第七話 呼び戻し
セレイスが辺境の畑の向こうに王都を思っていたころ、その王都ではすでに小さなずれが大きくなっていた。
食料がまったくないわけではない。倉は空ではなく、商人たちの荷馬車も道を閉ざしたわけではない。けれど、足りない。
王都の暮らしは、長い間、聖女の速度を前提に組まれてきた。種を蒔けばすぐに芽が出て、祈れば育ち、予定された日に実りが倉へ運ばれる。その流れが少し遅れただけで街のあちこちに小さなずれが生まれた。
市場の麦は値が上がった。
薬草は届く量が減った。
冬支度のための金は、食料の買い足しに使われた。
薪を買うはずだった家が麦を買った。毛織物を買うはずだった家が干し肉を買った。
王宮ですら夜の火を減らし、貴族の屋敷でも使わない部屋の暖炉は落とされた。
まだ本格的な冬ではない。それでも夜になると石壁が冷たくなり、子どもたちが薄い毛布を奪い合うようになった。誰も飢え死にしたわけではない。けれど、誰もが少しずつ我慢している。その少しずつが積み重なって王都全体の空気を冷たくしていった。
白い石畳は今日も水で洗われていた。
聖水路には清らかな流れがあった。
大聖堂にはまだ花の香りがあった。
それなのに人々の顔から余裕が消えていく。
アルヴィノール家でも父ベルガントの声が荒くなった。
「なぜ薪がこれだけしかない」
使用人は頭を下げるしかなかった。
屋敷の倉が空になったわけではない。食卓から料理が消えたわけでもない。けれど、昨年と同じようにはならない。それだけで父の眉間には深い皺が寄った。
「去年はもっと暖かかった。聖女は何をしている」
その言葉に、ミレイアの肩が震えた。
父は、言ってからようやく娘を見た。けれど、取り消さなかった。父にとって聖女とは、国を支え、家を誇らせ、必要な結果を出す者だった。ミレイアはその期待を背負っている。セレイスでは届かなかった場所に立ったのだから結果を求められるのは当然だと、父は思っているのかもしれない。
ミレイアは何も言わなかった。反論すれば、父の失望を正面から受けることになる。私は悪くない、と言うこともできなかった。なぜなら、自分だけでは始められないことをミレイア自身がもう知っていたからだ。
神殿でも、王家でも、ミレイアへの声は少しずつ強くなっていた。
なぜ芽が出ない。
なぜ去年と同じようにできない。
真の聖女ではなかったのか。
直接そう言う者は少ない。けれど、視線は言葉よりはっきりしている。大聖堂でセレイスが立っていた場所に、今度はミレイアが立たされていた。
光は出る。
花は咲く。
実りも呼べる。
けれど、始まりがない。
その事実だけが誰の言葉より重かった。
王家と神殿は何度も話し合った。
最初は、原因の調査という名目だった。土の状態、種の質、水脈の変化、結界の揺らぎ。農官も神官も記録を持ち寄った。けれど、どの記録を広げても同じ場所に空白があった。
セレイスがいない。
誰も最初からそう言おうとはしなかった。言ってしまえば、認定式の日に何を見落としたのかを認めることになる。王太子との婚約を破棄し、王都から遠ざけた娘こそが王都の仕組みに必要だったのだと認めることになる。
だから、遠回りをした。
土を調べた。
水を調べた。
種を調べた。
季節のせいにし、結界の揺らぎのせいにし、農官の見落としを疑った。それでも最後にはそこへ戻るしかなかった。
歴代聖女は一人で始め、一人で広げ、一人で実らせた。けれど今代は違うのではないか。最初の一つを生む力とそれを咲かせる力が、双子に分かれていたのではないか。
母オルレイアが何度も訴えていたことをようやく皆が思い出した。
だが、それだけだった。
誰も、あの時なぜ聞かなかったのかとは言わなかった。マルゼリウス大神官は、長い沈黙の後に口を開いた。
「セレイスを呼び戻す必要があります」
その言葉は、あまりにも遅かった。
けれど王都では、遅いことも、必要になれば正しい判断として扱われる。昨日まで不要だった者も今日必要になれば国のためという言葉で呼び戻せる。
それに、ノーヴェラントも困っているに違いない。
あの不毛の地が、王都より楽に冬を越せるはずがない。物資を届けて、支援を約束する。そして、その代わり、セレイスを王都へ戻す。
名目は救援。
実態は帰還命令。
その形なら王都は自分たちの過ちを認めずに済む。セレイスを必要としているのではない。困窮した辺境を救い、その見返りとして王都に必要な力を戻すのだ。そう言えば、誰も頭を下げずに済む。
交渉役に選ばれたのはベルガントだった。
自分が送り出した娘を自分が連れ戻しに行く。
そのことを父がどう考えたのかは分からない。後悔ではなかったのだと思う。父は後悔する人ではない。必要な時に、必要な判断をしたと自分に言える人だった。
あの時は、セレイスを王都から遠ざける必要があった。今は、セレイスを王都へ戻す必要がある。父の中ではそれだけなのかもしれない。
出発前、父はミレイアの部屋を訪れた。
ミレイアは白い聖女の衣を着ていた。美しい衣だった。けれど、その顔は以前より青白く、目の下には薄い影があった。何度祈っても光は美しい。美しいからこそ、できないことがはっきりする。その疲れが白い衣の内側に少しずつ溜まっていた。
父はそれに気づいたのか、気づかないふりをしたのか、いつものように背筋を伸ばして言った。
「心配するな。セレイスも国のためなら戻る」
ミレイアは何も言えなかった。
戻ってきてほしい。
そう思った。
けれど、その言葉を口にすればまた姉を傷つけてしまう。姉の芽がなければ自分は始められないのだと認めることになる。
お姉様。
心の中で呼んだ。
返事はない。
姉がいなくなった夜、ミレイアは何も言えなかった。白いドレスを着て、王太子の隣に立ち、祝福の言葉を受け取っていた。
今さら戻ってきてほしいなんて、どの口で言えばいいのだろう。
ミレイアは膝の上で指を握った。白い袖に、また皺が寄った。
父の馬車が王都を出ていく音を遠くで聞いた。
王都の鐘は鳴らなかった。
聖女を迎えに行くための旅ではない。
王都が、一度捨てたものを必要になって取り戻しに行く旅だったからだ。




