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『海から百万石 ~江戸時代に転移した国交省の土木職員、水守と河童と有明海の大干拓に挑む~』  作者: 天手古まい


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第十普請 小さな門は、海を止める

小春が見つけた、一枚の板。


村の水は外へ。

海の水は中へ入れない。


なら――本当に使える形にしてみよう。


白瀬工房、初めての水門づくりです。


もちろん、一発で上手くいくはずもなく……。


今回も、白瀬たちは泥まみれです。


 翌朝。


 白瀬湊一は、泥の中で笑っていた。


「……すごい」


 しゃがみ込み、泥だらけの板を見つめる。


「やっぱり、すごい」


「白瀬しゃん」


 背後から、呆れた声がした。


 振り返ると、長吉が竹籠を抱えて立っている。


「朝っぱらから、何ばしよっと?」


「見れば分かるだろ」


「板ば見よる」


「違う」


 白瀬は真顔で答えた。


「感動してる」


「板に?」


「板に」


 長吉が、一歩下がった。


「……小春。白瀬しゃん、なんかおかしかぞ」


「前からたい」


「聞こえてるぞ」


 昨日の雨でできた水溜まりの向こうから、小春がけらけら笑う。


「うち、白瀬しゃんは水んことになると、ちょっと変になるて思っとった」


「ちょっとではない」


 澪が即座に言った。


「かなりじゃ」


「澪まで!?」


 その横では、ガタ吉が腕を組んでいた。


「とうとう板に惚れたガタ」


「惚れてない!」


「では、嫁にもらうガタ?」


「もらわない!」


「板と祝言とは、珍しいのう」


「澪!?」


 朝から散々である。


 だが。


 白瀬が興奮するのにも理由があった。


 昨日、小春が泥水を逃がすために立てかけた一枚の板。


 村側から水が来れば押されて開く。


 反対から潮が来れば、押し戻されて閉じる。


 たったそれだけ。


 たったそれだけなのに――。


 白瀬には、その板の向こうに、とんでもなく大きな未来が見えていた。


     ◇


「みんな、ちょっと来てくれ!」


 朝飯のあと。


 白瀬工房――と呼び始めた長吉の家の納屋の前に、子供たちや村人が集められた。


 白瀬は地面に棒で線を引く。


「こっちが村」


 一本。


「こっちが海」


 もう一本。


 その間に水路を描く。


「雨が降ったら、村の水は海へ逃がしたい」


「そりゃそうたい」


 農家の男が頷く。


「ばってん潮ん高か時ゃ、海ん水が入ってくるけん困るとたい」


「そうです」


 白瀬は板を一本、地面に描いた。


「そこで、これです」


 皆の視線が集まる。


「昨日、小春がやった」


「うち?」


 突然名前を呼ばれ、小春が目を丸くする。


「村から水が来たら開く。海から来たら閉じる」


 白瀬は板を指した。


「人が開け閉めしなくても、水自身に開け閉めさせる」


 長吉が首をひねる。


「水に働かすっと?」


「そう」


 白瀬は笑った。


「水を敵にするんじゃない」


 一拍置く。


「働かせるんだ」


 しん、と静かになった。


 その中で。


「……なんか、ずるか」


 長吉が言った。


「何が?」


「人間は何もせんで、水に働かすとやろ?」


「そこかよ!」


 どっと笑いが起きた。


 その隣で、小春がまだ戸惑っている。


「ばってん白瀬しゃん。うち、そがん大したことしとらんよ?」


「した」


「板ば置いただけたい」


「それが大事なんだ」


 白瀬はしゃがみ、小春と目線を合わせた。


「最初の一個を見つけるのが、一番難しい」


「……ほんと?」


「ああ」


 白瀬は立ち上がった。


「だから今日は――」


 ぐるりと皆を見る。


「これを、本当に使えるものにする!」


「おおっ!」


 長吉が拳を上げた。


 子供たちも続く。


「作るぞー!」


「おー!」


「おいもやる!」


「うちも!」


 ガタ吉だけは腕を組んだまま、ふん、と鼻を鳴らした。


「わしは働かんガタ」


 白瀬が振り返る。


「じゃあ昼飯なし」


「材料はどこガタ!?」


「早いな!」


     ◇


 材料は、ある。


 木。


 竹。


 縄。


 石。


 藁。


 粘土。


 鉄の蝶番などない。


 加工された金具もない。


 もちろんホームセンターもない。


 だが白瀬には、それがむしろ面白かった。


「よし」


 袖をまくる。


「第一号を作るぞ」


 長吉が胸を張った。


「丈夫にすればよかっちゃろ!」


「まあ、そうだけど――」


「任せんしゃい!」


 嫌な予感がした。


     ◇


 昼前。


 完成した。


「…………」


 白瀬は腕を組む。


「……長吉」


「なんね?」


「頑丈にしろとは言った」


「うん」


「城門を作れとは言ってない」


 分厚い板。


 太い横木。


 ご丁寧に補強材まで入っている。


「海ん水ば止めるとやろ?」


 長吉は得意満面だった。


「なら、頑丈か方がよか!」


「理屈は分かる」


 白瀬は額を押さえた。


「まあ……やってみるか」


 水路へ据える。


 皆が並ぶ。


「水、流すぞー!」


「おー!」


 上流側から溜めていた水を放つ。


 ざあっ!


 水が板へ当たった。


 どん。


「…………」


 板は動かない。


 どどどどど。


 水が溜まる。


「…………」


 動かない。


 小春が覗き込む。


「開かんよ?」


「…………」


 長吉も覗き込む。


「開かんね」


 ガタ吉。


「壊れとるガタ?」


「壊れてない」


「なら成功ガタ?」


「失敗だよ!」


「失敗ガタ!」


 なぜか嬉しそうに言うな。


 澪が白瀬を見る。


「白瀬」


「はい」


「昨日、そなたは小春を天才と申しておったな」


「言いました」


「今日は?」


 白瀬は板を見る。


 そして。


「俺が馬鹿でした」


「うむ」


「澪、少しくらい慰めてくれてもいいんじゃないか?」


「なぜじゃ?」


「ですよね!」


     ◇


「軽くする!」


 白瀬が叫んだ。


「今度は軽くするぞ!」


「おお!」


 板を薄くする。


 横木を減らす。


 竹を軸にして、より動きやすくする。


「第二号!」


「できたー!」


 再び水を流す。


 ざあっ!


 今度は――。


 ぱかっ!


「開いた!」


 小春が跳び上がる。


「白瀬しゃん、開いたばい!」


「よし!」


 水が勢いよく海側へ抜けていく。


 長吉が両拳を上げた。


「勝ったー!」


「まだだ!」


 白瀬が止める。


「逆から水を入れるぞ!」


 潮が上がる時を見計らう。


 ざぷん。


 海側から水が押してくる。


 板が戻る。


「閉じるぞ!」


 ばたん!


「おおっ!」


 ばたん!


「……ん?」


 ばたん!


 ばたん!


 ばったん!


 ばったん!


 ばったんばったんばったん!


「うわっ!?」


 波が来るたび、板が暴れ始めた。


「縄! 縄押さえろ!」


「おいがやる!」


「長吉、危な――」


 ばしゃあっ!


「ぶっ!」


 長吉、全身ずぶ濡れ。


「長吉!」


 ばしゃあっ!


「ぶわっ!?」


 今度はガタ吉。


 頭から泥水をかぶった。


 しん。


 全員がガタ吉を見る。


 頭の皿から、泥水がぽたりと落ちる。


「…………」


「…………」


 ガタ吉が震えた。


「し……」


 白瀬は逃げる準備をした。


「白瀬ェェェェェ!」


「俺のせいじゃない!」


「待てガタァァァ!」


「水門のせいだ!」


「作ったのはおぬしガタ!」


「それはそうだけど!」


「逃げるでない!」


 澪の声まで飛んでくる。


「澪、どっちの味方!?」


「面白い方じゃ」


「ひどい!」


 泥だらけの白瀬を、子供たちの笑い声が追いかけた。


     ◇


 夕方。


 二号機の残骸を前に、白瀬はしゃがみ込んでいた。


「重ければ開かない」


 棒で地面に書く。


「軽ければ暴れる」


 もう一本。


「隙間をなくせば動きにくい。隙間を作れば海水が入る」


 さらに一本。


「泥も詰まる」


 ガタ吉が言った。


「……泥?」


「そうガタ」


 ガタ吉は水路へ手を入れ、底の泥を掬った。


「水だけ見とったら駄目ガタ」


 白瀬が顔を上げる。


「潮が来れば泥も来る。草も来る。枝も来るガタ」


 澪も水面を眺めていた。


「白瀬」


「ん?」


「水は、いつも同じ力では来ぬ」


 白瀬は黙った。


「静かな時もある。荒れる時もある。潮が満ちる時、引く時。雨の時。風の時」


「…………」


「そなた、板ばかり見ておったであろう」


 図星だった。


 白瀬は、はっと水路を見る。


 大学院でも。


 国交省でも。


 何度も言われたことだ。


 計算だけでは川は分からない。


 図面だけでは現場は分からない。


 水は数字どおりに流れてくれるとは限らない。


「……そうか」


 白瀬が立ち上がる。


「板じゃない」


「なんね?」


 長吉が聞く。


「全部だ」


 白瀬は水路を指した。


「水の量。潮。波。泥。板の重さ。開く幅。閉じる速さ」


 そして皆を見る。


「全部合わせて、一つの仕組みにする」


 小春が首を傾げた。


「できると?」


 白瀬は笑った。


「一人じゃ無理だ」


「え?」


「だから、みんなでやる」


 長吉の顔が輝いた。


「なら、おいは何ばすればよか!」


「まず板を削る!」


「任せんしゃい!」


「削りすぎるなよ!」


「分かっとる!」


「その返事が一番怖い!」


「うちは?」


「小春は昨日みたいに、水を見てくれ」


「うん!」


「ガタ吉!」


「昼飯は出るガタ?」


「働いたらな!」


「何でも言えガタ!」


「澪!」


 澪は腕を組む。


「わたしまで使う気か」


「お願いします」


「仕方あるまい」


 ほんの少し。


 澪が笑った。


「そなた一人に任せておけば、また河童が飛ぶゆえな」


「飛ばしたくて飛ばしたんじゃない!」


「わしは飛んだガタ!」


     ◇


 日が傾くまで。


 白瀬工房は戦場になった。


「竹、もう一本!」


「持ってきたばい!」


「縄!」


「ここたい!」


「長吉、そっち押さえろ!」


「おい一人でよか!」


「だから力任せにするな!」


「ガタ吉、泥!」


「ここに溜まるガタ!」


「なら下を少し空ける!」


「白瀬!」


「今度は何だ!」


「飯はまだガタ!?」


「あとで!」


「重大問題ガタァ!」


 板を少し軽くする。


 ただし軽すぎない。


 竹の軸で上側を支える。


 開きすぎないよう縄で止める。


 板が閉じる場所には、藁と粘土を噛ませる。


 流れてきた小枝が引っ掛からないよう形も変える。


 杭を打ち、周囲を固める。


 現代の製品には遠く及ばない。


 図面らしい図面もない。


 材料の寸法だって揃っていない。


 けれど。


 これは間違いなく――。


 白瀬たちの水門だった。


     ◇


「第三号」


 夕暮れ。


 全員が水路の前に立った。


 泥だらけ。


 汗だらけ。


 腹も減った。


「今度こそ……」


 長吉がごくりと喉を鳴らす。


「流すぞ!」


 水を放つ。


 ざああっ。


 水が板へ当たる。


 ぎ。


 ぎい……。


 ゆっくり。


 板が開いた。


「……開いた」


 小春が呟く。


 ざあっ!


 村側の水が海へ抜けていく。


「やった!」


「まだ!」


 白瀬は止めた。


 問題は、ここからだ。


 潮が満ちてくる。


 海側の水位が上がる。


 ざぷん。


 板が押される。


 ゆっくり。


 ゆっくり。


 そして。


 ――ぱたん。


 閉じた。


 全員が息を止める。


 水面が揺れる。


 波が来る。


 板は動かない。


 また波。


 動かない。


 小春が水路を覗き込んだ。


「……入ってこん」


 長吉も駆け寄る。


「ほんとじゃ!」


 ガタ吉が水へ手を入れる。


「海ん水、止まっとるガタ!」


 一瞬。


 誰も声を出さなかった。


 次の瞬間。


「できたあああああ!」


 歓声が上がった。


「やったー!」


「おいらの門たい!」


「うちが最初に見つけたとよ!」


「おいが板ば作った!」


「わしが水を見たガタ!」


「俺が設計を――」


「白瀬は二回失敗しただけじゃ」


「澪!?」


 また笑いが弾ける。


 白瀬も笑った。


 腹の底から笑った。


 小さな水路。


 小さな板。


 小さな門。


 それでも。


 ここには確かに、人の知恵で水を御する仕組みが生まれた。


     ◇


「白瀬しゃん」


 長吉が完成した門を見ながら言った。


「こい、何て名前なん?」


「名前?」


「あるやろ?」


「うーん……」


 現代なら樋門や逆流防止の仕組みに近い。


 だが、そんな言葉を今ここで持ち出しても仕方がない。


「門、だな」


「門?」


「水を出して、海を入れない門」


 小春が笑った。


「ちっちゃか門たい」


「じゃあ――」


 白瀬も笑う。


「小さな水門だ」


「そのまんまガタ」


「うるさい」


 村人たちも集まってきた。


「こいがあれば、雨ん時も少し楽になるばい」


「白瀬しゃんは、やっぱ大したもんたい」


「いや」


 白瀬は首を振った。


 小春の背中を軽く押す。


「最初に見つけたのは小春です」


「うち!?」


「長吉が作った。ガタ吉が水を見た。澪が教えた。みんなが材料を持ってきてくれた」


 完成した水門を見る。


「こういうものは、一人じゃ造れません」


 小春が、少しだけ胸を張った。


 長吉もにやりと笑う。


「なら、おいら全員の門たい」


「ああ」


 白瀬は頷いた。


「みんなで造った門だ」


 夕日に照らされた水が、小さな門を抜けて海へ流れていく。


 白瀬には、その先が見えるような気がした。


 一本の水路。


 一枚の板。


 一本の堤。


 ひとつの田。


 それが増えていけば――。


 いつか。


 本当に海から土地を生み出せるかもしれない。


「百万石……」


「なんね?」


「いや」


 白瀬は笑った。


「まだ秘密」


「また白瀬しゃん、一人で変なこと考えよる」


「変じゃない!」


 その時だった。


 ガタ吉の笑顔が消えた。


「……白瀬」


 低い声。


 白瀬も振り返る。


「どうした?」


 ガタ吉は答えない。


 本明川の方を見ている。


 澪も同じだった。


 白瀬の胸に、嫌なものが走った。


「澪?」


「……水の匂いが変わった」


 夕日に照らされた川。


 いつもより濁っている。


 流れも、速い。


 川面を枝が流れていく。


 一本。


 二本。


 次々と。


「上で降ったのか……?」


 白瀬が呟いた、その時。


「おーい!」


 遠くから声がした。


 男が走ってくる。


 転びそうになりながら。


 泥を跳ね上げながら。


「おーい! 大変たい!」


 村人たちが振り返った。


「どがんした!」


 男は膝に手をつき、荒い息のまま叫んだ。


「川ん水が――」


 一度、大きく息を吸う。


「上ん方で、どんどん増えよる!」


 笑い声が消えた。


 白瀬は本明川を見た。


 さっき造った小さな水門。


 あれなら。


 海から来る水には抗える。


 けれど――。


 白瀬は知っている。


 川は。


 そんなに甘くない。


 茶色い水が、速さを増していく。


「白瀬」


 澪が呼ぶ。


「ああ」


 白瀬は立ち上がった。


 小さな門で、ひとつ勝った。


 なら。


 次も考えるだけだ。


 逃げるのではない。


 見る。


 測る。


 考える。


 そして――造る。


 白瀬は迫る濁流を睨んだ。


「今度は――」


 風が吹いた。


「山から来る」


 本明川が、唸り始めていた。

お読みいただきありがとうございます。


小さな一枚の板から始まった水門づくり。


白瀬の知識だけではなく、

小春の発見、長吉の力、ガタ吉の水を見る目、澪の言葉。


みんなの知恵を合わせて、ようやく一つの形になりました。


『海から百万石』では、

こうした「小さな成功」を少しずつ積み重ねながら、

やがて本格的な治水、そして干拓へ進んでいきます。


しかし――。


海から来る水を止めた、その直後。


今度は山から、水がやって来ます。


次の普請も、よろしくお願いいたします。


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