第八話 始まりを待つ大地
王都からの先触れが届いたのは雪の気配が近づいた夕方だった。
使者は、王家の紋章が入った筒をイザルクに差し出した。私はその場にいなかったが、あとで呼ばれて書状の内容を聞かされた。
「アルヴィノール家のベルガント卿が、王都からの支援物資を伴ってノーヴェラントを訪れるそうです」
イザルクはそう言った。
机の上には開かれた書状が置かれていた。冬越えの状況確認。辺境支援のための物資搬入。領地の困窮を聞き、必要な助力を行うため現地の様子を直接確認したい。
丁寧な言葉で綴られていた。一瞬、私のことを心配して様子を見に来るのかと思ってしまったが、私のことは書かれていなかった。
「同席なさいますか」
イザルクに尋ねられたが、私はすぐには答えられなかった。
会いたくない、と思った。父の顔を見たくなかった。この辺境にまであの白い大聖堂の沈黙が入り込んでくる気がした。けれど、逃げたいとは思わなかった。
王都を出た夜、私は裏門から人知れず追い出された。ミレイアが戻る前に、泥のついた馬車へ乗せられた。
今度は違う。
父は、正式な使者として正面から来る。なら、私もこの地にいる者として正面から会わなければならないと思った。
「同席します。ぜひとも、イザルク様の場に同席させてください」
「分かりました。ベルガント卿は王都からの使者として来られます。ここで客を迎えるのは、私の役目です。セレイス様はただ私の傍らで控えていてくださるだけで大丈夫です。決して無理はなさらないように」
その言葉に、胸が少しだけ落ち着いた。
私は父の娘としてそこに立つのではない。
ノーヴェラントで生きている者として領主の場に同席するのだと思った。
父がノーヴェラントへ来たのはそれからしばらくしてからだった。
雪の前の冷たい朝だった。
屋敷の自室から窓の外に王都の馬車が見えた時、私はすぐに父だと分かった。馬車の形も車輪の飾りも御者の服もここには似合わなかったからだ。ノーヴェラントの土の道を進むには少し派手で、乾いた風の中では少し重く、屋敷の古びた門の前に止まると、そこだけ王都の一部がやってきたようだった。
馬車には物資が積まれていた。
麦袋、塩、薬草、少しの布。行商人も同行している。見た目だけなら王都から辺境への支援だった。
私はそれを見て、胸がさわいだ。
支援。
助力。
状況確認。
書状には、そう書かれていた。
それが嘘だとは思わない。
けれど、父の訪問がそれだけで終わるとも思えなかった。イザルクやダルガの話では、これまで王都がこういったことをしてくれたことはないと言っていたからだ。
イザルクが先に玄関へ出た。
私はその少し後ろに立った。
父が馬車を降りる。礼装ではないが、王都の貴族らしい整った外套を着ていた。長旅で汚れがついているが、それでも袖口も襟元も崩れていない。父は昔からそういう人だった。どこにいても自分が乱れているようには見せない。
「ベルガント卿。遠路はるばる、ようこそお越しくださいました」
イザルクが頭を下げた。
「ヴェイン卿。急な訪問を受け入れていただき感謝する。王都としてもノーヴェラントの冬越えを案じている」
父の声は穏やかだった。王都で聞いていた声だった。人前で使う、よく通る声。その声のままに、父が私の方を見た。
「セレイスも元気そうだな」
「ようこそお越しくださいました、お父様」
私は頭を下げた。
娘としてではなく、客を迎える側の者として。
父は一瞬だけ目を細めた。私がイザルクの後ろではなく、隣に近い位置に立っていることに気づいたのだと思う。けれど、何も言わなかった。
父はまず運ばれてきた物資を確認した。
麦袋、塩、薬草、布。
イザルクは礼を述べ、倉へ運ばせる手配をした。使用人たちは王都の者たちほど洗練されてはいない。けれど、誰も慌てていなかった。荷の置き場も決まっている。帳簿を持った者が数を確認し、別の者が荷を倉へ運んでいる。
父の眉が、ほんの少し動いた。父はその様子を見ていた。
思っていたものと違ったのだろう。
食料に困っている辺境。
王都からの支援に縋るしかない不毛の地。
父は、きっとそう思って来たのだと思う。
けれど、ここは父が思っていたほどひどい場所ではなかった。
貧しいし、足りないものは多い。
冬はとても厳しい。
それでも、この街はただ王都からの救いを待っていたわけではない。誰かが荷を数え、誰かが薪を積み、誰かが倉を守り、誰かが畑の記録をつけている。芽が出たあとのことを自分たちでやっている。
その後、イザルクは父を屋敷の中へ案内した。
豪華ではない。王都の屋敷とは比べものにならない。壁にはひびがあり、窓は小さく、床板はところどころ軋む。けれど、炉には火があった。壁には厚い布が掛けられ、床には獣皮が敷かれている。台所の方からは芋と肉を煮る匂いがした。
父は、その匂いを嗅いだようだった。
寒くない。
飢えてもいない。
贅沢はできない。十分でもない。けれど、ここには冬を越すために整えられた暖かさがあった。父の前提が、玄関をくぐった時点で少し揺れたのが分かった。私はそれを見て初めて父の表情を読めた気がした。
王都では、父の顔を見るのが怖かった。笑ってほしくて、褒めてほしくて、でもいつもミレイアの方を見ている父を追いかけていた。
今は違う。
父は、王都から来た使者だった。
ノーヴェラントの状況を確かめに来た人だった。
だから、私も父を父としてだけ見る必要はなかった。
「思ったより整っているな」
父は椅子に座る前にそう言った。
「セレイス様の祈りで最初の芽が出ました。その後は、領民が畑を守りました。収穫は多くありませんが、冬を越す見込みは立っています」
「――ほう。倉を見ても?」
「もちろんです」
イザルクは静かに頷いた。
それから父は、まず倉を見に行った。
芋と豆の袋。干し肉。春のために残した種。薬草の束。薪の積み方。毛織物の数。どれも豊かとは言えない。けれど、空ではなかった。足りないものはあるが何が足りないのかをイザルクは把握していた。誰が何日分を受け取り、どの倉に何を残すかも記録されていた。
父の問いにイザルクは一つずつ答えた。
私はその横で聞いていた。
父の声は変わらない。穏やかで、冷静で、必要なことだけを確認している声だった。けれど、質問が進むほど父の沈黙が少しずつ長くなっていく。
ノーヴェラントは飢えている。
王都の物資に縋る。
そういう前提で来たのなら、その前提は倉の前で少しずつ形を失っていったはずだった。
イザルクが最後に案内したのは、私が最初に祈った畑だった。
収穫はすでに終わっている。灰色だった土地にはまだ掘り起こした跡が残っていた。低い柵があり、鳥除けの紐が風に揺れている。ダルガが遠くでこちらを見ていた。外套に土をつけ、帽子を手に持っている。
父は畑を見た。
何も言わなかった。
たぶん、父には大きな奇跡には見えなかったのだと思う。王都でミレイアが起こすような、光に満ちた奇跡ではない。畑一面に花が咲き乱れているわけでもない。倉を溢れさせるほどの実りがあったわけでもない。ただ、死んだと思われていた土から食べられるものが取れただけだった。
でも、ここではそれが冬を変えた。
父にそれが分かるだろうか。
しばらく様子を見ていたが、父の目から少しずつ関心が薄れていくのが分かった。
自然と小さくため息が出た。
屋敷へ戻ると、正式な話し合いの席が設けられた。
イザルクが領主として上座に近い席へ座り、父が王都からの使者として向かい合った。私はイザルクの隣に控える形で座った。
父はしばらく黙っていた。
倉を見た。
薪を見た。
畑を見た。
ノーヴェラントが、王都から見たほど単純な困窮地ではないことを父も理解したのだと思う。それでも、父は用件を変えなかった。
「……ヴェイン卿。ノーヴェラントの状況は理解した。王都としても、可能な支援は続けるつもりだ」
「感謝いたします」
「その上で、セレイスを一時的に王都へ戻したい」
部屋の空気が、静かに固まった。
そこでようやく分かった。
父はノーヴェラントの様子を見に来たのではない。
王都に必要になったものを取り戻しに来たのだ。
「王都では、聖女の祈りに遅れが出ている。ミレイアとセレイスが共に祈れば歴代聖女と同じ奇跡が戻る。国のためだ。家のためでもある」
国のため。
家のため。
妹のため。
以前なら、その言葉で私は黙ったかもしれない。自分の痛みより大きなものを差し出されるとそれを押し返すことができなかった。
けれど、今は隣にイザルクがいた。
部屋の外にはダルガたちの気配があった。
私は一人で父と向かい合っているのではなかった。
「……ベルガント卿」
イザルクが口を開いた。
「セレイス様は、すでにノーヴェラントに必要な方です」
父の目が細くなった。
「これは国の話だ」
「承知しております」
イザルクは頭を下げた。礼は崩さない。けれど、引かなかった。
「――ですが、ノーヴェラントもまたリュゼルク聖律国の一部です。この地の冬を越すことも、国の話でございます」
父は黙った。その沈黙の中で、私は初めてイザルクが領主なのだと実感した。彼は私を庇っているだけではない。王都から遠く、荒れた客人用の屋敷しか用意できなくとも、不毛の地と呼ばれてきた場所をそれでも自分の領地として背負っている。
「王都からの支援には感謝いたします。けれど、その支援と引き換えにセレイス様を連れ戻すというのであれば、それは救援ではありません。――取引です」
「ヴェイン卿。言葉を選ばれよ」
父の顔が強張った。
「選んでおります」
イザルクの声は静かだった。
「だからこそ、取引と申し上げました。脅しであるとは申し上げておりません」
部屋の空気がさらに冷えた。
私は思わず息を止めた。
イザルクは怒鳴らない。責め立てもしない。けれど、その言葉は少しも退かなかった。王都で見た貴族たちのように、華やかな言い回しで相手を飾ることはしない。必要なところにだけ刃を置くような話し方だった。
「セレイス」
父は、ゆっくりと私を見た。肩がびくりと震えた。昔から父が私の名を呼ぶ時は、褒める時ではない。注意する時。諭す時。自分の言葉を聞かせる時だった。
「お前の力は小さい。ここで多少役に立ったとしても、王都でミレイアと共に祈ってこそ意味がある」
「小さい……」
私は父の言葉を繰り返し呟いた。
その言葉はもう何度も聞いたはずだった。
それなのに、やはり鋭く胸に刺さる。けれど、痛みの強さは前とは違った。王都にいた頃ならその言葉で私は俯いた。やはり私は足りないのだと思った。父が言うなら、神官が言うなら、国がそう判断するなら、そうなのだろうと思った。
でも、今は違う。
小さいと言われたその力でノーヴェラントは冬を越そうとしている。
小さいと言われた芽を三年待っていた人たちがいる。
「小さいだと?」
私より先に、扉の外で誰かが動いた。
低い声がした。
ダルガだった。
扉が開き、彼が入ってくる。外套には土がついていた。手は荒れている。その手で彼は帽子を握っていた。イザルクや私のことが心配できっと聞き耳を立てていたのだろう。
父は驚いたように振り返った。辺境の民が、アルヴィノール家の当主の話に口を挟むなど思っていなかったに違いない。
イザルクが一度だけダルガを見た。その目は、咎めるものではなかった。入るなら今だと、黙って許したようだった。
ダルガは父を見た。怯えや震えはなかった。礼儀も、王都のものとは違った。けれど、彼は辺境の地に
生きる者として胸を張って立っていた。
「あんたらが小さいと捨てたもので、俺たちは冬を越すんだ」
「――無礼な」
父の頬が引きつった。
「無礼で結構だ」
ダルガは引かなかった。
「こっちは三年、芽を待ってた。種を替えても、水を運んでも、薬を買っても、土から芽は出なかったんだ。それを、この人は生み出したんだ。あんたらには小さいのかもしれん。だが、俺たちには始まりなんだ」
私は息が止まった。
はじまり。
その言葉を、ダルガが父の前で言った。
王都では誰も言ってくれなかった言葉だった。
母だけが、最初の一つは大切だと言ってくれた。けれど母の言葉は、神官たちの前で押し返された。父にも届かなかった。今、土の匂いのする男が父に向かって同じことを言っている。私の芽は、始まりなのだと。
「この人を連れていくなら――あんたらはまた、俺たちから最初の一つを奪うんだな」
胸が熱くなった。
私は邪魔者ではなかった。
影ではなかった。
誰かの幸福を曇らせるだけの存在ではなかった。
イザルクは、領主としてこの土地を守ろうとしている。
ダルガは、土を触ってきた者として私を守ろうとしている。
王都でいなくなれば助かると言われた私が、ここではいなくなると困ると言われている。
それだけのことなのに、息がうまく吸えなかった。
「――お父様」
私は言った。
声は震えていた。
でも、出た。
「私は戻りません」
「王都を見捨てるのか」
父は言った。
その言葉は重い。
国。
家。
聖女。
王都。
私が生まれてからずっと、大きなものとして見上げてきた言葉だった。
けれど、その大きな言葉の下で小さなものが踏まれることを私はもう見てしまった。
ノーヴェラントの子どもの細い腕。
痩せた人々の顔。
何度も直された柵。
使われていなかった客人用の屋敷。
祈るしかなかった教会。
それらも国の中にあるものだった。
王都だけが国ではない。
そう言えるほど私はまだ強くない。
でも、そう思い始めていた。
「王都へ送る種に、最初の芽を呼ぶことはできます。必要な祝福も送ります。できる限りのことはします。でも、戻りません」
「セレイス、お前は分かっていない。ミレイアと共にいればお前の力は完成する」
「完成しなくても――」
私は父を見た。
「ここでは、始めることに意味があります」
父は理解できない顔をした。
当然だ。
父は私を見ていなかった。
王都にいた時も。
今も。
父が見ているのは聖女の力の使い道であり、アルヴィノール家の役目であり、王都が必要とする結果だった。私ではない。
「私は――ここに残ります。この土地は、私の芽を待ってくれますから」
「そうか。それならば好きにするがいい」
交渉は決裂した。
父は最後まで納得しなかった。怒りを押し殺した顔で、王都から持ってきた物資の扱いについてイザルクと短く言葉を交わした。支援物資の一部はノーヴェラントに置かれ、残りはまた馬車へ積まれた。支援のために来たはずの馬車は、行きより少しだけ軽くなっていたけれど、父の顔は行きよりずっと重く見えた。
私は屋敷の前に立ち、馬車を見送った。
王都を出た夜、私は裏門から追い出された。
誰にも見られないように泥のついた馬車に乗せられ、ミレイアが戻る前に家を出た。
今、私は正面から父の馬車を見送っている。
それだけで何かが違った。
馬車が遠ざかる。白く塗られた車輪に、ノーヴェラントの土がついていた。王都へ戻る頃には落ちてしまうかもしれない。それでも、今は確かについていた。
「――で、聖女様」
ダルガが隣に立った。
「聖女ではありません」
反射のように言った。
ダルガは笑った。
「俺たちには聖女だ」
私は返事ができなかった。
王都で欲しかった言葉だった。
でも、王都で欲しかった形とは違った。白い衣もない。聖樹の花もない。王太子の隣でもない。神殿の認定もない。灰色の土の上で、荒れた手の男がそう言っただけだった。
イザルクも、少し離れた場所でこちらを見ていた。
彼は何も言わなかった。けれど、静かに頭を下げた。王都の作法ほど美しくはなかった。けれど、領主が自分の土地に残る者へ向ける礼だった。
「冬を越したら北の畑を見る」
ダルガは畑の方を向いた。
「あそこも、まだ死んじゃいねえかもしれん」
まだ何もない土だった。
けれど、もう怖くはなかった。
何もないように見える場所にも、始まりを待っているものがあるのかもしれない。
私は父の馬車が消えた道から目を離し、ノーヴェラントの畑を見た。
乾いた風が吹いた。
その中に、かすかに土の匂いがした。




