第32話 府中の新聞
戸川ミサキが実家の押し入れを開けたのは、7年ぶりだった。
坊ちゃんにメッセージを送ったのは連休の最後の日だった。返事を待つあいだに、5月半ばの休みが来た。
聞く前に、自分で確かめておきたかった。
襖は重かった。樟脳と古い紙の匂いがした。
下段に段ボール箱が3つ、横に並んでいた。
ミサキは腰を屈めて一番奥の箱を引っ張り出した。底が抜けそうな手応えだった。ガムテープが黄ばんで、端からめくれている。
「……これか」
蓋を開けた。
中は書類だった。保険の証書、古い年賀状の束、学校のプリント。ミサキの名前が書いてある。小学校のものだ。
箱の底に、アルバムが1冊平らに入っていた。
紺色の表紙で角が擦り切れている。ミサキはそれを膝の上に置いて、しばらく開かなかった。
開いた。
1ページ目に七五三の写真があった。3歳のミサキが着物を着て、泣きそうな顔をしている。隣に母がいる。母は若い。今よりずっと若い。その隣に――
ミサキはページをめくった。
運動会。誕生日。海。どこかの旅行。どれも母と二人だった。父はいない。どの写真にもいない。
アルバムの後ろ半分は白紙だった。途中で貼るのをやめたらしい。最後に貼ってある写真は、ミサキが小学2年生のときのものだった。
その裏に、封筒が挟まっていた。
茶色の小さい封筒だった。表に何も書いていない。
ミサキは封筒を開けた。
中から写真が1枚出てきた。府中の競馬場だった。
スタンドの席で撮ったものだ。背景にコースの白い柵が見える。芝の緑が眩しい。日差しが強くて、画面の上が少し白く飛んでいる。
手前に小学生のミサキが写っていた。少し俯いている。表情はよく見えない。カメラを意識して、目を逸らした顔だ。
その隣に、男が立っていた。
競馬新聞を丸めて、右手に持っている。上着の袖をまくって、腕時計が見える。顔は――笑っている。ミサキの方を向いて、笑っている。
ミサキは写真を目に近づけた。
父だった。
思っていたより若かった。写真の中の父は40歳の手前くらいに見える。ミサキが小学生の頃だから、そのくらいの年齢だったのだろう。分かってはいる。でも記憶の中の父はもっと老けていた。もっと大きくて、もっと――怖かった。
写真の父は細い。頬がこけている。笑うと目がなくなるところは、自分と似ていると思った。似ていると思って、ミサキは写真を少し遠ざけた。
競馬新聞を丸めた手。その丸め方が雑だった。走り書きのペンが端からはみ出して見える。この人は新聞を読みながら歩く人だった。ミサキは覚えている。匂いだけ覚えている。インクと、紙と、少し湿った土の匂い。
写真の端に、オレンジ色の日付が入っていた。
台所から、母の声がした。
「何探してるの」
ミサキは写真を持ったまま、返事をしなかった。
母の足音が廊下のほうから近づいてくる。スリッパの音だった。ゆっくりした音。ミサキは写真をアルバムの上に置いた。
廊下の足音が部屋の入り口で止まった。
「……あんた、それ」
母の声は思ったより落ち着いていた。
ミサキは返事をしなかった。代わりに、アルバムの上に置いた写真を指先で少しだけ自分の方へ引き寄せた。
母はミサキの隣に腰を下ろした。畳が、ぎし、と鳴った。
「押し入れ、開けたの」
「……うん」
「あの箱、まだ置いてあったのね」
母の手がアルバムの角に触れた。触れて、それから写真に触れた。
ミサキは横顔を見た。母は写真の中の父を見ていた。見ている、というより確かめている、という顔だった。何年も前に閉じた引き出しの中を、懐中電灯で照らすみたいに。
長い沈黙があった。
外で、軽トラックが通る音がした。どこかの家の犬が2回吠えた。
「この人ね」
母が言った。
「新聞、こうやって丸めるの。いつも。指に力が入ると、端からぐしゃぐしゃになるのよ」
母は写真の中の父の手元を指さした。丸められた競馬新聞。その先端が花がしおれたみたいに折れている。
「でね」
母は少しだけ声を落とした。
「あの人、新聞をペンで3回叩くのよ。考えるとき」
ミサキの手が止まった。
とん、とん、とん。
頭の中で、音がした。硬い土の上で蹄が鳴る音。朝の厩舎で、地面が3回短く鳴る音。
どん、どん、どん。
ミサキは目を閉じた。閉じて、首を振った。
違う。何が違うのか、うまく言葉にできなかった。できないまま、写真の中の男の手を見た。新聞を丸めた、雑な手。その手が考えるとき、3回、叩く。
「……何か思い出したの」
ミサキは答えなかった。
カミノイッテが地面を3回叩く癖。あれは考え込んでいるときの癖だとずっと思っていた。思っていたけれど。
それが誰かの癖だなんて。
いや。根拠がない。ただの癖だ。
ミサキはゆっくりと息を吐いた。
母はアルバムを閉じた。
それから立ち上がった。膝が、ぴん、と鳴った。
「昼、何か作るわね」
台所へ戻りかけて、母は背中を向けたまま言った。
「あんたの結婚式の招待状、出したのよ」
ミサキは顔を上げた。
母の背中は動かなかった。
「来なかったけど」
その一言が台所のほうへ流れていく空気の中に落ちた。落ちて、しばらく漂っていた。
ミサキは何も言えなかった。
招待状。あの人に。母が出したのか。
母の肩が少しだけ上下した。
「……あの後すぐ、亡くなったって聞いた」
ミサキは膝の上の手を見た。いつの間にか拳を握っていた。爪が白くなっていた。
母はそれきり何も言わなかった。
父の名前も言わなかった。どこで、誰から、どんなふうに聞いたのかも言わなかった。亡くなった、というその一言だけを置いて、歩き出した。スリッパの音が廊下の奥へ遠ざかっていく。
ミサキはその場に座ったまましばらく動けなかった。
昼を食べて、荷物をまとめた。
玄関で母は「気をつけてね」とだけ言った。
ミサキは府中の写真を手帳に挟んで、車に乗った。
◇
翌朝、7時すぎ。
美浦の梶厩舎は朝の調教が一段落したところだった。
調教を終えた馬房の前の通路は、湯気の混じった乾いた草の匂いがした。朝の空気がまだ冷たくて、壁の高い窓から差し込む光が床を斜めに区切っていた。
ミサキは手袋を外して、手帳を開いた。
周りに誰もいないことを確かめてから、写真を抜いた。少し端が反っていた。
カミノイッテは奥からゆっくりと近づいてきた。蹄の音が、とん、とん、と静かに鳴って止まった。大きな鼻先が馬房の柵の間から覗く。
「見せたいものがあるんです」
ミサキは言って、写真を馬の目の高さに掲げた。
カミノイッテは耳を前に向けた。
黒い目が写真をじっと見ていた。鼻先が微かに動いて、空気を探る。それから長いあいだ、動かなかった。
馬房の外で、鳥が鳴いた。遠くの坂路から、別の馬の蹄音が風に乗って聞こえる。
ミサキは腕を上げたまま馬の目を見ていた。馬の目はいつも深い。
カミノイッテの耳がぴくりと動いた。
それから、右前脚が持ち上がって地面を叩いた。
どん。
どん。
どん。
3回。短く、規則的に。
ミサキの手から、力が抜けた。
昨日、母が言ったのと同じ回数だった。
ミサキは笑った。笑いながら、首を振った。
「ありえないでしょ」
掠れていた。自分でも少し情けない音だった。
カミノイッテは答えなかった。答えるはずもなかった。ただ耳をこちらへ向けたまま、ミサキの手元の写真をまた見ていた。
「戸川さん」
相沢の声だった。
ミサキは写真を持ったまま顔を上げた。相沢が馬房の3つ向こうに立っていた。鞍を抱えている。調教を終えたばかりなのか、シャツの袖が汗で少し色を変えていた。
「おはようございます」
ミサキは向き直った。写真を手帳に戻すのが一拍遅れた。
相沢は近づいてきた。目がミサキの手元を一瞬だけ見た。見て、それから馬房のカミノイッテに視線を移した。
何の写真かは聞かなかった。
ミサキは手帳を閉じてポケットに入れた。入れながら、何か言わなければと思った。何を言うかは決まっていなかった。
「坊ちゃんに」
口が先に動いた。
「父の口癖を言い当てられたんです」
相沢はカミノイッテを見たまま、少しだけ首を傾けた。
ミサキは続けた。
「先月。知り合いから聞いた、って。それだけなんですけど。……それだけなのに、当たってて」
相沢は黙っていた。
馬房の中のカミノイッテが、首を下げて干し草を一口食べた。咀嚼の音が静かに聞こえた。
相沢は抱えていた鞍を片手に持ち直した。それから、ミサキの顔を見ないまま言った。
「……僕も」
声は小さかった。ミサキは聞き返しそうになって、やめた。
「僕にも、同じことがありました」
相沢は少し迷っているようだった。口を開いて閉じて、それから意を決したように続けた。
「坊ちゃん、師匠の言葉を知ってたんです。師匠しか言わない言い方で」
師匠。
ミサキは何も言わなかった。相沢の師匠が亡くなったことは知っている。耳を近づけて馬に聞く人だった、と前に聞いた。それ以上は知らない。
「亡くなった師匠が、僕を呼んでた呼び名まで」
相沢はそこまで言って、一度止まった。鞍を持つ手に力が入っていた。
「どうして知ってるのか、聞いたんです。そしたら」
相沢は顔を上げた。馬房のカミノイッテを見た。馬は耳を動かして、こちらに顔を向けた。
「『言えません』って」
ミサキは相沢の横顔を見ていた。細い横顔だった。声が小さい人なのに、今はその小ささが妙に重かった。
「信じなくていい、って坊ちゃんは言いました」
相沢はそれきり黙った。
通路の向こうで、別の厩舎の扉が開く音がした。誰かが馬を引いている気配が遠くにあった。
ミサキは手帳の入ったポケットに、無意識に手を当てていた。中に写真がある。写真の中に、新聞を丸めた手がある。
ミサキも何も聞かなかった。
その夜、8時の見回りを終えてから、ミサキは通路に残った。
天井の灯りは半分しか点いていない。ときどき寝藁を踏む音がした。
ミサキはカミノイッテの馬房の前に立っていた。柵に片手をかけて、もう片方の手でスマホを持った。画面の明かりが指先だけを白く照らしている。
カミノイッテは馬房の奥で立っていた。こちらを見ているのか、暗くてよく分からなかった。耳の位置だけがうっすらと分かる。
ミサキは名前を押した。
呼び出し音は2回で切れた。
「もしもし」
坊ちゃんの声だった。少し掠れていた。
「坊ちゃん」
ミサキは言った。前置きをしなかった。前置きをする余裕がなかった。
「……父の名前を、言ってみてもらえますか」
電話の向こうで、空気が動いた気がした。坊ちゃんが息を吸う音がかすかに聞こえた。
少しだけ、黙った。
それから、答えた。
「源三さん」
ミサキはスマホを握ったまま動かなかった。
暗い通路が急に広く感じられた。遠くで馬が1頭、鼻を鳴らした。
源三。
ミサキはその名前を誰にも話したことがなかった。職場の誰にも。梶先生にも。相沢にも。ましてや、13歳の馬主の息子に。
電話の向こうも黙っていた。坊ちゃんは何も足さなかった。どうして知っているのかも言わなかった。聞かれるのを待っているのか、それとも聞かれないと分かっているのか。
ミサキは息を吐いた。吐いて、それから、聞かなかった。
「ダービーの週、来ますよね」
声は自分でも驚くほど普通だった。
「行きます」
坊ちゃんはすぐに答えた。短かった。それだけだった。
「……おやすみなさい」
「おやすみなさい」
電話が切れた。
画面が暗くなって、通路の暗がりに戻った。ミサキはスマホをポケットにしまった。しまってから、柵にかけた手にゆっくりと力を込めた。
馬房の中で、カミノイッテが動いた気配がした。
ミサキは暗い通路に立ったまま、頭の中で短く言い聞かせた。
ありえない。
馬はしゃべらない。
父は死んだ。
……でも。
ミサキは手帳を開いて、写真を抜いた。
カミノイッテの馬房の扉の、馬の目の高さに、写真を貼った。
セロハンテープの音が夜の通路に小さく響いた。




