招待状には条件がある
返事は、その日のうちに出した。
翌日、帝国大使館へ伺うことになった。
朝から何度も髪を直していたら、ミナに櫛を取り上げられた。
「もう、乱れておりません」
「そうね」
「こちらの襟飾りでよろしいですか」
彼女が二つ並べる。
私は一つを選びかけて、やめた。
「つけない方がいいかしら」
「お相手は、何度も会っていらっしゃる方でしょう」
殿下の後ろにいる私と、二人で話をする私では、違う。
そう思ったが、うまく言えなかった。
結局、小さい方を選んだ。
鞄には、返却を済ませた書類の目録ではなく、大使からの手紙だけを入れた。
◇
大使館には、一人で入った。
ミナは来客の付き添い用の控室へ案内され、私は応接室へ通された。
大使が入ってきて、椅子を勧める。
私は、いつも殿下が座る場所を見ていた。
「そちらへどうぞ」
言われてから、座った。
膝の上の鞄が、大きすぎる気がした。
「突然のお誘いで、驚かれたでしょう」
「はい。ありがたいお話をいただきまして」
そこで止めた。
まだ、どのような話か全部聞いたわけではない。
大使は薄い書類を一部、私の前へ置いた。
「帝国の外務院では、外国語と実務経験のある者を補佐官に採る制度があります。毎年、決まった人数を採るわけではありませんが、今年は通商の部署から募集が出ています」
私は頁を開いた。
経歴審査、語学試験、資料作成の実技。
指で押さえたところに、面接とある。
「私に、推薦を」
「応募をお勧めしたいと思っています」
大使は答えた。
「私から、これまでの会談で拝見した仕事について、所見は添えられます。ただし、採否を決めるのは外務院です」
私は頷いた。
椅子の上で、腰を据え直した。
「どなたから、私の話をお聞きになったのでしょう」
「婚約の解消は、王宮から正式な連絡を受けました。先日の協議の担当者変更も含めて」
私は手を止めた。
あの文官が、ようやく局へ話を持ち帰ったのかもしれない。
「役目を終えられたのであれば、別の仕事に関心をお持ちかと思いまして。外れていたら、失礼しました」
「いえ。ぜひ、伺いたいです」
少し早口になった。
大使は頷き、待遇について説明を始めた。
給与は、思っていたより少なかった。
何と比べて少ないと思ったのか、自分でもよく分からない。
単身者向けの宿舎は空きが少なく、住居の手配は原則として自分でする。赴任費には上限がある。採用された場合も、初めの二か月は試用期間になる。
「侍女を伴うことはできますか」
「ご自身で雇用されるなら。ただ、職員の宿舎は、同居人のある方を想定していません。住居を探す必要があるでしょう」
私は書き留めた。
家賃。燃料代。ミナの給与。
どれも、今まで自分で払ったことがない。
「それから、守秘に関することです」
大使の口調が、少し変わった。
「王国で知り得た非公開の情報は、こちらへお持ちにならないでください。試験も、当方で用意した資料を使います」
「経歴を証明するための、仕事の記録などは」
「公開の記録や、役職にある方の証明で足ります。持ち出してよいか迷うものは、お持ちにならない方がよい」
私は頷いた。
王宮の資料は、鞄に入れてこなかった。
それでも、次の言葉を聞くまで、少し不安だった。
「王太子殿下との交渉内容を伺うために、お呼びしたのではありません」
顔を上げると、大使が私を見ていた。
「その点は、安心してください」
「……はい」
お茶へ手を伸ばした。
初めの一口を、ようやく飲んだ。
「審査は帝都で行います。王都の大使館で書類を確認してから、渡航していただく形です」
「不採用でしたら」
言ってから、顔が熱くなった。
大使は普通に答えた。
「帰路の旅費も、規定の範囲で支給されます。審査期間の宿泊費も同様です。手元の案内で、金額をご確認ください」
私はその頁を開いた。
帰りの切符を買えると分かって、ほっとした。
行ったまま、どこにも戻れなくなるような気がしていたのだ。
「ご意向を、三日以内にお知らせいただければ」
「受けたいです」
大使が一度瞬きをした。
私も、少し驚いた。
「条件を、きちんと読みます。その上で、改めてお返事をいたします」
大使は頷いた。
帰り際、書類が鞄へ引っ掛かって折れた。私は慌てて直した。
◇
屋敷へ戻ると、まず家令を探した。
「私が一か月に、どのくらいお金を使っているか、教えていただけますか」
家令は、特に驚かなかった。
夕方、帳面を持ってきてくれた。
服を作る年と作らない年で、随分違う。私の馬車に使う費用も、家全体のものとは分けにくい。
「一人、いえ、ミナと二人で住む場合には」
「それでしたら、まず家賃ですね。帝都の相場は、私も確かめねばなりません」
知らないと言われて、少し落ち着いた。
私も、知らなくてよいのではなく、これから調べればよいのだろう。
父は、支度に必要な費用は出すと言った。
「ありがとうございます。でも、いつまで、どこまでお願いするのか、決めたいです」
「採用も決まっていないのだろう」
「はい。だから、戻ってきた場合のことも」
父が口元を押さえた。
私は顔を見た。
「可笑しいですか」
「いや。先日までは、ここにいてもよいかという顔をしていたから」
反論しかけ、やめた。
今も、していないとは言えなかった。
◇
ミナには、寝支度の前に話した。
帝国へ行くこと。まだ採用は決まっていないこと。もし仕事に就けても、今ほど広い部屋には住めないこと。
「あなたが来るなら、給与も含めて、新しく決めなければならないと思うの」
ミナが目を丸くした。
「置いていかれるお話では、ないのですね」
「一緒に来てくれたら、助かるわ。でも、王都に残りたければ」
「参ります」
返事が早かった。
私は、それで済ませていいのか迷った。
「ご家族には、相談して」
「明日、母へ話します。兄が家におりますし、母も私よりは元気です」
ミナは鏡の前の瓶を数えた。
「あちらは、水が違うのでしょうか。髪を洗うものは持っていった方が」
「そこまでは、聞かなかった」
「では、少し多めに持って参ります」
私は笑い、それから書類をもう一度開いた。
大使の手紙を受け取ったときは、何かに選ばれた気がした。
必要な身分の証明は父に、語学を教わった期間の証明は先生にお願いする。経歴書のうち、正式な役職名を書く欄には、まだ何も書けなかった。
ミナが湯を替えに出た間に、私はその欄へ小さく鉛筆で印をつけた。大使館へ書類を出すとき、聞けばいい。
今は、試験を受けに行くのだと分かっている。
落ちたら、また探さなければならない。
翌朝、応募の意思を伝える返書を出した。
窓から使いの馬車を見送る。
ほどなく家令が戻ってきた。
「一週間後の列車で、お席を手配できるそうです。よろしいでしょうか」
一週間。
私はまだ、旅行鞄をどこへしまったのかも思い出せなかった。
「お願いします」
答えてから、ミナを呼んだ。




