第30話 王様の中身
俺は全部は言わなかった。
言えるのは一つだけだった。
「……『次は当てる』。それが、お父さんの口癖だったそうです」
戸川さんは少しの間、動かなかった。
夜風が俺たちの間を抜けていった。土の匂いと、刈った草の匂いとどこか遠くの消毒液の匂いが混ざって流れてくる。
「……次は、当てる」
戸川さんが繰り返した。声がかすれていた。
それから、ふ、と笑った。笑ったというより息が漏れただけかもしれない。唇の端が少しだけ上がった。
「父らしいですね」
そう言った顔が笑っているのに、泣きそうな顔だった。目だけが笑っていなかった。暗がりでも分かった。目がきらきらしている。いやきらきらじゃない。夜露が張ってるみたいに、ぬめっと光っている。
俺は何も言えなかった。
営業の俺なら、ここで何か言えたはずだ。空気を変える一言。相手の肩の力を抜かせる一言。クロージングの前に、相手の本音を引き出す一言。そういう引き出しを、俺はいくつも持っていたはずだ。
今の俺の引き出しは全部、糊でくっついて開かない。
戸川さんは何か言いかけて、やめた。
それから、深く頭を下げた。
顔を上げないまま、背中を向けた。
「戸川さん」
俺は去りかけた背中に声をかけた。
「ダービーの後で、もう少し話します」
戸川さんが振り返った。
暗くて表情は読めない。
小さく、頷いた。
それだけだった。戸川さんは寮の方へ歩いていった。
足音がだんだん小さくなる。きゅきゅ、という長靴の音が、アスファルトから土の上に移って、くぐもって聞こえなくなる。
戸川さんの背中が外灯の下を一度だけ横切った。黒い髪が一瞬、輪郭を光らせてそれから闇の中に溶けた。
それきり、誰もいなくなった。
◇
翌朝。
日曜日の美浦は平日より少しだけ静かだった。
坂路の下から厩舎へ戻る道は朝の7時半を過ぎたあたりで、馬と人がひっきりなしに行き交っていた。
運動を終えた馬たちが濡れたたてがみを朝風に冷やしながら、のろのろと歩いている。汗ばんだ体から湯気がそこらじゅうで立って、まるで湯気の出る鍋が何十個も並んでるみたいだった。
父さんは梶先生と事務所にいる。厩舎のまわりなら、と先生に言われている。
俺はリュックを肩に掛けたまま歩いていた。昨夜のかすれた声と、夜露みたいに光ってた目がまだ頭の芯にこびりついている。
そんなことを考えながら角を曲がったときだ。
前から、馬が来た。
鹿毛で、四肢の先だけが黒い。額に細い流星が1本。
キングスレガリアだ。
キングスレガリアは、よその厩舎の厩務員に引かれていた。年のころは40前後、色の浅黒い人で手綱をゆるく持って歩いてくる。馬はすらりと長い首をまっすぐ立てて、静かに歩いていた。
俺は軽く会釈をして、道の端に寄った。
すれ違う。
はずだった。
キングスレガリアが、ぴたりと止まった。
前脚が地面を噛んで止まる。首がするりとこっちを向く。
厩務員が、ん、と声を出して手綱を引いた。
馬は動かなかった。
「おい、どうした」
厩務員が首をかしげて、手綱を一度ゆるめてからまた引く。馬は動かない。
黒い四肢が地面に杭を打ったみたいに沈んでいた。
俺は足を止めた。
キングスレガリアの目が俺を見ていた。鹿毛の顔に、黒い瞳が二つ。まばたきもしない。
「君」
声が来た。
低くも高くもない静かな声だった。怒鳴るでもなく、囁くでもなくただ、そばにいる者にだけ届く声。
人前だ。返事はできない。口を開いたら、俺は変な子供だ。
俺は表情を動かさなかった。動かさないまま、目だけで「なんだ」と返した。
「君の相棒の騎手に、伝えてほしいことがある」
相棒の騎手。相沢さんのことだ。
俺は息を止めていた。
「急ぐ話ではない。けれど、今のうちに伝えておいたほうがいい。あの騎手は、たぶんひとりで抱え込むからね」
キングスレガリアは、動かなかった。
厩務員がもう一度手綱を引いた。今度は少し強く。それでも鹿毛の四肢は地面に根を張ったみたいで、びくともしない。
「おい、ほんとにどうしたんだよ」
厩務員が馬の横っ面をのぞきこむ。馬は前を向かない。俺を見たまままばたきもしない。
そこへ、向こうからもう一人来た。
「おう、どした」
恰幅のいい厩務員だった。首にタオルを巻いて、長靴をばしゃばしゃ鳴らして歩いてくる。見覚えがある。確か、梶厩舎の隣の厩舎の人だ。俺の顔も覚えられているらしく、にっと笑って片手を上げた。
「お、坊やじゃねえか。今日は父ちゃんと来たのか」
「あ、はい。おはようございます」
ぺこりと頭を下げる。子供の声。よし、これでいい。これでいいのだが目の前の鹿毛は相変わらず俺を凝視している。
「それがよ、急に動かなくなっちまって」
「まあ、朝から気が立ってるんだろ。坂路のあがりで汗かいたしな」
「だよなあ」
「なあ、聞いたか。昨日の坂路で、いい時計が出てたぞ」
「ああ、聞いた聞いた。3歳のほうか」
2人の声が俺の頭の上を流れていく。俺は道の端でうつむいて、リュックの肩ひもを握り直した。
「君」
また来た。
静かな声だった。2人の話し声のすぐ下を、水が染みこむみたいにすべってくる声。
「驚かせてしまって、すまないね。手綱を引く人がいるので、私はここを動けない。だから少しだけ話をさせてもらう」
俺はうつむいたまま目だけ上げた。
「私は、真柴恭一という名前だった」
俺の息が止まった。
「騎手をしていた。5年前まで、この美浦にいたんだ。朝はだいたいこの道を歩いていたよ」
真柴。真柴恭一。
聞いたことのない名前だった。俺の競馬の知識は今もたいして増えていない。
「レースの途中で、落ちてね。それきりだ」
キングスレガリア――いやその中身は、淡々と言った。
「私が死んだあと、調教師が変わって、厩舎の並びも少し変わった。それでもこの道は、同じ形で残っている。朝の匂いも、だいたい同じだ」
馬の声は抑揚が少なかった。源さんの講釈は勢いで坂を転がり落ちるみたいな喋りだ。この声は違う。一つずつ、置くみたいに言葉が来る。
源さんの講釈より、梶先生の解説に近い。
乗る側の言葉だ。馬を走らせる側じゃなくて、馬に乗る側の。
「君の相棒の騎手のことだ」
キングスレガリアは、続けた。
「相沢トオル。私の弟子だった」
俺はまばたきを忘れていた。
2人の話し声はまだ続いている。時計の話、馬場の話。
その雑談の下で5年も前に死んだ騎手が、静かに喋っている。
「彼は、まじめな子だ。まじめすぎる。まじめで、自分のことを信じていない。ああいう子は、誰かに『大丈夫だ』と言われないと、自分で自分を許せない」
目の前の鹿毛は相変わらず俺を見ていた。まばたきひとつしない。厩務員が手綱を引くたびに首がかくんと揺れるのに、目だけは俺に固定されたまま動かない。
「左手のことだ」
キングスレガリアは、続けた。
「あの子は手綱を使うとき、左手が先に動く癖があった。右で支えて、左が先に出る。理屈では悪くない。けれどあの癖は、追い出しの一瞬で半歩遅れて、馬が外へ逃げる。私は何度も言った。左手を我慢しろ、右から先に動けと。何度言っても直らなかった」
俺は聞いていた。
「私が生きている間はずっと、直らなかったんだ」
そこで、ほんの少しだけ声の置き方が変わった。淡々としていたのが、ほんのわずかに低くなった。
「暮れの中山で、直りかけていた。皐月賞で、直っていた」
俺は息を止めた。
皐月賞。あの雨の重馬場。カミノイッテがクビ差の2着に負けた、あのレース。
「並んで走っていたからね。横から、よく見えた」
馬の口が動いた。人が見たらただの歯噛みだろう。俺にははっきり聞こえた。
「最後の直線、あの子の左手は我慢していた。右から先に動いていた。あれだけ言って直らなかったのに、私がいない5年の間にあの子は直した」
声がふっと軽くなった。笑ったのかもしれない。馬の顔で笑うと、どうなるのか分からないがたぶん笑ったんだと思う。
「悔しいな、と思うよ。私は直せなかった。あの子は、私がいなくなってから直した」
俺は何も言えなかった。言えなかったが目だけは逸らさなかった。
「私の未練は、それだけだ」
キングスレガリアは、言った。
「弟子が、私を超えるところを見られなかった。それだけ。手柄も、金も、名前ももうどうでもいい。ただ、あの子が私より先にゴール板を駆け抜けるところを、見たかった」
上のほうで、厩務員2人の雑談がまだ続いている。坂路の時計がどうした、3歳のほうがどうした。その声が俺の頭のてっぺんを素通りしていく。
俺は目だけで頷いた。
声は出さない。出したら俺は変な子供だ。それでも伝わったのが分かった。黒い瞳がほんの少しだけ細くなった。
「トオル坊に、そう伝えてほしい」
キングスレガリアは、それから、一拍おいて言った。
「ダービーで、彼が私に勝てば……私は、たぶん消える」
俺の背中がすっと冷たくなった。
厩務員2人の雑談は俺の頭の上をしばらく流れてから、ようやく終わった。
「お、動くぞ」
浅黒い顔の男が手綱を軽く張ると、キングスレガリアはするりと歩き出した。さっきまで地面に杭を打ったみたいだったのに、まるで最初から止まってなかったみたいな歩き方だった。
俺は道の端に立ったまま、その背中を見送った。
四肢の先だけが黒い鹿毛の後ろ姿が、厩舎の並びの向こうに消える。額の流星が朝の光を一瞬だけ反射して白く光った。
俺はリュックを背負い直した。
足の裏がまだ地面についているのかどうか、よく分からない。分からないまま歩き出した。
午前9時すぎ。
梶厩舎の事務所の奥にある休憩室は、6畳あるかないかの細長い部屋だった。
壁に出走表が何枚も貼ってあって、パイプ椅子が何脚か折りたたまれて隅に立てかけてある。電気ポットのランプが赤くついていて、カップ麺の空き箱がゴミ箱からはみ出していた。
俺は出入り口のところで相沢さんを見つけた。
今週は乗り鞍がない、と梶先生が言っていた。
ジャンパーを着た背中が、壁の出走表をじっと見ている。手には紙コップ。湯気が立っている。
「相沢さん」
声をかけると、背中が小さく跳ねた。
振り返った顔は寝不足みたいな色をしていた。茶色っぽい短い髪が、汗で額に張りついている。
「あ、坊ちゃん」
相沢さんは紙コップを片手に、ぺこりと頭を下げた。
「おはようございます。今日もお父さんと?」
「はい。ちょっとだけ話せますか」
「え」
相沢さんが紙コップを両手で持ち直した。白い湯気が顔の前をゆらゆら横切る。
「……分かりました」
俺は中へ入った。
俺はパイプ椅子を一つ引きずってきて、座った。相沢さんも1つ空けて座る。紙コップは膝の上に置いて、両手で包み込むように持っていた。
「あの、何ですか。僕何かしましたか」
「してないです」
「ですよね」
相沢さんはほっとしたように紙コップの湯気に目を落とした。
俺は息を一つついた。
そして、言った。
「信じなくていいです」
相沢さんの手がぴたりと止まった。
「俺が今から言うことを、信じなくてもいいです。気のせいだと思ってもらっても構わない。ただ、聞いたことだけ頭の隅に置いておいてほしいんです」
相沢さんは紙コップを膝に置いたまま俺を見た。
「……何の話ですか」
「師匠の話です」
相沢さんの肩がびくりと揺れた。
揺れた、というより、縮んだ。紙コップがかた、と鳴った。
「真柴恭一さん、ですよね」
「なんで」
声がひっくり返った。
「なんで、坊ちゃんがその名前を」
「言えません」
俺は静かに言った。
「言えません。でも、真柴さんから相沢さんに伝えてほしいことがあると言われたんです」
相沢さんの顔が白くなった。
白くなって、それから、首を振った。
「……何言ってるんですか」
「だから信じなくていいです」
「信じるとか信じないとかじゃなくて」
相沢さんは紙コップを握りつぶすように持った。湯気が細く揺れている。手が震えている。
「師匠は、5年前に亡くなってるんですよ」
「知ってます」
「知ってて、そんなこと」
「だから」
俺は目を逸らさなかった。
「気のせいだと思ってもらっていいです。ただ、伝言だけ、聞いてください」
相沢さんは口を開きかけて閉じた。
閉じて、それから、小さく頷いた。
「……聞きます」
声は掠れていた。
相沢さんは紙コップを両手で包んだまま俺の顔を見ていた。湯気が細くなってきている。話す前に、もう冷めかけている。
「左手のことです」
俺は言った。
「左手を我慢しろ。右から先に動け。何度言っても、直らなかった」
「……え」
相沢さんの声が喉の奥でつかえた。
「でも、暮れの中山で直りかけて、皐月賞で直っていた。並んで走っていたから、横からよく見えたそうです。最後の直線、左手は我慢していた。右から先に動いていた。あれだけ言って直らなかったのに、5年の間に直したって」
言い終わってから、俺は相沢さんの顔を見た。
相沢さんは笑っていた。
笑っていた、と思う。口の端が上がっていたから。でも目の奥はちっとも笑っていなかった。乾いた笑いだった。紙コップの縁に指がかかって、爪が白くなっている。
「……そうですか」
相沢さんは湯気の消えた紙コップを見つめたまま言った。
「左手のこと、梶先生にも言われたんです。……だから、その、誰かに聞いたんだろうなって」
声がどんどん小さくなっていく。
「坊ちゃんが悪いんじゃなくて。そういう、それらしい話をどこかで」
「トオル坊に、そう伝えてほしいと」
俺はその言葉だけを置いた。
相沢さんの笑いが止まった。
止まった、というより、消えた。口の端が元の位置に戻って、それきり動かなかった。紙コップを持つ指から、力が抜けていくのが分かった。かた、と小さく音がして膝の上で傾いた。
「……今、なんて」
「トオル坊に、そう伝えてほしいと」
俺は繰り返した。
相沢さんは黙った。
長い沈黙だった。電気ポットのランプが赤く灯っている。向こうの事務所から、誰かの笑い声がかすかに聞こえてきた。それも遠い。
相沢さんはゆっくりと紙コップを膝からどけた。それから、両手を上げて顔を覆った。
指の間から、息が漏れた。震える息だった。
「……師匠の、言い方だ」
顔を覆ったまま、相沢さんは言った。
「トオル坊って。そう呼んだの、師匠だけなんです。誰もそう呼ばなかった。梶先生も、先輩も誰も」
指の隙間から、声がにじんでいく。
俺は何も言わなかった。
言えなかった。営業の引き出しはまだ糊でくっついたままだ。
相沢さんは顔を覆ったまま動かなかった。肩が一度だけ小さく上下した。
「それと」
俺は、もう一つだけ置いた。
「弟子が自分を超えるところを、見たかったそうです。自分より先に、ゴール板を駆け抜けるところを」
消える、の話はしなかった。
電気ポットのランプが赤く点滅して、湯が沸き直る音がかすかに響いた。
ここで何か言うのはたぶん間違いだ。営業の俺なら、沈黙に耐えられずに何か喋っていた。でも今は違う。この沈黙は俺が破っていいものじゃない。
どれくらいそうしていたか。
ようやく、相沢さんは両手を下ろした。
目が赤かった。
充血してるんじゃない。泣きそうなのを必死にこらえて、こらえ切れなかった水分が目のふちに溜まっている。でも涙はこぼれていなかった。顔はくしゃくしゃになっていたが、目だけはやけに真っ直ぐこちらを向いていた。
「……勝ちたいです」
小さな声だった。
でもはっきりしていた。いつもの「すみません」が混じる前の、相沢さんの素の声。俺は初めて聞いたかもしれない。
「勝ちたいです。師匠に」
もう一度、相沢さんは言った。
今度はもっと、はっきりしていた。語尾が震えていなかった。喉の奥から絞り出したみたいな声じゃなくて、肚の底から出てきた声だった。
「僕、ずっと勝てなかった。師匠にだけは、どうしても勝てなかった。調教でも、レースでも。師匠はいつも僕の前を走ってて。追いつけなかった。追いつけないまま、いなくなって」
相沢さんはそこで一度だけ息を吸った。
「……だから、今度こそ」
休憩室のドアが向こうで開く音がした。誰かが入ってくる気配がする。相沢さんは目元をこすって立ち上がった。
相沢さんはぐしゃぐしゃになった紙コップをゴミ箱に捨てた。
それから、出入り口のところで一度だけ振り返って、小さく頭を下げた。
謝る頭の下げ方じゃなかった。
相沢さんは出ていった。
干し草の匂いが通路にしみついていた。
朝の光はまだ馬房の奥まで届かなくて、廊下はひんやりと薄暗い。
俺はカミノイッテの馬房の前を通りかかった。
源さんは馬房の隅に顔を突っ込んで干し草を食っていた。耳だけがこちらを向く。
「おう、兄ちゃん」
低い声。干し草を噛む音が、がさ、と静かに混ざる。
俺は足を止めた。
「おはようございます」
「ああ」
源さんはそれだけ言ってまた干し草に顔を戻した。
俺は柵に手をかけなかった。
今朝のことを、話すつもりはなかった。
真柴さんの言葉がまだ頭の芯に刺さっている。
――ダービーで、彼が私に勝てば……私は、たぶん消える。
あの静かな声が耳の奥で繰り返されている。
未練が晴れたら、消える。
なら、源さんはどうなる。
源さんの未練は戸川さんだ。謝れなかったことだ。
ダービーを勝ったら、源さんはどうなる。
次は当てる。その「次」が、もし最後の「当たり」になったら。
俺は何も言わずに立っていた。
源さんは干し草を噛んでいる。耳がときどき、通路の奥の物音のほうへ動く。
俺は歩き出した。
通路の角まで来て、立ち止まった。
振り返った。
馬房の柵の向こうで栗毛の大きな背中が、ゆっくりと首を上下させている。干し草を引き抜いて、噛んでまた引き抜く。朝の静かな音だけが、そこにあった。
源さんも、なのか。




