の夜はまだ冷える。厩舎の灯りが、白っぽく地面を照らしている。昼とは違う、灯油と藁と馬の匂いがした。
父さんは事務所に吸い込まれていった。梶先生が「おう、坊主」と手を挙げて、それからすぐに真面目な顔で父さんのほうに向き直った。あの2人が話し始めると長い。たぶん皐月賞の話と、その先の話だ。俺は馬房の前に残された。
カミノイッテは、馬房の奥で立っていた。
鞍もゼッケンも、もう外されている。栗毛の肌が、天井の電球の下で落ち着いた色をしていた。昼間あれだけ走って、坂を上がってあの黒鹿毛と叩き合った馬とは思えないほど、静かだった。
俺は鉄パイプに手をかけて、少しだけ顔を近づけた。
「源さん」
返事は、なかった。
馬房の奥で、栗毛がゆっくりと首を上げる。耳はこちらを向いている。聞こえている。聞こえているのに、黙っている。
珍しいな、と思った。
昼の検量室の前でも黙っていた。あのときは戸川さんの手があったからだ。でも今は、戸川さんはいない。もう寮に戻ったらしい。馬房の前には俺と源さんしかいない。講釈を垂れるには、絶好の条件が揃っている。
なのに、黙っている。
藁が、かさ、と鳴った。
カミノイッテが、ゆっくりと前脚を上げた。
右前脚。
地面を、3回叩く。
こつ、こつ、こつ。
声は、低かった。勝った直後の高揚は、どこにもなかった。
「兄ちゃん。……皐月を勝ったら、あいつに言ってくれ」
俺は、鉄パイプを握った手を止めた。
「俺が、謝ってたって」
俺は、しばらく黙った。
言ってくれ。謝ってたって。
俺は、鉄パイプから手を離した。
「……分かった」
声が、少しだけかすれた。
口止めの解除条件。




