第三話 不毛の辺境へ
ノーヴェラントの朝は、灰色だった。
王都の朝は白く光る。石畳は水で洗われ、聖水路には清らかな流れがあり、街路樹の葉はいつも瑞々しい。人々はその美しさを当然のものとして歩いていた。
けれど、ここにはそれがなかった。馬車の窓から見える土は乾いて割れ、草は地面に貼りつくように低く、色も薄い。風が吹くたびに細かな砂が舞い、遠くに見える畑は、畑というより長く放置された荒地と変わりない。
不毛の地。
神官たちはノーヴェラントをそう呼んでいた。
その言葉を私は知っていた。けれど、知っていることとその土地へ向かう馬車の中から実際に灰色の畑を見ることはまるで違っていた。ここが、父の言う「その力でも困らないだろう」という場所なのだと思うとため息が出た。
父は、私をここで役立てようとしたのだろうか。
それとも、ここなら私が役に立たなくても誰も困らないと思ったのだろうか。
どちらなのかは分からない。ただ、王都から遠く、王宮の祝宴にも、神殿の祈りにも、ミレイアの白い花も見えないこの場所は、聖女になれなかった姉を遠ざけるには都合がよかったのだろうと思った。
街の門が近づいたところで私は馬車を止めてもらった。
「――少し歩いてもよろしいでしょうか」
御者はすぐには返事をしなかった。王都から来た娘が、乾いた土の道を自分の足で歩きたいと言うとは思わなかったのだろう。
私も少し前の自分なら馬車の窓から見るだけで十分だと思ったかもしれない。けれど、ここが私の送られた――これから私が生きていく場所なら窓越しに眺めるだけで済ませてはいけない気がした。
馬車を降りると、靴底の下で乾いた土が崩れた。王都の石畳のように、踏めば硬く音が返ってくることはない。足元に吸われていくような頼りない音がして、その頼りなさがまるで自分の立っている場所そのもののようだった。
街は静かだった。低い屋根、傾いた柵、土壁の家、何度も補修された跡のある道。
最初にみすぼらしいと思いかけて、すぐに恥ずかしくなった。新しくできないから、捨てられないから、ここに住む人たちは何度も直して使っているのだ。それなのに私は、王都の白い石と比べてしまった。
道の端に人がいた。大人も老人も子どももいた。けれど、最初に目に入ったのは服ではなく顔だった。頬の肉が薄く、手首が細い。外套の下にある体の小ささが分かってしまう。桶を抱えた子どもは王都で見た同じくらいの子よりもずっと小さく見えた。
ひどい。
王都とは、全然違う。
私は思わず目を逸らした。飢えている人を見るのが怖かった。その人たちに見られるのが怖かった。そして何より、その人たちを見ている自分に不安を覚えた。
私は、この人たちに何をしてあげられるのだろうか。
聖女ではない私が。
王都でいらないと言われた私が。
そしてふと思う。どうして、彼らはここに住み続けているのだろう。
人を呼び止めて事情を尋ねようとしたが、私は動きかかった手を止めた。彼らだって出ていけるなら、とっくにこの街を出ている。そんなことも忘れているのかと、自分で自分を責めたくなった。
リュゼルク聖律国では生まれた街を離れるには許可がいる。居住籍を移すには、領主の証明と移住先の受け入れが必要になる。勝手に人が動けば、受け入れた街の食料も仕事も住まいも崩れる。豊かな街へ貧しい土地の人々が一斉に流れれば今度はその街が飢える。だから、人は生まれた土地に留められる。
王都では、それを秩序と呼んだ。
父も神官も教師も当然のこととしてそう教えた。街には街の役割がある。人には人の籍がある。秩序があるから国は保たれるのだと。
私も当然のこととして覚えた。
けれど、痩せた子どもの頬を見ながら思い出す秩序は、王都で聞いた時よりずっと冷たかった。
街の中央に小さな教会があった。王都の大聖堂とは比べものにならない。塔は低く、扉は古く、壁の白塗りはところどころ剥がれていた。けれど、扉の前だけは掃き清められていた。枯れかけた花が小さな瓶に挿されていた。
私は足を止めた。
祈らなければ、と思った。
五歳の試験の日から祈ることは私の習慣になっていた。嬉しい時も、怖い時も、何をすればいいか分からない時も、私は祈った。祈れば救えると思っていたわけではない。祈れば許されると思っていたわけでもない。ただ、祈らないと、胸の中にあるものがなくなってしまう気がした。
教会の中は薄暗かった。椅子は古く、床は軋み、祭壇の布は何度も洗われて色が薄くなっていた。けれど、祭壇の前だけは丁寧に拭かれていた。誰かが毎日ここで祈っているのだと思った。豊かだから祈るのではない。どうにもならないから祈るしかないのかもしれない。
私は祭壇の前に膝をついた。
父の書斎を思い出した。ミレイアの白いドレスを思い出した。母の震える肩を思い出した。裏門の湿った石を思い出した。それから、さっき見た子どもの細い腕を思い出した。
私は手を組んだ。
どうか、この街の子たちが少しでも飢えずにすみますように。
どうか、私が今度こそこの街で役に立てますように。
声には出さなかった。出したら、泣いてしまいそうだった。
教会を出ると乾いた風が頬に当たった。祈ったところで何かが変わったわけではない。街の家々は古いままで、人々の頬は痩せたままで、私の力が足りないことも変わらない。それでも祈らずに通り過ぎるよりはましだと思いたかった。
案内された屋敷は街の外れにあった。
屋敷と呼ばれていたが、王都の屋敷とはまるで違った。石壁は古び、門柱には細いひびが入り、玄関の上には蜘蛛の巣が張っている。窓枠の隅には風で運ばれた砂が白く溜まり、長い間、誰かを迎えるために使われていなかったのだと分かった。
王都からの客人を迎えるための領主所有の屋敷。
そう聞かされていた。
けれど、王都から本当に大切な客人が来る場所ならこんなふうにはしておかない。門を磨き、庭を整え、花を飾り、使用人を並べる。王都ならそうする。そうしないということは、ここには誰も来なかったのだ。来る必要がないと思われていたのだ。来たとしても迎えるために整えるほどの相手ではないと思われていたのだ。
そこでようやく私は父のことを思った。
父は、この屋敷のことを知っていたのだろうか。ノーヴェラントが王都からどう扱われているかを知っていて私をここへ送ったのだろうか。
「たぶん、お父様は知っていたでしょうね」
屋敷を見上げながら私は無意識に呟いていた。
父にとって大切だったのは私が王都からいなくなることだったのだから。
ミレイアの幸福に影を落とさないこと。王宮の宴に聖女になれなかった姉の姿がないこと。アルヴィノール家の中に、役目のない娘を置かないこと。それだけでよかったのだ。
私は荒れた門柱を見た。ひびの間に、乾いた土が入り込んでいた。
ここは、私にふさわしい場所として選ばれたのではない。
私を見なくてすむ場所として選ばれたのだ。
使用人はいた。けれど、王都の侍女たちのように音もなく動くわけではない。礼の角度も揃っていない。食器を置く手つきも少し固い。それでも、彼女たちは私のために部屋を掃き、炉に火を入れ、湯を用意してくれていた。
案内された部屋で私は窓を開けた。乾いた風が入ってきた。窓の外にはさっき歩いた街が見える。低い屋根も、傾いた柵も、土壁の家も見える。けれど、私の目に残っていたのは建物ではなかった。痩せた人々の顔だった。桶を抱えていた子どもの細い腕だった。
あの人たちは私に何を期待しているのだろう。
それとも、もう期待などしていないのだろうか。
聖女が来ると聞かされていたのなら。王都から救いが来ると思っていたのなら。馬車から降りた私を見て、何を思ったのだろう。
聖女ではない方。
王都でいらなくなった方。
そんな私が来たところで、この街に何ができるのか。
少し休んだ後、私は身なりを整えた。旅の埃を落とし、髪を結い直し、王都から持たされた控えめな礼服に袖を通す。聖女の衣ではない。けれど、王都の娘だと分かるような服だった。さっきまで歩いていた街の土の色を思い出すと、その服だけがひどく場違いに思えた。
領主の館へ向かう道で人々がこちらを見た。歓声はなかった。祈りの声もなかった。ただ、視線だけが集まる。期待しているのか、失望しているのか、それとも値踏みしているのか、私には分からなかった。いいえ。分かりたくなかったから分からなかったのかもしれない。
ノーヴェラントを預かるイザルク・ヴェインは、王都で見る貴族とは違っていた。若い男だった。着ている服は古く、袖口は何度も直されている。椅子も机も上等なものではない。けれど、背筋だけはまっすぐだった。貧しさを隠せてはいないのに卑屈には見えない。王都では一度も目にしたことのない種類の人だった。
「よく来てくださいました、セレイス様」
彼は深く頭を下げた。
「聖女の候補様に来ていただけたこと、ノーヴェラント一同、感謝しております」
聖女の候補様。
その呼び方に胸の奥がざわついた。
確かに、嘘ではない。
けれど今は違う。真の聖女はミレイアだと認められた。私はその場で婚約を破棄され、王都から出された。なのに、その言葉だけを聞けばまだ何かを期待してよい人のように聞こえてしまう。
「長旅でお疲れのところ申し訳ありません」
イザルクは言った。
「どうか畑を見てはいただけないでしょうか」
「畑を?」
「ええ、そうです。我々には食べ物が不足しています。少しでも食べられる物がほしいのです」
「………」
その言葉に私は黙った。
この人には、私はどのように伝わっているのだろう。聖女に選ばれなかった娘。芽しか出せない姉。王都に置いておけなくなった者。父は、どこまで話したのだろう。それとも都合の悪いことは何も伝えなかったのだろうか。
「さあさあ、こちらでございます。我らノーヴェラントの地は――」
黙ったままでいると、イザルクが使用人に案内を促した。言われるまま、私は彼らの後をついていく。
私は試されているのだろうか。
歩きながらそう思った。
あなたは本当に何かできるのか。王都が送ってきた娘にこの土地をどうにかする力があるのか。王都は、聖女ではない娘を送ってきて何をしたいのだ、とそう問いかけられている気がした。
案内された畑は、広かった。
土は黒くない。灰色に近い茶色で指を入れる前から硬いと分かる。溝もあり、人の手が入っていないわけではない。むしろ、何度も何度も手を入れられて、それでも畑にはならないどうしようもない荒地なのだと分かった。命の匂いがなかった。
「ここが、今年も駄目だった畑です」
「これが……畑?」
「はい。種は蒔きましたが、どの区画からも何も生えませんでした」
「――水は?」
「街中から運びました」
「それでも?」
「はい。何も。土壌改良も行ってはいますが、依然として土は硬いままです」
その短いやり取りだけで、何度同じことを繰り返してきたのかが分かってしまった。種を蒔く。水を運ぶ。祈る。待つ。それでも何も出ない。何も出ない場所を、それでも畑と呼び続けるしかなかった人たちがここにいる。
イザルクは私を見た。
その後ろで、領民たちも私を見ていた。痩せた顔。荒れた手。色の薄い目。助けを待っている目なのか、諦める準備をしている目なのか。
ただ、その目を私は知っている気がした。
神殿で何度も見た。
父の書斎で見た。
私が芽しか出せないと分かった時、人はああいう目をする。
怒ってはいない。責めてもいない。ただ、静かにこちらを見ている。その静けさが一番苦しい。怒られるよりも失望されるよりも、ああ、また足りなかったのだと自分で分かってしまうから。
「祈っては、いただけないでしょうか」
イザルクの声は丁寧だった。
責める響きはない。怒りもない。だから、余計に怖かった。
領民の前で祈る。
そして、何もできないことを見せる。
聖女ではないお前に、この辺境はどうすることもできない。領民の前で力不足を見せつけ、惨めになって、王都へ戻れ。本物の聖女に泣きつけ。
そう言われているように感じた。
本当は違ったのかもしれない。イザルクはただ、縋るものが欲しかっただけかもしれない。領民たちは私を責めていたのではなく、これ以上失望したくなくて身構えていただけかもしれない。
それでも、その時の私にはそう見えなかった。
王都でいらないと言われた私が、ここでも同じように見られている。白い大聖堂でも、父の書斎でも、灰色の畑の前でも、私は同じ場所に立っている。
芽しか出せない私として。
私は土の前に膝をついた。
膝が少し震えた。
見ないでほしいと思った。
でも、見ていてほしいとも思った。
矛盾していた。誰にも期待されたくない。でも、今度こそ役に立ちたい。失望されるのは怖い。でも、最初から諦められるのはもっと怖い。
王都の神殿の鉢とは違う。
聖女の土ではない。
祝福された水もない。
祈りを重ねた結界もない。
ただの土。
いいえ。
死にかけた土。
指を置くと、冷たかった。五歳の時に触れた聖女の土は、黒く、湿っていて、柔らかそうだった。そこには最初から種が置かれていた。水も、光も、暖かい部屋もあった。私が祈らなくてもいつか芽は出たのかもしれない場所だった。
でも、ここは違う。
ここで芽が出なければ。
私は本当に何をしに来たのだろう。
そう思った瞬間、手が震えた。
どうか、芽が出ますように。
どうか、今度こそ。
今度こそ、私がここに来たことに意味がありますように。
それは五歳の時と同じ祈りだった。十六歳の認定式と同じ祈りだった。何度も繰り返して、何度も足りないと言われた祈りだった。
土が震えた。
小さな音がした。
乾いた皮が割れるような音だった。
割れ目から緑が覗いた。
芽だった。
細くて弱い。
王都で何度も見た私の芽だった。
花は咲かない。
実りもしない。
この灰色の土地を一瞬で変えるほどの力もない。
芽では腹は膨れない。
子どもの細い腕も、領民たちの荒れた手も、この一つで救われるわけではない。
私は、また途中で終わった――。




