第33話 ミー坊
ダービーの4日前。美浦。
朝の空気はまだ涼しくて厩舎の壁に貼りついた夜の匂いが薄く残っていた。俺が馬房の前に立つと、源さんは寝藁の上からゆっくり近づいてきて、鼻先を柵の向こうに突き出した。
「おう、兄ちゃん。学校はどうした」
声の調子は低い。朝イチから説教の気配がする。
「休みました」
「休みました、じゃねえよ。中学生が平日に何してんだ。親に何て言った」
「父さんが梶先生に話を通してくれました」
「あの親父さんは甘いんだよ。ったく、馬主の息子だからってよぉ、学校休んで厩舎入り浸ってる場合か」
源さんは鼻を鳴らしてそれから首を振った。振りながら、何か言いたそうに耳を前後に動かしている。照れ隠しだ。この人は照れると怒ったふりをする。四足になっても隠せないらしい。
俺は黙って立っていた。反論はしない。したところでこの人の口は止まらない。
「だいたいな、兄ちゃん。ガキのうちはよ、ちゃんと教室で席に座って、黒板の字でもノートに写してりゃいいんだよ。競馬なんざいつでもできる。俺なんか40年かけて、」
そこで源さんの声が、ぷつんと途切れた。
目が、扉のほうに向いていた。
馬房の扉の、ちょうど馬の目の高さ。先週、戸川さんが貼っていった写真。府中の競馬場のスタンドで、新聞を丸めた男と俯きがちな女の子が並んでいる写真。
源さんは動かなかった。鼻先が柵の上に置かれたまま、黒い目だけが写真を捉えている。
風が通路を抜けた。干し草の匂いが流れて、写真の角がかすかに揺れた。
「戸川さんは、自分から聞きに来ました」
俺は言った。
「俺の仕事は、つなぐことです」
源さんは答えなかった。長いあいだ黙ったまま、写真を見ていた。それから右前脚が持ち上がった。
どん。
どん。
どん。
地面が3回、短く鳴った。
「……ミー坊って、呼んでたんだ」
源さんの声は馬房の中に落ちた。乾いた藁が、その音を吸い込んでしんとした。
通路の向こうから足音がした。速い。乾いた床を蹴る音で、誰か分かった。
戸川さんだった。手袋を片方外したまま、もう片方はめたままでまっすぐ俺の前に立った。息が少し上がっている。走ってきたわけじゃないだろう。早足で来たんだ。
「坊ちゃん」
前置きがなかった。目がまっすぐ俺を見ている。
「……聞かせてください」
俺は答えなかった。代わりに、横の柵へ目をやった。
源さんは静かに立っていた。鼻先を柵の上に置いて、耳を戸川さんのほうへ向けている。いつもの説教の構えじゃない。じっと、待っている顔だった。
「この子の中身は」
俺は言った。声が思ったより低かった。
「源三さんです」
戸川さんの顔が、こわばった。皮膚の下で何かが固まる音が聞こえるみたいだった。
「……そういう冗談は」
早口だった。言葉が重なって出てくる。
「やめてください。ここは仕事場です。馬主さんの息子だからって、そういう冗談に付き合うほど私は」
語尾が切れた。切れて、唇が少し震えた。
俺は何も言わなかった。
弁解する材料を俺は持っていない。持っているのは、この馬房の中に立っている1頭と、その人の言葉だけだ。
戸川さんの視線が俺から外れて、源さんのほうへ動いた。動いて、止まった。
どん。
源さんの右前脚が持ち上がった。
どん。
どん。
3回。地面が短く鳴って、それから静かになった。
戸川さんの手が、ポケットの上で止まった。
俺は黙って、源さんのほうを見た。
この人は今何を言うつもりなのか。40年分の何かを、たった3回の音のあとに続けて、今、口にしようとしている。
俺は待った。
源さんは写真から目を離さなかった。鼻先は柵の上に置いたままで、耳だけが俺のほうを向いている。
「兄ちゃん。伝えてくれ」
声は低かった。いつもの説教の調子じゃない。腹の底から絞り出すような音だった。
「府中の帰りにな、ミー坊に買ってやったのはたこ焼きじゃねえ。ソースせんべいだ。たこ焼きは高かったからよ」
俺は戸川さんのほうを向いた。
「ソースせんべいだったそうです。たこ焼きは高かったから、と」
戸川さんの顔が止まった。止まったまま、まばたきもしない。唇が半分開いた形で固まっている。
源さんの右前脚が持ち上がった。
どん、どん、どん。
地面が短く鳴って、それから静かになった。
「あの日、買った馬券はよ。ミー坊の誕生日の、5-12だ。外れた」
俺はそのまま繰り返した。声は平熱のままだった。自分の声が妙に遠く聞こえた。
「5月12日。誕生日の数字で買った馬券。外れた、と」
戸川さんの膝が、落ちた。乾いた床に革の手袋が落ちる音がした。片手で口を押さえている。指の隙間から息が漏れている。たぶん、2人だけの記憶だった。
源さんは続けた。目は写真のままだ。
「次は当てるって、言ったんだ。ミー坊に。当てて、でけえもん買ってやるって。……当ててねえ」
俺は柵を握っていた。いつの間にか、指が白くなっていた。手のひらに木のささくれが刺さる感覚があった。それでも声は平熱のままだった。
「次は当てるって、言ったそうです。当てて大きいものを買ってやるって。……当てられなかった、と」
戸川さんは床に片膝をついていた。口を押さえたまま、肩が震えている。声は出していなかった。厩舎の通路に、遠くの蹄音だけが響いている。
源さんが、ゆっくりと首を下げた。柵の上から、戸川さんを見下ろす形になった。馬の目は、ずっと彼女を見ていた。
「……ミー坊」
俺はその言葉を、伝えなかった。伝える必要がないと思った。聞こえるはずのない声が、聞こえたような顔をしていたからだ。
戸川さんはゆっくりと立ち上がった。膝が笑っているのか、少しだけよろけた。手袋を拾うのも忘れて、馬房の扉の前に立った。
金具を外す音がした。扉が開いた。
彼女は中に入った。干し草を踏む音がした。カミノイッテは動かなかった。首を下げたまま、じっと待っていた。
戸川さんは、その首に、額をつけた。
俺は柵の外で、黙ってそれを見ていた。手はまだ柵を握ったままだった。
戸川さんの肩が震えていた。額をつけたまま、声が漏れる。
「なんで来なかったの」
馬房の中に落ちる声だった。俺は柵の外で聞いていた。
「なんで。招待状、出したのに。母が出したのに」
源さんは動かなかった。首を下げたまま、じっと受けている。
「なんで今さら馬なの。ねえ。しゃべってよ。しゃべれるんでしょ。坊ちゃんに聞こえてるんでしょ」
戸川さんは顔を上げた。目の縁が赤い。俺のほうを見た。
「坊ちゃん。この人、何て」
俺は源さんを見た。源さんは右前脚を一度だけ上げて、下ろした。叩かなかった。
「悪かった、って」
俺は言った。それだけだった。
戸川さんの顔が歪んだ。
「悪かったって。それだけ?」
源さんは目を細めなかった。まっすぐ見ていた。
「それだけだ。今は」
低い声だった。俺はそのまま伝えた。
「今は、それだけだって」
戸川さんは拳を作った。干し草の上で、握りしめている。
「ずるい。ずるいですよ、そんなの。何年ぶりに会って、悪かったの一言だけ?」
源さんは鼻で息を吐いた。長い息だった。
「言いてえことは山ほどある。あるけどよ、今ここで全部言ったら俺はたぶん走れなくなる」
俺は少し迷って、それを通訳した。
「全部言ったら走れなくなる、って」
戸川さんは黙った。黙ってそれから小さく笑った。笑ったというより、息が笑いの形になっただけだった。
「なにそれ。都合いい」
源さんは答えなかった。代わりに首を少しだけ上げて、俺のほうへ耳を向けた。戸川さんに背を向けるようにして、小声で言った。
「残りは、ダービーの後だ」
俺は頷いた。声にはしなかった。
戸川さんはまた何か言いかけて、やめた。やめて馬の首に手を当てた。撫でるというより、確かめるみたいに。
源さんは鼻先を彼女の肩に置いた。俺はそれを見てから、柵から手を離した。
俺がここにいる理由はもう終わった。あとはこの2人の時間だ。
俺は黙って通路を歩いた。扉を閉める音を立てないように気をつけた。馬房の外に出ると、朝の光がまだ白かった。
厩舎の入口のベンチに座った。木の板が古くて、座ると少しだけ沈んだ。遠くで馬場のほうから蹄の音がして、誰かが馬を洗っている水音がした。時計を見たら、まだ9時だった。
昼になった。母さんが事務所から出てきて、おにぎりをくれた。戸川さんは他の馬の仕事に追われて、顔を出さなかった。
午後、梶先生が馬房の前を通った。中を覗いて、何も言わずに歩いていった。あの人はこういうとき、何も言わない。
3時を過ぎた。4時になった。風が変わるのが分かった。
5時近く。夕方の光が厩舎の壁を橙色にしていた。
そのとき、馬房のほうから声がした。
戸川さんの笑い声だった。短くて、少し掠れていて、でも確かに笑っていた。
俺はベンチに座ったまま、空を見た。
戸川さんが厩舎から出てきた。
キャップをかぶり直していて顔はまっすぐ前を向いている。目が赤い。でも、足取りはふらついていなかった。俺の隣に立った。立ったまま、黙って空を見るでもなく厩舎の壁の傷を見るでもなく、ただ立っていた。
夕方の風が吹いて、彼女のジャンパーの裾が少しだけ揺れた。
「坊ちゃん」
声は低くて、でも震えてはいなかった。
「はい」
俺も前を向いたまま答えた。
戸川さんは一つ息を吸ってそれから言った。ゆっくりと、たしかめるように。
「日曜、私が引きます。……父を、パドックで」




