第五話 芽が出たあとのこと
芽が出たあとの畑は、急に豊かになったわけではなかった。
一夜で花が咲き乱れたわけでも、翌朝には実りが鈴なりになったわけでもない。王都で見てきた聖女の奇跡なら、白い光が広がり、茎が伸び、葉が開き、花が咲き、実りまでが一息で訪れた。人々はその美しさに歓声を上げ、神官は両手を広げ、父は安堵したように頷く。
けれど、ノーヴェラントの畑はそうではなかった。
小さな芽は次の日も小さなままだった。
ほんの少し背を伸ばしたようにも見えたけれど、見間違いかもしれないほどの違いだった。風が吹けば揺れ、日が強ければ萎れそうになり、水を与えすぎれば根が腐るのではないかと皆が顔をこわばらせる。奇跡と呼ぶにはあまりに遅く、救いと呼ぶにはあまりに頼りない。
それでも、領民たちは毎日畑へ来た。
ダルガは朝早くから土の様子を見た。水を運ぶ子どもたちは、以前より小さな桶を持たされた。勢いよく水をかければ芽が倒れるからだと年長の子どもが年下の子に真剣な顔で教えていた。鳥除けの紐が張られ、畑の周囲には低い柵が作られた。誰かが古い布を裂いて小さな旗のように結びつける。風に揺れるその布は、王都の祝福の白い布とは比べものにならないほど粗かったけれど、私にはそちらの方がずっと切実に見えた。
私も畑へ通った。
何度も祈ろうとした。
もっと芽を出せばいいのではないかと思った。畑のあちこちに手を置き、祈り、できるだけ多くの緑を生めば、少しはこの人たちの役に立てるのではないかと思った。
けれど、最初に止めたのはダルガだった。
「今日はもういい」
「ですが、まだ畑はたくさんあります」
「焦るな」
焦るな。
その言葉に、私は戸惑った。
王都で私に向けられた言葉は、いつも逆だった。もっと強く祈れ。もっと先へ進め。どうして花まで行かないのだ。ミレイアのようにできないのか。直接そう言われたわけではなくても、父の目も神官たちの沈黙も、いつも私を急かしていた。
だから、止められるとは思わなかった。
「でも、私は芽を出すことしかできません。なら、せめて数を――」
「無理に増やした芽を俺たちが守りきれなかったらどうする?」
ダルガは畑を見ながら言った。
「土にも体力がある。人にも数にも限りがある。一度に全部を変えようとしても世話が追いつかねえ。まずはこの辺りからだ。ここで育つかを見る。水の量も、土の返し方も、日除けの具合も、全部確かめる」
私は黙った。
土にも体力がある。
そんなふうに考えたことはなかった。
王都の神殿の鉢は、いつも整えられていた。王都の外の畑は、いつも変わらずに土は柔らかく、水は清らかだった。失敗するとすれば、それは祈る者の力が足りないからだと思っていた。土の都合など考えたこともなかった。
ノーヴェラントでいろんなことに気づく度に、私は自分が王都の娘なのだと思い知らされた。王都で傷ついた。王都から追い出された。それなのに私の考え方は王都のものだった。整えられた鉢や畑を前にして、結果だけを求められる世界のものだった。
「芽が出たあとのことは俺たちがやる。軌道に乗ったらまた次の芽を頼む」
ダルガは前にも言った言葉をもう一度口にした。
「セレイス様が全部やる必要はねえ。というより、全部やられたら俺たちの手が要らなくなる」
冗談のような言い方だった。
けれど、笑えなかった。
私が全部やる必要はない。
それは、私が全部できないと言われるよりも、ずっと不思議な言葉だった。できないことを責められない代わりに、できるところだけを見ろと言われている。
その日から私は畑の見方を少しずつ覚えた。
朝の土は冷たい。昼の土は乾く。夕方の風は思ったより強く、細い芽を倒そうとする。土の高さが少し違うだけで水の溜まり方が変わり、同じ畑の中でも端の方と中央では土の硬さが違う。
そんなことを私は何も知らなかった。
王都では芽が出れば次は花だった。
花が咲けば次は祝福だった。
その間に人の手がどれだけ入るのかを私は知らなかった。
領民たちは私の芽を奇跡のように扱いながら奇跡だけには任せなかった。水を運び、土を崩し、夜には見回りをし、虫がつけば一匹ずつ取り除いた。
季節は、王都で過ごしていた時よりずっと遅く進んだ。
芽は少しずつ葉を増やした。根がついたとダルガが言った日、私はその意味が分からず、彼に笑われた。根がついたというのは土が命を受け入れたということだと教えられた。上に見える葉より、下に伸びる根の方が大切な時もあるのだと。
私はその言葉を何度も心の中で繰り返した。
上に見えるものだけがすべてではない。
花だけが奇跡ではない。
そう思いたかった。
けれど、まだ、完全には信じられなかった。
十六年かけて身についた痛みは簡単には消えない。ダルガがどれだけ認めてくれても、イザルクが畑の記録を私に見せてくれても、子どもたちが小さな芽を見て目を輝かせても、頭の奥にはいつも王都の沈黙が残っている。
父が笑わなかったこと。
神官たちが拍手しなかったこと。
ミレイアが花を咲かせた瞬間、皆がそちらへ行ってしまったこと。
それらは消えない。
ただ、その上に別の記憶が少しずつ重なっていった。
ダルガが「この土は死んでいない」と言ったこと。
イザルクが畑の前で頭を下げたこと。
子どもが柵の向こうから「緑だ」と小さく呟いたこと。
私は、その記憶を壊さないように大切にしまった。
実りの季節が来た。
収穫は多くなかった。
王都ならきっと失敗と言われただろう。倉を満たすほどではない。市場に並べられるほどでもない。国中に祝福を告げる鐘が鳴るような実りではない。
けれど、ノーヴェラントでは違った。
自分たちの畑から食べられるものが収穫できた。
その事実だけで人々の顔が変わった。
芋が倉に積まれた。豆が袋に詰められた。乾かした葉が束ねられ、薬草として使えるかどうかをイザルクが確かめていた。子どもたちは収穫の邪魔にならない場所で跳ね、老人たちは土のついた芋を手に取って何度も重さを確かめていた。
私はその光景を見ていた。
眩しい、と思った。
白い花が光を受けて揺れる姿とは違う。金糸のドレスとも聖樹を満たす花とも違う。土まみれで粗くて決して美しいとは言えないのかもしれない。それでも、眩しかった。
「今年は暖かく冬を越せそうだ」
誰かが笑った。
その声に、私は振り返った。
笑ったのは最初に桶を抱えて歩いていた子どもの母親だった。頬はまだ痩せている。服も古い。けれど笑っていた。
暖かく冬を越せそうだ。
その言葉が耳の奥に残った。
食料を買うために使っていた金で、今年は薪と毛織物を買えるのだとダルガが教えてくれた。飢えないだけではない。凍えずにすむかもしれない。冬の夜、子どもたちが震えずに眠れるかもしれない。
芽が出たあとのことは俺たちがやる。
その言葉の意味がようやく少しだけ分かった気がした。
私は完成させなくてよかった。
いいえ。
完成させられないことが価値のない証ではなかった。
私が生んだ最初の一つを受け取って、その先を生きる人たちがいる。土を見て、水を運び、天気を読み、冬の支度をする人たちがいる。
私が途中だと思っていたものは、ここでは始まりだった。
収穫後の畑を見て、私はもう一度祈ろうとした。
冬の前に、もう少し芽を出せないだろうかと思った。王都の感覚が、まだ私の中に残っていたのだと思う。祈れば次へ進む。祈れば季節を越えられる。祈れば不足を埋められる。ミレイアなら、きっとそうした。
けれど、私が土に手を置こうとするとダルガに止められた。
「今は無駄だ」
「どうしてですか」
思わず聞き返した。
ダルガだけでなく、近くにいた者たちまで驚いた顔をした。
その顔を見て、私は自分が何も知らないのだとまた分かった。
「冬に芽を出しても育たねえ」
ダルガは当たり前のことのように言った。
「霜が降りて土は冷たさに抱かれる。日も足りねえ。今出した芽は守りきれねえ」
「そういえば……そうでした」
知識としては知っていた。
冬には土が眠る。霜が降り、日が足りず、多くの作物は育たない。王都の教師にもそう教えられたことがあった。農書にも書いてあった。
けれど、実感としては知らなかった。
王都では芽が出ればミレイアが咲かせた。実らせた。季節を越えるような奇跡を私は当たり前のように見てきた。だから冬の土が眠るという言葉も、知識の棚にしまわれただけで私の頭には入っていなかった。
「――では、冬の食料は足りるのですか」
「多くはねえが、足りる。食う人数に対して食えるものがある。それで冬は越せる」
ダルガは頷いた。
食えるものがある。
たったそれだけのことを彼は大切そうに言った。
王都なら物足りないと言われる量かもしれない。聖女の祝福が弱いと騒がれる量かもしれない。でも、ここでは冬を越すためには十分だと思われる。
私は畑の向こうを見た。
風はもう冷たくなっている。灰色だった土地に収穫の跡が残っている。土はまた静かに見えたけれど、最初に来た時の沈黙とは違う気がした。
王都は大丈夫なのだろうか。
ふと、そう思った。
王都にはミレイアがいる。真の聖女がいる。花を咲かせ、泉を広げ、結界を輝かせる妹がいる。だから大丈夫なはずだった。
けれど、胸の奥に小さな不安が残った。
ミレイアは芽を生んだことがない。
その事実を私は今さらのように思い出していた。




