第六話 姉のいない聖女
セレイスがいなくなってからも王都では花が咲いた。
ミレイア・アルヴィノールが神殿の庭で祈れば固く閉じていた蕾は開いた。王宮の泉で祈れば水面は澄み、古い結界杭に触れれば細くなっていた光は広がった。人々は笑い、神官たちは安堵し、王太子ルディアスは彼女の隣で誇らしげに頷いた。
やはり真の聖女だ。
誰もがそう言った。
ミレイアは、その言葉を聞くたびに微笑んだ。聖女として相応しく振舞った。喜びすぎても、傲慢に見えても、怯えてもいけない。人々が望む聖女は、優しく、慎ましく、そして確かに救える者でなければならない。
その顔を作るのはもう慣れていた。
幼い頃からそうだった。姉が芽を出し、自分が花を咲かせる。父が笑う。神官たちが安堵する。そのたび、ミレイアは胸を撫で下ろした。
姉の傷を知らなかったわけではない。
セレイスが芽を出した時、誰も笑わなかったことをミレイアは覚えている。自分が花を咲かせた瞬間、大人たちが自分の方へ集まってきたことも覚えている。姉の腕の中から離れて、大人たちの輪の中へ入っていったことも覚えている。だから、それ以上、姉を傷つけたくないと思った。
けれど、聖女である自分を手放すこともできなかった。
父が自分を見る目を失いたくなかった。
神官たちの安堵を失いたくなかった。
皆が自分に向ける祈りは重くて怖いのに、それがなくなることの方がもっと怖かった。
婚約破棄の時、ミレイアは姉に何かを言おうとした。
お姉様、私は。
その先は出なかった。
謝ればよかったのか。
王太子の手を振り払えばよかったのか。
聖女の座を返せばよかったのか。
何を言っても嘘になる気がした。お姉様を傷つけたくないと言いながら、ミレイアは白いドレスを着た。王太子の手も離さなかった。真の聖女と呼ばれることを拒まなかった。
だから、何も言えなかった。
姉が屋敷からいなくなった夜、ミレイアは王宮にいた。広間には花が飾られ、銀器が並び、楽師たちが音を奏でていた。貴族たちは祝福の言葉を朗々と口にし、王太子の傍らでミレイアはそっと微笑んだ。誰もが笑っていた。誰もが、これで国は安泰だと言った。
その頃、姉が裏門から出ていったことをミレイアはあとで知った。
帰ってきた時、姉の部屋は静かだった。
窓辺の鉢だけが残っていた。
何も植わっていない鉢。
昔、姉が何度も祈った鉢。
それを見た時、ミレイアは胸の奥が痛んだ。姉を追い出してしまったことへの罪悪感なのか、それとも、姉がいなくなって少しだけ息がしやすくなった自分への嫌悪なのか。
分からなかった。
分かりたくもなかった。
最初の異変は、王都の外れの麦畑で起きた。
種は蒔かれていた。水も足りていた。農官はいつものように予定を組み、神官たちは祈りの日を記録していた。ミレイアも例年と同じように畑の前に立ち、手を組み、祈った。
光は出た。
白く、美しい光だった。
けれど、土は割れなかった。芽が姿を現さない。
ミレイアはもう一度祈った。光は強くなった。周囲の神官たちが息を呑むほど美しい光が畑の上に広がった。それでも、土は黙っていた。
ミレイアはその沈黙を知っていた。
姉の前に、いつも落ちていた沈黙だった。
神官たちがざわめいた。農官が慌てて土を調べる。水が足りないのではないか。種が悪いのではないか。季節が少し遅れているだけではないか。誰もすぐにはミレイアのせいだと言わなかった。真の聖女に選ばれたばかりの彼女を疑うことは、王都の判断そのものを疑うことになるからだ。
「芽はいずれ出るだろう。その時にこそ、聖女様の奇跡が必要となるのだ。そんなことは分かっていたことだ。何を慌てる必要がある?」
マルゼリウス大神官は、そう言って周囲を見渡した。
その顔はいつもと同じだった。動揺する者を諭し、秩序を保ち、神殿の威厳を損なわないよう振舞う。
神官たちはその顔を見ると黙った。農官も、土のついた指先を布で拭いながら頭を下げた。ミレイアも胸の前で組んだ手に力を込めた。大神官様の言う通りなのだと思いたかった。
芽はいずれ出る。
その時に自分が祈ればいい。
花を咲かせ、実らせ、王都の人々を安心させればいい。
日が過ぎて、やがて芽は出た。雨を待ち、土の温みを待ち、種の中の力が目覚めるのを待って、ようやく小さく土を割った。
ミレイアはその芽に祈った。
今度こそ光は応えた。芽は伸び、葉は開き、実りが訪れた。
神官たちは安堵した。やはり聖女の力は本物だと誰かが声にした。
ミレイアも少しだけ息を吐いた。けれど、その時にはもう遅れは目に見えていた。
市場に並ぶ麦。神殿の施しに使う野菜。薬草園から出る薬草。王宮に納める果実。貴族の屋敷で使われる香草。すべてが少しずつ遅れ、その少しずつが重なって王都の暮らしを押し始めていた。
これまでならセレイスが始めていた、誰も見ていなかった小さな芽。
誰も祝わなかった一滴。
誰も拍手しなかった細い光。
けれど、それらは、王都のあちこちで当然のように次へ渡されていたのだ。
ミレイアは初めてその当たり前の形を見た。
芽の出ない土の前に立つたび、姉の指先を思い出した。小さな鉢の前で祈っていたセレイス。聖樹の枝先に小さな芽を生んだセレイス。父にも神官にも見てもらえず、それでもいつも最初に祈っていた姉。
お姉様がいないと始まらない。
その言葉が胸の奥に浮かぶたび、ミレイアは唇を噛んだ。
言ってはいけない気がした。
言えば、今まで姉がどれほどのものを担っていたのかを認めることになる。
言えば、姉から奪ったものが、ただ王太子の隣や聖女の名だけではなかったと分かってしまう。
それが怖かった。
ミレイアは聖女だった。
けれど、聖女の衣の内側でずっと息が苦しかった。
遅れは、やがて帳簿にも現れ、誰の目から見ても明らかになっていった。
王宮の倉に入る麦の量が足りない。神殿の施しに使う豆が予定より少ない。薬草の乾燥が間に合わない。冬支度のために買うはずだった薪や毛織物の費用が、食料の買い足しに回された。
誰か一人が飢えるほどではない。けれど、誰もが少しずつ足りなくなっていく。
王都はそういう不足に慣れていなかった。聖水路は清らかに流れている。白い石畳は今日も洗われている。大聖堂には花の香りがある。それなのに、人々の顔から少しずつ余裕が消えていった。
食料の値が上がる。
市場で言い争いが増える。
神殿の施しに並ぶ列が長くなる。
貴族たちは口では国を案じながら自分の屋敷の倉を先に確かめる。
そして、誰もが少しずつミレイアを見るようになった。
聖女なのだから。
真の聖女なのだから――。
ミレイアは祈った。祈るたびに光は出た。その光は美しかった。神官たちが息を呑むほど美しく、王太子が隣で手を添えてくれるほど清らかだった。けれど、始まっていないものは広げられない。芽のない場所に花は咲かない。最初の一滴がない場所に泉は広がらない。芯の灯っていない結界は、どれほど祈っても壁にはならない。
美しい光が出るたびに、ミレイアは自分の力が本物であることを知った。
そして、本物であるからこそできないことがはっきりした。
ある日、母オルレイアが神殿へ来た。
先代聖女だった母は、白い衣を着ていた。以前より少し痩せて見えたが、かつて一人で芽を出し、花を咲かせ、実りを呼んだ人。その母が、マルゼリウス大神官の前に立った。
「芽はいずれ出る、とおっしゃったのは大神官様でしょう」
広間が静まり返った。
マルゼリウスは母を見た。表情は変わらない。けれど、目の奥だけがわずかに硬くなった。
「今は責任を問う時ではありません」
「――ええ。ですから、ミレイアを責める時でもありません」
母はそう言ってミレイアの前に立った。
その背を見た瞬間、ミレイアは泣きそうになった。
守られている。
そう分かったからだ。
けれど、同時に、姉のことを思った。
母はセレイスも守ろうとしていた。何度も神殿に訴えた。最初の一つを生んでいるのはセレイスだと何度も言った。
それでも守れなかった。
今、その母が今度は自分を守ってくれている。そのことが嬉しくて、苦しかった。
「私は申し上げました。ミレイアは芽を生んだことがない、と。最初の一つを生んでいたのは、いつもセレイスです」
母の声は静かだった。
セレイス。
その名が出た瞬間、ミレイアは胸の奥を押さえたくなった。
大聖堂で言えなかった言葉。
屋敷で言えなかった言葉。
王宮の宴のあと、空になった姉の部屋で呑み込んだ言葉。
全部が、その名前と一緒に戻ってくる。
「ですが、先代様」
マルゼリウスはゆっくりと口を開いた。
「セレイス嬢の力だけでは、民は救えません。芽だけでは食べられない。水の一滴だけでは喉は潤せない。細い光だけでは魔物を防げない。それは、あなたもよくご存じのはずです」
その言葉は、以前と同じだった。けれど、母は今度は黙らなかった。
「ええ。芽だけでは民は救えません。ですが芽がなければ花は咲きません。王都は、いずれ出る芽を待てるようには作られていないのです。今回のことでお分かりになられたでしょう?」
広間の空気が止まった。
ミレイアは、母の背を見つめた。
その言葉を、もっと早く聞きたかったと思った。
いいえ。
聞いていたのだ。
母は何度も言っていた。
ただ、誰も聞かなかった。
自分も、聞ききれていなかった。
芽の速さがもたらす結果を軽んじていた。
姉が傷ついていることは知っていた。けれど、その傷の上に自分の安堵があることを見ないふりをしていた。
「セレイスを呼び戻す必要があります」
誰かが言った。
誰が最初に言ったのかミレイアには分からなかった。
神官の一人だったかもしれない。
農官だったかもしれない。
あるいは、マルゼリウス自身だったのかもしれない。
その言葉が出た瞬間、広間の人々がほっとしたような顔をした。
方法が見つかった。
失われたものを戻せばよい。
王都が必要とする形に、もう一度整えればよい。
ミレイアは、その安堵が怖かった。
セレイスを呼び戻す。
簡単に言わないでほしかった。
姉は物ではない。
足りない部品ではない。
王都から外したものを必要になったから戻すなどそんなふうに扱っていいはずがない。
けれど、同時に、戻ってきてほしいとも思った。
姉がいないと始められない。
その事実が、白い聖女衣の内側で冷たい棘のように刺さっていた。




