第28話 皐月の雨
スタンドの屋根を叩く音が低く続いている。粒が大きくて、ときどき風にあおられて横から吹きつけてくる。屋根の縁から落ちる雫が、一定の間隔で柵の下に溜まった水たまりを叩いていた。4月の雨だ。冷たさはもう冬のそれじゃない。ただ、とにかく量が多い。
俺は父さんの隣で、馬主席の柵に手をかけてパドックを見下ろしていた。先週13歳になったばかりの、中学1年生だ。
馬場は芝、重。掲示板の数字が雨に濡れて、ときどき白く滲んだ。
単勝はキングスレガリアが1番人気で2.1倍。カミノイッテは13番、2番人気で3.8倍。差が開いたな、と思った。雨が降ったからだ。降っただけで人の心が動く。前世でもそうだった。天気予報ひとつで発注量が変わる商売だったから、よく分かる。
パドックの輪が、湿った地面を踏んで回り始めた。
馬たちが順に姿を現す。どれも濡れている。鹿毛も黒鹿毛も、雨を吸って一段暗い色に見えた。鬣が首に張りついて、いつもの倍ほど細く見える。
「重だな」
父さんがぼそりと言った。それきり黙った。
13番のゼッケンが見えた。
戸川さんが引いている。黒髪を束ねたうなじが、いつもより濡れて見えた。キャップのつばから滴が落ちている。あの人は傘をさしていない。両手が塞がっているからだ。
カミノイッテは、歩き方が変だった。
いつもは落ち着いて一定のリズムで踏む。今日は違う。脚を置くたびに、置いた場所を確かめるように一度止まる。泥を踏んだあとに、脚を小さく振る。振ってまた置く。置いて、また振る。あれは我慢している歩き方だ。
輪が近づいてくる。
俺の前を通りかかったとき、栗毛の耳がこちらを向いた。
「兄ちゃん」
声が来た。低い。不機嫌というより、もう諦めにも近い響きだった。
「なんだありゃ。見ろ、この脚。泥だらけじゃねえか。蹄の裏までぐちゃぐちゃだ。こんなもん履いて走る馬がいるか。俺はな、兄ちゃん、52年生きて一度もこんな汚い思いをしたことがねえんだ」
俺は表情を動かさなかった。柵を握ったまま、視線だけ馬の脚元に落とした。
栗毛の脚は、たしかに泥にまみれていた。蹄の上、球節のあたりまで黒っぽい泥がこびりついている。
「……聞いてる」
俺は唇をほとんど動かさずに返した。誰にも聞こえない声で。誰にも聞こえない声に、返事をした。
「次はもっと汚れるぞ。分かってるのか。あの坂の下はな、絶対に水が溜まってやがる。あそこを走ったら俺の脚はもう――」
声が遠くなった。馬の列がパドックの向こう側へ回り込んだからだ。
隣で、中年の男が傘の下で連れに話していた。
「重はキングスのほうが得意だろ。あっちはパワーあるからな。イッテは泥を嫌がってる。ほら、あの歩き方見ろよ。脚上げてるじゃねえか」
「見た目だけだろ。弥生賞だって稍重だったろ」
「稍重と重は違うんだよ。お前そういうの弱いよな」
俺は黙って聞いていた。否定も肯定もしなかった。
輪が1周して、また戻ってくる。
13番のゼッケン。濡れた栗毛。戸川さんの背中。
俺の前で、また耳がこちらを向いた。
「見たか兄ちゃん。今な、水たまりをわざと踏まされたんだ。わざとだぞ。あの人は悪気がねえから余計にたちが悪い。なあ、俺はな、1歳のときから泥を避けて生きてきたんだ。あの門の前のぬかるみをな、大回りして、きれいな地面だけ選んで歩いてたんだ。覚えてるだろ兄ちゃん。あの俺が、今、蹄の裏に泥を詰めて歩いてるんだぞ」
覚えている。
覚えているとも。あの春の朝、他の馬たちが泥を跳ね散らかして走り回る中で、お前だけが縁を回って歩いていた。まさか2年後、こんな雨の中でその話をされるとは思わなかった。
――皐月を勝ったら、あいつに言ってくれ。
あの夜の声が、耳の奥で重なった。
俺は柵の鉄を握り直した。
戸川さんが前を向いたまま、ふと手綱を短く持ち直した。馬の首が、少しだけ下がる。あの人はたぶん何も聞こえていない。聞こえていないのに、手だけが動く。
あの手だ。あかぎれの残った、あの手だ。
俺は目を逸らした。逸らして、掲示板の数字を見た。
キングスレガリア2.1。カミノイッテ、3.8。
「……ほんとに、嫌なんだな」
父さんが、ぽつりと言った。
「はい。たぶん、かなり」
父さんはそれ以上聞かなかった。聞かなくても分かる、という顔だった。
輪は、あと1周。
カミノイッテが俺の前を通りかかる。相変わらずの歩き方だった。まるで地面そのものを疑っているみたいに、一歩ごとに泥を確かめている。
「もうな、勘弁してくれよ兄ちゃん。蹄の裏に泥が詰まって、歩くたびにぐちゅぐちゅ言ってんだ。それをなんで今日に限って――」
声が、途中でぷつりと切れた。
2番のゼッケンが、隣に並んだ。
キングスレガリア。鹿毛の長い首が、雨に濡れてしっとりと光っている。四肢の先だけが黒い。額の細い流星が、濡れた毛の間から薄く浮き出ていた。
その馬は、カミノイッテの真横に来ると、ほんの一瞬だけ歩調を緩めた。
声は、雨の音よりもずっと低くて静かだった。
「泥は、前に出れば被らないよ」
それだけだった。
キングスレガリアは言い終えると、すぐに前を向いて、そのままするすると離れていく。長い首が揺れない。四肢の先の黒い部分だけが、泥をほとんど跳ねさせずに地面を捉えていた。
「……おい、待てこら。今なんつったお前。前に出れば被らない? はあ? 俺がなんでお前なんかに泥の走り方を教わらなきゃなんねえんだ。あの野郎、人のことを泥んこ前提で語りやがって」
源さんの声が、急に大きくなった。
前に出れば泥は被らない。合ってはいる。
俺は返事をしなかった。代わりに、柵に置いた手のひらで濡れた鉄を軽く叩いた。冷たい水が指のあいだに伝ってきた。
輪が回り切る。カミノイッテも、戸川さんに引かれて向きを変えた。
騎乗合図がかかる。白地に青い縦縞が、雨の中を歩いてくる。相沢さんが、濡れた鞍に跨った。細い体が、勝負服の上から一段冷えているように見える。
カミノイッテは耳を伏せて、それからゆっくりと歩き出した。泥を避けるように、できるだけ端の、まだ水の浮いていない場所を選んで。
その背中が地下馬道へ消えるまで、俺は黙って見ていた。
「……あの馬、返し馬も苦労しそうだな」
父さんが、隣でぼそりと言った。
「でしょうね」
雨は、まだ降っている。
俺と父さんはスタンドの前に移った。
返し馬は短かった。
カミノイッテは重い芝の上をかるく流しただけで、すぐに止まった。蹄が泥を掴むたびに、ぐちゃと低い音がして、その音のたびに耳が小さく後ろへ寝る。相沢さんは無理に走らせなかった。手綱を短く持ったまま、ただゆっくりと折り返した。
柵の前に立つと、目の前の芝が一面の泥だった。水は浮いていない。浮いていないだけで、足を取るのは目に見えていた。
「梶先生が言ってた」
父さんが、柵に手をかけて言った。
「なにを」
「重いなら重いで、走らせ方があると」
「……そうですか」
梶先生らしい言葉だな、と思った。あの爺さんは説明が長い。きっと今ごろ、どこかで誰かを捕まえて同じことをもう3回は言っている。
ファンファーレが鳴った。
トランペットの音が、雨の膜を突き抜けて中山の空に上がっていく。
馬たちが次々とゲートに収まっていく。白地に青い縦縞の勝負服が、奇数番の組で枠に入った。13番。7枠。
俺は柵を握った。
――――――――
ゲートの中は息が詰まるほど狭い。それどころか、今日は泥くせえ。
隣の馬の汗と泥が混ざって、檻の中はもう匂いだけでいっぱいだ。蹄の裏にはびっしり泥が詰まって、動くたびにぐちゅぐちゅ言いやがる。
相沢のやつが、背中で静かにしてやがる。
いつもなら、こういうとき「すみません」だのなんだの、わけの分からねえ謝り方をひとつ二つ落としていくもんだが、今日は黙って手綱を握ってやがる。
それでも、だ。
泥が、気になる。あの門の前のぬかるみを大回りして歩いてきた俺が、よりによって一番汚い日に一番汚い場所に立たされてやがる。落ち着け。落ち着けよ俺。ゲートの中で考え込むな。入ったら一礼。考えるのはその前に済ませる。分かってる。分かってるんだが、泥が。
そのとき、首に手が触れた。
相沢の手だった。
手綱を握ったままの、片手。俺の首筋を上から下へ、ゆっくりと一度だけ撫でた。荒くもねえ。乱暴でもねえ。手袋の革の冷たさが、泥で汚れた肌の上をすっと通っていく。
何も言わねえ。
「頑張れよ」も「頼むぞ」も「すみません」もねえ。ただ、手だけだ。
不思議なもんだ。あの手のひらが触れただけで、蹄の裏のぐちゅぐちゅが少しだけ遠くなった。俺の頭の中の騒がしさが、すうっと引いていく。相沢のやつ、いつの間にこんな手になった。前はもっと、震えてやがったのに。
俺は、ゆっくりと首を下げた。
一礼だ。済ませた。もう、考えねえ。走るだけだ。
ブブ、とゲートの扉が震えた。
――――――――
《スタートしました!カミノイッテも出負けせず、好発を切っています!》
《まずセプターブライトが先手を主張。2番手にキングスレガリア、3番手にサクシードが続きます。カミノイッテは好スタートから前へ。5番手、外目につけました》
俺は目を凝らして、最初のコーナーへ向かう馬群を追った。
先頭はセプターブライト。泥をものともせず、前へ前へと出ていく。2番手にキングスレガリア。鹿毛の長い首が、雨の中でやけに落ち着いて見える。
カミノイッテは5番手、外目。
あれ、と思った。
いつもなら中団の後ろ、8番手あたりでじっと我慢する馬だ。それが今日は前。相沢さんが手綱を押して、馬を前へ出したんだ。
「前につけたな」
父さんが、隣でぽつりと言った。
「はい。珍しいです」
後ろにいれば、前の馬が跳ね上げる泥を浴びる。前にいれば、浴びる泥は少なくて済む。理屈は分かる。分かるが、あの馬がこの位置にいるのは、やっぱり妙な光景だった。
1コーナーを回って、向正面へ入る。
《向正面に入りました。セプターブライト、リードはおよそ2馬身。1000mの通過は61秒8》
61秒8。重馬場なら、まずまずのペースだ。
「前に行ったのは、泥を嫌がったからか」
父さんが言った。
「たぶん、そうだと思います」
「相沢の判断か」
「だと思います」
カミノイッテはまだ動かない。相沢さんも動かさない。手綱を両手でそろえたまま、馬の首の位置を安定させている。
「5番手は初めてか」
「そうですね。少なくとも、レースでは」
「そうか」
5番手。外目。キングスレガリアは2番手。2頭のあいだには、3頭ぶんの馬体と、雨と、泥があった。
――――――――
向正面。風が前から来る。鬣が風に流されて、首の横でばたばたと鳴ってやがる。
脚はまだ軽い。息もまだ上がってねえ。前には4頭。俺はその外目を、5番手で走ってやがる。
……おかしいな、と思った。
泥が来ねえ。
前の馬の蹄が跳ね上げる泥は、たしかに飛んじゃいる。だが、顔には来ねえ。目に入らねえ。口に入らねえ。首を上げて庇う必要がねえ。走りながら前が見える。地面が見える。
ああ、そういうことかよ。
さっきのすまし顔を思い出した。雨のパドックで、俺の真横に来て、雨音より低い声で言いやがったあの野郎。
「泥は、前に出れば被らないよ」
……ちっ。
図星じゃねえか。図星じゃねえかよ、くそ。
弥生賞をすっ飛ばして、ぶっつけでここに来たやつに泥の走り方を教わっちまった。ぬかるみを大回りして生きてきた俺が、よりにもよって一番嫌いなやつに、一番大事なことを先に言われちまった。
だがな。
それを、あの若い乗り役が分かってやがった。
相沢のやつだ。あの声の小せえ、すぐ謝る若造。スタートのあと、あいつは手綱を押して俺を前へ出した。5番手まで。あのときは「余計なことしやがって」と思った。思ったが、違ったな。
悔しいのは変わりねえ。だが、この位置を選んだのも、この泥を避けさせたのも、あの若造だ。
俺は、耳を前に立てた。
前は泥が来ねえ。……乗り役、分かってんじゃねえか。
――――――――
3コーナーに差しかかったところで、馬群の形が動いた。
逃げていたセプターブライトが、内ラチ沿いで脚を鈍らせた。向正面ではあれだけ軽快に前へ出ていたのに、手応えが変わったのが遠目にも分かる。
《3コーナーです。セプターブライト、内から失速気味。代わってキングスレガリアが前に出ます。キングスレガリア先頭に立ちました》
鹿毛の長い首が、内からすっと前に出る。四肢の先だけが黒い脚が、泥をほとんど跳ねさせずに芝を掴んでいた。濡れた重い芝の上を、まるで舗装された道でも行くみたいに進んでいく。
「キングスレガリア、強いな」
父さんが、柵に手をかけたまま言った。
「はい」
そのとき、外が動いた。
白地に青い縦縞が、馬群の外へ膨らむ。
《カミノイッテ外から上がってきました!相沢動きました!3コーナー、カミノイッテ外へ進出!》
相沢さんが手綱を両手でそろえたまま、さらに外へ持ち出していた。細身の体が前傾して、ほとんど馬の首に張りつく。合図はたぶん、手綱を数センチ動かしただけだ。俺にはそう見えた。
栗毛の脚が、泥を掴んで、掴んでは弾む。顔を上げたまま走っている。あの馬は今日、一度も首を上げて泥を避けていない。泥を嫌う馬が、一番泥を被らない位置を走っている。
《残り800を切って、カミノイッテ3番手。前はキングスレガリアまで2馬身》
「来たな」
父さんが小さく言った。
「はい」
4コーナー。中山の内回りはここから一気に曲がって、短い直線へ向かう。キングスレガリアは内目。カミノイッテは外目。ロスは大きい。だが相沢さんは迷っていない。手綱の動きが少ない。体がぶれない。
《4コーナー、カミノイッテ外から並びかける!キングスレガリア先頭!外からカミノイッテ!》
並んだ。
鹿毛の長い首と、栗毛の首が、雨の向こうでぴったりと横に並ぶ。
隣で、父さんがわずかに身を乗り出した。
あの人がこんなふうに前に出るのは珍しい。柵にかけた手に力が入って、上体が半歩ぶん前へ傾いている。それだけで、今がどれだけ大事な局面か分かる。
直線に入った。目の前の芝が、泥の黒さと雨の白さの二色だけで塗りつぶされている。2頭が、その中へ飛び込んでくる。
キングスレガリアが、先に出た。
鹿毛の長い首が、ひとつ前に出る。四肢の先だけ黒い脚が、雨を切って伸びる。1馬身。内目。ラチ沿い。パドックで源さんに言った言葉と同じ静かさのまま、前へ出る。
外から、白地に青い縦縞が食い下がる。
カミノイッテが、脚を止めない。蹄が泥を掴む。跳ね上げる。離す。また掴む。泥が腹まで跳ねて、栗毛がまだらに黒ずんで見える。それでも顔は上がっている。
《直線です!キングスレガリア先頭!カミノイッテ外から追いかける!1馬身!》
俺は、柵を握った。
「行けるか」
父さんの声が、雨音に混じって聞こえた。返事はできなかった。
《カミノイッテ食い下がる!半馬身!》
カミノイッテが、外からじわじわと差を削る。キングスレガリアの首が、まだ前。でもその後ろに、栗毛の額が並びかける。白い小さな星が、雨の中で濡れて光っている。
《クビ!差はクビ!》
ほとんど並んだ。外からカミノイッテ。内にキングスレガリア。2頭の影が、泥の上で重なる。重なって離れない。
「……行け」
父さんが、低く言った。
坂だ。
中山の直線の、あの急坂に差しかかる。キングスレガリアが、そこで伸びた。泥をものともしない脚が、もう一段だけ沈んで跳ねる。内ラチ沿いを、きれいに強く、前へ。
《キングスレガリア伸びる!2頭の叩き合い!キングスレガリアか!カミノイッテか!》
キングスレガリアがまたクビだけ前に出る。カミノイッテが、外から追う。追うが、差が縮まらない。あの鹿毛の脚は、泥の中でこそ本物だった。分かっていた。分かっていたのに。
カミノイッテが食らいつく。
泥まみれの脚が止まらない。跳ねる。掴む。前へ。栗毛の首が、鹿毛の首を追いかける。離されない。クビ差のまま、坂を上がっていく。
「差せ……」
俺の声は、出ていなかった。
喉の奥で、言葉だけが潰れた。
《クビ!クビ差!キングスレガリア!カミノイッテ!2頭、並んだままゴールイン!》
2頭が、雨の中を駆け抜けた。泥を跳ね上げ、水を裂き、肩を並べたままゴール板の向こうへ消える。
スタンドが、どよめく。歓声と悲鳴が混じった。隣で、父さんが静かに息を吐いた。
「……紙一重だ」
俺は、動けなかった。
叫ばなかった。
掲示板は、まだ灯らない。
俺は雨に濡れたまま、ただ前を見ていた。
着順が灯った。
一番上に、白く光る「2」。
その下に「13」。着差、クビ。
勝ちタイム2分01秒9。馬場、重。
俺は、掲示板の「13」の上にある「2」を見た。
前世で、売上表の一番上の行に競合の名前があって、その下に自分の担当案件が載っていたときのことを思い出した。あのときも俺は叫ばなかった。ただ静かに数字を見ていた。2番目という数字は、1番目よりずっと見慣れている。見慣れすぎていて、目が痛くならない。痛くならないのが、かえって腹立たしかった。
ホープフルのとき、掲示板の一番上には「8」が灯った。その下に「2」があった。今日は、その上下が入れ替わっている。それだけのことだ。それだけのことなのに、雨の粒がやけに大きく見えた。
隣で、父さんが息を吐いた。
「……そうか」
その一言だけだった。
勝ったときも、あの人は「そうか」と言った。負けたときも、同じ「そうか」だ。だがあの人の「そうか」は、勝ちのときは少しだけ息が短くて、負けのときは少しだけ息が長い。今日の「そうか」は、長いほうだった。
俺のすぐ後ろで、中年の男が「だから言っただろ、重はキングスだって」と連れに言っていた。俺は振り返らなかった。
掲示板の「2」が、まだ白く光っている。
俺は、その「2」を見ていた。
検量室の前へ向かう足は、思ったより遅かった。
父さんが先に立って歩く。俺は半歩後ろをついていった。スタンドの屋根を離れると、雨が直接肩に当たった。
検量室の前は、静かだった。
勝ったときは、あの場所は人で溢れる。今日は違う。人の数は同じくらいなのに、声が少ない。誰も責めない。誰も喋らない。ただ、みんな黙って次の仕事をしている。
泥まみれの栗毛が、奥から引かれてきた。
戸川さんが手綱を持っている。キャップのつばから、まだ滴が落ちていた。カミノイッテの脚は、蹄の上まで泥にまみれて、球節のあたりで黒く固まりかけていた。歩くたびに、ぐちゃぐちゃ、と低い音がする。あの音を、あの馬は一日中我慢していたんだな、と思った。
カミノイッテの耳が、俺のほうを向いた。
でも、声は来なかった。
相沢さんが、馬の背からすっと降りた。鞍を外して検量室に消え、少しして戻ってきた。
泥の跳ねた勝負服のまま、父さんの前に立った。鞍を抱えている。細い体が、雨に濡れて一段小さく見えた。口を開きかけて、閉じた。もう一度開きかけて、また閉じた。
声が出ないんだ、と思った。
前の相沢さんなら、ここで「すみません」と言った。勝っても負けても、まず謝る人だった。それが今日は、口が動かない。謝る言葉より先に、別のものが喉に詰まっている。
父さんは、黙って相沢さんを見ていた。
「……おう」
相沢さんは、まだ口を開かない。鞍を抱えた腕に力が入っているのが分かった。泥の跳ねた指先が、白くなっている。
梶先生が、横から口を開いた。
「いいか、相沢」
あの爺さんの声は、雨の中でもよく通った。怒っているわけじゃない。いつもの説明口調だった。
「乗り方は完璧だった。重の中山は、向こうの庭だ。あっちはな、ああいう馬場でこそ本物なんだ。うちの馬が弱いんじゃない。向こうが強かった。それだけだ」
相沢さんが、小さく頷いた。
「……はい」
声は、まだ小さい。でもさっきよりは出た。梶先生が、その肩をぽんと一度だけ叩いた。それきり、梶先生は何も言わなかった。
カミノイッテが、鼻息をひとつ吐いた。
肩が、まだ上下している。でも、脚はちゃんと立っている。泥まみれの4本の脚が、地面を踏みしめて立っている。負けた馬の脚なのに、逃げも隠れもしていない。
俺は、少しだけ近づいた。
カミノイッテの耳が、もう一度俺のほうを向いた。
声が来た。低かった。息が、まだ整っていない。
「……泥がなきゃな」
そこで、止まった。
あの馬が、続きを飲み込んだのが分かった。飲み込んで、それから、別の言葉に差し替えた。
「負けは負けだ」
声は、平坦だった。勝ったときの高揚も、パドックでの文句も、どこにもなかった。ただ、事実を置いただけの声だった。
俺は、頷いた。
小さく、一度だけ。人には見えないくらいの高さで。
戸川さんが、ふと俺のほうを見た。
「坊ちゃん。馬、だいぶ落ち着いてきましたね」
丁寧で、距離のある声だった。
「はい。脚、ちゃんと立ってます」
「ええ。あれだけ走って、あの脚ですから。強い馬です」
戸川さんは、また前を向いた。手綱を握ったまま、カミノイッテの横顔をじっと見ていた。あかぎれの手が、泥の跳ねた手綱の上で動かない。あの人は、たぶん何も知らない。知らないまま、この馬の横に立っている。
俺は、それを言わない。
皐月を勝ったら。その条件は、満たされなかった。俺は、唇を閉じた。
関係者通路は、雨の音が屋根に遮られて、急に遠くなった。コンクリートの壁と、濡れた靴跡の匂いだけがある。
曲がり角で、人が立っていた。
銀縁眼鏡が、通路の灯りを細く反射している。仕立てのいいジャケットの肩に、雨の粒がいくつか残っていた。表彰式を終えたらしい鷹司玲司だった。その半歩後ろに、蒼真がいる。色白の顔が、通路の白い灯りの下でいつもより一段白く見えた。定規で測ったような黒い前髪が、今日は雨の湿気で少しだけうねっている。
「久世さん」
玲司が、先に頭を下げた。
「いいレースでした。ほんとに、いいレースでしたよ」
「……おう」
父さんの返事は、それだけだった。
蒼真が、俺のほうを見た。
「久世君」
声が、少しだけ上ずっていた。勝ったあとの人間の声だ。悪気はない。悪気はないんだが、抑えきれないものが声に出てしまう。
「見たかね、久世君。僕の家の馬が勝ったよ。クビ差だったけど、勝ちは勝ちだ。皐月賞だよ。GⅠだ。君の馬もよく走ったとは思うけどね。最後はうちの馬のほうが一枚上だった」
俺は、何も言わなかった。
「蒼真」
玲司が、静かに言った。
「父様、でも」
「クビだよ、蒼真。次の府中で、どっちに転ぶか分からない」
「うちの馬が強いのは、今日の雨のおかげでもある。道悪が得意なのは、あの馬の長所だ。でも府中の芝は今日とは違う。2400は、もっと違う」
蒼真が、口を開きかけて閉じた。拳を、ズボンの横で握っているのが見えた。
「……分かったよ、父様」
蒼真は、俺のほうをもう一度見て、何か言いかけてやめた。
「……ほんとに、いい馬です」
玲司が、もう一度だけこちらを向いた。
「ほら、ほどほどの牧場の馬にしてはよく走った」
玲司は、そこで一度、言葉を切った。
「うちの馬がどのくらい走れるのか、ようやく測れました。カミノイッテ君は、ちょうどいい物差しになってくれましたよ」
俺は、黙っていた。
腹の底のあたりがすうっと冷えていくのが分かった。怒りではない。悔しさでもない。ただ、冷える。
父さんは、玲司の顔を見ていた。
「……そうか」
玲司は、ふっと口元をゆるめた。
「では、次の府中で。楽しみにしていますよ」
玲司は父さんに軽く頭を下げて、蒼真を促すように通路の先へ歩き出した。
通路の奥から、蹄の音が近づいてきた。
泥を吸った蹄が、コンクリートの上で低く鳴っている。検体採取所から戻るのか、厩務員が、手綱を短く持って歩いてくる。その横に、鹿毛の長い首があった。
キングスレガリアだった。
俺の前を通りかかったとき、その馬は、ふと立ち止まった。
厩務員が、手綱を引いた。だが動かなかった。長い首が、ゆっくりと俺のほうを向く。静かな目だった。勝った馬の目じゃなかった。
声が来た。
雨の音よりも、ずっと低かった。
「あの騎手、本当に上手くなった」
それだけだった。
俺は、何も言わなかった。父さんが、半歩後ろにいる。厩務員が手綱を握っている。俺は、口を閉じたままにした。
キングスレガリアはもう一度だけ俺を見て、それから前を向いた。泥の跳ねたゼッケンが、通路の灯りの中を遠ざかっていく。
「……行くぞ」
父さんが、ぼそりと言った。
「トイレ、行ってきます」
父さんは、振り向かなかった。
「……そうか」
俺は通路の分かれ道で、父さんの背中から離れた。
一人になった。
雨の音が、屋根の向こうでまた近くなる。俺は、壁伝いに歩いた。曲がり角の先、立入禁止の柵の向こうに、検体を取る馬房の灯りが見えた。あの灯りの下に、栗毛がいる。
俺は、柵の手前の軒下に立った。
雨はまだ降っている。
軒の端から、切れ目なく雫が落ちている。
長靴に水が入った。冷たい。
足の指が、じんとしている。
匂いがする。藁と、濡れた馬。
掲示板の数字が、頭の奥に残っている。
「2」の下に「13」。
俺は、一度だけ口を開いた。
「……悔しいな」
声は、雨の音にすぐ溶けた。
馬房の中で、藁がかさ、と鳴った。
それから、低い声が来た。
「兄ちゃん。約束、なしな。負けたからな」




