第一話 婚約を破棄された姉
「セレイス・アルヴィノール。君との婚約を破棄する」
王太子ルディアス・リュゼルクは、私に向かってそう言った。けれど、その目は私を通り越し、隣に立つ妹に向けられていた。いつも私に向ける冷ややかな目ではなく、包み込むような穏やかな目だった。
「真の聖女はミレイアだった。君の力は、聖女の加護とは認められなかった」
大聖堂には、まだ花の香りが残っていた。
枯れていた聖樹に白い花が咲いたばかりだった。高い天窓から光が落ちて、薄い花弁を透かしている。
神官たちは祭壇の前に膝をつき、白い花を見上げていた。いいえ、花を咲かせたミレイアを見ていた。
私の双子の妹。
今代の聖女。
そして、たった今、私の婚約者だった人が、私ではなく選んだ少女。
「お姉様、私は……」
ミレイアの指が小さく動いた。彼女は泣きそうな顔をしていた。そんな顔をしないでほしかった。私が悪いみたいになる。
ルディアス殿下が近づいてきて隣のミレイアの手を取った。白い手袋が、妹の指を包む。柑橘に似た香油の匂いが、鼻の奥を刺激した。
よく知っている匂いだった。
嗚咽が込み上げてきた。
けれど、声にはしなかった。
ルディアス殿下に手を引かれたミレイアが、祭壇前の階段を上っていく。
白いドレスの裾が揺れた。金糸が光を拾い、髪が花の香りの中でふわりと動いた。
誰もが、その姿に見惚れていた。
恋愛劇の求愛の場面でも見るような顔で。
私との婚約が破棄されたばかりだというのに。
ルディアス殿下は、ミレイアを祭壇へ導いた。
白い花が揺れている。私が祈って生まれた芽から咲いた花だった。
ミレイアは優しい子だ。私を傷つけたいわけではない。
でも、私から奪ったものを手放す気もない。あるいは、奪ったつもりもないのだろう。昔からこうだった。私はいつもここまでだった。私が祈ると芽が出る。ミレイアがそれを咲かせる。そして最後には、拍手はいつもミレイアのものになる。
私が初めて祈りの試験を受けたのは、五歳の時だった。
白い部屋だった。壁も床も磨かれた石で、窓には薄い布がかかっていた。光はやわらかく、祭壇の上だけを明るく照らしていた。
そこには小さな鉢が置かれていた。
聖女の土。
神官はそう言った。
歴代の聖女が祈りを捧げた庭から運んだ土。地下の水源から汲んだ水で湿らせた土。幼い私には、ただ黒くて柔らかそうな土にしか見えなかった。
父と母が傍で見ていた。
その周りで神官たちが見ていた。
隣にはミレイアがいた。
「まずは、姉君から」
私は鉢の前に立った。
土の上には、小さな黒い種が一粒だけ置かれていた。眠っているような種だった。
手をかざして祈る。
どうか、芽が出ますように。
土が小さく震え、種が割れる。そして、小さな緑の芽が土の中から顔を出した。
「あ……!」
できた。嬉しかった。
本当に嬉しかった。
父を見た。
神官たちを見た。
母を見た。
部屋の中は静かだった。
父は笑わなかった。
神官たちも拍手をしなかった。
できたのに。
母だけが私を見ていた。
その沈黙の意味がこのときの私にはまだ分からなかった。
「次に、妹君」
私が祈った鉢の隣にもう一つの聖女の土が置かれる。その鉢にも同じように種が置かれていた。
ミレイアが前に出て祭壇に上がる。私を一度見て、不安そうに笑った。彼女を励ますように私も笑った。このときはまだ笑えていたと思う。
ミレイアが祈った。けれど、何も起こらない。戸惑いのざわめきとため息。「今代の聖女はダメなのか」という雰囲気が大人たちの表情から分かった。
とても不安そうに周囲の顔色を伺いながら、ミレイアは祭壇を降りてきた。彼女の瞳に涙が浮かんでいた。私は彼女をぎゅっと抱きしめた。
そのときだった。
私が祈って出した芽に変化が起きた。芽から光が放たれた。その瞬間、芽が伸びる。茎が立ち、葉が開き、白い花が咲いた。そして、部屋に甘い匂いが広がった。
呆然と、私は祭壇に置かれている鉢を見つめた。私が出した芽は、たちまちにして花になっていた。
「……綺麗」
とても、綺麗だった。
「おお……!」
神官たちも声を漏らした。
父の顔が明るくなった。母が安堵したように息を吐く。さっきまで黙っていた大人たちが、ミレイアの周りに集まった。
ミレイアは私の腕から離れた。
大人たちの輪の中へ入っていく。
私はそれを黙って見ていた。
その日から、同じことが何度も続いた。
私が祈ると芽が出る。
ミレイアが祈ると芽は一瞬にして成長し、花が咲く。
私が乾いた石に触れると一滴の水が落ちる。
ミレイアが祈ると水は泉になる。
私が結界を発生させる古い杭に手を置くと細い光が灯る。
ミレイアが触れると光は広がり、壁になる。
私はいつも最初だけだった。それ以上は進まない。
ミレイアは、いつも最後まで行った。芽は出せないが花を咲かせる。芽から野菜や麦を収穫できる状態まで一息で成長させる。そして、魔物から守るための結界を広げられる。それは、大人たちが欲しがる結果だった。この国を支えている力だった。
父はだんだん、私を見なくなった。
いいえ、見てはいた。けれど、私が祈っている時から父の目はもう次に祈るミレイアの方へ向いていた。神官たちも同じだった。それが嫌で、必死になって、花を咲かせようとしたが、一度も芽から花になることはなかった。
祈りの試験で使う鉢は、いつもよく湿っていた。土は黒く、指を入れればすんなりと入っていきそうなほど柔らかそうだった。水は清らかで、部屋は暖かく、神官たちは当然のように種を置く。そこに種を置けば、遅かれ早かれ芽は出る。私が祈らなくても芽は出るのだ。わずかに水の残る井戸ならミレイアが祈れば再び息を吹き返す。だから私が芽を出しても、誰も見向きもしなかった。私の一滴など、すでに満ちた杯に落ちるだけのものだった。
私の力は、聖女と呼ぶにはあまりにも小さく、足りなかった。
けれど、母、オルレイアだけは、いつも違う顔をしていた。母は先代聖女だった。かつては一人で芽を出し、花を咲かせ、実りを呼び、枯れた水脈に水を戻した人だ。その母が、神殿に何度も訴えた。
「ミレイアが芽を生んだことは一度もありません。枯れた土地に水を湧かせたこともありません。最初の一つを生んでいるのは、いつもセレイスです」
「先代様。芽は奇跡ではありません。この王都で出ない芽などありません。それはあなたもよくご存じのはず」
神殿のマルゼリウス大神官は、ゆっくり首を振った。
「けれど、最初を生み出すのはセレイスです」
「民は芽を食べられません。民が待つのは花であり、実りであり、救いです」
母の指は震えていた。言い返してほしかった。でも、大神官の意見は正しい。そういう顔をされると、人は何も言えなくなる。
母は私を守ろうとしてくれている。
それは分かっていた。
でも、みじめだった。
母が私を庇うたび、私は皆の前でさらに問われているようだった。
芽しか出せない娘として。
可哀想な姉として。
ミレイアには届かない者として。
「では、王都の外ではどうです? 何もない土地で、ミレイアは最初の芽を生めるのですか。たった少しの水でも湧かすことはできますか」
ある日、母が尋ねると大神官は静かに答えた。
「聖女が過ごすのはこの王都です。不毛の地になど行かせない」
それで終わった。
母の訴えはそこで終わった。
母は、先代の聖女だった。
だからこそ怖かったのかもしれない。
私たち双子に力が分かれてしまったのではないかと。
やがて十六歳の認定式の日が来た。
大聖堂の奥に、聖樹があった。古い灰色の幹。葉のない枝。沈黙した根。王都の中心にありながら、そこだけが冬の海に沈んでいるように暗い。
聖樹は、王都の大地に恵みを流す木だと教えられていた。
けれど、その聖樹も、聖女の祈りなしでは眠ってしまう。
だから年に一度、聖女の加護を受ける。
私は聖樹の前に立った。
手をかざして祈る。
どうか。
どうか、今度こそ。
聖樹の枝先が小さく震えた。固い皮が割れ、緑が覗いた。芽だった。枝のところどころに、ぽつぽつと生まれた。小さな、とても小さな芽だった。
大聖堂は静まり返った。
私はその沈黙を知っていた。五歳のころからずっと私の周りにあるものだ。そして、主役の登場を待ちわびるように皆が身じろぎする。私が祈るのはもはや体裁を繕うためでしかなかった。双子の姉だから。たったそれだけの理由。
ミレイアが前に出ると一斉に視線が彼女に集まる。その中で彼女は祈った。白い光が広がる。芽が伸びる。葉が開く。花が枝という枝を埋めていく。聖樹は一瞬で元気な姿を取り戻した。
歓声が上がった。
光が、聖樹の花に反射してミレイアに降りそそぐようだった。悔しいほど、美しかった。本物の聖女に見えた。誰が見ても、そう思っただろう。私は、どう足掻いても彼女のようにはなれないと思い知らされた。
そして、現在に戻る。
ルディアス殿下はミレイアの手を取っている。マルゼリウス大神官は祭壇の前で両手を広げている。白い花は揺れている。私が出した芽から咲いた花は、もう完全にミレイアの奇跡になっていた。
「今ここにリュゼルク聖律国の真なる聖女を認める。ミレイア・アルヴィノール。あなたこそ、今代の聖女です」
祈りが広がる。
祝福が広がる。
私の名前は、どこにもなかった。
「君には苦しいことだろう。だが、国のためだ。理解してほしい」
ルディアス殿下がもう一度こちらを見た。
反論しようとした。
何を?
少し考えて、笑いたくなった。
何もない。
五歳のころから、ずっと聖女になるために祈ってきた。
でも、今の私には、何も残っていなかった。
殿下は正しい。神官たちも、父も、皆がそんな顔をしていた。
私は息を吸った。
「分かりました」
大聖堂に、小さな息が吐かれた。誰もが安堵したのが分かる。
私が泣き叫ばなかったからだ。
私が怒らなかったからだ。
私が、この場を乱さなかったからだ。
白い花の匂いが、胸の奥まで入り込んでくる。嫌いになりたかった。この花を。ミレイアを。でも、なれなかった。だって、それは、私の芽から咲いた花だった。




