第六普請 火を残して、水を流せ
<長崎県諫早市 高来町の金崎海岸周辺の干潟>
今回は、湊一が「江戸時代で暮らす」ことを始めるお話です。
未来の知識だけが正解ではなく、昔から受け継がれてきた暮らしの知恵にも、ちゃんと理由がある。
そんな知恵を借りながら、納屋も村も少しずつ変わっていきます。
目を覚ました湊一の視界いっぱいに、煤けた梁があった。
「…………」
そのまま、しばらく動かなかった。
屋根はある。
雨も降ってこない。
命を狙う者もいない。
昨日の自分なら、それだけで十分ありがたいと思ったはずだ。
なのに。
「……腰、いてぇ」
藁の上で寝返りを打つ。
背中が痛い。
肩も痛い。
どこかの藁が首筋に刺さって痒い。
元和七年。
西暦一六二一年。
国土交通省から諫早市へ出向していた自分が、四百年以上も昔の諫早へ飛ばされて――。
現在の住居。
「長吉ん家の、納屋……」
口に出すと余計に侘しい。
「いや。屋根付き、風通し良好、天然素材百パーセント。物置付き一戸建て……」
「何をぶつぶつ申しておる」
「うわっ!」
入口から澪が覗いていた。
朝の光を背負っている。
「いつからいた!」
「『腰、いてぇ』からじゃ」
「最初からじゃねえか!」
「随分と立派な寝姿であったぞ」
「見るな!」
澪がくすくす笑う。
湊一は身体を起こした。
改めて納屋を見回す。
隅には農具。
竹籠。
縄。
壁際には薪。
昨夜、長吉と家族が運び込んでくれた藁が、申し訳程度の寝床になっている。
それだけだ。
棚すらない。
ただ――。
湊一には、昨日とは違って見えた。
「……まあ」
「何じゃ」
「改良の余地しかない」
「かいりょう?」
「もっと暮らしやすくできるってこと」
澪が眉を上げた。
「昨日は『雨露をしのげるだけでありがたい』と申しておったではないか」
「人間は進歩する生き物なんだよ」
「一晩で贅沢になっただけではないか?」
「違う」
「ならば、何が要る」
「寝床。棚。灯り。あと――」
ぐううううう。
腹が鳴った。
澪が吹き出した。
「まず朝餉じゃな」
「……異議なし」
◇
ところが。
朝飯を食べる前に、湊一は第一の難関にぶつかった。
火である。
「…………」
カチッ。
火花が散った。
消えた。
カチッ。
また散った。
「今の、惜しいだろ」
カチッ。
「…………」
つかない。
現代ならボタン一つ。
コンロ。
ライター。
着火器。
いくらでもある。
しかし、ここは元和七年。
「白瀬、何しよっと?」
背後から声がした。
振り返る。
長吉。
その隣に小春。
健太。
お紗。
源太。
五人が並んで、珍しい生き物でも見るような顔で湊一を見ていた。
「火を起こしてる」
「なんでね?」
小春が聞く。
「なんでって、朝飯食うから」
子どもたちが顔を見合わせた。
今度は湊一が嫌な予感を覚えた。
「……何だよ」
長吉が竈の前へしゃがむ。
灰を火箸でそっと掘った。
すると――。
灰の下から、小さな赤が現れた。
「え?」
長吉が息を吹きかける。
ふうっ。
赤が強くなる。
乾いた細い柴を添える。
ふうっ。
やがて。
ぽっ。
炎が立った。
「…………」
湊一は火打石を見る。
竈を見る。
もう一度、火打石を見る。
「火……あったの?」
「あるばい」
長吉が答える。
「いつから?」
「昨日からたい」
「昨日の火!?」
小春が首を傾げた。
「消したら、また起こさんばでしょう? うちん家じゃ、灰ん中に残しとくとよ」
「…………」
その通りである。
火を一から起こすのが大変なら。
消さなければいい。
夜、灰をかぶせて火種を残す。
朝、その熾火を育てる。
実に合理的だ。
「なるほどなあ……」
湊一はしゃがみ込み、灰の中の赤を覗いた。
「白瀬」
澪がにやにやしている。
「なんだよ」
「未来人とやらも、大したことはないな」
「うるさい」
「知らぬことを知る。よき朝ではないか」
「その勝ち誇った顔やめろ!」
子どもたちがどっと笑った。
湊一も、最後には笑った。
そして熾火を見つめる。
「でも、これ大事だな」
「何が?」
健太がすぐ食いつく。
「新しいものが何でも偉いわけじゃないってこと」
「?」
「こっちには、こっちで何百年も積み上げてきたやり方がある」
湊一は灰を指した。
「使えるものは使う。困ってるところだけ直す」
澪が少しだけ目を細めた。
「ようやく、この地で暮らす者らしいことを申すようになったな」
「まだ二日目だぞ」
◇
「でもよ、白瀬」
健太が竹筒を持ってきた。
「火ば持っとらん時は、どうすると?」
「そこなんだよな」
湊一は竹を見る。
そして――悪い顔になった。
澪が即座に言った。
「白瀬」
「何だ」
「やめておけ」
「まだ何もしてない!」
「その顔は昨日も見た」
「俺の顔を危険物扱いするな!」
◇
しばらくして。
納屋の前には竹筒。
木の棒。
布切れ。
油。
そして五人の子ども。
さらに澪。
「もっと細く」
「こんくらい?」
「もう少し」
健太が木の棒を削る。
長吉が竹筒を押さえる。
小春は乾いた麻くずを集めてくる。
源太は、
「ほんとに火のつくと?」
と疑わしそうに覗いている。
お紗だけは別方向だった。
「これ、うまくいったら売れると?」
「まだ一回も火がついてない!」
湊一が再現しようとしていたのは、空気を一気に圧縮して、その熱で火種を作る道具だった。
理屈は知っている。
空気を強く圧縮すれば温度は上がる。
問題は――。
「精度だな」
「せいど?」
健太が聞く。
「隙間がないように、ぴったり作らないと駄目なんだ」
削る。
布を巻く。
少量の油をなじませる。
「よし」
湊一が棒を構える。
「いくぞ」
ドン!
引き抜く。
全員が覗き込む。
「…………」
何もない。
もう一度。
ドン!
「…………」
長吉が言った。
「白瀬」
「なんだ」
「さっきん火ば使うた方が早かぞ」
「それは俺も薄々気づいてる!」
「何やってんだ、おぬしら」
声とともにガタ吉がやってきた。
竹筒を取り上げる。
中を見る。
木の棒を見る。
「こんなん、横から空気ん逃げるたい」
湊一が固まった。
「……分かるの?」
「穴がありゃ、水だって空気だって逃げる」
「河童に流体の基本を教えられた……」
「よう分からんが腹立つな、その言い方!」
「やっぱり隙間か!」
健太だけが目を輝かせた。
「白瀬、もう一本作ろう!」
「待て待て」
「なんで!」
「面白いけど、今日はここまで」
湊一は竈の方を指した。
「普段の火なら、あっちの方が早いし確実だ」
「でも、できるかもしれんとやろ?」
「ああ」
「なら、いつか作ろうばい!」
健太は諦めていなかった。
湊一は笑った。
「そうだな。宿題だ」
「しゅくだい?」
「……忘れてくれ」
失敗作の竹筒は、そのまま納屋の隅に置かれた。
後に健太が何度も持ち出すことになるのだが――。
それは、もう少し先の話である。
◇
「さて」
湊一は納屋の脇へ回った。
そこで別の問題を見つける。
薪だ。
地面へ直接積まれ、下の薪が湿っている。
「これは今すぐ直せる」
「どうすると?」
長吉が聞く。
「薪棚を作る」
「薪棚?」
「薪を地面から浮かせるんだ」
納屋の庇の下。
雨が吹き込みにくい場所を選ぶ。
竹を組み。
横木を渡し。
縄で縛る。
地面から少し上げる。
「こうすれば下に風が通る」
湊一が説明すると、源太がしゃがみ込んだ。
「なるほど。下ん薪が土につかんとやな」
「そういうこと」
「そいなら湿りにくか」
「その通り」
長吉が竹を運ぶ。
「おい、押さえるばい!」
「じゃあ頼む」
健太が縄を取る。
「ここば縛ると?」
「いや、そっちを先に――」
「こう?」
「……あ、それでもいけるな」
「やった!」
小春は薪を運びながら、太さごとに分け始めた。
「細かとは、こっちやろ?」
「よく分かったな」
「さっき白瀬が言いよったもん。うち、ちゃんと聞いとったよ」
「覚えてたのか」
「当たり前たい!」
源太は薪を一本ずつ触る。
「こっちはまだ湿っとるばい」
「じゃあ奥に置かず、風が当たる側だな」
そしてお紗は――。
「竹が五本。縄がこれくらい。四人おれば作れるね」
また数えていた。
湊一が嫌な予感を覚える。
「お紗」
「何?」
「何を考えてる」
「同じもん、ほかん家でも作れるなあって」
「…………」
「便利やろ?」
「まあな」
「なら、みんな欲しがるばい」
湊一は完成しかけた棚を見た。
「売るほどのもんじゃないよ。竹と縄があれば自分たちで作れる」
「なら、作り方ば教えればよかたい」
「お」
思ったより正しい答えが返ってきた。
「それだ」
「でも、うちん父ちゃんなら、何か別んもんば売ると思う」
「結局そっちに行くのか!」
笑い声が納屋に響く。
昨日は、ただ藁が敷いてあるだけだった場所。
そこへ今日、一つ。
竹の薪棚が増えた。
本当に、それだけ。
だが湊一は妙に嬉しかった。
昨日より今日。
ほんの少しだけ、暮らしやすくなった。
◇
「白瀬ー!」
昼前。
小春が駆け込んできた。
「今度は何だ!」
「田んぼたい!」
「田んぼ?」
「水の引かんって!」
湊一の顔つきが変わった。
「どこだ」
小春が一瞬目を丸くしてから笑った。
「こっち! うちについて来て!」
◇
昨夜の雨を抱えた田は、鈍く空を映していた。
本来なら余分な水は抜けていくはずなのに、ここだけが池のようになっている。
村人が鍬を振るっていた。
「もっと深うせんば、流れんばい!」
「いや、こっちば掘った方がよか!」
声が飛び交う。
湊一は何も言わずにしゃがんだ。
水を見る。
畦を見る。
溝を見る。
その先を見る。
「白瀬」
源太が海の方を見ている。
「まだ潮の高かぞ」
湊一も見る。
「あとで下がる?」
「下がるばい」
「どのくらい」
源太は少し考える。
「陽がもうちょい上がった頃には、かなり引くばい」
時計はない。
潮位表もない。
だが漁師の家で育った源太には、海が時計だった。
「よし。今は出口を開けない」
「なんでね?」
長吉が聞いた。
「田んぼより海の水の方が高けりゃ、水は出ていかない」
健太がしゃがむ。
「水は低か方へ流るっと?」
「基本はな」
「なら、どっちが低かか分かればよかと?」
湊一が健太を見る。
「……お前、筋がいいな」
「ほんと?」
「すぐ調子に乗るところ以外は」
「なんやそれ!」
湊一は竹を持ってきた。
半分に割り、水を張る。
「水面は水平になる」
「すいへい?」
「傾かないってこと」
簡単な水盛りだ。
正確な測量器とは比べものにならない。
だが、どちらへ水を落とすべきかを見るには使える。
短い距離ごとに杭を立て、印を移していく。
健太が夢中になる。
「白瀬! こっちん方がちょっと低か!」
「どれくらい」
「指……二本くらい!」
「よし。印つけろ」
そこへ。
澪が田へ足を入れた。
「澪?」
「少し黙っておれ」
裸足が泥へ沈む。
澪は目を閉じた。
水へ指先を触れる。
しばらくして――。
「……こちらじゃ」
ゆっくり歩き始めた。
「水が、こちらへ行きたがっておる」
「相変わらず便利な言い方するなあ」
「そなたの竹より正確じゃぞ」
「それは否定できない」
澪が一か所で止まった。
「この下じゃ」
村の老人が首を傾げる。
「そこは……昔、水ば通しよった跡かもしれんばい」
湊一が振り返った。
「昔?」
「おいが子どもん頃には、ここに溝のあったとよ」
湊一の目が輝く。
「だったら、新しく全部造る必要はない」
「どういうことじゃ?」
「生きてる昔の水路を使う」
澪がにやりとした。
「古きものを使う。朝、学んだばかりじゃな」
「今日はそれ言い続ける気か?」
◇
「おい」
ガタ吉が泥だらけで戻ってきた。
「海側、詰まっとるぞ」
「やっぱりか」
「ガタが溜まって、水ん出口が半分死んどる」
「ガタ吉」
「何だ」
「出口、任せる」
「最初からそのつもりたい」
言った途端、ガタ吉はもう海側へ向かっていた。
湊一は少し笑う。
出会った頃なら、こんなやり取りにはならなかった。
「白瀬」
澪が呼ぶ。
「こちらの水筋は、わたしが見る」
「ああ、頼む」
「源太!」
「潮ば見る!」
「健太!」
「高さ!」
「長吉!」
「おいは掘る!」
「待て。まだ掘るな」
「なんでおいだけ!」
「お前が一番先走るからだ!」
村人たちが笑う。
「小春、人を呼べるか?」
「何人?」
「鍬を持てる大人を八人くらい」
「分かった! うち、呼んでくる!」
もう走っている。
「お紗!」
「鍬が七本。縄三つ。竹はあと六本使える。人は――」
「まだ聞いてない!」
「どうせ聞くとやろ?」
「……そうですね」
お紗が得意そうに笑った。
湊一も笑うしかなかった。
◇
ほどなく。
小春が本当に村人を連れて戻ってきた。
「こっちたい! 白瀬が分かったって!」
「小春、説明を盛るな!」
「分かっとらんと?」
「分かりかけてる!」
「なら大体同じたい!」
「違う!」
村人たちがまた笑う。
その間にも、それぞれが動いている。
澪が水の道を探す。
ガタ吉が海側のガタをさらう。
源太が潮を読む。
健太が竹と杭を持って走る。
長吉は大人たちと鍬を構える。
小春が必要なところへ人を呼ぶ。
お紗は道具がどこへ行ったかまで把握している。
湊一は、その全部を見る。
そして気づいた。
――楽だ。
もちろん仕事は楽ではない。
だが、以前のように一人で全部説明する必要がない。
「澪」
「何じゃ」
「古い水筋は?」
「あちら」
「ガタ吉!」
「出口は開けられる!」
「源太!」
「まだ待て!」
「了解!」
三人の声が重なる。
言葉が短い。
それで通じる。
湊一は地面へ線を引いた。
「ここを開ける。ただし、潮が引いてからだ」
長吉が鍬を肩に担いだ。
「今度こそ掘ってよかと?」
「よし!」
「おっしゃあ!」
鍬が泥へ入った。
◇
古い水路は、本当に残っていた。
「出たばい!」
健太が叫ぶ。
泥の中から、かつて掘られた溝の形が現れる。
小春が澪を見る。
「澪、すごか! うち、ほんとにびっくりした!」
「当然じゃ」
澪が胸を張る。
「もっと申してよいぞ」
「はいはい」
湊一が笑う。
「白瀬!」
「何だよ!」
「そなたまで褒めぬか!」
「仕事終わったらな!」
泥の向こうからガタ吉の声が飛んだ。
「遊んどらんで、こっち手伝わんね!」
「お前に言われたくない!」
いつの間にか。
それが当たり前になりつつあった。
人。
水守。
河童。
出会った時には、同じ場所で笑うなど想像もしなかった三人が、同じ水を相手にしている。
◇
しばらくして。
源太が立ち上がった。
海を見た。
風を感じる。
「白瀬」
「ん?」
「今たい」
湊一の表情が変わる。
「ガタ吉!」
「出口、よし!」
「澪!」
「水筋、よし!」
「長吉!」
「待っとったばい!」
「最後の土、落とせ!」
「おう!」
鍬が入った。
どさっ。
泥が崩れる。
最初は。
ちょろ。
ちょろちょろ。
小さな流れだった。
「……来る」
澪が呟いた。
次の瞬間。
ざあああああっ――!
「うわっ!」
水が走った。
予想より速い。
「下がれ!」
湊一が叫ぶ。
だが長吉の足元が崩れた。
「長吉!」
「うわあっ!」
泥へ片足を取られる。
湊一が縄を掴んだ。
同時に。
「馬鹿野郎!」
ガタ吉が飛び込んだ。
「ガタ吉!」
「縄よこせ!」
澪が水へ手を向ける。
「白瀬!」
一瞬。
流れが僅かに逸れた。
水を止めたわけではない。
ほんの少しだけ。
人が動けるだけの時間を作った。
「今じゃ!」
「引け!」
湊一が引く。
ガタ吉が押す。
大人たちが縄を掴む。
小春たちも後ろから声を合わせる。
「せーの!」
ずるっ。
長吉が泥の上へ転がった。
「はあ……はあ……」
「長吉!」
小春が駆け寄る。
「大丈夫ね!?」
「だ、大丈夫ばい……」
湊一は何も言わなかった。
ただ長吉の前へしゃがむ。
「……白瀬?」
「勝手に入るなって言っただろ」
「……ごめん」
「役に立ちたいのは分かる」
長吉は俯いた。
「でもな」
湊一は、その肩を掴んだ。
「一人で無茶するのは、仲間じゃない」
長吉が顔を上げる。
「仲間なら、周りを信じろ」
「…………」
「次から俺の指示を聞け」
「……分かった。おい、ちゃんと聞く」
湊一は頭を一つ叩いた。
「よし」
「白瀬!」
今度は小春だった。
「見て!」
振り向く。
水が――。
減っていた。
確かに。
田に溜まっていた水が、造り直した溝を通り、海へ向かって流れていく。
「流れた!」
健太が飛び跳ねる。
「ほんとに流れたばい!」
源太まで珍しく大声を上げる。
「おいの言うた潮ん時刻、合っとったろ!」
ガタ吉は腰に手を当てた。
「当然たい。誰が出口ば開けたと思っとる」
澪が負けじと言う。
「水筋を見つけたのは、わたしじゃぞ」
「いや、潮を読んだ源太も――」
お紗が水の減っていく田を見ながら言った。
「これで米、どれくらい助かるとやろ?」
全員が止まった。
湊一が振り返る。
「お前は、ぶれないな!」
「うち、気になるもん」
笑い声が田んぼいっぱいに広がった。
◇
夕方。
納屋へ戻った湊一は、入口で足を止めた。
「…………」
朝と同じ納屋。
なのに。
少し違う。
庇の下には、今日作った薪棚。
湿った薪と乾いた薪が分けて積まれている。
隅には健太と作った失敗作の竹筒。
小春が持ってきた古い布。
長吉が追加してくれた藁。
源太が選び分けた乾いた薪。
そして、お紗が何に使うのか分からない材料の数を書いた紙。
「俺の家なのに……」
「納屋じゃぞ」
「そこは家って言わせて」
澪が笑う。
湊一は藁床へ腰を下ろした。
「お」
昨日より柔らかい。
「これは……文明だな」
「藁が増えただけじゃ」
「昨日より背中が痛くない。立派な文明です」
その時。
入口に何かが置かれていることに気づいた。
魚だった。
「…………」
湊一が外を見る。
「ガタ吉」
「知らん!」
姿は見えない。
「まだ何も聞いてない!」
「知らんって言いよるたい!」
「お前しかいねえよ!」
澪が腹を抱えて笑った。
◇
「でもな」
湊一は納屋を見回した。
「朝より良くなった」
「何がじゃ」
「暮らし」
薪を土から離した。
乾きやすくした。
藁を一枚増やした。
それだけだ。
「大したことじゃないけどさ」
湊一は薪棚を眺める。
「毎日困ることを一個直せば、一年後には結構変わる」
澪は黙って聞いている。
「家も田んぼも同じなんだろうな」
「ほう」
「困ってるところを見つける。原因を見る。直す。駄目ならまたやる」
「今日の竹筒のようにか?」
「……あれは忘れろ」
「嫌じゃ」
「忘れろ!」
笑い声がまた納屋に響いた。
◇
「白瀬ー!」
「今度は誰だ!」
小春だった。
その後ろから長吉たちも入ってくる。
「父ちゃんが、薪棚、あっちにも欲しかって!」
「長吉ん家だろ、ここ!」
「あ」
「自分の家じゃねえか!」
「そ、そうたい! あっちん薪置き場にも欲しかと!」
「そういうことか」
「うちん婆ちゃんも欲しかって!」
小春が手を上げる。
「それと、井戸んそばも雨の降ったら、いっつもぐちゃぐちゃになるとよ!」
「待て待て。急に相談窓口にするな!」
「そうだんまどぐち?」
「何でもありません!」
健太も割り込む。
「白瀬、次は竹筒たい!」
「それは後!」
「なんで!」
源太。
「水の溜まる道もあるばい。おい、知っとるぞ」
「それも見る!」
お紗。
「白瀬」
「……何だ」
「こんだけ困っとるところのあるなら、よくしたら仕事も増えるね」
湊一が瞬く。
「仕事?」
「竹ば切る人。縄ば作る人。運ぶ人。作る人」
「…………」
「それで、もっと米や魚や物の余ったら?」
「売れるな」
「やろ?」
お紗が笑った。
「うちん父ちゃんが言いよった。長崎は人の多うて、いろんな物の集まるって」
長崎。
その名に湊一が反応した。
「長崎か……」
近い。
だが、この時代の長崎は、令和の長崎とは意味が違う。
港。
商人。
人。
品物。
そして海の向こう。
湊一は首を振った。
「まだ早い」
「何が?」
「長崎」
「なら、いつ?」
「まず村」
薪棚を指す。
「暮らしを少し楽にする」
田の方を指す。
「米をちゃんと採れるようにする」
「そいから?」
「余るくらい作る」
「そいから?」
「……売る」
お紗がにっこり笑った。
「ほら」
「お前、絶対商人になるな」
「なるよ?」
「決まってんのかよ!」
「うちは商人ん娘たい!」
また笑い声。
昨日、一人で転がり込んだ納屋に。
今は人がいる。
澪がいる。
ガタ吉の魚がある。
子どもたちが勝手に入ってくる。
少し狭い。
騒がしい。
でも。
悪くなかった。
◇
夜。
皆が帰った後。
湊一は藁へ横になった。
昨日より柔らかい。
竈では、灰の中に明日の火が残されている。
今日の火を、明日へ残す。
「……いい考えだよな」
火だけではない。
知恵も。
田も。
暮らしも。
今日より明日へ、少し良い形で渡していく。
そうやって町は作られてきたのかもしれない。
目を閉じかけた時――。
ぱからっ。
馬の音がした。
「白瀬殿はおられるか!」
「…………」
湊一は目を開ける。
「今日は忙しい日だな!」
◇
諫早家の屋敷。
領主・直孝の前には、領内の絵図が広げられていた。
「白瀬」
「はい」
「田の水を抜いたそうだな」
「俺だけじゃありません」
湊一は即答した。
「澪が水筋を見つけた。ガタ吉が出口を開けた。源太が潮を読んだ。健太が高さを測った。小春が人を集めて、お紗が道具をまとめて、長吉たちが掘った」
直孝が僅かに笑った。
「ずいぶん増えたな」
「何がです?」
「そなたの仲間だ」
湊一は答えなかった。
少しだけ、照れ臭かったからだ。
直孝は絵図へ目を落とす。
「白瀬」
「はい」
「ひとつの田なら、水を流せた」
「はい」
「では、ひとつの村を豊かにするには何が要る」
湊一は黙った。
今日一日が頭へ浮かぶ。
火。
薪。
田。
水路。
潮。
人。
道具。
そして。
お紗の言葉。
「……土地だけじゃ足りません」
「ほう」
「米が増えても、それだけじゃ駄目だ」
湊一は絵図を見る。
「作る人がいる。加工する人がいる。運ぶ人がいる。売る場所がいる」
「その先は?」
「銭が入る」
「その銭を?」
「次の普請に回す」
直孝の表情が変わった。
「道を直す。水路を直す。田を増やす。もっと作れるようになる。また売る」
湊一の指が、絵図の西へ動く。
「その先に――長崎がある」
直孝は、しばらく何も言わなかった。
やがて。
「白瀬」
「はい」
「まずは村を豊かにせよ」
「はい」
「一軒の納屋からでも構わぬ」
「……そこまで御存じなんですか」
「狭い領地を侮るな」
「怖いな、元和七年」
「何?」
「何でもありません」
直孝が笑った。
そして絵図を指でなぞる。
「水には、水の流れる道がある」
「はい」
「物にも、銭にも、流れる道があるのであろう?」
湊一は目を見開いた。
やがて笑う。
「そういうことです」
「ならば造れ」
短い言葉だった。
「田だけではない」
直孝は絵図の向こうを見る。
「人が豊かになる道を造ってみせよ」
湊一は黙って頭を下げた。
朝。
灰の中に、小さな火が残っていた。
昼。
一本の古い水路に、水が戻った。
夕方。
納屋に、小さな薪棚が増えた。
どれも。
百万石とは程遠い。
けれど――。
大きな国づくりというものは。
案外、そんな小さな「昨日より少し良い」から始まるのかもしれない。
湊一は顔を上げた。
「やります」
まだ海から、一反の田も造ってはいない。
それでも。
海から百万石へ続く道は――。
もう、始まっていた。
お読みいただきありがとうございます。
今回から、湊一の納屋も少しずつ育ち始めました。
最初は藁だけ。
そこへ薪棚が一つ増えました。
これからも一気に現代化するのではなく、江戸の知恵と湊一の現代知識、澪やガタ吉、そして子供たちの工夫を組み合わせながら、少しずつ暮らしやすい場所へ変わっていきます。
やがて納屋は、みんなが集まり、図面を広げ、道具を作り、国づくりを相談する場所へ。
そして村の暮らしが良くなれば、生産が増える。
余剰が生まれれば、加工し、運び、売ることができる。
その先にあるのが――長崎です。
ただ海を埋めるだけではない「海から百万石」。
次回もよろしくお願いいたします。




