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『海から百万石 ~江戸時代に転移した国交省の土木職員、水守と河童と有明海の大干拓に挑む~』  作者: 天手古まい


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第十一普請 大川、牙をむく

今回は、これまでの普請とは少し違います。


水を止めるだけが、治水ではありません。


作ることだけが、普請でもありません。


白瀬が初めて、「何を守り、何を諦めるか」という決断を迫られます。


 「本明川が増えとる!」


 駆け込んできた男の声に、白瀬は顔を上げた。


「今度は――山から来る」


     ◇


 村では、それほど雨は降っていなかった。


 ぱらぱらと屋根を叩く程度だ。


 空にも、ところどころ明るい場所がある。


 だからこそ、村人たちは首を傾げた。


「川が増えたちゅうても、毎年んことたい」


「こがん雨で、なんば騒ぎよっとか」


「田ん仕事ば止めるほどじゃなかろう」


 だが白瀬は返事をしなかった。


 本明川へ向かって走っていた。


「白瀬しゃん、待たんね!」


 長吉が追う。


 小春も続く。


「うちも行く!」


「小春は戻れ!」


「なんで!」


「いいから!」


 白瀬が珍しく怒鳴った。


 小春の足が止まった。


 それだけで、いつもとは違うと分かった。


 ガタ吉が、その横を駆け抜ける。


「こりゃあ、遊びじゃなさそうじゃの!」


 澪も無言で続いた。


     ◇


 川へ出た瞬間。


 白瀬は立ち止まった。


 音が違う。


 昨日までの本明川ではない。


 ごう。


 ごう。


 ごごごごご――。


 茶色く濁った水が、川幅いっぱいに膨れ始めていた。


 竹の葉。


 枝。


 藁。


 折れた木まで流れてくる。


 白瀬は川岸へしゃがんだ。


 水を見る。


 岸を見る。


 上流を見る。


「……速い」


 長吉が息を切らして追いついた。


「白瀬しゃん……」


「下がれ!」


 白瀬が腕を伸ばした。


 直後。


 ざばん!


 水が岸を叩いた。


 さっきまで長吉が立とうとしていた場所まで、濁流が飛んできた。


「うわっ!」


 長吉が後ずさる。


 白瀬は上流を睨んだ。


 この辺りでは、まだ大して降っていない。


 ならば――。


「山だ」


「山?」


「上で降ってる」


 白瀬は唇を噛んだ。


 本明川は短い。


 山から海までが近い。


 上で降った水が、一気に下ってくる。


 現代なら雨量計がある。


 水位計がある。


 上流の観測所がある。


 警報が出る。


 今は――何もない。


 あるのは。


 目。


 耳。


 経験。


 そして、この川だけだ。


 澪が川面へ手を差し出した。


 目を閉じる。


 しばらくして、その眉が寄った。


「白瀬」


「分かるか?」


「来る」


 短い一言だった。


「今の水ではない」


 澪が目を開ける。


「もっと大きなものが来るぞ」


 ガタ吉の顔から笑いが消えた。


 白瀬は立ち上がった。


「どれくらいだ」


「分からぬ」


「……そうか」


 白瀬は一度だけ目を閉じた。


 怖い。


 判断を間違えたら。


 村人の仕事を止める。


 田を捨てさせる。


 家を離れさせる。


 それで何も起きなかったら。


 笑われるだけならいい。


 信用を失うだけならいい。


 逆だったら。


 逃がさなかった人間が死ぬ。


 白瀬は目を開けた。


「長吉」


「お、おう!」


「村へ走れ」


「なんて言えばよか?」


 白瀬は川を指した。


「川沿いの家から全員、高いところへ上げる」


 長吉が目を見開く。


「全員?」


「全員だ」


「田んぼは?」


「捨てる」


「えっ」


「家財も、荷物も後だ。まず人だ」


 長吉が動けなくなった。


 白瀬はその肩を掴んだ。


「長吉」


「……うん」


「逃げるのも普請だ」


 長吉が白瀬を見る。


「人を守れ」


 その目が変わった。


「分かった!」


 長吉は走り出した。


「みんなに言うてくる!」


     ◇


「川から離れんね!」


 長吉の声が村中に響いた。


「高かところへ行くばい! 白瀬しゃんが言いよる!」


 小春も家々を走った。


「爺ちゃん、婆ちゃんば先に連れて行かんね!」


「なんね、小春。こがん雨で」


「よかけん、早う!」


「田ん苗ば――」


「田んぼより人たい!」


 大人が目を丸くする。


 普段なら、そんな言い方をすれば叱られる。


 だが小春は引かなかった。


「白瀬しゃんが逃げろち言いよる!」


 別の家では、男たちが土俵を運び始めていた。


「堤ば固めんば!」


「今ならまだ間に合う!」


 そこへ白瀬が戻ってきた。


「やめてください!」


 男たちが振り返る。


「なんでじゃ!」


「水が来よるとぞ!」


「じゃけん堤ば――」


「駄目です!」


 白瀬の声が村中に響いた。


 ざわめきが止まった。


「これから来る水の量が分かりません。堤へ人を出したら、逃げ遅れる!」


「じゃあ田ぁどうすっとか!」


「捨てます」


 一瞬。


 誰も言葉を発しなかった。


「……なんて?」


「田は捨てます」


「馬鹿言うな!」


 男が白瀬の胸倉を掴んだ。


「ここで米ば作れんかったら、冬ば越せんぞ!」


「分かってます!」


「分かっとらん!」


「分かってます!」


 白瀬も怒鳴った。


「だから、人を先に逃がすんです!」


 男の手が止まった。


「田んぼは、作り直せる」


 白瀬は男の目を見た。


「人は作り直せない」


「……」


「今は勝とうとしちゃ駄目です」


「水に負けろち言うとか」


「はい」


 白瀬は即答した。


「ただし――」


 川の音が、一段大きくなった。


「負ける場所を、こっちで決めます」


     ◇


 それから村が動いた。


「年寄りから上へ!」


「子どもは離れるな!」


「牛ば引いて行ける者だけ連れて行け!」


「荷物は後!」


 白瀬は走りながら指示を飛ばした。


 長吉も叫ぶ。


「おいについて来んね! 小さか子ば真ん中に入れるばい!」


 小春が数える。


「一、二、三……!」


 お紗も別の列を数えていた。


「こっちは揃っとる!」


「家ん中は見た?」


「見たばい!」


 いつの間にか。


 白瀬工房で遊んでいた子どもたちが、村人を動かしていた。


 縄を持つ者。


 幼い子の手を握る者。


 老婆の背を押す者。


「走らんでよか! 転ばんごと歩かんね!」


 白瀬は一瞬だけ、その姿を見た。


 だが感心している暇はなかった。


「白瀬!」


 澪の声。


 川沿いの水路へ走る。


 先日作ったばかりの水門。


 水路の中で、水が逆向きに動き始めていた。


「来た!」


 川から田へ。


 水が押し戻されてくる。


 そして。


 ばたん!


 水圧に押され、水門が閉じた。


「閉まった!」


 長吉が叫んだ。


「閉まったばい!」


 小春も跳び上がる。


「白瀬しゃん! うちらん門が水ば止めた!」


 ガタ吉が鼻を鳴らした。


「へっぽこにしちゃあ、よう働くの」


「へっぽこじゃなか!」


 小春が言い返した。


 だが白瀬は笑わなかった。


「……違う」


「え?」


「まだだ」


 水門は働いている。


 逆流は止まった。


 しかし。


 その横の草地を、水が這い始めていた。


 じわり。


 じわり。


「門じゃ足りん」


 小春の顔が曇る。


「失敗したと?」


「違う」


 白瀬は首を振った。


「門はちゃんと仕事してる」


 そして川を見る。


「相手が大きすぎるんだ」


 その時。


 上流から。


 轟音がした。


 どおん――!


 全員が振り返る。


 大きな流木が、川を回りながら流れてきた。


「下がれ!」


 白瀬が叫ぶ。


 流木が橋脚へ激突した。


 ばきっ!


 木が横を向く。


 そこへ次の枝が絡む。


 さらに竹。


 草。


 藁。


 あっという間に、水の流れが塞がれ始めた。


「まずい」


 ガタ吉が言った。


「まずいぞ、白瀬」


 せき止められた水が盛り上がる。


 右へ。


 左へ。


 行き場を探し始める。


 白瀬は周囲を見た。


 低い田。


 民家。


 堤。


 全部は守れない。


「……あそこだ」


 白瀬が一枚の田を指した。


「あそこの畦を切ります」


 一人の農夫が振り返った。


「……あそこは」


 声が震えている。


「おいの田ぞ」


 白瀬は何も言えなかった。


 若い稲が並んでいる。


 今年の米。


 家族の飯。


 冬を越すための糧。


 現代のような補償などない。


「切れば、水を逃がせます」


 白瀬は言った。


「でも決めるのは、俺じゃない」


 男は田を見る。


 妻を見る。


 高台にいる子どもを見る。


 鍬を握った。


「……来年も」


「はい」


「田ぁ作れるか」


「作ります」


 白瀬は答えた。


「俺も手伝います」


 男は鼻をすすった。


「なら――」


 鍬を振り上げた。


「人が死ぬより、よか!」


 ざくっ!


 畦が崩れる。


 水が一気に田へ流れ込んだ。


 ざああああっ!


 青い田が泥水に沈んでゆく。


 男は歯を食いしばって、それを見ていた。


 白瀬も見ていた。


 忘れないために。


     ◇


「白瀬しゃん!」


 高台から、小春の叫び声。


 白瀬が振り返る。


 小春が真っ青な顔で走ってきた。


「一人おらん!」


「何?」


「ちっちゃか子が一人おらんと!」


「もう一度数えろ!」


「三回数えた!」


 お紗も頷く。


「間違いなか!」


 母親らしい女が、人垣をかき分けた。


「うちん子がおらん!」


「最後に見たのは?」


「家たい! 婆ちゃんば起こしに戻ったて――」


 白瀬の背筋が冷えた。


「どの家です!」


 女が指差した。


 川沿い。


 一番低いところだった。


 男たちが走り出そうとする。


「待って!」


 白瀬が止めた。


「なんば待つとか!」


「うちん子ぞ!」


「大勢で行ったら駄目です!」


「なら、おいが行く!」


「駄目だ!」


 白瀬が怒鳴る。


「助けに行った人まで流されたら、それは救助じゃない!」


「じゃあ、どうすっとか!」


 皆が白瀬を見る。


 白瀬は言葉を失った。


 ほんの少し前まで。


 誰も自分を見ていなかった。


 年長者を見る。


 庄屋を見る。


 家長を見る。


 それが、この土地の当たり前だった。


 今は。


 全員が。


 白瀬を見ている。


「白瀬」


 澪が静かに言った。


「皆、そなたを待っておる」


 白瀬は拳を握った。


「……ガタ吉」


「なんじゃ」


「来てくれ」


 河童がにやりとした。


「水場なら任せい」


「澪」


「わたしも参る」


「いや」


 白瀬は首を振った。


「ここに残ってくれ」


 澪の眉が動く。


「なぜじゃ」


「ここには百人いる」


「……」


「水がどっちへ来るか見ていてくれ。危なければ、俺たちを待たずに全員逃がせ」


 澪は白瀬を見つめた。


「承知した」


 白瀬は村人たちへ向き直った。


「俺とガタ吉で行きます」


「白瀬しゃん!」


 長吉が一歩出た。


「おいも行く!」


「駄目だ」


「なんで!」


「お前には仕事がある」


「なんね!」


「ここを守れ」


 長吉が黙る。


「小春も、お紗も、みんなだ。子どもを一人も高台から下ろすな」


「でも!」


「頼む」


 白瀬は長吉の肩を叩いた。


「任せる」


 長吉の唇が震えた。


「……分かった」


     ◇


 家までの道は、もう道ではなかった。


 くるぶし。


 膝。


 水位が上がる。


「速いぞ!」


 ガタ吉が叫ぶ。


「分かってる!」


「人間は足が遅いのう!」


「うるさい!」


 軽口を返した。


 そうでもしなければ。


 怖かった。


 心臓が痛いほど鳴っている。


 家が見えた。


「いるか!」


 白瀬が戸を開ける。


「誰かいるか!」


「……ここ!」


 小さな声。


 奥。


 少年が老婆の手を引いていた。


「婆ちゃんが歩けんと!」


「よく残った!」


 白瀬は老婆を背負った。


「ガタ吉、その子!」


「任せい!」


 外へ出る。


 そこで。


 白瀬の足が止まった。


「……嘘だろ」


 帰ってきた道がない。


 茶色い水が横切っていた。


 ほんの数分前まで歩けた場所が。


 川になっている。


 少年が泣き出した。


「白瀬しゃん……」


 白瀬は唾を飲んだ。


「怖か……」


「ああ」


 白瀬は答えた。


「俺も怖い」


 少年が顔を上げる。


 白瀬は笑った。


 上手く笑えたかは分からない。


「だから、一緒に帰ろう」


     ◇


 高台から小春が叫んだ。


「白瀬しゃーん!」


 長吉も拳を握っていた。


「戻ってこん!」


 男たちが動く。


「助けに行かんば!」


「待て!」


 長吉が両腕を広げた。


「なんね!」


「白瀬しゃんが、ここ守れち言うた!」


「どけ、長吉!」


「いやばい!」


 大人の前に。


 子どもが立ちはだかった。


「白瀬しゃんが逃げろち言うたとばい!」


「でも――」


「白瀬しゃんの言うことば聞かんね!」


 その瞬間。


 どんっ!


 男たちが向かおうとしていた堤の一部が崩れた。


 泥水が奔った。


「……」


 誰も動かなかった。


 もし。


 あと十数歩、進んでいたら。


 一人の老人が呟いた。


「……分かっとったとか」


 長吉は川を睨んだ。


「白瀬しゃんは……」


 拳を握りしめる。


「適当なこと、言わん!」


     ◇


「白瀬!」


 澪の声が飛んだ。


 対岸にいる。


 白瀬は老婆を背負ったまま叫ぶ。


「流れを見てくれ!」


 澪が目を閉じた。


 水が。


 ざわり、と震えた。


 澪の長い髪が風もないのに揺れる。


「……強い」


「止められるか!」


 澪が歯を食いしばった。


「無理じゃ!」


 高台の村人がざわめく。


 水守でも。


 止められない。


 澪は両手を水へ向けた。


「この水量、わたし一人では止められぬ!」


「止めなくていい!」


 白瀬が叫んだ。


「何?」


「向きを変えろ!」


「どれほどじゃ!」


「三十!」


「三十?」


「三十数える間だけでいい!」


 澪が白瀬を見る。


 そして。


「やってみよう」


 両手を振った。


「水よ――道を貸せ!」


 ごうっ!


 濁流の表面が揺れた。


 ほんのわずか。


 流れが外側へ寄る。


「今だ!」


 白瀬が水へ入った。


「縄!」


 高台から縄が飛ぶ。


 ガタ吉が水へ潜る。


「わしが下から押す!」


 白瀬は老婆を先に縄へ繋いだ。


「引いて!」


「引けぇ!」


 村人たちが一斉に縄を握る。


「せーの!」


「引けぇぇぇ!」


 老婆が渡る。


 次に少年。


「白瀬しゃん!」


「先に行け!」


「嫌たい!」


「行け!」


 少年が泣きながら縄にしがみついた。


 村人が引く。


「二十!」


 澪の声。


 白瀬も渡り始めた。


 水が腰を越える。


「二十五!」


「白瀬しゃん!」


 小春が叫ぶ。


「早う!」


「分かってる!」


「二十八!」


 流れが戻り始める。


「二十九――!」


 足元が消えた。


「っ!」


 白瀬の体が浮く。


「白瀬しゃん!」


「白瀬ぇ!」


 濁流に持っていかれる。


 縄が手から滑った。


 その瞬間。


 ばしゃん!


 水中から青い腕が伸びた。


 白瀬の襟首を掴む。


「ぐえっ!」


「捕まえたぞ!」


 ガタ吉だった。


「人間は水ん中じゃ、ほんに役立たんのう!」


「今……言うことか!」


「今じゃから言うんじゃ!」


 二人まとめて縄を掴んだ。


「引けええええ!」


 長吉まで縄へ飛びつく。


「おいも引く!」


 小春も。


「うちも!」


「子どもは下がれ!」


「嫌たい!」


 村人。


 子ども。


 農夫。


 漁師。


 皆が一本の縄を引いた。


「せーの!」


「うおおおおおっ!」


 白瀬の手が岸へ届く。


 誰かが掴んだ。


 引き上げる。


 泥の上へ転がった。


「……っ、はあ……!」


 直後。


 どおん!


 振り返る。


 今までいた家の壁へ、濁流が突っ込んだ。


 柱が傾く。


 屋根が崩れた。


 誰も喋らなかった。


 あと少し。


 ほんの少し遅ければ。


 白瀬も。


 少年も。


 老婆も。


 そこにいた。


     ◇


 夕方。


 雨は上がった。


 本明川の水も、少しずつ下がり始めた。


 村は泥だらけだった。


 柵は流された。


 田も一枚、沈んだ。


 家も一軒、壊れた。


 それでも。


「全員おるか!」


 白瀬が叫ぶ。


 子どもたちが数える。


「おる!」


「こっちも!」


「婆ちゃんたちも揃っとるばい!」


 死者。


 なし。


 行方不明。


 なし。


 白瀬はその場に座り込んだ。


「……よかった」


 足が震えていた。


 今になって止まらない。


 小春が近づいてきた。


 泥まみれだった。


「白瀬しゃん」


「ん?」


「うちら、勝ったと?」


 白瀬は本明川を見る。


 少し考えて。


 首を振った。


「いや」


「負けたと?」


「ああ」


 小春が不思議そうな顔をする。


「でもな」


 白瀬は沈んだ田を見た。


「ちゃんと負けた」


「ちゃんと?」


「全部守ろうとしなかった。田んぼ一枚と家一軒で、人を守った」


 そこへ、あの田の持ち主が来た。


「白瀬」


「……すみません」


 白瀬は立ち上がった。


「田んぼを――」


「違う」


 男は首を振った。


「礼ば言いに来た」


「でも」


「田はまた作る」


 高台にいる妻と子どもを見る。


「来年も、その次もな」


 白瀬は何も言えなかった。


 男が泥だらけの手を差し出した。


「そん時は手伝えよ」


 白瀬は握った。


「もちろんです」


     ◇


 翌朝。


 白瀬は一人で川へ向かった。


 手には杭。


 縄。


 木槌。


 昨夜、水が来た高さを探す。


 草が倒れている。


 枝が引っ掛かっている。


「……ここまで来たのか」


 木槌を振り上げた。


 こん。


 一本目の杭。


「白瀬どん」


 後ろから声がした。


 白瀬が振り返る。


「……え?」


 昨日まで白瀬を怪しげに見ていた老人だった。


 鍬を担いでいる。


「川ば調ぶっとじゃろ」


「ええ、まあ」


「なら、おいも行く」


「でも――」


「一人じゃ無理たい」


 さらに後ろ。


 男が二人。


 三人。


 昨日、田を切った農夫までいる。


 その向こうから。


「白瀬しゃーん!」


 長吉たちが走ってくる。


「何しよっと!」


「杭を打ってる」


 小春が目を輝かせた。


「また何か作ると?」


「今日は作らない」


「じゃあ何すっと?」


 白瀬は本明川を見る。


「調べる」


「何ば?」


「川の癖を、全部」


 ガタ吉が頭を抱えた。


「また仕事か!」


 澪が隣で微笑む。


「そなたが始めたのであろう」


「わしは門だけのつもりじゃった!」


 長吉が笑う。


「諦めんね!」


 小春も笑った。


「ガタ吉も水担当たい!」


「誰が決めた!」


「白瀬しゃん!」


「おのれ白瀬ぇ!」


 笑い声が川辺へ広がった。


 白瀬も笑った。


 だが。


 目は川を見ていた。


 昨日までとは違う。


 本明川は、ただそこにある川ではなくなった。


 守るべきもの。


 知るべきもの。


 付き合っていくべきもの。


 そして。


 振り返れば。


 昨日まで自分を遠巻きにしていた村人たちが、杭と縄を持って立っている。


 誰も、


「何をするんだ」


とは言わなかった。


「何をすればいい」


と聞いている。


 白瀬は一本の縄を持ち上げた。


「じゃあ――始めましょう」


 海だけじゃない。


 この土地を豊かにするなら。


 まずは。


 この川を知らなければならない。


 白瀬は二本目の杭を、本明川の岸へ打ち込んだ。


 こん――。


 乾いた音が、朝の村に響いた。

第十一普請、お読みいただきありがとうございます。


これまで少しずつ村に馴染んできた白瀬ですが、今回の水害を境に、村人たちの見る目も少しずつ変わり始めます。


ただし、水を一度しのいだから終わりではありません。


「昨日、どこまで水が来たのか」

「なぜ、そこへ流れたのか」

「次は、どうするのか」


次の普請では、白瀬と子どもたちが本明川そのものを調べ始めます。


次回――川の癖を、測れ。

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