第31話 消える条件
「……ああ、消えるよ」
夕方の飼い付けが終わったあとの厩舎は、馬の咀嚼の音と蹄が床板を踏む鈍い音だけが残る。西日が入口から差し込んで、干し草の埃が光の帯の中をゆっくり流れていた。
ハナコの馬房の前に立つと彼女はいつものように首をこちらへ向けた。額から鼻先へ、白い筋が夕方の光でぼんやり浮かんでいる。腹はもう大きく張っていて、仔が下りてくる気配が日に日に近づいていた。
「坊主、どうしたんだい。そんな顔して」
「聞きたいことがあるんです」
「なんだい。飯の話なら大歓迎だよ」
「違います」
俺は柵に手をかけた。かけたまま、少し黙った。どう切り出したものか、営業の頃からこういう手合いの話は苦手だった。前振りを考えているうちに、相手に勘づかれる。ハナコはもう勘づいていた。
「……美浦で、知り合いの馬に聞いたんです。未練が晴れたら、消えるって」
ハナコの咀嚼が止まった。
干し草をくわえたまま、目だけがこちらを向く。しばらくそうしていた。それから、ゆっくりと口の中のものを飲み込んだ。がさ、と干し草が落ちる音がした。
「坊主」
声の調子が変わっていた。いつもの「食べな」「泣くんじゃないよ」の調子じゃない。低くて、腹の底から出すみたいな声だった。
「あたしは、その話はしたくないね」
「そうですか」
「そうさ。したくないね。……台所の話はするけど、土間の話はしない。それと同じさ」
ハナコは顔を横に向けて、馬房の奥の壁を見た。壁には何もない。ただ古い板が並んでいるだけだ。それでも彼女はそこに何かを見ているみたいだった。
「坊主は、サチって馬を覚えてるかい」
「名前だけは」
「あたしより前の馬さ。あたしがここに来る前に、もう年取ってた。……おとなしい馬だったよ。鹿毛でおっとりしててね。あたしなんかよりずっと上品でさ。パン屋の店先に置いてある、あの丸いの。ふかふかしてて、角がなくて、触ると指のあとがつくやつ。サチはああいう馬だった」
ハナコはそこで一度、鼻を鳴らした。
「あたしが来たばかりの頃、サチはようしゃべったよ。あたしに牧場のことを色々教えてくれた。どこに水が溜まるか、どの厩務員が手荒いかそういうのをね。保育士だったんだとさ、前世は。だから教えるのが上手かった。……それでね、坊主」
ハナコは前脚を一度、床に打ちつけた。どすという音がした。
「サチには仔がいた。ここで産んだ仔がね、大きくなってよその厩舎に入って、走ってたんだよ。サチはそれを楽しみにしてた。毎週のように、あたしたちに話してた。あの仔がどうした、あの仔がこうしたって」
「勝ったんですか」
「勝ったのさ。ある日、知らせが来た。初めて勝ったって」
ハナコは少し黙った。
「牧場の人が、厩舎の前で話してた。サチの仔が勝ったって。それ聞いたサチはね、すごく嬉しそうだったよ。あたしにも自慢してた。……それで、次の朝さ」
ハナコは目を細めた。
「サチは、しゃべらなかった」
「……」
「あたしが話しかけても、返事をしなかった。あたしは疲れてるんだろうと思った。勝った知らせを聞いて、ほっとしたんだろうと思った。でもね、その次の日もしゃべらなかった。その次の日も。……3日も経つと、あたしたちは分かったんだよ。サチは、ふつうの馬に戻ったんだって」
ハナコはそこでまた干し草を一口くわえた。今度はゆっくり噛んで、飲み込んだ。
「目つきがね、違うのさ。サチの目は、もうあたしのことを見てなかった。ただの馬が、ただの馬を見てる目だった」
「……怖かったですか」
「怖い?」
ハナコは鼻で笑った。笑ったというより、息を吹き出しただけだった。
「坊主、あたしは怖くなかったよ。悲しかったんだ」
風が入口から吹き込んで、干し草の埃が流れた。俺は何も言わなかった。
「仔が勝った。それで、サチが引っかかってたものがすとんと落ちたんだろうね。……そしたら、声が消えた」
ハナコはこちらをまっすぐ見た。
「未練が晴れたら、声が消える。前世の記憶もだんだん薄くなる」
俺は柵にかけた手に力を入れた。
「……だんだん、というのは」
「そのまま消えるわけじゃないよ。ぼやけてくんだ。声が先に消えて、それから、名前も店のことも、少しずつ。最後にはただの馬さ」
ハナコはそう言って、干し草の残りをひとくわえ口元へ引き寄せた。噛みながら、ぽつりと言った。
「あたしたちは、それを『上がり』って呼んでる」
「上がり」
「そうさ。店じまいの後の、暖簾をしまう時間さ。客が帰って、戸を閉めて看板を下ろして。……長いこと商売やってりゃ、その時間は来るんだよ。誰にでも」
ハナコは干し草を噛むのをやめて、俺の顔を見た。夕方の光が横から当たって、黒い瞳の表面がほんの少しだけ金色に光った。
「坊主」
「はい」
「あんたは、『上がり』の反対かもしれないね」
「どういう意味ですか」
ハナコは答えなかった。
答えないまま干し草のほうへ顔を戻した。がさ、がさ、と咀嚼の音が静かに再開する。俺がもう一度「ハナコさん」と呼んでも、返事はなかった。耳だけが一度、こちらを向いて、それきり動かなくなった。
俺は柵から手を離した。
足音を立てないように、馬房の前を離れた。通路の埃が、西日の中でゆっくりと舞っていた。
上がりの反対。
分からなかった。
分からないまま通路の角を曲がりかけて、俺は立ち止まった。
源さんが、もし、ダービーを勝ったら。
源さんの声は、どうなる。
◇
5月4日、朝。
ゴールデンウィークの美浦は平日より人が少ない。祝日の朝はどこか緩んでいた。坂路のほうから蹄の音が遠くに聞こえて、それきり静かになる。
母さんは事務所で梶先生と話している。挨拶がてら顔を出してくる、と言って俺を先にやった。ハナコさんのお産が近いので父さんは牧場に残った。お産の準備がある、というのが父さんの言い方だった。あの人はそういうとき、余計なことを言わない。
馬房の前まで来て、俺は足を止めた。
カミノイッテは朝の運動を終えたところだった。栗毛の背中に汗がまだ少し残っていて、乾きかけの毛が光っている。
「おう兄ちゃん」
源さんはこちらを見ないで言った。鼻先を柵の上のほうに預けて、目は半分閉じている。気持ちよさそうだった。
「おはようございます」
「おう」
それきり、源さんは黙った。
俺も黙った。
言おうとして言えないまま、時間だけが過ぎていく。営業の頃なら、こういうときはだいたい天気の話をした。天気の話を3つくらい並べると、だいたい相手はこっちの本題を先に言ってくる。
でも源さんは馬だから、天気の話をしても仕方がない。空は見えているだろうし。
「兄ちゃん」
先に振られた。
「なんだよ。もじもじしてんじゃねえよ。朝っぱらから。言いたいことあんだろ」
源さんは目を開けた。黒い目が横から俺を見ている。馬の目は横に付いているから、真正面から見るとあんまり表情が分からない。でも、この人の場合は分かる。目が細くなったときは、たいてい何か勘づいているときだ。
「……源さん」
「おう」
「キングスレガリアに、会いました」
「知ってるよ」
源さんはこともなげに言った。
「あの馬が俺に言ったんだよ。先週、引き運動ですれ違うときに。小さい声でな。お前さんには関係ねえ話だが、って前置きしてな。……あの前置きがもう、関係あるって言ってるようなもんだろ」
源さんは少し笑った。馬は笑わないが、この人は笑う。息の出し方で笑う。
「勝ったら、消えるんだってな」
俺は指に力を入れた。
「……聞いたんですか」
「聞いたよ。お前さんのとこの兄ちゃんにも言った、って。あの馬ああ見えて律儀なんだよ。言ったことは言ったままにする質だ」
源さんは首を上げた。柵の上から、俺を見下ろす形になった。
「で、兄ちゃんはそれを俺に言えなくて、ここで突っ立ってたってわけか」
図星だった。
「……はい」
「正直でよろしい」
源さんはそれから右前脚で地面を3回叩いた。どん、どん、どん。厩舎の床板が短く鳴って、それから静かになった。
考え込むときの癖だ。
「兄ちゃんよ」
「はい」
「俺はな、」
そこで源さんは一度、言葉を切った。
俺は待たずに言った。
「出ないって選択もあります」
朝の空気が、そこで止まった気がした。
源さんは首を上げたまま俺を見ていた。目が細くならない。開いたまま、じっと。今のは「何言ってんだこいつ」の目だ。
「……兄ちゃん」
低い声だった。
「俺の前で、それ言うか」
「言います」
「40年だぞ。馬券買って40年だ。消えるのが怖くて馬券が買えるか。んなもん、買った瞬間から消えてるわ」
源さんは鼻で息を吐いた。吐いた勢いで、柵の上に置いた鼻先がこつと鳴った。
「だいたいな、兄ちゃん。いいか。競馬っつうのはよ、買う前から負けてんだ。馬券握った瞬間、金はもうねえ。紙切れだ。あれを握ってる間、人間はみんな消えてんだよ。レースが終わるまでな。ゴール前で当たった奴だけが現世に戻ってくる。それだけの話だ」
「大げさですね」
「大げさなもんか。初めて買った日からずっと、俺は毎週消えてたんだよ。で、たまに戻ってきた。それの何が怖い」
源さんはまた鼻を鳴らした。今度は笑いの音だった。
「それによ、兄ちゃん。外れ馬券ってのは、消えても残るんだよ。知ってるか。紙くずになったって、財布ん中に何年も居座る。負けた日の夜、ポケットに手ェ突っ込むとまだある。体温で温まってやがる。で、思い出すんだよ。あの直線なんで差せなかったんだろうなって」
「……源さん、話が逸れてます」
「逸れてねえよ」
源さんはぴしゃりと言った。
「兄ちゃん、俺に負けろって言うのか。負けても残れるから、出ないでいろって。……そういうことか」
違う、と言いたかった。でも違わない。出なければ消えない。俺が言ったのはそういうことだ。
「違います」
それでも言った。
「消えてほしくないだけです」
「ああ」
源さんは短く返した。
それから、しばらく黙った。
風が通路を抜けて干し草の匂いが流れた。坂路のほうから、また蹄の音が聞こえる。
「俺は今、馬だ」
俺は何も言えなかった。
「買う側じゃねえ。走る側だ。走る側になってみて、初めて分かったことがある。ゴールした後の景色ってのは、馬にしか見えねえんだな」
源さんは顔を上げて、まっすぐ前を見た。馬房の向かいの壁。そこに何かを見ているわけじゃない。遠くを見ている目だった。
「ダービーのゴール板の向こうに何があるか、40年かけて追いかけてきたんだ。馬になってまで追いかけてるんだ。それをよ、消えるのが怖いから出ませんなんて、笑わせるんじゃねえよ」
俺は黙った。
反論できることが何もなかった。この人は走る側にいる。俺は立って見ているだけの側だ。
「それにな」
源さんが、ふいに声を落とした。
風が止まった。
「あいつに謝れるのは、たぶん勝った後だけだ」
俺は息を止めた。
同じ日の昼前、梶厩舎の事務所。壁の白板に何週間も前の調教メニューが残っている。机の上の古いラジオが、どこかの競馬中継を低い音で流していた。
「いいか、坊主」
梶先生は壁の白板の前に立ち、赤いペンを持ったまま言った。
「皐月賞はな、惜しかった。最後の急坂でキングスレガリアにもう一伸びされた。クビ差だ。着差だけ見りゃ善戦だが、競馬に善戦はない。負けは負けだ」
先生は白板に「中山2000 重 クビ差2着」と書き足して、ペンで白板をこつこつと叩いた。
「府中は違う。府中の直線は525.9メートルだ。坂はあるが中山の急坂みたいな壁じゃない」
先生は白板に大きく「東京 2400」と書いた。
先生はこちらを向いて、言った。
「イッテは、長いところで化ける馬だと一昨年初めて見たときに思った。あの馬は体のわりに心臓がでかい」
梶先生は、うん、と一人で頷いた。
話が途切れた。
相沢さんは白板の「東京 2400」の文字をじっと見ていた。口を開きかけて閉じるのを2回繰り返して、3回目でようやく声が出た。
「外から、最後に」
小さい声だった。
でも、部屋の隅まで通った。
母さんが書類を見る手を止めて、顔を上げた。ラジオがちょうどCMに入って、事務所の中がしんとした。
「外から、最後に、いいですか」
相沢さんはもう一度言った。今度はさっきより少しだけ大きい声だった。
「4コーナーは無理に押し上げないで、直線に入ってから外へ出します。府中は直線が長い。焦らなければ、あの馬の心臓なら最後の200で止まりません。……いや、止まらないはずです」
梶先生は相沢さんの顔をじっと見ていた。
それから、そうか、と言って赤いペンを机に置いた。
「お前がそう言うなら、それでいい。外から行け。ただし、出すのは早すぎるな。残り300からだ。そこからもう一度加速する。それができるのは心臓の大きい馬だけだ。イッテならできる」
先生は机の上の電話を取った。スピーカーボタンを押す。
電話の向こうで、父さんの声がした。
「久世です」
「ああ、梶だ。今、ダービーの打ち合わせしてた。イッテは外から行く。直線で外へ出して、残り300からもう一度伸ばす。相沢がそう言う。俺もそれでいいと思う」
電話の向こうが少しの間、黙った。
牧場の風の音がかすかに聞こえる。
「任せる」
父さんはそれだけ言った。
電話が切れた。
スピーカーの無音が、事務所の空気に薄く残った。
母さんは書類に視線を戻して、またペンを走らせ始めた。
俺は壁の白板に書かれた「東京 2400」の文字を、しばらく眺めていた。赤いペンの線は、ところどころかすれていた。
◇
羽田の出発ロビーは人でいっぱいだった。連休最終日の夕方だから、どこのカウンターも列が折れ曲がって伸びている。キャリーケースの車輪が床を鳴らす音と、子供が疲れてぐずる声と搭乗案内のアナウンスが混ざって、頭の上をずっと流れている。
俺と母さんは窓際のベンチに座っていた。母さんは買ってきたばかりの弁当の包みを膝に置いて、時計を見て、搭乗まで40分あるねと言った。それからスマホを取り出して何か確認している。父さんに連絡を入れているんだと思う。ハナコさんのお産が近い。
俺はリュックを膝に抱えて窓の外を見ていた。駐機場に並んだ飛行機の尾翼が、夕方の光で赤く染まっている。頭のどこかではずっと源さんの言葉が回っていた。ゴールした後の景色は馬にしか見えねえ。それから、キングスレガリアの静かな声も。
ポケットの中でスマホが震えた。
俺は取り出した。母さんのお下がりで、画面の端にひびが入っている。通知が1件。戸川さんからだった。
『父のこと、ダービーの前に聞かせてもらえませんか。……後じゃなくて、前に』
俺はその文面を、二度読んだ。




