【5】凛:恋文の依頼
自分の店に入ってきた男が宗明であることに、凛はすぐに気づいた。
(どうして領主さまがこんなところに)
庶民のような簡素な服を着ているから、変装でもしたつもりかもしれない。しかし変装というのは、もっと完璧にやるものだ。例えば――髪を染め、男装している私のように。
一回目に来た彼は、当たり障りのない公文書を依頼してきた。
その完成品を渡したら、次は恋文を依頼してきた。
(意外とロマンチストだな)
十年以上会っていない女に、ただ消息を尋ねるだけの恋文を、まあよく出そうと思ったものだ。好きとすら言えない、情けないくらいの勇気のなさ。おそらくはどこかの貴族令嬢に恋をして、それを引きずっているのだろう。
宗明のことはよく覚えている。父が家庭教師をしていた領主の三男坊だ。文字を書く腕も悪くないし、正確な文章は書けるのだが、詩が壊滅的に下手だった。彼が思いを表現すると、どの詩も陳腐で稚拙なものになった。
(なるほど。恋文を代筆屋に依頼したくなるのも、むべなるかな)
「それで頼む」
と、宗明が言う。
凛は少し気もそぞろになっていた。だから、うかつにも口を滑らせた。
「では三日後に、明さま」
この男はまだ名乗っていない。なのに名を。
(しまった)
せっかく領主さまが変装しているのに、名前を呼んでしまったら台無しだ。それに、自分の正体がバレるかもしれない。
(まあいいか。明さまになら、正体がバレても)
しかし宗明は、まったく気づいていないようで、そのまま店を出ていった。
(ま、昔から察しの悪い奴だったからな)
次の客はいない。
凛は恋文に合いそうな珊瑚色の紙を選び、卓の上に敷く。墨の色は、海老茶。
彼の言葉を、恋文に合う文章へと変える。凛は紙と対峙した。いったん目を閉じ、暗闇に言葉の断片を捕まえに行く。
顔を上げ、筆を執り、墨を含ませる。硯の丘を三回撫でて、余分な墨を落とす。筆先が紙の上をすべる。
三行ほど書いたところで、凛の手が止まった。
大きくバツ印をつけ、紙を裏返す。
(しかし、あの領主さまが恋を)
領民の間では、堅物領主として通っている。もう妻をとってもいい年ごろなのに、舞い込んでくる縁談をすべて断り、まだ独り身だ。
(それが、こんなにむず痒い恋を……)
自分の思いを告げることすらせず、ただ相手のことを確認するだけとは。
(よっぽど大切な人なんだろう)
裏返した紙に、何となく筆を走らせる。
――雲。
街の代筆屋として誰かの筆致を真似したものではなく、自分の字。
今書きたいのは、あの朝に見た、朝焼けに輝く雲だ。何回書いてみても、納得がいかない。
希望に満ちた朝焼け。目覚め、匂いたつ大地。まだ何者でもない自分。早く何かをしなければという焦り。
(また、だめだ)
最初に書いたあの一枚が、一番良かった。あとはもう、駄作を積み上げているだけだ。凛はその紙を捨て、新しい紙を引っ張り出した。
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