第29話 窓口
「源さん」
耳が、こちらを向いた。それだけ。
「ひとつ、話があります」
右前脚が、こつ、と一度だけ地面を叩いた。考え込むときの癖だ。俺は、その癖が始まる前に言い切ることにした。
「契約違反になりますが」
「窓口として、つなぎます」
皐月賞から1週間が経った。
中山の雨はもう乾いて美浦の朝は妙に晴れていた。馬房の屋根の下に立つと、まだひんやりする空気が首筋に触る。俺はランドセルじゃなくて、いつものリュックを肩から下ろして、柵の前に置いた。
土曜の朝。厩舎はもう動いている。蹄鉄の音、ホースの水音、厩務員の掛け声。
今週は、月1回の美浦行きの週だった。父さんは、梶先生とダービーの相談で事務所にいる。
馬房の前まで来た。
カミノイッテはいつもの場所に立っていた。栗毛の背中が朝の光を受けて、少し明るく見える。額の小さな星も、変わらない。皐月の泥はもう落ちている。脚も、蹄も、きれいだ。走った形跡なんてどこにもない。馬ってのは、そういう生き物なんだなと毎回思う。人間だけが、傷を服みたいに着たがる。
俺は柵に手をかけて、声を落とした。
馬房の中が、しん、とした。
藁が、かさ、と鳴った。
それから、源さんの声が来た。
「……は?」
低かった。低かったがその低さは、これから上がる前の低さだった。
「兄ちゃん、今、なんつった」
「窓口として、つなぎます」
「余計なことすんな!」
声が跳ねた。
跳ねた瞬間、馬房の柵が、がた、と鳴った。源さんが首を振ったんだ。だから、俺は動かなかった。
でも、周りは動いた。
通路の向こうで、バケツが止まった。厩務員の一人が振り返る。手に持ったブラシを、そのままの高さで止めている。もう一人が、馬房の陰から顔を出した。3人。みんな、こっちを見ている。
「……どうした、カミノイッテ」
若い厩務員が、ぼそっと言った。
「朝から元気だな」
「いや、なんか、怒ってるだろこれ」
「馬は怒らねえよ。……たぶん」
たぶん、で済ませてくれるのがこの世界の優しいところだ。俺は、その優しさに甘える。顔はいつもの子ども向けに戻しておく。少しだけ、目を丸くして首をかしげてみる。
「びっくりした。大きい声」
厩務員たちは、しばらくこっちを見ていたがそのうち、また作業に戻った。バケツの水音が再開する。ブラシが、しゃっしゃっ、と動き出す。俺はそれを確認してから、もう一度源さんのほうへ顔を戻した。
源さんの耳はまだ、こちらを向いていた。
でも、声は、もう来なかった。
俺は、柵に手をかけたままもう一度だけ口を開いた。
「ダービーまで、あと5週間です」
源さんの耳が、ぴくりと動いた。それだけだった。
「源さんが勝っても負けても、言えなくなるかもしれない」
俺の声は、自分でもびっくりするくらい平坦だった。心臓は、ちゃんと動いている。動いているのに、声だけが先に冷えていく。
根拠はない。ただの勘だ。
ダービーが終わったら、源さんはもうあの人に何かを言う理由を失くすかもしれない。勝って晴れて、負けて終わってどっちに転んでも「終わった馬」になる。
「今なら、まだ間に合う」
俺はそこまで言って、口を閉じた。
源さんは、動かなかった。耳も尻尾も、脚も。首を下げたまま俺の顔の少し横あたりを見ている。見ていない。外している。ああ、これは逃げてる目だと思った。営業先で、値段の話になった瞬間に窓の外を見る担当者と同じだ。
返事は来ない。
右前脚が、こつ、と一度だけ鳴った。
二度目は来なかった。三度目も来なかった。あの癖が、途中で止まった。
俺は、柵から手を離した。
俺はリュックを拾った。土のついた底を、二、三度手のひらで叩く。ぱさ、ぱさ、と乾いた音がした。
俺は、背を向けた。
洗い場のほうへ歩き出す。
水の音が、近くなる。戸川さんの背中が見えた。キャップの後ろから、黒い髪が一束出ている。袖をまくった腕が、水に濡れて光っていた。
後ろで、藁の音が、かさ、と一度だけ鳴った。
振り返らなかった。
戸川さんは桶を片手で押さえ、もう片方の手で水面をかき回していた。しゃばしゃばと水が跳ねて、コンクリートの排水溝へ流れていく。手際がいい。無駄がない。
「戸川さん」
「はい」
返事は早い。顔は上げない。桶の水面から目を離さないまま、手だけが正確に動いている。俺はその横に立った。水しぶきが、頬に細かくかかる。冷たい。
「ちょっと、いいですか」
「どうぞ。手は止めませんけど」
「はい。大丈夫です」
「あの。知り合いから聞いた話なんですけど」
戸川さんの手が動いていた。正確に、規則的に。水をかき回す音が続いている。
「その人は、戸川さんのお父さんのことを知ってる人で」
指が、止まった。
「その人が言うには」
俺は、そこで一度唾を飲んだ。
「お父さんは、ずっと後悔していたそうです」
水の音だけが、残った。
戸川さんの手が、止まっている。
桶の縁に置かれたまま、動かない。あかぎれの指先が白っぽく見えた。
「……なんで」
声は、低かった。
「坊ちゃんが、父のことを」
顔は、こちらを向いていなかった。横顔だけが、そこにあった。キャップのつばが、目元に影を落としている。その影のせいで、どんな目をしているのか俺にはわからなかった。わからないほうが、たぶんいい。
俺は、口を開きかけた。
開いて、閉じた。
言えない。言えるわけがない。お父さんは、この厩舎の、この馬房のこの栗毛の中にいるんです、なんて。言ったらこの人はどうするだろう。笑うだろうか。それとも、怒るだろうか。
俺は、黙っていた。
戸川さんが、ホースの元栓をひねった。
水が、止まった。
しゃああ、という一定の音が消えると洗い場は急に静かになった。遠くで蹄鉄が鳴っている。誰かが馬房の扉を開けている。それだけだ。
戸川さんは、ホースの先を金具に掛けた。
掛けて、桶を両手で持ち直した。水面が、揺れている。揺れているのにこぼれない。この人は、怒っていても手が乱れない人なんだ、と思った。
「坊ちゃん」
声は、低かった。低くて速かった。
「父の話はしないでください」
俺は、黙っていた。
「あの人は、私と母を捨てた人です」
戸川さんは、桶を持ったままだった。俺のほうを見ていない。洗い場のコンクリートの床を、じっと見ている。水がまだ排水溝へ流れていく音がした。ちろちろ、と細い音だ。
「後悔なんて、死んでからじゃ何の意味もない」
言い切ってから、戸川さんは小さく息を吸った。
「……そんな話、どこで聞いたんですか」
「知り合いが」
「その知り合いは、父の何なんですか」
俺は、答えられなかった。
「それは、いつ」
「……聞いてないです」
「死ぬ前ですか。それとも、死んだあとですか」
「聞いてないです」
戸川さんは、少しだけ息を吐いた。速くて、短い。
「坊ちゃん。悪いですけど」
桶の縁を、指先がなぞった。あかぎれの指が、白い。
「その知り合いの人に、伝えておいてください。うちは、あの人から何ももらってないんです。お金も、時間も名前も」
「……はい」
「私は母の旧姓を名乗ってます。それだけのことです」
それだけのことという言葉が、洗い場に落ちた。
俺はその「それだけのこと」が、ぜんぜんそれだけのことじゃないのを知っていた。
戸川さんは、桶を持ち上げた。
「仕事に戻ります」
「……すみません」
「謝らないでください。坊ちゃんは何も悪くないですから」
その言い方が、いちばん堪えた。
悪くない、と言われた。悪くないのにこの人は俺をここから出そうとしている。前世で、俺が担当を外されたときの上司の言い方と、そっくりだった。「お前のせいじゃない」。その言葉は、いつもここから出て行けという意味だった。
戸川さんは、俺の横を通った。
桶の水が、歩くたびに、ちゃぷと鳴った。濡れた長靴が、コンクリートの上できゅ、きゅ、と鳴る。俺は振り返らなかった。
洗い場の出口のところで、戸川さんの足音が一度だけ止まった。
止まって、また動き出した。
今度は、速かった。通路の角を曲がる音がして、それきり聞こえなくなった。
俺は、その場に立っていた。
ホースの金具がまだ、かすかに揺れている。水滴が、先っぽから一つ落ちた。ぽつとコンクリートに当たって、はねた。
今の俺には、売上も伝票も、案件もない。あるのは5週間と、1頭の栗毛とさっきの冷たい声だけだ。
夜の厩舎は、昼とまるで別の建物みたいだった。
父さんは、梶先生と晩飯に出ている。見回りの時間までなら、と梶先生には断ってある。
懐中電灯は持ってない。持ってないが、誘導灯の緑が天井のほうでぼんやり光っていた。あの緑の下を歩くと、馬房の柵がうっすら浮かぶ。
カミノイッテの馬房の前まで来た。
馬は、立っていた。首をまっすぐ伸ばして、暗がりのこっちを見ている。目の位置に、緑の点が二つある。
「源さん」
耳が、こちらを向いた。
「起きてた」
「寝てねえよ」
低い声だった。怒ってる声じゃない。ただ低いだけの声。
「考えてた」
「昼間の話です」
「ああ」
「戸川さんに、言いました」
馬房の中が、静かになった。
「知り合いから聞いた、って形にしました。そしたら」
俺は、一度息を吸った。吸って吐いて、それから続けた。
「父の話はしないでください、って」
言ってしまってから、ああ、と思った。人前では平熱でいられるのに、一人になると急に熱が出る。質が悪い。
「後悔なんて、死んでからじゃ意味がないとも言われました」
源さんは、何も言わなかった。
「私は母の旧姓を名乗ってます、って。それだけのことですって」
そこまで言って、俺は口を閉じた。
風が、屋根の上を鳴っていた。遠くで、どこかの馬が嘶いた。短くてすぐ終わった。独り言みたいな嘶きだった。
源さんは、動かなかった。
ようやく、声が来た。
「ほらな」
それだけだった。
怒ってなかった。悲しんでもなかった。ただ、昼間と同じ低さのまま事実を置いただけの声だった。
「……すみません」
俺は、そう言った。言ってからあ、と思った。謝るのは契約に響くことだけ、が俺の基本だったはずだ。
源さんは、鼻を鳴らした。ふんという短い音。
「兄ちゃんが謝ることじゃねえ」
「でも」
「言ったのは俺の話だ。兄ちゃんは運んだだけだろ」
運んだだけ。その言い方が妙に正確で、妙に優しかった。俺はうつむいた。
「あいつは、何も知らねえ」
源さんの声が少しだけ低くなった。低くなったが、昼間みたいに跳ねなかった。
「知らねえままでいい。……それが、いい」
最後のほうは、ほとんど息だった。
俺は、頷いた。
源さんは、首を下げたままだった。
俺も、柵に手をかけたままだった。
どちらも、動かなかった。
沈黙が、長かった。長いのに昼間の沈黙とは違った。洗い場の沈黙は、言葉を待ってる沈黙だった。今のは、待ってない沈黙だ。何も来ないと分かってる沈黙。分かってるのに、そこに立っている。それだけの時間。
「兄ちゃん」
「はい」
「俺が、どうやって死んだか。話したこと、なかったな」
俺は、黙っていた。
「話す気もなかった。話したところで、どうにもなんねえからな」
源さんの声は、低かった。低いままゆっくりだった。競馬の講釈のときの、あの早口じゃない。あの早口は、喋ることで何かを隠してるんだなと、今さら分かった。
「あれは、秋だった」
右前脚が、こつ、と一度だけ鳴った。それきり止まった。
「昼過ぎに、うちに帰ったんだ。荷物を下ろして、飯を食ってまた出る。いつもの日だった。ポストに、封筒が入ってた」
俺は、息を殺していた。
「差出人は、別れた女房の名前だった」
源さんは、そこで一度止まった。
「中を見たらな。結婚式の招待状だった」
声は、平坦だった。
「俺の名前が、書いてあった。招待しますって。来てください、とは書いてなかった。招待します、だけだった。カード1枚に日時と場所と、それだけが書いてあった」
「俺は、行くかどうか決められなかった」
源さんは、続けた。
「1日目は、行かねえ、と思った。2日目も行かねえ、と思った。3日目に招待状を、もう1回読んだ。4日目は読まなかった。5日目に、また読んだ。読むたびに行くかどうか、変わるんだ。朝は行くと思って、夜は行かねえと思う。あんなにぐらぐらしたことは、なかった」
「で、その日も、トラックに乗った。荷物を積んで、高速に乗っていつもの道を走ってた。行くか行かねえか、考えながらな。そしたら、急に、胸が痛くなった」
源さんは、そこで一度、鼻から息を吐いた。
「痛くなって、視界が、狭くなった。ハンドルを握ったまま、路肩に寄せようとして寄せられなかった。あれ、たぶん寄せられてたんだと思う。覚えてねえけど。気がついたら、救急の人がドアを開けてた。声が、遠かった。名前を、呼んでた」
俺は、黙っていた。
「そっから先は、もう、あんまり覚えてねえ。ただ招待状のことを、最後まで考えてた。行くか行かねえか。それだけを、考えてた。答えを出さねえまま」
源さんは、止まった。
止まって、それきり、何も言わなかった。
俺は、柵に手をかけたまま、動かなかった。手のひらが冷たい。冷たいのに、汗をかいてる気がした。
「……そう、ですか」
俺は、それだけ言った。
「兄ちゃん」
しばらくして、源さんが言った。
「今の話、誰にも言うなよ」
「はい」
「あいつにも、だ」
「……はい」
俺は、頷いた。帰る気には、ならなかった。帰ったらこの夜が終わる気がした。
「帰らねえのか」
「もう少し、います」
源さんは、何も言わなかった。
俺は、リュックを柵の前に下ろしてその上に腰を下ろした。冷たい。冷たいけど、座った。遠くで、水が一滴落ちる音がした。ぽつ、と。それきり何も鳴らない。
馬房の奥で、藁がかさ、と鳴った。
それきり、源さんの息が規則正しくなった。
俺は腰を上げた。リュックをはたいて、肩に掛ける。柵の向こうに緑の点が二つ、もう見えなかった。
「おやすみ、源さん」
声は出さなかった。口の形だけ作った。
俺は通路を戻った。
出入口の扉を押すと外の空気が来た。土の匂いがした。ひんやりして、少しだけ湿っている。俺は扉を静かに閉めた。
そして、暗がりに人が立っていた。
厩舎ジャンパーだった。キャップは被っていない。黒い髪が、一つに束ねられたまま肩のあたりで夜風に揺れていた。
戸川さんだった。
「……戸川さん」
戸川さんは、こちらを向いた。
「坊ちゃん」
声が、小さかった。
昼の声じゃなかった。昼の声は、丁寧で、距離があってそれでもちゃんと届く声だった。今の声は、届くか届かないかの境目でぎりぎり立っている声だった。
「帰るんですか」
「はい。もう、遅いので」
「そう、ですね」
戸川さんは、うつむいた。夜の灯りが横顔の半分だけ照らしている。
「さっきは、すみませんでした」
「え」
「きつい言い方を、してしまって」
戸川さんは、顔を上げない。ジャンパーのポケットに、両手を入れている。肩が少しだけ上がっている。
「いえ。俺が、変なことを言ったので」
「変なこと、じゃないです」
戸川さんの声が、少しだけ速くなった。怒っている速さじゃない。何かを、こらえている速さだった。
「変なことじゃ、ないんですけど」
語尾が、消えた。
「昼間、聞いた話ですけど」
俺は、黙っていた。
「知り合いの人が、父のことを」
そこで、止まった。
止まって、息を吸った。吸って吐いて、それから続けた。
「……坊ちゃん。父は、どんなふうに後悔してたんですか」




