第二話 家を追い出される姉
認定式が終わっても、大聖堂の花の匂いは消えなかった。
白い花はまだ聖樹の枝に咲いている。神官たちは祭壇の前に膝をつき、祈りの言葉を繰り返していた。
貴族たちは順番にミレイアの前へ進み出て、祝福の言葉を述べる。誰もが笑っていた。誰もが安堵していた。国に、真の聖女が生まれたからだ。
ルディアス殿下は、ミレイアの手を取ったまま祭壇の前に立っていた。
似合う。
そう思ってしまった。
白い手袋に包まれたミレイアの指。聖樹の白い花。高い天窓から落ちる光。妹の髪に挿された真珠が、小さく揺れている。
私は婚約が破棄されたばかりなのに。
私がまだ、同じ大聖堂に立っているのに。
誰も、それを気にしていなかった。
貴族の一人が、私を見た。
目が合った。
私は少しだけ背筋を伸ばした。けれど、その人はすぐに目を逸らした。見てはいけないものを見たように。パーティーのテーブルにふき取り忘れた汚れを見ないふりするように。
怒られた方が、まだよかった。
聖女ではないと責められた方が、まだましだった。
誰も何も言わない。
ただ、私を通り過ぎる。
私はもう、ここに居ていい人ではないのだと思った。
屋敷へ戻る馬車の中で、母はずっと膝の上の指を握っていた。父は目を閉じていた。眠っているようには見えなかった。ただ、終わった式のことを頭の中で片づけているように見えた。
私は窓の外を見ていた。通りに面した家々の窓や柱には、白い布が掛けられていた。聖女の誕生を祝うための飾りだ。王都中がミレイアを祝福していた。聖女誕生を知らせる鐘が鳴り、子どもたちが聖樹の花をまねた紙飾りを持って走っていた。
誰かが笑う。
誰かが祝う。
ミレイアのために。
私は、その音を馬車の中で聞いていた。
屋敷へ着くと、そこはもう出発前の朝とは違う場所になっていた。廊下には新しい花が運び込まれている。侍女たちは白と金の布を抱え、銀器を磨く者は、少しでも曇りが残らないように皿を擦っていた。燭台の蝋が替えられ、香油の瓶が並べられ、階段の手すりには白い薄布が巻かれている。
王宮では、これからミレイアとルディアス殿下の正式な婚約を祝う宴が開かれる。
私との婚約が破棄された、その日の夜に。
早い。早すぎる。
だって、宴の準備は今日決まったものではないはずだった。
王宮の広間。飾られた花。並べられる料理。貴族たちへの招待。楽師たち。白と金の布。それらが、半日で用意できるはずがない。
最初から決まっていたのだ。
認定式で真の聖女が選ばれたらその聖女と王太子の婚約を祝う。
たぶん、そういう席だった。
もし私が聖女と認められていたら。
もし私の芽が、奇跡だと認められていたら。
今夜、王太子の隣に立っていたのは私だったのかもしれない。
私のために用意されたかもしれない花。
私のために磨かれたかもしれない銀器。
私のために灯されるはずだった燭台。
それが、今は全部ミレイアのものになっている。
それだけのことだった。
ただ、名前が変わっただけ。
セレイスではなく、ミレイアに。
姉ではなく、妹に。
王都は少しも困っていない。
王宮も、父も、神官たちも、誰も慌てていない。
私だけが、今さら知った。
真の聖女が決まった。
王太子の隣に立つ人が決まった。
国の未来が決まった。
なら、祝わなければならない。
私の痛みなど、誰も気に留めない。待ってくれない。
廊下の奥で、ミレイアの部屋の扉が開いていた。そっと中を覗き込むと、白いドレスが広げられていた。淡い金糸で聖樹の花が縫われていた。袖口には小さな真珠が並び、腰のリボンは薄く、光を受けるたびに波のように揺れた。いかにも聖女にふさわしい衣装だった。
ミレイアは椅子に座り、侍女たちに髪を梳かれていた。鏡の中の妹は、まだ泣きそうな顔をしている。
私に気づくと、立ち上がろうとした。
「――お姉様」
侍女たちの手が止まった。
櫛を持つ手。
リボンを結ぼうとする手。
真珠の飾りを差そうとする手。
全部が止まる。
全員が、私を見た。
「あの、私……」
ミレイアは言いかけた。けれど俯いたまま、唇をきゅっと噛んだ。
まただ。
また、続きはない。
この子は何かを言いたいのだろう。謝りたいのかもしれない。私も苦しいのだと伝えたいのかもしれない。お姉様を傷つけるつもりはなかったのだと、言いたいのかもしれない。
でも、それを聞いて、私はどうすればいいのだろう。
許せばいいのか。
慰めればいいのか。
大丈夫だと笑えばいいのか。
泣きそうなのは、私の方なのに。
ミレイアの膝の上で、白い手袋が震えていた。その手は、もう王太子に取られた手だった。
「おめでとう、ミレイア」
私はそう言った。声は思ったより普通だった。妹の顔が、くしゃりと歪んだ。
そんな顔をしないでほしかった。
だって私にはそれ以外の言葉を選べない。
祝えなくても。
許せなくても。
姉なのに、妹の幸福を喜べなくても。
私はそれ以上何も言わず、部屋の前を通り過ぎた。背中にミレイアの視線を感じた気がした。振り返れなかった。
自室へ戻っても、座る場所が分からなかった。
いつもどうしていたっけ。
視線が彷徨っていると、窓辺の鉢が目に入った。昔、母にもらった小さな鉢だった。何度も祈った。何度も芽を出した。そして、何度もミレイアが花を咲かせた。
今は何も植わっていない。
ただ、黒い土だけが入っている。
湿ってもいない。
乾ききってもいない。
何かを待っているようにも、何も待っていないようにも見えた。
私はそれを見ていた。
すると、扉が叩かれた。
「セレイス様。旦那様がお呼びです」
呼びに来た侍女は、私の顔を見なかった。いつもなら、認定式の結果を気遣う言葉の一つくらいくれるだろうと思った。
けれど侍女はただ頭を下げ、廊下の奥を示しただけだった。
父の書斎へ向かう途中、すれ違った使用人たちも同じだった。
誰も驚いていない。
誰も、私を気遣いもしない。まるで、屋敷中が示し合わせたかのように沈黙していた。
父ベルガントの書斎は、屋敷の奥にある。
昔からあまり好きではなかった。
扉が重い。木の色が濃い。窓は高く、光はあまり入らない。壁一面の書棚には、アルヴィノール家の記録が並んでいる。何代目の聖女がどの土地に泉を戻したか。どの年に大飢饉を防いだか。どの王に祝福を与えたか。
聖女を輩出してきた家の部屋。
私はそこで、何度も父に褒められたいと思った。
一度も、うまくいかなかった。
父は机の前に立っていた。
礼装はまだ脱いでいない。今夜、王宮へ向かうためだろう。袖口も襟元も乱れていない。まるで、認定式も婚約破棄も、父にとっては予定された出来事の一つでしかなかったように見えた。
机の上には、封書が三通置かれていた。
一つは王宮宛て。
一つは神殿宛て。
もう一つは、見慣れない紋章の封蝋が押されたものだった。
父は、その封書の端を指で揃えていた。少しずれた紙を、まっすぐにする。角を合わせて、元の場所へ置いて片づけた。
「来たか」
「はい、お父様」
父は私を見た。その表情には怒りも悲しみもなかった。ただ、決まっていたことを告げるようになんの感情もないように見えた。
「今夜の宴には出なくてよい」
ああ、やっぱり。
なんとなく分かっていた。
侍女が誰も私に支度を急かさなかった。
父が先ほど封書を片付けたように、これから私も片づけられるのだろう。
「ミレイアと殿下の門出だ。お前がいれば、あの子も気を遣うだろう。あの子は優しい。姉を思い、心を痛めるかもしれない。傷心のおまえのためでもある。少し離れて暮らしてはどうだろうか」
父は、私を責めていない。
それが余計に卑怯だと思った。父の言葉の中で、私は悪いことをした娘ではなかった。ただ、そこにいると困る娘だった。自分を悪者にせず、私のためだ、と善意を盾にして私の目の前に迫ってくる。その盾の前では、私がどんな言葉を口にしたところで貫けず、返ってくるだけだ。
「……分かりました」
私は少し考えてから、返事を喉の奥から絞り出した。
「うむ。物分かりがよくて助かる」
父が頷いた。
――助かる。
私は、父を助けたらしい。
宴に出ないことで。
ミレイアの前から消えることで。
この家から、いないものになることで。
「それから、今後のことだ。お前には、ノーヴェラント辺境領へ行ってもらう」
父は、見慣れない封蝋の封書を手に取った。
ノーヴェラント。
名前だけは知っている。
王都から遠く離れた北東の辺境。水脈は細く、土は痩せ、薬草も根づかない。冬が長く、魔物が多い。神官たちは、不毛の地と呼んでいた。
「私が……ですか」
「そうだ」
父は少しも迷わなかった。
「今日の結果が出た場合に備えて、以前から話は通してある」
以前から――。
その言葉だけが、耳に残った。
「以前から、ですか」
「当然だ。アルヴィノール家の娘として、何の役目も持たぬまま王都に置いておくわけにはいかない。お前は、芽なら出せる。それは分かっている。ノーヴェラントなら、その力でも困らないだろう」
その力でも……。
今日、急に決まったのではなかった。
私が五歳の頃から、祈りのたびに芽だけを出していたこと。
ミレイアが花を咲かせるたびに、大人たちが安堵していたこと。
母が何度も神殿に訴えていたこと。
父は全部見ていた。見た上で、この日のために着々と準備していた。
私が聖女になれなかった時の行き先を。
私がミレイアの隣に立てなかった時の生きる場所を。
私は今日、捨てられたのではない。
ずっと前から、捨てる場所を決められていた。
「――いつ、出発すればよろしいのですか」
「今夜だ」
息が止まった。
「ミレイアは宴の後、王家と今後の話し合いがある。帰りは遅くなる。あの子が戻るまでに、家を出る準備をしておきなさい」
ミレイアが戻る前に。
別れも言うなということだった。
帰ってきた妹が私の部屋を見ても、もう何も残っていないようにしろということだった。
「ミレイアに、挨拶は……?」
「必要ない」
父の声は穏やかだった。
「今のお前が会えば、あの子は気を遣う。せっかくの幸福に影が差す。分かるだろう?」
分かるだろう……?
この人は何を言っているのだと一瞬思った。
けれど、分かってしまった。
分かりたくないのに。
私は、妹の幸福に影を落とす存在なのだ。
聖女になれなかった姉。
婚約を破棄された女。
そばにいるだけで、ミレイアに罪悪感を抱かせるもの。
それなら、いない方がいい。
父はそう言っている。
ミレイアにとってはそれは正しいのだろう。
なら、私にとっては?
この感情を父にぶつけてしまいたかったが、私は唇を嚙んで、喉の奥まで出かかった言葉を呑みこんだ。私には何の力もない。それに、目の前のこの人は、もう、私の父ではないのだと分かってしまった。きっと、五歳のころから。
「……承知しました」
私が頭を下げると、父は少しだけ満足そうにした。
「ノーヴェラントには話を通してある。現地の代官イザルク・ヴェインが迎える。屋敷も用意させた」
「お父様のお心遣い、感謝いたします」
私はもう一度、頭を下げた。
自分の声が、ひどく遠く聞こえた。
書斎を出ると、廊下の向こうが明るかった。
ミレイアが王宮へ向かうところだった。
侍女たちに囲まれ、白いドレスの裾を持ち上げてもらいながら、ゆっくりと階段を下りている。真珠の飾りが揺れ、髪に挿された白い花が光を吸い込むように輝いていた。
綺麗だった。
また、そう思ってしまう。
そのあとから、嫌だという気持ちが追いついてきた。
見た目が美しいものを私は否定できなかった。白いドレスも、真珠の飾りも、光を受けて揺れる妹の髪も、そこに立つルディアス殿下の姿も、綺麗なものは綺麗だった。誰もが目を惹かれるのも分かる。神官たちが息を呑むのも、侍女たちがうっとりするのも、貴族たちが祝福の顔をするのも、分かってしまう。
だから、余計に苦しかった。
私だけが醜い心で見ているわけではない。ミレイアが美しいことはたぶん誰の目にも明らかだった。けれど、その美しさの隣に自分が立てないと知った瞬間、胸の奥に黒いものが滲んでくる。
綺麗だと思ったはずのものを嫌いだと思いたくなる。
祝福されるべきものを見たくないと思ってしまう。
ミレイアが悪いわけではない。美しいものに目を奪われる人たちが悪いわけでもない。
それも分かっている。
分かっているのに胸の奥が締めつけられるように痛い。
美しさを認めるたびに自分がそこに届かないことまで認めさせられる気がした。
そのとき、父の言葉が脳裏をよぎった。
お前がいれば、あの子も気を遣うだろう。
せっかくの幸福に影が差す。
ひどい言葉だと思った。
そう思いたかった。
けれど、ミレイアの白いドレスを見ていると私はどこかで納得してしまっていた。
これからの妹の人生に、私は邪魔でしかないのだと。
聖女になれなかった姉。
婚約を破棄された女。
祝福の場に立つだけで妹に罪悪感を抱かせるもの。
そう思った瞬間、私は廊下の柱の陰に身を隠していた。
玄関前には、王家の紋章が刻まれた馬車が待っていた。扉には金の飾りがつき、踏み台には柔らかい布が敷かれている。
ミレイアは扉の前で一度だけ振り返った。
私を探しているのかもしれない。
柱の陰から出ようかと思った。おめでとう、ともう一度言えばいい。幸せになってねと笑えばいい。さっき大聖堂で言えたのだから、ここでも言えるはずだった。姉らしく。聖女になれなかった者らしく。妹の門出に余計な影を落とさないように。けれど、足は動かなかった。
ミレイアはしばらく廊下を見ていた。やがて侍女に促され、馬車へ乗った。扉が閉まり、車輪が動き出す。
王家の馬車は何事もなかったように屋敷を離れていった。今夜、あの馬車は王宮へ向かう。広間には花が飾られ、銀器が並び、楽師たちが音を合わせ、貴族たちが祝福の言葉を用意して待っている。
もしかしたら、私のためだったかもしれない席へ。
ミレイアは向かった。
私は柱の陰に残った。
おめでとう。
声にはならなかった。
部屋へ戻ると、侍女が旅支度を手伝いに来た。その手つきは丁寧だった。丁寧すぎて、かえって気持ちが沈んだ。誰も私に理由を尋ねない。誰もどこへ行くのですかと聞かない。いつ出発されますか、とさえ聞かない。まるで最初から、必要な荷の量も、出発の時刻も、向かう先も決まっているようだった。
衣服を数着。
古い手袋。
母にもらった読みかけの本。
使い慣れた櫛。
化粧用の瓶。
それだけで鞄を閉じる。
私の十六年は、思ったより軽かった。あれだけ祈って、あれだけ願って、父に見てもらいたくて、母に心配をかけたくなくて、ミレイアに追いつきたくて、毎日何かを積み重ねてきたつもりだったのに、鞄に入れるものはそれだけだった。
窓辺の鉢を見た。
昔、母にもらった小さな鉢だった。何度も祈った。何度も芽を出した。何度もミレイアが花を咲かせた。
持っていこうかと思った。
空の鉢。
何も植わっていない鉢。
何度も私の力を受け止めて、何度も私の手から花を奪っていった鉢。
私は手を伸ばしかけて、やめた。
これを持っていけば王都での出来事を連れていく気がした。王都の湿った土も、暖かい部屋も、最初から種が置かれていた祈りの試験も、芽を出しただけでは誰にも見てもらえなかった日々も全部一緒に連れていく気がした。
夜が深くなる頃、母が部屋に来た。
母は一人ではなかった。後ろの侍女が厚手の外套を抱えている。王都で使うものではない。生地が重く、首元まで覆えるように作られていた。手袋も、靴も、いつものものよりずっと厚い。北東の冬に備えた旅支度だった。
私が母を見ると、母は目を伏せた。
その瞬間、分かってしまった。
母も知っていた。
今日、私が聖女に認められなかったらノーヴェラントへ送られることを。ミレイアが王宮から戻る前に、私がこの家を出ることを。今夜必要になる外套も手袋も靴も母は前から用意していた。
「今夜なのですね」
母はそう言った。
なぜ、ではなかった。
どうして、でもなかった。
今夜なのですね。
その言葉が、頭の中に反響する。今日決まったことではないのだと、また一つ分からされる。
「はい。ミレイアが戻る前に」
母は唇を噛んだ。
先代聖女だった人。
一人で芽を出し、花を咲かせ、実りを呼んだ人。
その人が、今は何もできない母の顔をしていた。
「ごめんなさい」
母は言った。
「お母様が謝ることではありません」
私は首を横に振ってから答えた。
守ってほしかった。
本当は、そう言いたかった。
知っていたならなおさら。
父と話していたのなら。外套を用意する時間があったのなら。今夜だと分かっていたのなら。私がまだ、もしかしたらと祈っていた間に、母がこの外套を選んでいたのなら。
どうして、私には何も言ってくれなかったの。
言いたかった。
でも、言えなかった。
母が泣きそうな顔をしていたからだ。
「私は、反対しました」
母は小さく言った。
「何度も、あなたの力は小さなものではないと伝えました。最初の芽を生むことは、ただの前触れではないと。とても大切で大きな力なのだと。けれど……分かってもらえませんでした」
母の手が私の頬に触れた。
指先が冷たかった。
その手は何度も国を救った手だった。枯れた水脈に水を戻し、土地に実りを呼び、人々から聖女と呼ばれてきた手だった。
「あなたの力は、才能です。最初の芽を生むことは、小さいことではありません。セレイス、どうかそれだけは忘れないで」
「……分かっています」
しばらくの沈黙の後に、私は答えた。
嘘をついた。
その言葉を私は信じられなかった。
母は私を慰めている。可哀想な娘に、せめて何かを持たせようとしている。王都を出される娘の鞄に、衣服や手袋と一緒に言葉だけでも詰めようとしている。
そんなふうに聞こえてしまう。
母を信じたいのに。
母だけは私を見てくれていたと思いたいのに。
あらかじめ用意された外套を見てしまった後では、何を信じればいいのか分からなかった。
母は私を抱きしめた。細い腕だった。昔よりずっと細くなっていた。その腕の中で、私は泣けなかった。 母の肩が震えていたからだ。私は母の背に手を回した。慰められたいのは私だ。そう思いながら私は母をぎゅっと抱きしめた。
出発の時刻になった。
案内されたのは、表門ではなく、裏門だった。
ミレイアが王宮へ向かった大きな門とは違って、来客用の灯りもなく、馬車が止まる石畳もない。使用人や荷運びが使う屋敷の影にある小さな門。
夜露で地面が湿っていた。
馬車の車輪には泥がついている。飾りは少なく、家紋も小さい。夜道で目立たないように選ばれた馬車だった。
私はそれを見て、ようやく分かった。
私は旅立つのではない。
人知れず追い出されるのだ。
母だけが見送りに来ていた。
父はいなかった。
今ごろ、王宮の宴にいるのだろう。ミレイアの隣で聖女を出したアルヴィノール家の当主として祝福を受けているのだろう。
聖女だった母の家に、婿入りしただけの父にとっては、それが今夜いるべき念願の場所なのだ。
聖女になった娘のそば。王太子の婚約者となった娘のそば。祝福されるアルヴィノール家の場所。
私はその反対側にいる。
屋敷の影にある小さな門の前で、泥のついた馬車を見ている。
「セレイス」
母が私の名を呼んだ。振り返ると、母は泣きそうな顔で立っていた。
「どうか、生きて」
才能を信じて、ではなかった。
聖女になって、でもなかった。
家の名を守って、でもなかった。
ただ、生きて。
その言葉だけが、少しだけ胸に残った。目頭が熱くなる。生まれて初めて私を一人の人間として見てくれたような気がした。
「はい」
私は答えた。
馬車に乗ると扉が閉まり、車輪が動き出す。屋敷の灯りが少しずつ遠ざかっていく。
白い壁。
高い塀。
整えられた庭。
聖女の家。
私が生まれた場所。
私が聖女になるために祈ってきた場所。
私がいらなくなった場所。
遠くで、まだ鐘が鳴っていた。
聖女の誕生を祝う鐘。
ミレイアのための鐘。
もしかしたら、私のために鳴るはずだったかもしれない鐘。
私は膝の上で手を握った。爪が掌に食い込んだ。
母もこれから王宮に向かうのだろうか。
そんなことをぼんやりと考えながら窓の外に目を向けた。




