駅で待っていた人
出発の前夜、荷物を一度、全部出した。
服はミナが詰めたので、触らない。私が出したのは、本と紙の方だった。
辞書が二冊。帝国の地図。外務院から届いた案内。先生が手紙に書いてくださった、勉強しておくとよい本。
王宮で使っていた予定帳も、紛れ込んでいた。
私はそれを抜き、抽斗へ戻した。
「重くなりますか」
ミナが戸口から覗いた。
「少し。でも、持てると思う」
「列車の棚へは、私が」
「駅の方に頼みましょう。二人とも持ち上げられなかったら困るわ」
そう言って、笑った。
自分の荷物の重さを心配するのは、何年ぶりだろう。
家令が最後の書類を持ってきた。
王家から預かっていたものの返却は済み、受領書も届いていた。未処理の仕事について問い合わせが来た場合は、各局の新しい担当者へ回す。
孤児院の立替は、まだ返済前だが、侯爵家の会計で追ってくれるという。
「こちらへ、ご連絡する必要がある場合には」
「審査の間は、大使館に伝えた宿へお願いします」
私は住所を確かめた。
自分が泊まるところなのに、口にすると外国の地名が少し引っ掛かった。
家令は書面を綴じた。
「どうぞ、お気をつけて」
返事をしようとすると、彼が続けた。
「旦那様も、明日は駅へおいでです。お一人で先に出られませんように」
「分かっているわ」
朝が早いから、父は見送りに来なくてよいと思っていた。
それを見抜かれたようだった。
◇
駅は、風が強かった。
家令が荷物の手配を確かめ、ミナが帽子を押さえている。
父は外套の内側から手袋を出した。
「向こうは朝晩、冷えるそうだ」
「私、手袋は持っております」
「それは薄い。こっちを持っていけ」
受け取ったものは、少し大きかった。
私が指を入れると、先が余る。
「お父様の、ですか」
「新品だ。店の者に選ばせた」
自分で買ったのかもしれない。
私は聞かず、片方だけ嵌めた。
「ありがとうございます」
「便りを寄越すように」
「はい」
「試験の結果が出るまで、待たなくていい」
私は、父の顔を見た。
父は私の帽子へ目をやっている。
曲がっているのかと思ったが、何も言わなかった。
「着いたら、書きます」
父が頷く。
その向こうから、私の名を呼ぶ声がした。
◇
リリア様だった。
灰色の外套に、飾りの少ない帽子を被っている。付き添いの侍女が、少し離れて立っていた。
「お話をしても、よろしいでしょうか」
私は父を見た。
父は時計を確かめ、家令の方へ歩いた。
リリア様はその背中へ礼をし、私へ向き直った。
「申し訳ありませんでした」
私は、何についてかを尋ねなかった。
彼女も、すぐには続けなかった。
そばを荷車が通り、私たちは柱の方へ寄った。
「寝具の件、私、あなたが意地悪をしているのだと思っていました」
「はい」
「殿下も、ご自分が認めればよいと仰っていたので。どうして、それではいけないのかと」
リリア様は、外套の袖を握った。
「今、お分かりになりましたか」
自分で思ったより、硬い声が出た。
彼女が頷く。
「注文を、しようとしたのです。せめて寝具だけでも、私から届けたくて」
私は彼女を見た。
「商店へ行ったら、何枚、どの大きさで、いつまでにと聞かれて。色だけ決めても、買えないんですね」
俯いた帽子の縁で、顔が半分隠れた。
「私が聞いたことも、同じです」
「はい」
少しだけ、意地の悪いことを言ったと思った。
言い直そうとして、言葉が出なかった。
リリア様が先に口を開いた。
「殿下は、今、何でも私へ聞かれます」
私は黙っていた。
「私には分からないと言うと、エレノアなら分かったと。エレノアなら、そんなに時間はかからなかったと」
彼女の目の下に、薄い影があった。
私は、手袋を嵌めていない方の手を握った。
「私、王太子妃にはなれません」
「殿下には、お伝えになりましたか」
「まだ」
「では、ご家族には」
彼女は首を振った。
「父は、喜んでいます。王宮に招かれて、私が殿下の隣にいるのを見るのを」
私は、父のいる方へ目をやった。
家令と何か話している。
「殿下と婚約をする前に、お話しになった方がよいと思います」
「逃げたと言われませんか」
すぐに、そんなことはないと言いかけた。
分からない。私のことも、そう言う方はいらした。
「言われるかもしれません」
リリア様の肩が落ちた。
私は唇を開き、少し迷ってから続けた。
「私は、もっと早く言えばよかったと思っています」
彼女が顔を上げる。
「できることと、できないことを。嫌だと思ったことも」
「あなたも、お嫌だったのですか」
返事が遅れた。
王宮の会議室や、楽しかった視察のことが浮かんだ。
「全部では、ありません。でも、もう戻りたくありません」
言い終えると、駅の鐘が鳴った。
ミナがこちらへ一歩近づいた。
「そろそろ、参ります」
リリア様は慌てて道を空けた。
通り過ぎようとしたとき、また呼び止められた。
「帝国で、外交官に?」
「まだ、審査を受けるだけです」
「決まっているわけでは、ないんですか」
「ええ」
彼女の顔を見て、自分が随分無茶なことをしているように思えた。
今なら、父の馬車へ戻れる。
私は旅の鞄を持ち直した。
「受けてみます」
リリア様は、何か言いかけた。
結局、深く頭を下げた。
私は、その横を通って改札へ向かった。
◇
列車が動くと、父が帽子を持ち上げた。
私も手を上げた。
リリア様の灰色の外套が、柱の向こうへ隠れる。
見えなくなってからも、しばらく窓に顔を向けていた。
「お嬢様、座ってください。揺れますので」
ミナに言われ、席へ戻った。
向かいの座席には、商人らしい男性が座っている。私たちを一度見て、そのまま本へ目を戻した。
ミナが小さな包みを出した。
「厨房からです」
「もう?」
「朝、あまりお召し上がりにならなかったでしょう」
薄いパンに、肉と野菜が挟んである。
私は一つ取り、もう一つをミナへ渡した。
包みを広げると、紙が一枚落ちた。
大使館でもらった、面接の案内だった。昨夜、荷物を詰め直したときに挟まったらしい。
拾って、折り目を伸ばす。
『ご自身が担当した業務について、権限と、判断の根拠を説明できるようにしてください』
読んだはずの一行が、気になった。
殿下のご判断ですので。
何度、そう説明してきただろう。
その前に私が何を考え、何を選んだのか。
私は鞄から筆記具を出しかけた。
「先に、そちらを」
ミナがパンを指す。
私は手を止め、一口齧った。
からしが強くて、少しむせた。
向かいの男性が、本から顔を上げた。
「水なら、車掌が持ってきますよ」
帝国の言葉だった。
私は返事をしようとし、すぐには声が出なかった。
頷くと、彼は立って、通路の向こうへ声を掛けてくれた。
車掌が来たので、水を頼んだ。男性にも礼を言うと、今度はつかえずに帝国の言葉が出た。
私はパンの包みを畳み、白い裏へ、小さく『私が決めたこと』と書いた。
その下に何を書けばよいのか、すぐには思いつかなかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
エレノアはようやく王都を離れました。次は、帝国での採用審査です。
まだ仕事が決まったわけではない彼女を、引き続き見守っていただければ嬉しいです。
空席あり




