第四話 この土は死んでいない
私は、また途中で終わった。
そう思った瞬間、沈黙が怖くなった。皆が一様に息を止めて畑を見ていた。王都で何度も聞いてきた沈黙だった。
五歳の祈りの試験の後、私が芽を出した鉢の前で父が笑わなかった時の沈黙。
十六歳の認定式で聖樹の枝に小さな芽だけが生まれた時、大聖堂を満たした沈黙。
誰も責めない。誰も怒らない。けれど、誰も喜ばない。その静けさの中で、私はいつも自分が足りないのだと知った。
だから、顔を上げるのが怖かった。
細い芽は割れた土の間で頼りなく揺れている。触れれば折れてしまいそうな小さな緑だった。これでは誰の腹も満たせない。子どもの細い腕も、荒れた手も、色の薄い目も、この一つでは何も変わらない。
私はまた、始めるところで止まった。最後まで届かないまま人々の前でそれを見せてしまった。
謝らなければ、と思った。
けれど、声が出なかった。今ここで謝れば王都で何度も言われたことを自分で認めることになる気がした。私は芽しか出せない。花も、実りも、救いも与えられない。ノーヴェラントまで来ても私は同じなのだと。
その時、誰かが息を吐いた。小さな音だった。でも、私は顔を上げて音がしたほうを見た。
畑の端に立っていた男が一歩こちらへ近づいていた。年は父より上に見えた。肩幅は広いが、頬はこけ、髭には白いものが混じっている。土で汚れた外套を羽織り、荒れた手で帽子を握っていた。その指先はひび割れ、爪の間には黒い土が入り込んでいる。
王都では見たことのない手だった。
花を飾る手ではない。銀器を磨く手でもない。祈りのために指先を清めた神官の手でもない。それは例えるなら、土を掘り、水を運び、何度も何度も畑に触れてきた手だった。
男は芽を見ていた。私ではなく、芽を見ていた。
「……出た」
掠れた声だった。
怒りでも、落胆でもなかった。
私は、その声の意味がすぐには分からなかった。
「――出たぞ。見てみろ。……見てみろ! 芽が出たぞ!」
男は膝をつき、芽を指したまま声高に叫んだ。
驚いて、私は少し身を引いた。
男が、土につきそうなほど顔を近づけて、割れ目から覗いた緑を見つめている。
イザルクも黙っていた。
領民たちも黙っていた。
けれど、その沈黙は王都のものとは違った。
誰も拍手はしない。
歓声も上がらない。
それでも、空気が変わっていた。
信じられないものを見た時、人はすぐには声を出せないのだと、その時初めて知った。
「申し訳ありません」
私はようやく声を出した。自分でも驚くほど、かすれた声だった。
「私は、芽を出すことしかできません。花を咲かせることも、実らせることもできません。王都では、妹がいつもその先を……」
「――しか、だと?」
男が顔を上げた。
低い声だった。
責められたのだと思って私は肩を震わせた。
けれど、男の顔にあったのは怒りではなかった。何かを押し殺している顔だった。長い間、口に出せなかった言葉が胸の奥に溜まりすぎて、どこから出せばいいのか分からないような顔だった。
「お前さん、今、芽しか、と言ったのか」
私は答えられなかった。
言った。
ずっとそう言われてきたから。
ずっとそう思ってきたから。
私の力は、いつも「しか」だった。芽しか出せない。一滴しか落とせない。細い光しか灯せない。その先へ進めない。最後まで届かない。だから私は、聖女ではない。男は帽子を握る手に力を込めた。
「ダルガ」
イザルクが静かに名を呼んだ。
男は領民たちの中でもまとめ役なのだろう。周囲の人々が、彼の言葉を待つように息を止めているのが分かった。
ダルガと呼ばれた男は、もう一度芽を見た。
「ーー三年だ」
彼は言った。
「三年、この畑は黙ったままだった。種を替えた。水を運んだ。土を起こした。王都から高い薬も買った。祈祷師も呼んだ。春になれば、今年こそと思った。雨が降れば、今度こそと思った。だが、何も出なかった」
その声は、畑の土のように乾いていた。
私は何も言えなかった。
三年。
王都で三年と言えば、私が芽を出し、ミレイアが花を咲かせ、それが当然のように繰り返された時間だった。季節が巡れば聖女の祈りが行われ、倉には実りが入り、庭には花が咲く。芽が出ない畑を三年待つということを私は想像したこともなかった。
「春に蒔いても、土は割れない。夏に雨が来ても、緑は出ない。秋には収穫するものがなく、冬には倉の底しか見えない。この土地は死んだのだと、何度も思った」
ダルガの後ろで領民たちが俯いた。
誰も否定しなかった。
きっと皆、同じことを思ったことがあるのだろう。
でも、誰も口にはしなかったのだと思った。口にすれば本当に終わってしまうから。畑を畑と呼べなくなるから。明日も土を起こす理由を失ってしまうから。
「王都では、誰でも出せる芽なのかもしれん」
ダルガは、私を見た。
その言葉に胸が痛んだ。
マルゼリウス大神官の声が蘇る。
芽は奇跡ではありません。この王都で出ない芽などありません。
私は、その言葉にずっと縛られていた。
母がどれだけ違うと言ってくれても、神官の正しさの前では何も言えなかった。芽は奇跡ではない。芽では民を救えない。民が待つのは花であり、実りであり、救いです。そう言われてきた。
「だがな」
ダルガは、ゆっくり土に視線を戻した。
「俺たちは三年、それを待っていた」
息が止まった。
待っていた。
その言葉が、胸の中のどこかに響いた。
王都で私の芽は誰にも待たれていなかった。私が祈る時から父の目はもうミレイアの方を見ていた。神官たちも、貴族たちも、芽の次に来る花を待っていた。私の役目は、妹の奇跡が始まるための小さな段差でしかなかった。
けれど、ここでは違うのだろうか。
この人たちは本当に芽を待っていたのだろうか。
こんな小さな緑を。
私が何度も足りないと言われてきたものを。
「誰でも出せる芽ならーー」
ダルガの声が少し震えた。
「俺たちは三年、何をしていたんだ」
誰も答えなかった。
答えられる人などいなかった。
風が畑を撫でた。細い芽が小さく揺れる。私は思わず手を伸ばしそうになって、止めた。守りたいと思った。けれど、どう守ればいいのか分からなかった。
芽が出た。
ただ、それだけのこと。
でも、ダルガはそれを見て、少し笑った。泣きそうな笑みだった。
「芽が出たってことは、この土が受け入れたってことだ。種が割れたってことだ。根を下ろそうとしているってことだ」
私は芽を見た。
細くて弱い。
けれど、そこにあった。
「この土は――まだ死んでいない。今、ようやく息を吹き返したんだ」
ダルガは言った。
その言葉を聞いた瞬間、目頭が熱くなった。
嬉しいのか、悔しいのか、分からない。今まで誰にも認められなかったものが、ここで初めて違う言葉で呼ばれた。足りない奇跡ではなく、まだ死んでいない証として見られた。
でも、すぐに信じることはできなかった。
私は十六年、違う言葉を聞いてきた。
小さい。
足りない。
前触れにすぎない。
聖女の加護とは認められない。
その言葉たちは、簡単には剥がれなかった。
「でも、これだけでは……皆を救うことはできません。芽が出ただけでは、食べることも、冬を越すことも……」
「分かってる」
ダルガはすぐに頷いた。
「芽は食えねえ。今日明日の飯にもならねえ。だが、芽が出たなら、あとは俺たちがやる」
その言葉は、すぐには理解できなかった。
あとは俺たちがやる。
王都ではそんなふうに言われたことはなかった。私が始めて、ミレイアが終わらせる。それが当然だった。芽のあとに続くものは聖女の奇跡でなければならないと思っていた。私が最後まで届かないから私には価値がないのだと思っていた。
けれど、ダルガは違うことを言っている。
芽が出たあとのことは自分たちがやるのだと。
イザルクが静かに息を吐いた。
「この畑を囲いましょう。水の運び方も変える必要がある。ダルガ、見張りを」
「ああ。子どもらを近づけるな。鳥避けも立てる。土を踏むなよ。一本でも折ったら、俺が怒る」
その言葉に領民たちがわずかに動いた。
誰かが頷き、誰かが家の方へ走っていく。先ほどまで動かなかった畑の空気が少しずつ流れていく。
私だけがその場に取り残されていた。
まだ信じられなかった。
私の芽が誰かを動かしている。
私が途中で終わったと思ったものを見て、人々が次にすることを考えている。
そんなことが、本当にあるのだろうか。
「セレイス様」
イザルクが私を呼んだ。
その声は、さっきより少しだけ違って聞こえた。礼儀の奥にあった警戒が完全になくなったわけではない。けれど、そこに別のものが混じっていた。
期待。
そう呼ぶにはまだ怖い。
でも、先ほどまでの試されているような冷たさとは違った。
「この畑をもう少し見ていただけますか」
私は頷いた。
喉が詰まって、声が出なかった。
細い芽が灰色の土の中で揺れている。
王都で何度も見た、私の芽。
けれど、ここでは誰もそれを足りないとは呼ばなかった。
私は初めてその緑の芽を長く見つめた。
花にならないことを嘆くためではなく、そこに生まれたものを見失わないために。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
この第四話から、『はじまりの聖女』という物語が本当の意味で動き始めます。
続きも読んでいただけたら嬉しいです。
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