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『海から百万石 ~江戸時代に転移した国交省の土木職員、水守と河童と有明海の大干拓に挑む~』  作者: 天手古まい


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第九普請 雨が教えた、水の道

<長崎県諫早市 太良嶽山金泉寺>

挿絵(By みてみん)

雨は、土木屋にとって困りもの。


けれど同時に――

普段は見えない「水の道」を教えてくれる先生でもあります。


白瀬工房、いよいよ最初の実地仕事です。


雨は、夜になっても止まなかった。


ざああああ――。


白瀬工房。


そう呼ばれるようになった長吉の家の納屋で、湊一は出来上がったばかりの絵図を睨んでいた。


屋根を叩く雨音。


軒先から落ちる水。


土の匂い。


そして。


納屋の外では。


村のあちらこちらから流れてきた雨水が、道の窪みを走り始めている。


「……ちょうどいい」


湊一が呟いた。


その横で、澪が怪訝そうに眉を寄せた。


「白瀬」


「ん?」


「雨じゃぞ」


「ああ」


「かなり降っておる」


「ああ」


「なぜ嬉しそうなのじゃ」


湊一は絵図から顔を上げた。


「雨の日じゃないと、見えないものがある」


「何がじゃ?」


「水の道」


湊一は立ち上がった。


「昨日、みんなで描いただろ」


田。


道。


川。


水路。


低い土地。


水が溜まりやすい場所。


だが。


それは人の記憶を集めて描いたものだ。


実際に雨が降った時。


水がどこから来るのか。


どこへ集まるのか。


どこで止まるのか。


それは。


雨の日にしか分からない。


「机の上だけじゃ、土木はできない」


湊一は竹竿を手に取った。


「現場へ行くぞ」


ガタ吉が納屋の奥から顔を出す。


「今からか?」


「今だからだよ」


「雨ん中ぞ」


「雨だからだよ!」


澪が小さく息を吐いた。


「やはり、そなたは水を見ると止まらぬのだな」


「褒めてる?」


「呆れておる」


「だと思った」


その時。


ばたばたばたっ。


外から足音が聞こえてきた。


「白瀬ー!」


戸が開く。


長吉。


小春。


健太。


源太。


お紗。


五人だった。


全員、雨に濡れている。


「お前ら!」


湊一が目を剥いた。


「何しに来た!」


長吉が胸を張る。


「白瀬工房の仕事たい!」


「誰が呼んだ!」


「誰も!」


「じゃあ帰れ!」


「なんで!」


「雨降ってるだろ!」


小春が笑う。


「白瀬も行くとやろ?」


「俺は大人だから!」


「うちも行く!」


「理由になってない!」


健太まで竹竿を手に取った。


「水ば測るとやろ?」


「……なんで分かった」


「昨日、白瀬が言いよったたい」


源太は外を見る。


「潮も見た方がよかぞ」


お紗は縄と板を数えていた。


「竹竿三本。縄二つ。木ん杭なら、まだあるよ」


「…………」


湊一は五人を見る。


もう行く気満々だ。


澪が横で笑った。


「諦めよ、白瀬」


「澪まで」


「危なきところへ近づけねばよい」


「……分かった」


湊一はため息をついた。


そして五人を見る。


「ただし」


ぴしりと指を立てる。


「勝手に動くな」


「おう!」


「はーい!」


「走るな」


「おう!」


「水路に近づきすぎるな」


「はーい!」


「返事だけはいいんだよなあ……」


ガタ吉が笑った。


「白瀬、おぬしも人んこと言えんばい」


「どういう意味だ!」


     ◇


白瀬工房、初めての仕事が始まった。


湊一は五人を集めた。


「いいか。今日はみんなで同じことをするんじゃない」


「何すると?」


長吉が聞く。


「役割を分ける」


まず長吉を見る。


「長吉」


「おう!」


「杭を持て。水が溜まってる場所に印をつける」


「任せろ!」


次。


「小春」


「うち?」


「水を追え」


「水?」


「雨がどこから流れてきて、どこへ行くか見るんだ」


小春の顔が明るくなる。


「うち、走って見てくる!」


「走るな!」


「分かった!」


「絶対分かってないな……」


「健太」


「おいは?」


「深さを測る」


「どうやって?」


「竹竿に印をつける。水が溜まったら、どこまで濡れたか記録する」


「おお……!」


健太の目が輝いた。


「源太」


「潮たいな?」


「さすが」


「おい、海ば見てくる」


「川も見ろ。海と川、両方だ」


「任せんね!」


最後。


「お紗」


「うちは?」


「道を見る」


「道?」


「人が通れるか。荷車が通れるか。どこが泥になってるか」


お紗は一瞬考え。


すぐに頷いた。


「分かった。荷の運べんようになったら困るもんね」


「その通り」


ガタ吉が腕を組む。


「おいは?」


「泥と潮」


「いつも通りたい」


「それが一番頼りになる」


ガタ吉が少しだけ得意そうな顔をした。


そして。


湊一は澪を見る。


「澪」


「申さずとも分かっておる」


澪は外の雨へ目を向けた。


「わたしは、水を見る」


白瀬が設計する。


澪が水を読む。


ガタ吉が泥と潮を見る。


子どもたちは。


村の中を知っている。


「よし」


湊一は雨の中へ出た。


「白瀬工房、仕事開始!」


「おおーっ!」


     ◇


雨の中を歩くと。


昨日描いた絵図が。


まるで違って見えた。


「白瀬!」


小春が指差す。


「こっち!」


細い道。


普段なら何でもない場所だった。


だが今は。


山側から流れてきた雨水が、道の片側へ集まっている。


「ここから来よる!」


「長吉、杭!」


「おう!」


どん。


水の筋の横へ杭を立てる。


「健太!」


「指一本!」


「記録!」


「分かった!」


さらに進む。


「白瀬!」


今度はお紗。


「この道、もう荷車は通れんよ!」


「どこが駄目だ?」


「ここ」


足元は泥。


車輪の跡が深く沈んでいる。


「昨日も言うたやろ。雨の日は遠回りせんばって」


「ああ」


湊一は絵図へ印をつけた。


昨日までは。


ただの「道」だった。


だが。


雨の日には使えない道。


水が通る道。


泥になる道。


それぞれ意味が違う。


「面白い……」


「白瀬」


澪の声。


「また顔が笑っておるぞ」


「仕方ないだろ!」


「雨の中で嬉しそうに泥を見る男は、やはり変じゃ」


「仕事してるんです!」


     ◇


その時だった。


「白瀬!」


長吉の声が飛んだ。


湊一が振り返る。


田の端。


水路から。


水が溢れ始めていた。


「まずい!」


駆け寄る。


田に溜まった水が。


水路へ入りきれない。


「健太!」


「こっち、深うなっとる!」


「どれくらい!」


「指四本!」


「さっきは?」


「二本!」


増えている。


湊一が水路の先を見る。


「出口は?」


「海側たい!」


ガタ吉が泥の向こうから叫んだ。


「白瀬! 出口ん方も水の高か!」


「詰まってる?」


「違う!」


ガタ吉が首を振る。


「潮たい!」


湊一の顔が変わった。


「源太!」


少し先から源太が走ってくる。


「海、上がってきよる!」


「もう?」


「今日は潮の強か!」


田から水を出したい。


だが。


その先にある海の方が高い。


「……押し返されてる」


澪が水路へ入った。


裸足を水につける。


目を閉じる。


「白瀬」


「どうだ?」


「この水……外へ行きたがっておる」


「ああ」


澪が海側を見る。


「じゃが、向こうから押し返されておる」


湊一は歯を食いしばった。


排水したい。


でも潮が高い。


出口を大きく開けば。


今度は海水が村へ入ってくる。


「まずいな」


「白瀬!」


小春の声。


「こっちも水の来よる!」


別の細い流れまで合流した。


田の水位が、じわじわ上がる。


「何とかして逃がすぞ!」


     ◇


村人たちも集まった。


柴。


竹。


土。


縄。


使えるものを運ぶ。


「ここへ柴!」


「竹ば横に!」


「土嚢――はないか。土ば籠に詰めろ!」


「白瀬、こっち!」


「長吉、そこ押さえろ!」


「おう!」


一時的な水の逃げ道を作る。


田へ流れ込む雨水を。


少しでも別方向へ流す。


ガタ吉が泥の中を走る。


「こっちん方が地盤ん高か!」


「なら柴を置け!」


澪が叫ぶ。


「白瀬!」


「何!」


「そこではない!」


「どこ!」


「もう少し右じゃ!」


「ここ?」


「そこじゃ!」


水が分かれる。


田へ向かっていた流れが、少しだけ別の溝へ向かった。


「よし!」


だが。


問題は出口だった。


潮が高い。


海から水が押し戻されている。


「白瀬!」


源太が叫ぶ。


「このままじゃ海ん水まで入ってくるばい!」


「分かってる!」


水路の出口へ。


ざあっ。


波が押し寄せる。


逆流。


「くそ……」


湊一は頭を回転させた。


水は外へ出したい。


海は入れたくない。


現代なら。


樋門。


水門。


逆流防止。


いくらでも方法はある。


でも。


ここには。


鉄筋コンクリートもない。


鋼製ゲートもない。


動力もない。


あるのは。


木。


竹。


縄。


人の手。


「何か……」


その時だった。


ばたん。


音がした。


皆が振り向く。


水路の脇に置いてあった薄い板が。


水に押され。


ぱたんと倒れている。


次の瞬間。


田側から水が押す。


板が少し持ち上がる。


水が流れる。


ざあっ。


そして。


海側から波が来た。


板が押し戻される。


ばたん。


「…………」


小春が、それをじっと見ていた。


「白瀬」


「ん?」


「この板……」


しゃがみ込む。


「こっちから水の来たら、開くとよ」


「うん」


「ばってん、海ん方から来たら」


板が。


ばたん。


「閉まる」


湊一の動きが止まった。


「…………」


「白瀬?」


湊一は板を見る。


水を見る。


板を見る。


小春を見る。


そして。


「小春」


「何?」


「お前……天才かもしれない」


「え?」


小春の頬が。


ほんの少し。


赤くなった。


「う、うちが?」


「ああ!」


湊一は完全に板へ意識を持っていかれている。


「これだ!」


「何が?」


「水は出す!」


板を持ち上げる。


「海は入れない!」


ガタ吉も気づいた。


「なるほど」


澪が板を見る。


「水の向きで、勝手に開き閉じするのか」


「ああ!」


湊一は笑った。


「人がずっと開け閉めしなくてもいい!」


小春は。


まだ少しだけ頬を赤くしたまま。


白瀬を見ていた。


天才。


白瀬にそう言われた。


たった、それだけなのに。


なぜか。


胸の奥がくすぐったい。


「小春!」


「え?」


「板持って!」


「う、うん!」


もちろん。


湊一は。


そんな小春の様子には、まったく気づいていなかった。


     ◇


完璧な仕掛けなど作れない。


その場にある板。


竹。


縄。


杭。


それだけだ。


板の上部を簡単に留める。


水路の出口へ斜めに置く。


「ここば固定!」


「長吉!」


「おう!」


「健太、板が引っ掛からないよう見ろ!」


「分かった!」


「ガタ吉!」


「底はおいが見る!」


「源太、潮!」


「まだ上がるばい!」


「急ぐぞ!」


板を据える。


田側から水が来る。


ぐっ。


板が押される。


少し開く。


ざああっ!


「出た!」


長吉が叫ぶ。


水が海へ流れる。


だが次。


海側から水が押す。


ばたん!


板が閉じる。


「止まった!」


健太が目を見開く。


「海ん水、入ってこん!」


「よし!」


湊一が拳を握る。


「まだじゃ」


澪が水を見る。


「隙間から入っておる」


「分かってる!」


完全ではない。


水は漏れる。


板も歪んでいる。


固定も甘い。


でも。


さっきまでとは明らかに違う。


逆流が減った。


田の水が。


少しずつ。


外へ出ていく。


「減っとる!」


「ほんとたい!」


「白瀬!」


歓声が上がる。


そして。


やがて。


源太が海を見た。


「潮、変わるぞ!」


その言葉どおり。


海面が少しずつ下がり始める。


出口の流れが。


強くなる。


ざああああ――。


村に溜まっていた水が。


海へ。


海へ。


流れていった。


     ◇


雨脚が弱くなった頃。


皆、泥だらけだった。


長吉が杭へもたれている。


健太は板の仕掛けをまだ覗き込んでいる。


源太は海を見ている。


お紗は使った竹や縄の数を数えている。


小春は。


板を見て。


時々、白瀬を見る。


湊一はそんな五人を眺めた。


「白瀬」


長吉が呼んだ。


「ん?」


「おいたち……役に立った?」


湊一は一瞬。


何を聞かれたのか分からなかった。


「何言ってるんだ」


「え?」


「俺一人だったら、間に合わなかった」


五人が黙る。


「長吉が杭を打った」


長吉を見る。


「健太が水の深さを測った」


健太。


「源太が潮を読んだ」


源太。


「お紗が道と道具を見た」


お紗。


そして。


小春。


「小春が水を追って、あの板に気づいた」


小春が。


少しだけ胸を張った。


「みんな必要だった」


湊一は笑った。


「白瀬工房、初仕事――成功だ」


「おおーっ!」


歓声。


その中で。


澪が静かに水を見る。


「成功、か」


「何だよ」


「まだ水は残っておるぞ」


「……分かってるよ」


「板も隙間だらけじゃ」


「分かってます!」


「ならば成功とは言えぬのではないか?」


「澪!」


澪がくすりと笑った。


「じゃが」


一度。


子どもたちを見る。


「よくやった」


五人の顔が。


ぱっと明るくなった。


     ◇


その夜。


白瀬工房。


作業台の周りに。


また五人が集まっていた。


健太が真っ先に言う。


「白瀬!」


「なんだ」


「今日ん板、もっとちゃんと作れるとやろ?」


「作れる」


「どうすると?」


「まず、今日の何が駄目だったか考える」


「隙間!」


「正解」


源太が言う。


「潮の強か時は、もっと押されるばい」


「それも考えないとな」


長吉。


「杭も増やした方がよかと?」


「場所による」


小春。


「水がどっちから来るかも見んばいかんよね?」


湊一が笑う。


「その通り」


お紗。


「材料ばいっぱい使ったら、ほかで使えんごとなるよ」


「……一番現実的だな、お前」


「当たり前たい」


五人が。


作業台に身を乗り出している。


昨日までは。


ただ遊びに来ていた。


でも今は。


聞く。


考える。


試したがる。


湊一は少しだけ嬉しくなった。


「白瀬」


健太が尋ねる。


「これも手習いになると?」


「手習い?」


「字を書くんだけが手習いじゃなかと?」


「そうだなあ……」


湊一は少し考えた。


「字も大事だ」


板へ書いた印を指す。


「数も大事」


水の高さの記録を見る。


「でも」


今日描き足した絵図を見る。


「自分の目で見て、なんでだろうって考えるのも大事だ」


健太の目が輝く。


「なら、白瀬工房で手習いすると?」


「ここは手習所じゃないぞ」


「じゃあ何ね?」


湊一は納屋を見回した。


机。


棚。


竹。


縄。


絵図。


失敗作。


そして。


五人の子どもたち。


「工房だよ」


「工房?」


「ああ」


湊一は笑う。


「見て、考えて、作って、失敗して、直す場所」


「おお……!」


「何だ、それ!」


「面白そうたい!」


「今日も失敗しとったもんね」


「お紗、余計な一言はいらない!」


笑い声が納屋いっぱいに広がった。


澪は少し離れたところで、その様子を見ている。


「白瀬」


「ん?」


「皆、よい顔をしておる」


湊一も五人を見る。


「ああ」


それだけ答えた。


     ◇


子どもたちが帰ったあと。


湊一は一人。


いや。


澪とガタ吉と三人で。


絵図を見ていた。


今日の雨で。


昨日より多くの線が増えている。


水が流れた場所。


水が溜まった場所。


使えなくなった道。


溢れた水路。


そして。


海から逆流した場所。


「……ここだな」


湊一が指を置く。


澪が覗き込む。


「どうした、白瀬」


「今日、一番困ったところ」


川や田から水を外へ出したい。


だが。


潮が高い時には。


海水が逆に入ってくる。


「水は出す」


指を海側へ動かす。


「海は入れない」


ガタ吉が腕を組んだ。


「今日ん板か」


「ああ」


「もっと大きゅうするとか?」


「そうなる」


湊一は絵図へ線を引いた。


一枚の板ではない。


もっと丈夫な。


もっと確実な仕掛け。


水の出口。


潮を防ぐ門。


「……樋門」


「ひもん?」


澪が聞いた。


「水を出すための門だよ」


「門で水を止めるのか?」


「違う」


湊一は首を振った。


「必要な時に、水を通すための門だ」


澪の目が少し細くなった。


「水を閉じ込めるのではなく」


「ああ」


「水の道を守る」


湊一が笑った。


「そういうこと」


外では。


雨が上がっていた。


軒先から。


最後の雫が落ちる。


ぽつ。


その音を聞きながら。


湊一は絵図の一点へ、太く印をつけた。


海から百万石。


そのためには。


田を増やすだけでは足りない。


今ある田を守る。


村を守る。


水を逃がす。


潮を防ぐ。


やることは。


まだ山ほどある。


湊一は炭を置いた。


「よし」


澪が見る。


「次は何をする」


湊一は。


今日、小春が見つけた板。


そして絵図に描いた水の出口を見る。


「水は出す」


ガタ吉が笑う。


「海は入れん」


「ああ」


湊一も笑った。


「次は――それを、ちゃんと作る」


白瀬工房。


次の仕事は。


村の水を守る、小さな門だった。


第九普請をお読みいただき、ありがとうございます。


今回は、雨水の排水と「海からの逆流」がテーマでした。


水を外へ出したい。

でも、潮は入れたくない。


そんな難題への最初の答えを見つけたのは、白瀬ではなく小春でした。


「見て、気づいて、試して、直す」


白瀬工房も、少しずつ本当の“工房”らしくなってきました。


そして次に必要になるのは――


水は出す。

海は入れない。


村を守るための「小さな門」です。


次の普請も、どうぞお楽しみに。


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