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『海から百万石 ~江戸時代に転移した国交省の土木職員、水守と河童と有明海の大干拓に挑む~』  作者: 天手古まい


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第五普請 水守さまは、団子がお好き

<長崎県諫早市 眼鏡橋(諌早公園内)>

挿絵(By みてみん)

海から百万石。

そんな大きな夢を語る白瀬ですが――。


まずは、もっと切実な問題から。


「俺、今夜どこで寝るんだ?」


第五普請。


白瀬がこの時代で初めて「居場所」を得て、


澪、ガタ吉、そして長吉たちとともに、


海から土地を生み出す最初の一歩へ挑みます。

元和七年――一六二一年。


佐賀藩諫早領。


有明海の向こうへ、赤い夕日が沈んでいく。


「……腹減った」


白瀬湊一は、大きく息を吐いた。


足元は泥だらけ。


着物ではない見慣れぬ服も、すっかり汚れている。


今日も一日。


大川を歩き。


海を見て。


干潟を見て。


村人から話を聞いた。


どこへ堤を築く。


どこへ水を逃がす。


どうすれば、この広大な有明海から土地を増やせるのか。


「明日は潮が引いたら、もう一度――」


そこまで考えて。


白瀬は、ふと止まった。


「…………」


辺りを見る。


海。


川。


田畑。


そして村。


「白瀬?」


澪が怪訝そうに顔を覗き込んだ。


「先ほどから何をきょろきょろしておる」


「いや……」


白瀬は真顔で言った。


「俺、今夜どこで寝るんだ?」


「川たい」


ガタ吉が即答した。


「俺は河童じゃない!」


「川辺なら涼しかぞ」


「そういう問題じゃない!」


澪が腕を組む。


「ならば、わたしの社へ来るか?」


「おっ」


白瀬の顔が明るくなった。


「泊めてくれるのか?」


「うむ」


「屋根は?」


「ない」


「壁は?」


「ない」


「戸は?」


「ない」


「それ野宿だろ!」


澪が不思議そうな顔をする。


「星はよく見えるぞ」


「旅行じゃないんだよ!」


「贅沢な男じゃな」


「雨風を防ぎたいって贅沢なのか!?」


ガタ吉が腹を抱えて笑った。


そのときだった。


「白瀬」


背後から声がした。


振り返る。


少年が一人、立っていた。


長吉。


農家の息子で、年のわりに肩幅が広く、何かあれば真っ先に走ってくるような少年だ。


この数日も、白瀬たちのあとを何かとついて回っていた。


「寝るところ、なかと?」


「……ない」


「なら、おいん家に来るか?」


「え?」


「納屋なら空いとるぞ」


長吉は、何でもないことのように言った。


     ◇


「駄目じゃ」


長吉の父親は即答した。


「父ちゃん!」


「どこの誰とも分からん男ば、家には泊められん」


もっともだった。


白瀬自身、そう思う。


妙な服。


妙な言葉。


出身地も満足に答えられない。


これで警戒するなという方が無理だ。


「白瀬は悪か人じゃなか!」


「なんで分かると」


「大川ば助けるとぞ!」


「…………」


「海から田んぼも造るとぞ!」


「…………」


長吉の父親の視線が、白瀬へ戻った。


先ほどより警戒された気がする。


「お前、海から田ば造るとか言いよると?」


「ええ……まあ」


「どこの者ね」


「ものすごく遠いところです」


「どこね」


「説明しても、たぶん信じてもらえません」


「ますます怪しか」


「ですよね」


白瀬は肩を落とした。


「ばってん父ちゃん!」


長吉は引かなかった。


「殿様も白瀬ん話ば聞いとらすとぞ!」


「殿が?」


「うん!」


父親の表情がわずかに変わる。


そこへ、母親が土間から顔を出した。


「ああ。この人ね」


「え?」


「最近、子どもらが話しよる白瀬さんは」


「俺、噂になってるんですか?」


「河童と水守様と一緒に、泥ん中ば歩き回っとる変な男がおるって」


「ろくな噂じゃない!」


母親が笑った。


「納屋なら、よかでしょう」


「おい」


「母屋に入れるわけじゃなかとよ」


「ばってんな」


「このまま外で寝かせて、朝になって冷とうなっとられても困るでしょう」


「縁起でもない!」


長吉が笑う。


父親はしばらく白瀬を見ていたが。


やがて、ため息をついた。


「……納屋だけぞ」


「ありがとうございます!」


「火は使うな」


「はい!」


「勝手に道具へ触るな」


「はい!」


「妙な真似ばしたら、すぐ追い出すぞ」


「はい!」


長吉が白瀬の背中を叩いた。


「よかったな、白瀬!」


「ああ」


こうして。


江戸時代へ放り込まれて数日。


白瀬湊一は初めて。


自分の寝床を手に入れた。


――納屋だったが。


     ◇


藁。


農具。


むしろ一枚。


「…………」


白瀬は中を見回した。


澪も横から覗き込む。


「立派ではないか」


「そうか?」


「屋根がある」


「あるな」


「壁もある」


「ある」


「わたしの社より立派じゃ」


「比較対象が悲しすぎるだろ」


それでも。


雨はしのげる。


風もしのげる。


そして。


何より。


ここにいていい。


そう言ってもらえた。


「……ありがたいな」


白瀬は、小さく呟いた。


     ◇


「飯、食うか」


その夜。


長吉の父親が納屋を覗いた。


「え?」


「食わんとね」


「いいんですか?」


「明日も働くとじゃろ」


「はい」


「なら食え」


ぶっきらぼうだった。


だが。


白瀬には、その言葉が妙に温かかった。


     ◇


囲炉裏を囲む。


麦や雑穀の混じった飯。


野菜の汁。


漬物。


豪華とは言えない。


けれど。


「……うまい」


白瀬は思わず呟いた。


温かかった。


身体の芯へ染みていく。


「腹減っとるだけじゃろ」


長吉が笑う。


「それは否定できない」


「もっと食べんね」


母親が笑った。


「ありがとうございます」


しばらくは、飯を食べる音だけが続いた。


やがて。


長吉の父親が口を開く。


「ほんに、海ば田にするとね」


「はい」


「できるとね」


「できます」


白瀬は答え。


少し考えた。


「……いや」


「なんね」


「できます、じゃないな」


「なら?」


「やります」


父親が白瀬を見る。


「簡単ではありません」


「…………」


「何年もかかるかもしれない。失敗もする。堤が壊れることもあります」


「そいでも、するとか」


「土地が増えれば――」


白瀬は答えようとした。


「石高が増えるからです」


「石高か」


父親は、自分の飯椀を見た。


「土地がありゃあのう」


「え?」


「もうちっと米ば作れる」


「…………」


「大川が暴れれば、田が沈む」


静かに続ける。


「海から潮が上がれば、また田が死ぬ」


「……はい」


「田が駄目になりゃ、食うもんが減る」


父親が長吉を見る。


「こいつらに腹いっぱい食わせてやれん」


そのときだった。


母親が、自分の椀から少しだけ飯を取った。


長吉の椀へ入れる。


「母ちゃん、よかって」


「食べんね」


「ばってん」


「子どもは食べるとが仕事たい」


「なら、おい、もっと仕事する!」


「調子に乗るな」


父親が言い。


皆が笑った。


だが。


白瀬は、母親の椀を見ていた。


少し減った飯。


長吉の椀では、その分だけ増えている。


たったそれだけだった。


けれど。


白瀬の中で。


何かが変わった。


石高。


新田。


干拓。


治水。


何町歩。


何石。


収穫量。


数字で考えていた。


でも。


その向こうにいるのは。


人だ。


田が増えれば。


飯が増える。


川を治めれば。


田を失わずに済む。


潮を防げれば。


家族が同じ場所で暮らし続けられる。


この土地を豊かにするというのは。


こういうことなのだ。


「……なるほどな」


「どうした、白瀬」


「いや」


白瀬は長吉を見る。


「百万石を造る理由が、一つ増えた」


「また百万石とか言いよる!」


長吉が笑った。


「白瀬は欲張りじゃな!」


「ああ」


白瀬も笑った。


「欲張りでいい」


海から土地を造る。


石高を増やす。


そして。


この家の食卓に。


もう一杯、飯を増やす。


「百万石くらい、欲張ってやるよ」


     ◇


夜。


藁の上へ横になる。


「……硬い」


背中が痛い。


虫の声。


遠くに大川の流れる音。


屋根の隙間からは月明かり。


スマートフォンもない。


電気もない。


風呂もない。


「本当に江戸時代なんだな……」


今さらだった。


帰りたい。


もちろん思う。


元の時代に、戻りたくないわけがない。


けれど。


今夜は少しだけ違った。


飯を食べさせてもらった。


寝るところをもらった。


明日になれば。


また誰かが白瀬を待っている。


「……悪くないな」


目を閉じた。


納屋。


藁。


むしろ一枚。


それでも。


ここが。


この時代で初めてできた。


白瀬湊一の居場所だった。


     ◇


「白瀬ー!」


「うわっ!?」


翌朝。


納屋の戸が勢いよく開いた。


「起きろ!」


「ガタ吉!?」


「潮が逃げるぞ!」


「俺の睡眠も逃げてるよ!」


ガタ吉の後ろから、澪が顔を出す。


「遅いぞ、白瀬」


「澪まで!」


「今日は試すのであろう?」


「そうだけど!」


「ならば早うせい」


「まだ日も昇りきってないぞ」


「潮に、そなたの都合などあるものか」


「正論なのが腹立つ!」


     ◇


朝の有明海。


潮は大きく引いていた。


昨日まで水だった場所が。


遥か彼方まで、泥の大地になっている。


「今日は、ここで試す」


白瀬は竹竿で泥へ線を引いた。


いきなり巨大な堤防など造らない。


まずは、小さく試す。


丸太を打つ。


竹や柴を絡ませる。


水の勢いを弱める。


海が運んできた泥を。


少しずつ。


そこへ置いていってもらう。


「白瀬」


後ろから健太が覗き込んだ。


「なんだ?」


「なんで、竹ば置いたら土地が増えると?」


健太は何でも知りたがる。


昨日も今日も。


白瀬が何か始めるたびに、「なぜ」「どうして」が飛んでくる。


「竹そのものが土地になるわけじゃない」


「なら、なんでね?」


「海に働いてもらう」


「海が?」


「ああ」


白瀬は泥を一握りした。


「海の水には、こういう泥がたくさん混じってる」


「うん」


「水の流れが速い間は、そのまま運ばれていく」


「うん!」


「でも、流れが遅くなれば――」


手を開く。


泥が落ちる。


「沈む」


「ここに残ると?」


「そういうこと」


「おお……!」


健太の目が輝いた。


「海に土地ば運ばせるとか!」


「そうだ」


「白瀬、頭よか!」


「もっと褒めていいぞ」


「ばってん、変な人たい!」


「余計だ!」


「白瀬!」


別の声。


長吉が、両腕いっぱいに柴を抱えている。


「こいくらいでよか?」


「十分! こっちへ頼む!」


「任せろ!」


長吉は泥の中でも力強い。


重いものを持たせれば、子どもたちの中では一番だった。


     ◇


「白瀬!」


今度は、海の方から声がした。


源太だった。


漁師の家の息子。


海へ出る父親について、小さいころから潮を見て育っている。


「そろそろ戻るぞ!」


「もう?」


「今日は早かぞ!」


白瀬が海を見る。


まだ遠い。


「俺にはまだ分からないな」


「毎日見よれば、分かるごとなる!」


源太が得意そうに笑った。


「ほう」


澪が海を見た。


「なかなかやるではないか、源太」


「水守様に褒められた!」


源太が胸を張る。


「じゃが」


「?」


「今日、気をつけるべきは正面ではない」


「え?」


源太が海へ目を凝らす。


「右じゃ」


「右?」


「潮が満ちれば、そちらからも強く来る」


「……おいには、まだ分からん」


「今は、な」


澪は静かに笑った。


「わたしには分かる」


白瀬は澪を見る。


そして。


この日の本当の仕事が始まった。


     ◇


「ガタ吉」


「なんね」


「ここへ杭を打ちたい」


「駄目たい」


「え?」


「底が柔らかすぎる」


ガタ吉は泥へ腕を突っ込んだ。


抜いた腕は、肘の近くまで泥まみれだった。


「ここじゃ杭が効かん」


「なら半間ずらそう」


「そっちも柔らかか」


「じゃあ陸側へ――」


「違う」


澪だった。


「白瀬。そこへ造ってはならぬ」


「どうして?」


「水が通る」


「ここを?」


「そうじゃ」


澪は裸足のまま。


ゆっくりと干潟へ入った。


一歩。


二歩。


足が泥へ沈む。


目を閉じる。


「澪?」


返事はない。


風が髪を揺らす。


潮は引いている。


水など、ほとんどない。


それなのに。


澪だけが。


まるで大きな川の中に立っているようだった。


白瀬も。


ガタ吉も。


子どもたちも。


自然と声を失った。


「……こちらではない」


澪が呟く。


一歩進む。


「ここも駄目じゃ」


「ここも?」


「潮が満ちれば、この辺りへ水が集まる」


「どっちへ流れる?」


「向こうじゃ」


「引くときは?」


「逆」


白瀬はしゃがんだ。


泥を見る。


わずかな窪み。


泥の粒。


確かに。


周りとは違う。


「……本当だ」


「当たり前じゃ」


「いや、待ってくれ」


白瀬は立ち上がった。


「澪、こっちは?」


「弱い」


「ここ」


「少し強い」


「この辺」


「強い」


「ここは?」


「白瀬」


「なんだ?」


「わたしを測量道具のように使うでない」


「あ、ごめん」


子どもたちが笑った。


澪も少しだけ口元を緩めた。


「ついて参れ」


「え?」


「水の道を教えてやる」


     ◇


澪が歩く。


白瀬が追う。


ガタ吉もついてくる。


「ここから来る」


「うん」


「ここで二つに分かれる」


「うん」


「こちらは弱い」


「なら、ここなら堤を――」


「まだじゃ」


澪が白瀬を止めた。


「そこを塞げば、こちらへ水が集まる」


「……え」


白瀬が地形を見る。


頭の中で。


水を流す。


「……危ない」


「何が?」


「確かに今だけ見れば、ここへ堤を造れる」


「うむ」


「でも、全部塞いだら水の逃げ場がなくなる」


白瀬は泥へ線を引いた。


「中の水がここへ集まる」


「そうじゃ」


「大雨が重なったら、もっと増える」


「そうじゃ」


「最悪、内側から堤を壊す」


「そうなる」


白瀬は澪を見た。


「……すごいな」


「何じゃ」


「澪」


「うむ」


「本当に、すごい」


澪の目が丸くなった。


「な、何を今さら申しておる!」


「だって、俺にはここまでは見えない」


「わたしは水守じゃぞ!」


「知ってるけど」


「ならば最初から敬え!」


「そこまでは言ってない」


「白瀬!」


ガタ吉が笑った。


「水守様、顔が赤かぞ」


「赤うない!」


「赤いな」


「白瀬まで言うでない!」


だが。


白瀬は本気だった。


自分には現代の知識がある。


地形を読むこともできる。


計算もできる。


けれど。


この土地を何百年と流れてきた水。


今、どこを通りたがっているのか。


それは。


澪にしか分からない。


「水って、止めればいいわけじゃないんだな」


「当たり前じゃ」


澪は干潟を見る。


「水には、水の行きたいところがある」


「うん」


「無理に閉じ込めれば、怒る」


「水が怒る、か」


「人も同じであろう?」


白瀬は。


少し笑った。


「なるほどな」


     ◇


三人が泥の上へしゃがみ込む。


白瀬が線を引く。


「澪。ここは?」


「弱い」


「ここを水の出口に残す」


「よかろう」


「ガタ吉。地盤は?」


「ここなら使える。ばってん、この辺りは杭ば増やした方がよか」


「分かった」


もう一度、線を引く。


「なら――ここだ」


「よい」


「よか」


三人が同時に頷いた。


白瀬が設計する。


澪が水を読む。


ガタ吉が泥と施工を見る。


白瀬は、思わず笑った。


「……これだ」


「何がじゃ」


「俺一人じゃ無理ってこと」


「今さらか」


「遅か男たい」


二人から同時に言われた。


「悪かったな」


ガタ吉が笑う。


「ばってん、三人ならできる」


「ああ」


白瀬が手を出した。


ガタ吉が重ねる。


澪は少しだけ二人を見て。


「仕方あるまい」


その上へ手を載せた。


「百万石」


「百万石たい」


「百万石じゃ」


「よし!」


     ◇


試験施工が始まった。


「杭!」


「こっち!」


「竹ば持ってこい!」


「柴、もっと!」


長吉が運ぶ。


村人が杭を打つ。


河童たちが泥の中で支える。


健太は作業をしながらも質問を止めない。


「白瀬!」


「今度は何だ!」


「この竹、斜めにした方が強うならんと?」


「……お前、それどこで思いついた」


「なんとなくたい!」


「あとで試そう!」


「おう!」


白瀬は少し笑った。


こいつ。


面白い。


「長吉!」


「なんね!」


「もう一本!」


「任せろ!」


長吉が竹を担いで走る。


「百万石の竹たい!」


「一本で百万石にするな!」


「なら十万石!」


「まだ高い!」


笑い声が上がった。


     ◇


やがて。


源太が海を見た。


「来るぞ!」


澪も同時に顔を上げる。


「皆、下がれ!」


白瀬が叫んだ。


海が戻ってくる。


遠くから。


静かに。


しかし確実に。


海面が近づいてくる。


「……分かってても怖いな」


白瀬は呟いた。


有明海の潮。


知識では知っている。


数字も知っている。


しかし。


目の前で海そのものが動いてくる光景は。


数字とは違う。


「白瀬」


澪が言った。


「来るぞ」


「ああ」


水が仕掛けへ届いた。


ざあっ――!


竹の間を。


濁った海水が通る。


揺れる。


しなる。


だが。


耐えている。


「よし……!」


白瀬が拳を握った。


「まだじゃ!」


澪が鋭く叫んだ。


「右!」


「源太!」


「おいには、まだ見えん!」


「来る!」


澪が指差す。


「ガタ吉!」


「おう!」


ガタ吉たちが右へ走る。


その直後。


ざばん!


「うわっ!」


斜めから強い流れがぶつかった。


竹が大きくしなる。


「ほんに来た……!」


源太が目を丸くする。


「すげえ……水守様」


「見惚れておる場合か!」


澪が叫んだ。


「白瀬!」


「何!」


「このままでは持たぬ!」


「分かってる!」


白瀬は水を見る。


全部受け止めるな。


相手は海だ。


人間が力比べして勝てる相手じゃない。


だったら。


逃がせ。


「澪! 水はどこへ行きたがってる!」


「あちらじゃ!」


澪が左を指す。


白瀬は一瞬で判断した。


「ガタ吉!」


「おう!」


「左を一本開けろ!」


「堤ば切るとか!」


「全部受けるから壊れる! 水を逃がす!」


「分かった!」


ガタ吉が竹を抜く。


ざあああっ!


水が一気に流れた。


「弱うなった!」


源太が叫ぶ。


「今だ!」


白瀬が指示する。


「補強!」


「長吉、竹!」


「おう!」


「ガタ吉!」


「ここたい!」


「澪!」


「もう半尺右!」


「ここ?」


「違う!」


「こっち!」


「そこじゃ!」


杭が打ち込まれる。


どん!


水が分かれる。


流れが弱くなる。


そして。


泥水の中で。


細かな泥が。


ゆっくり沈んでいった。


「…………」


全員が息を止める。


次の波。


ざあっ。


竹が揺れる。


しかし。


倒れない。


「……持った」


ガタ吉が呟いた。


「持ったぞ!」


長吉が叫んだ。


「やった!」


「止まっとるぞ!」


「白瀬!」


歓声が上がる。


白瀬は。


真っ先に澪を見た。


「澪!」


「何じゃ!」


「やった!」


「う、うむ!」


「お前がいなかったら無理だった!」


「だから、わたしは――」


「本当に!」


白瀬は興奮していた。


「最初の位置のまま造ってたら危なかった!」


「そうじゃ」


「今の横の流れも俺には見えてなかった!」


「そうじゃ」


「すげえな!」


「分かったから近い!」


澪が一歩下がる。


「これだよ!」


「何がじゃ!」


「俺の知識」


白瀬が自分を指す。


「澪の水を見る力」


澪を指す。


「ガタ吉の泥と施工の知恵」


ガタ吉を指す。


「三つ揃えば――」


「白瀬!」


「何だ!」


「声が大きい!」


「……あ」


周囲を見る。


皆が笑っていた。


「……すみません」


ガタ吉が白瀬の背中を叩く。


「痛っ!」


「やるじゃなかか、百万石!」


「俺一人じゃない」


「ほう?」


「三人だ」


白瀬は澪を見る。


「だろ?」


「……うむ」


澪も。


少し嬉しそうに笑った。


     ◇


その日の午後。


試験施工の報告を受け。


諫早直孝が数名の家臣とともに海辺へやって来た。


「殿」


白瀬たちが頭を下げる。


「面を上げよ」


直孝は。


まず仕掛けを見た。


「これか」


「はい」


「そなたが申していた干拓は」


「まだ、その入口です」


「入口?」


「試しです」


白瀬は答えた。


「海が運んでくる泥を、本当にここへ溜められるのか」


「うむ」


「どこへ水を通せば壊れにくいか」


「うむ」


「それを確かめています」


直孝が澪を見る。


「水の道は、水守殿が?」


「そうじゃ」


澪は少し胸を張った。


「白瀬だけでは危うかったぞ」


「おい」


「事実であろう」


「……否定できません」


「ほれ見よ」


澪が得意そうにする。


直孝の口元が、ほんのわずかに緩んだ。


「なるほど」


「殿」


白瀬は真顔へ戻った。


「先に言っておきたいことがあります」


「申せ」


「すぐ田にはなりません」


「うむ」


「何年もかかるかもしれません」


「…………」


「失敗もします」


「今日もか」


「危ない場面はありました」


「ならば、次は」


「直します」


「また失敗すれば?」


「また直します」


「それでも駄目なら」


「やり方を変えます」


直孝が白瀬を見る。


「いつまで続ける」


「できるまでです」


白瀬は即答した。


「百万石なんて、一日でできるわけありません」


「そなたが言い出したことであろう」


「そうなんですけどね」


白瀬は笑った。


そして。


海を見る。


「でも、この海は毎日、泥を運んできます」


「……うむ」


「なら」


白瀬は言った。


「貰えばいい」


「海から?」


「はい」


有明海を指差す。


「俺たちが全部、土地を運ぶんじゃない」


「…………」


「海から、土地を貰います」


直孝は。


長いこと海を見ていた。


そして。


「……面白い」


静かに言った。


「続けよ」


「はい!」


白瀬は深く頭を下げた。


     ◇


夕方。


「ほら、食べんね」


村の女たちが籠を持ってきた。


「団子たい!」


ガタ吉が真っ先に反応した。


「働いた者からぞ」


「なら、おいはいっぱい働いたぞ!」


「腹が減っとるだけじゃろ!」


「違う!」


笑い声。


白瀬も一つ受け取った。


「いただきます」


ぱくり。


素朴な団子だった。


強い甘さもない。


でも。


「うまい……」


泥の中を一日歩いた身体には。


何よりの御馳走だった。


「澪!」


明るい声。


小春だった。


村の中でも特に元気な少女で。


水守である澪に対しても、なぜかまったく遠慮がない。


「これ!」


「何じゃ」


「水守様へのお供えじゃって!」


「小春」


「なんね?」


「皆の前では水守様と呼べ」


「今、呼んだやん」


「もっと敬意を込めよ!」


「はいはい、水守さまー」


「軽い!」


小春が笑いながら皿を差し出す。


三つの団子。


澪は急に姿勢を正した。


「……供物か」


「うん」


「ならば仕方あるまい」


「何が?」


「供物を粗末にしては、水守の名折れじゃ」


一つ。


ぱく。


二つ。


ぱく。


三つ。


ぱく。


「…………」


白瀬が見る。


ガタ吉も見る。


小春も見る。


「何じゃ」


「別に」


「何か言いたげじゃな」


「供物だもんな」


「そうじゃ」


「仕方ないよな」


「そうじゃ!」


「水守様」


今度は、別の少女がやって来た。


お紗。


商家の娘で。


何でも数えてしまう癖がある。


「こっちもどうぞ」


「む。供物か?」


「うん」


「ならば頂こう」


ぱく。


お紗が呟く。


「四つ」


「何がじゃ」


「澪が食べた団子」


「数えるでない」


「五つ」


「お紗」


「六つ」


「お紗!」


「七つ」


「やめぬか!」


小春が腹を抱えて笑う。


「澪、食べすぎたい!」


「供物じゃ!」


「うち、一つしか食べとらんよ?」


「修行が足らぬ」


「団子食べるとに修行がいると!?」


ガタ吉まで指を折り始めた。


「八つ」


「ガタ吉」


「九つ」


「ガタ吉!」


「十――」


「河童のくせに生意気じゃぞ!」


「河童関係なか!」


頬いっぱいに団子を詰め込んだ水守様。


威厳は。


完全に消えていた。


長吉が聞いた。


「水守様」


「何じゃ!」


「団子、好きと?」


「…………」


澪が止まる。


白瀬。


ガタ吉。


長吉。


健太。


源太。


小春。


お紗。


皆が澪を見る。


「…………」


長い沈黙。


「……嫌いではない」


ぽつり。


「好きなんたい!」


子どもたちが一斉に叫んだ。


「嫌いではないと言うた!」


「同じたい!」


「違う!」


「澪、まだあるぞ」


「どこじゃ!」


「ほら好きじゃん!」


「白瀬ぇ!」


笑った。


白瀬は腹を抱えて笑った。


ガタ吉も。


長吉たちも。


村人たちも。


そして。


「まったく……!」


最後には。


澪まで笑った。


白瀬は、ふと思う。


昨日。


寝る場所をもらった。


飯を食わせてもらった。


今日。


一緒に働いた。


そして今。


一緒に笑っている。


数日前まで。


この時代には。


知り合いなど一人もいなかった。


自分の居場所など。


どこにもなかった。


それなのに。


「白瀬」


澪が団子を片手に呼ぶ。


「なんだ?」


「明日もやるぞ」


「ああ」


「もっと土地を造る」


「ああ」


「たくさん土地が増えれば」


「うん?」


「団子も増える」


「結局そこかよ!」


また。


皆の笑い声が、有明海へ響いた。


     ◇


翌朝。


「白瀬!」


納屋の外から声がした。


「白瀬、起きろ!」


「今度は誰だよ……」


目を開ける。


長吉だった。


「海!」


「海?」


「早う来い!」


長吉の顔を見て。


白瀬は飛び起きた。


     ◇


潮は引いていた。


昨日の仕掛け。


丸太。


竹。


柴。


少し曲がったものもある。


流された枝もある。


だが。


残っていた。


「白瀬!」


長吉が指差す。


「見ろ!」


「…………」


白瀬は。


しばらく動けなかった。


仕掛けの内側。


泥が。


昨日より。


わずかに。


厚くなっている。


数センチどころか。


指一本にも満たない場所もある。


田んぼには遠い。


一反にもならない。


一石にもならない。


百万石など。


遥か彼方だ。


だが。


長吉には、そんな数字など関係なかった。


「白瀬!」


満面の笑顔で。


叫んだ。


「海が、土地ば置いていったぞ!」


「…………」


白瀬はゆっくりしゃがんだ。


手を伸ばす。


一握り。


泥を掴む。


冷たい。


ぬるりとしている。


重い。


ただの泥だ。


でも。


昨日まで。


ここには留まっていなかった。


潮とともに。


海へ戻っていた。


それが今。


白瀬の手の中にある。


「……そうだな」


白瀬は笑った。


「海が、置いていったな」


澪が横へ来る。


「どうじゃ」


「何が」


「わたしの水読みは」


「はいはい。すごいですよ、水守様」


「心がこもっとらぬ!」


「嘘だよ」


白瀬は澪を見る。


「ありがとう」


「…………」


「お前がいなかったら、この泥はここにない」


「……うむ」


澪は。


ほんの少しだけ。


嬉しそうに笑った。


反対側からガタ吉が現れる。


「おいは?」


「もちろんガタ吉も」


「扱いが雑たい!」


「ありがとう、ガタ吉」


「最初からそう言わんね!」


その後ろから。


長吉。


健太。


源太。


小春。


お紗。


子どもたちも並んだ。


皆で。


海を見る。


果てしなく広い。


白瀬の手の中には。


ほんの一握りの泥。


「百万石には遠いな」


澪が言った。


「ああ」


「百万分の一か?」


「そんなにない」


「ならば、先は長いな」


「ああ」


白瀬は立ち上がった。


有明海を見渡す。


「だから」


笑う。


「面白いんだろ」


ガタ吉が笑った。


「今日は、どこばやる?」


「もう次かよ」


「百万石なんじゃろ?」


「そうだったな」


白瀬も笑った。


昨日まで。


そこは海だった。


白瀬の知識だけでは造れなかった。


澪の力だけでも造れなかった。


ガタ吉の技だけでも造れなかった。


村人がいなければ。


長吉たちがいなければ。


誰か一人では。


何も始まらなかった。


人の知恵。


水守の目。


河童の技。


村の力。


そして。


海そのものの力。


全部が合わさって。


初めて。


海が。


土地を置いていった。


ほんの。


一握り。


けれど――。


海から百万石を生み出す最初の一握りは。


確かに。


白瀬の手の中にあった。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


第五普請では、白瀬が長吉の家の納屋を借り、この時代で初めて「帰る場所」を手に入れました。


そして、長吉、健太、源太、小春、お紗たちも少しずつ物語の中へ。


白瀬には現代の土木知識。


澪には、水の道を読む力。


ガタ吉には、泥と施工の知恵。


さらに、村で暮らす人々の経験と力。


誰か一人の奇跡だけではなく、それぞれの力を合わせながら、白瀬たちは有明海へ挑んでいきます。


今回、海から得られたものは――ほんの一握りの泥。


百万石には、まだまだ遠い。


それでも確かに、


海から土地が生まれ始めました。


なお、水守様へのお礼は少し多めにご用意ください。


特に団子は。


次の普請でも、白瀬たちは少しずつ諫早の未来を造っていきます。

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