第七普請 俺、何ならできるんだ?
<長崎県諫早市 とある鰻屋さん(先日食べました)>
※許可は取ってないのでお知りになりたい方はDMください。
寝床はできた。
飯も食わせてもらっている。
では、自分はこの時代で何ができるのか?
白瀬湊一、江戸の仕事に挑戦します。
朝。
長吉の家では、湊一が目を覚ました頃には、もう一日の仕事が始まっていた。
庭先を行き交う足音。
薪を割る乾いた音。
牛の低い鳴き声。
母屋からは、炊きたての飯の匂いが漂ってくる。
湊一は納屋の寝床から起き上がり、しばらく天井を見つめた。
ここも、ずいぶん暮らしやすくなった。
雨風はしのげる。
眠る場所もある。
荷物を置く場所までできた。
だが。
「……俺、完全に食わせてもらってるな」
「何がじゃ?」
「うわっ!」
振り返る。
納屋の入口に澪が立っていた。
「澪、いつからいた?」
「『完全に食わせてもらってるな』からじゃ」
「ほぼ最初からじゃないか」
澪は不思議そうに首を傾げる。
「長吉らは気にしておらぬぞ」
「俺が気にするんだよ」
寝床を借りている。
飯も食わせてもらっている。
この時代の着物まで世話になった。
湊一は二十七歳。
現代なら立派な働き盛りである。
「よし」
立ち上がった。
「働こう」
「……は?」
「ここで暮らすなら、俺も働く。飯代くらい自分で稼がないとな」
澪の眉がぴくりと動く。
「その顔をすると、そなたは大抵ろくなことをせぬ」
「どういう意味だよ」
◇
一日目。
百姓仕事。
「まずは、こればい!」
長吉が鍬を差し出してきた。
「おう」
受け取る。
ずしり。
「……結構重いな」
「そがん重うなかぞ」
「そうか」
田畑なら見慣れている。
九州大学大学院で水工学や流域治水を学び、国土交通省九州地方整備局の技術系職員となった。
今は人事交流で、故郷の諫早市へ出向している。
農地。
水路。
排水。
仕事でも何度となく扱ってきた。
田んぼについてなら、多少は――。
そう思った。
一刻もしないうちに。
「白瀬ー!」
ずっと先から長吉が振り返った。
「遅かぞー!」
「分かってる!」
鍬を振る。
土に刺す。
起こす。
また振る。
「ぐ……」
腰が痛い。
腕が痛い。
掌まで痛い。
一方、長吉は黙々と先へ進んでいく。
「なんでそんなに速いんだよ……」
「毎日しよるけん」
「ですよね!」
昼には、湊一の掌に小さな豆ができていた。
休んでいると、近くの百姓たちの声が耳に入る。
「今年は肥やしの足らんなあ」
「人手も足らんばい」
「水も、もうちっと欲しかね」
湊一は自分の掌をさすりながら、その言葉を聞いた。
水。
肥やし。
人手。
田は、水だけでできているわけではない。
知識としては知っていた。
しかし。
実際に土を耕す人間の口から聞くと、重みが違う。
「白瀬!」
「ん?」
「休みは終わりばい!」
「もう!?」
一日目。
百姓仕事。
――完敗。
◇
二日目。
「今日は海ばい!」
胸を張ったのは源太だった。
漁師の息子。
海のこととなると、いつにも増して元気になる。
「兄ちゃん、海は好いとると?」
ガタ吉も舟の横でにやにやしている。
「好きだよ」
「そりゃよかった」
源太が笑った。
「なら行くばい!」
「おう!」
半刻後。
「…………うぷ」
湊一は舟べりにつかまっていた。
「白瀬、大丈夫か?」
源太が覗き込む。
「大丈夫……じゃない」
「まだ、そげん沖まで出とらんばい」
「言わないでくれ……」
舟が揺れる。
胃も揺れる。
世界まで揺れている気がする。
ようやく少し身体が慣れた。
次は網だった。
「こう投げるとたい」
漁師が見事に網を広げる。
「なるほど」
湊一も構えた。
「いくぞ」
投げる。
ばさっ。
「…………」
網の半分が、自分に絡んだ。
源太が腹を抱える。
「白瀬の獲れた!」
「俺は魚じゃない!」
笑い声が海に響く。
だが、漁師たちはただ笑っているわけではなかった。
空を見る。
風を見る。
波を見る。
そして潮を見る。
「今は待つばい」
漁師の一人が言った。
「待つ?」
「じき、潮の変わるけん」
湊一も海を見る。
現代なら潮汐表も予報もある。
だが彼らは、長年の経験で有明の海を読んでいる。
海に逆らわない。
潮に合わせる。
風を使う。
時を待つ。
潮。
時。
舟。
湊一の頭の中に、その三つが残った。
二日目。
漁。
――惨敗。
◇
三日目。
山。
「白瀬、斧ば使うたことあると?」
小春が聞く。
「ない」
「なら、気ぃつけんばよ!」
「子どもに本気で心配されてる……」
薪割りなら見たことはある。
要するに、狙って振り下ろせば――。
ごん。
外れた。
「…………」
もう一度。
ごん。
また外れた。
「白瀬、下手かー!」
「小春、黙ってろ!」
三度目。
「よし!」
振る。
「うおっ!」
薪の端をかすめた。
「白瀬!」
澪の声が飛んだ。
山仕事の男が無言で斧を取り上げる。
「兄ちゃん」
「はい」
「運ぶ方ば頼むばい」
「……はい」
丸太を担ぐ。
「ぐっ!」
二歩。
三歩。
四歩。
五歩。
「ちょ、ちょっと待って……!」
そこで止まった。
小春が指をさして笑っている。
「五歩たい! ほんに五歩で止まった!」
「数えるな!」
だが山を下りながら、湊一は周囲を見ていた。
家の柱。
薪。
炭。
農具の柄。
舟。
柵。
村の暮らしのあちらこちらに、山から来たものが使われている。
「海で何か造るにしても……木がいるよな」
堤。
水門。
舟。
家。
そして燃料。
海だけ見ていては、何も造れない。
三日目。
山仕事。
――やっぱり駄目。
◇
四日目。
牛馬。
「よし」
湊一は牛の綱を握った。
「今日はさすがに大丈夫だろ」
牛が歩き始める。
「お、おい」
思ったより速い。
「待て待て待て!」
ずるずるずる。
湊一が引っ張られていく。
「白瀬!」
長吉が叫ぶ。
「綱ば離すなよ!」
「その前に止め方を教えてくれ!」
子どもたちが大笑いしている。
ようやく牛が止まった。
湊一は肩で息をする。
「……強いな、お前」
「モォー」
牛が振り向く。
べろり。
「うわっ!」
顔を舐められた。
また笑い声。
「笑うな!」
だが、その牛が田へ入れば、人間よりはるかに強い力を出した。
荷も運ぶ。
そして――。
湊一は足元を見た。
「これも肥やしになるんだよな」
「なるばい」
長吉が答える。
昨日までの言葉が頭に戻った。
――肥やしが足らん。
牛は田を耕す。
荷を運ぶ。
そして肥やしまで残す。
湊一は牛を見つめた。
「……お前、俺より働いてない?」
「モォー」
「肯定するなよ」
四日目。
牛馬。
――牛にも負けた。
◇
五日目。
職人仕事。
健太は朝から目を輝かせていた。
「白瀬、今日は大工んところばい!」
「なんでお前の方が嬉しそうなんだ?」
「だって道具のいっぱいあるとぞ!」
仕掛けや道具を見るのが好きな健太には、たまらない場所らしい。
湊一も木を削ってみた。
「できた」
健太が覗き込む。
「白瀬」
「なんだ」
「こっちとこっちで、太さの違うばい」
「…………」
釘を打つ。
曲がった。
縄を結ぶ。
ほどけた。
鍛冶場にも顔を出す。
「そこは触らんでくれんね」
「まだ触ってませんよ!?」
「触りそうな顔ばしとる」
ついには見学だけになった。
だが、湊一は職人の手元から目を離さなかった。
農具の刃を研ぐ。
柄を調整する。
刃先の具合を少し変える。
それだけで、道具の使い勝手が変わる。
「道具で仕事の速さが変わる……」
現代なら重機一台で、人間何十人分もの仕事をする。
この時代には重機などない。
だが考え方は同じだ。
人を増やすだけではない。
道具をよくする。
使い方をよくする。
そして、それを実際に形にできるのが職人だ。
五日目。
職人仕事。
――手先の器用さまで敗北。
◇
六日目。
「今日は運ぶだけだからな」
湊一は言った。
「さすがに運ぶだけならできる」
夕方。
道端。
湊一は荷を背負ったまま、座り込んでいた。
「……誰だよ。運ぶだけって言った奴」
「白瀬たい」
小春が即答した。
「俺だよ!」
同じほどの荷を背負った男たちが、その横を普通に歩いていく。
荷を載せた牛も通っていく。
川へ目を向ければ舟がある。
舟なら、人間が背負うよりはるかに多くの荷を運べる。
湊一は汗を拭った。
作れば終わりではない。
必要な場所まで運ばなければならない。
道。
川。
舟。
牛馬。
距離。
「……物流か」
「ぶつりゅう?」
小春が首を傾げた。
「ああ……物を運ぶ仕組みのこと」
「荷運びじゃ駄目と?」
「今は、それでいい」
六日目。
荷運び。
――これも駄目。
◇
七日目。
商い。
「これは少し自信がある」
「ほんとに?」
お紗が湊一を見る。
「計算ならできる」
「商いは計算だけじゃなかよ」
商人の娘は、にっこり笑った。
嫌な予感がした。
そして予感は当たった。
品によって値は違う。
同じ品でも時によって違う。
相手によって売り方まで変わる。
おまけに、この時代の銭の扱いにもまだ慣れていない。
「でも、こっちの方が出来がいいんだろ?」
「そうたい」
「だったら、こっちの方が高く売れる」
「そうとは限らんよ」
「なんで?」
お紗は即答した。
「欲しか人のおらんかったら、売れんもの」
「…………」
横で聞いていた商人が笑った。
「娘の言う通りたい」
良い物なら売れる。
それほど単純ではない。
欲しい人間がいる。
そこまで運べる。
傷まずに届く。
必要な量がある。
信用して買ってもらう。
それで初めて商いになる。
「なるほど……」
お紗が得意げに笑った。
「白瀬、商いもまだまだたい」
「……はい、先生」
「先生?」
「今日だけな」
お紗の顔がぱっと明るくなった。
七日目。
商い。
――これも敗北。
◇
その夜。
湊一は納屋の敷物の上に、大の字になっていた。
「…………」
身体中が痛い。
そして何より、心が痛い。
そこへ。
ぞろぞろ。
子どもたちがやって来た。
湊一には嫌な予感しかしなかった。
まず長吉が腕を組む。
「白瀬」
「なんだ」
「百姓仕事は、おいの勝ちじゃったな」
「……認める」
源太が続く。
「漁も駄目じゃったぞ。網に魚じゃのうて、自分ば掛けとったし」
「言うな」
「舟でも真っ青じゃったばい」
「言うなって」
健太が真面目な顔をする。
「大工も駄目じゃったぞ。白瀬の削った木、端と端で太さの違うた」
「健太。お前、そういうところだけよく見てるな」
「道具はちゃんと見らんば駄目たい!」
「正論が痛い」
小春が元気よく手を挙げた。
「はい!」
「嫌な予感がするけど、どうぞ」
「山でも駄目じゃった!」
「知ってる!」
「うち、ちゃんと数えとったよ。丸太持って五歩で止まった!」
「数えてたのかよ!」
そして、お紗。
にこにこ笑っている。
「白瀬」
「……はい」
「商いも駄目たい」
「お紗まで……」
「うちなら、あがん値じゃ買わんよ。売る前から損するもの」
「もうやめて!」
子どもたちが大笑いする。
湊一は両手で顔を覆った。
百姓。
駄目。
漁。
駄目。
山。
駄目。
牛馬。
駄目。
職人。
駄目。
荷運び。
駄目。
商い。
駄目。
「……俺、この時代で何ならできるんだよ」
自分で思っていたよりも、本気の声が出た。
一瞬だけ、子どもたちの笑いが止まった。
そこへ。
「兄ちゃん」
納屋の入口から、ガタ吉が顔を出した。
「……なんだよ」
ガタ吉は少し考え。
にやり。
「牛にも負けとったばい」
「お前、締めに来たのか!?」
子どもたちが再び爆笑する。
湊一は、そのまま後ろへ倒れた。
「もう駄目だ……」
「白瀬」
澪の声。
湊一は顔だけを上げる。
澪なら。
さすがに澪なら、少しくらい慰めて――。
澪は湊一の横に小さな包みを置いた。
「手に塗れ。豆が潰れておろう」
「澪……!」
優しい。
やっぱり澪は――。
「それと」
「ん?」
澪は腕を組んだ。
「安心せい」
「……お?」
「これほど何をやらせても駄目な男も、そうはおらぬ」
「それが一番とどめだよ!」
納屋が、この日一番の笑い声に包まれた。
◇
やがて子どもたちが帰った。
夜。
納屋には、湊一と澪、ガタ吉だけが残っている。
「……でも、本当にそうだな」
湊一は天井を見上げた。
百姓なら長吉たちの方がはるかに上手い。
海なら源太や漁師たち。
山には山を知る者がいる。
牛馬を扱える者もいる。
物を造る職人がいる。
運ぶ者がいる。
商いなら、お紗たちの方がずっと詳しい。
自分は。
どれも一番にはなれない。
「俺、何しに来たんだろうな……」
誰に言うでもなく呟いた。
ガタ吉は黙っている。
澪も何も言わない。
目を閉じる。
七日間の光景が、次々に浮かんだ。
――肥やしの足らん。
牛の糞。
――人手も足らん。
牛馬の力。
――じき、潮の変わる。
漁師の舟。
山から切り出した木。
職人が直した農具。
荷を積んだ舟。
そして、お紗の言葉。
――欲しか人のおらんかったら、売れんもの。
湊一の目が開いた。
「……待てよ」
起き上がる。
「どうした、兄ちゃん?」
湊一は答えず、土間へ移った。
木切れを一本拾う。
地面へ丸を描いた。
「これは田んぼ」
もう一つ。
「山」
その横に。
「村」
下へ。
「川」
そして。
「海」
一本の線を引く。
山から村へ。
木。
薪。
炭。
村から田へ。
人。
道具。
牛馬から田へ。
力。
肥やし。
田から牛馬へ。
藁。
「……あ」
ガタ吉が声を漏らした。
さらに線を引く。
海から村へ。
魚。
塩。
舟。
村から町へ。
品物。
町から村へ。
銭。
必要な物。
線が増えていく。
別々に見えていたものが、つながっていく。
「そうか……」
「何がじゃ?」
澪が聞いた。
「俺が百姓になる必要なんてないんだ」
「当たり前じゃ」
「そこはもう少し感動してくれよ」
「続けよ」
「はい」
湊一は苦笑した。
「漁師になる必要もない。木を切れる必要もない。牛を上手く扱えなくてもいい。職人にも、商人にもならなくていい」
「では、そなたは何をする?」
「みんな、もう持ってるんだ」
「何をじゃ?」
「できることを」
長吉には、田を耕す力がある。
源太には、海を知る力がある。
健太には、道具や仕掛けを見る目がある。
お紗には、商いの勘がある。
小春には、人を集めて笑顔にする力がある。
百姓。
漁師。
山の者。
職人。
商人。
そして。
水守と河童。
「俺一人で全部できる必要なんてなかったんだ」
湊一は、もう一本の線を引く。
山。
田。
村。
川。
海。
町。
「ばらばらにあるものを――」
線がつながる。
「つなげればいい」
「つなぐ……」
「ああ」
鍬を握れば豆ができる。
網を投げれば自分に絡む。
斧はまともに当たらない。
牛には引きずられる。
木を削れば曲がる。
荷を担げば座り込む。
商いでも、お紗に負けた。
それでも。
水を見ることはできる。
土地を見ることはできる。
人の話を聞くこともできる。
何が足りないか。
何と何をつなげればいいか。
それを考えることなら。
「……そうだ」
湊一は、地面いっぱいに広がった図を見た。
現代でも、一人で堤防を造ったわけではない。
一人で川を直したこともない。
測る者がいる。
設計する者がいる。
工事をする者がいる。
そこで暮らす人間がいる。
役所がいる。
業者がいる。
住民がいる。
それぞれの仕事をつなぎ、一つの形へ持っていく。
「それなら――俺にもできる」
ガタ吉が、にやりと笑う。
「ほんとか?」
「お前、さっきから俺への信用低くない?」
「七日間見とったけんね」
「ぐっ……」
澪も、ほんの少しだけ笑った。
湊一は地面に描いた海へ、木切れの先を置いた。
有明の海。
広い干潟。
海だけを見ていては駄目だ。
土地だけ増やしても、人は豊かにならない。
田を耕す者。
魚を獲る者。
山から木を出す者。
道具を作る者。
品を運ぶ者。
それを売る者。
そして、水とともに生きる者。
全部がつながって、初めて土地は豊かになる。
湊一は、海と村の間へ一本の線を引いた。
「まずは――」
澪とガタ吉が湊一を見る。
「この土地のことを、もっと知らないとな」
外から、かすかな潮の匂いが流れ込んできた。
山から水が下り。
田を潤し。
村を通り。
川となり。
やがて有明の海へ注ぐ。
湊一には今、それが一つの大きな流れに見えていた。
人も。
仕事も。
土地も。
水も。
まだ、ばらばらだ。
ならば。
つなげればいい。
海から新しい国をつくるための、最初の答えがそこにあった。
お読みいただき、ありがとうございます。
百姓、漁、山仕事、牛馬、職人、荷運び、商い。
白瀬、見事な七連敗です。
けれど、実際に働いてみたからこそ見えてきたものがありました。
自分一人で全部できる必要はない。
できる人たちの知恵と力を、つなげればいい。
ここから白瀬の「国づくり」が、少しずつ形になっていきます。




