第四普請 海に、田んぼを描く
<長崎県諫早市 白木峰高原 秋桜(例年の見頃:9月下旬~10月下旬)>
第四普請です。
今回から、いよいよ『海から百万石』らしい「干拓」が動き始めます。
とはいえ、一夜で海が田んぼになる――なんてことはありません。
この土地に昔からある知恵。
ガタ吉が知る干潟。
澪が感じる水の流れ。
そして白瀬の現代土木の知識。
それぞれを持ち寄って、まずは小さな一歩から。
未来は明るく。
でも、未来を作るのは地道な積み重ねです。
どうぞお楽しみください。
潮が、引いていた。
朝には波の下だった場所が、昼前にはぬらぬらと光る泥の大地へ変わっている。
白瀬湊一は、その真ん中に立っていた。
「……広いな」
昨日までなら、そう言って終わっていたかもしれない。
だが今日は違う。
白瀬の手には竹竿。
腰には縄。
肩には、測った高さや時刻を書き込んだ板。
そして頭の中には、朝から測り続けた潮の高さが入っている。
「白瀬」
少し離れたところから、澪が呼んだ。
「いつまでそこに立っておる」
「考えてる」
「先ほどから同じことを申しておるぞ」
「土木屋が現場で黙った時は、大体考えてるんだよ」
「知らぬ」
ばっさりだった。
その横では、ガタ吉が泥の上にしゃがみ込んでいる。
いや。
しゃがんでいるというより、半分ほど泥と同化していた。
「白瀬ぇ」
「なんだ」
「おぬし、そこから右に三歩行ってみろ」
「右?」
「そうたい」
白瀬は素直に右足を出した。
ずぶっ。
「うおっ!?」
膝近くまで沈んだ。
「ガタ吉!」
「ははははは!」
「お前、分かってたな!」
「だから教えてやったとたい。そこは深かって」
「教えてない!」
ガタ吉が腹を抱える。
澪はため息をついた。
「まったく。海を田にすると申した男が、まず海に食われてどうする」
「食われてない!」
「足が抜けておらぬではないか」
「……ちょっと手伝ってくれ」
「嫌じゃ」
「澪!」
その様子を浜から見ていた子どもたちが、どっと笑った。
「白瀬がガタに負けとるばい!」
「田んぼ作る前に沈んどる!」
「うるさい!」
白瀬は泥まみれになりながら、どうにか足を引き抜いた。
昨日から、子どもたちは白瀬たちについて回っている。
最初は遠巻きに見ているだけだった。
妙な服を着た男。
河童と口喧嘩する男。
水守の澪と平気で話す男。
そして――。
海を田んぼにすると言い出した、大法螺吹き。
それが面白くて仕方がないらしい。
「白瀬! うちもそっち行ってよか?」
小春が両手を口に当てて叫んだ。
「駄目!」
「なんでね!」
「今、俺が沈んだだろ!」
「うちは白瀬より軽かもん!」
「そういう問題じゃない!」
隣では長吉まで身を乗り出している。
「おいも測ってみたか!」
「長吉も駄目!」
「なんでおいまで!」
「危ないからだよ!」
二人とも頬を膨らませた。
「危ないから、そこから先には来るなよ!」
「はーい!」
返事だけはいい。
白瀬は信用しなかった。
その時だった。
「白瀬」
ガタ吉の声が変わった。
「こっち来んね」
「今度は沈めるなよ」
「よかけん」
白瀬が近づく。
ガタ吉は泥の表面を指でなぞった。
「見ろ」
「何を?」
「色たい」
白瀬は目を凝らす。
言われてみれば違う。
黒っぽい泥。
灰色がかった泥。
少し茶色い泥。
表面に小さな泡が浮いているところもある。
「ここは柔らか」
ガタ吉が言う。
「こっちは、もう少し締まっとる」
今度は指で泥をすくい、鼻へ近づけた。
「潮ん通るところは匂いも違う」
「匂い?」
「ああ」
白瀬も真似をした。
「…………」
「分かるか?」
「全然分からん」
「だろうな」
「なんで嬉しそうなんだよ」
ガタ吉が得意げに胸を張った。
「ガタのことなら、おいの方が上たい」
白瀬は笑った。
「認める」
「……え?」
ガタ吉が逆に戸惑った。
「なんだよ」
「いや。おぬしなら『現代土木を舐めるな』とか言うかと思った」
「分からないものを、分かったふりする方が危ないんだよ」
白瀬はしゃがんだ。
指で泥をつまむ。
「図面だけじゃ分からないことなんて、いくらでもある」
土の締まり。
水の流れ。
潮の癖。
季節による違い。
そこで暮らす者しか知らないこと。
「現場を知ってる奴の話を聞かない土木屋は、ろくな仕事をしない」
ガタ吉は、しばらく白瀬を見ていた。
「……変な奴たい、おぬし」
「今さら?」
「今さらたい」
二人が笑った。
その少し先で、澪が立ち止まった。
「白瀬」
「今度はなんだ?」
「こちらへ来い」
澪は海を見ていた。
白瀬が隣へ並ぶ。
「何かあるのか?」
「水じゃ」
「水?」
「目を閉じよ」
「俺が?」
「よいから」
白瀬は目を閉じた。
波の音。
遠くで鳥が鳴いている。
泥の上を小さな水が流れる音。
「分からん」
「まだ何もしておらぬ」
「先に言ってくれ」
「黙れ」
澪も目を閉じた。
風が、彼女の髪を揺らした。
しばらくして。
澪が腕を上げた。
「あちらじゃ」
白瀬が目を開ける。
指した先には、干潟を蛇のように曲がりながら海へ続く水の筋があった。
「水は、あそこへ集まりたがっておる」
ガタ吉も見る。
「ああ。あそこは潮ん引くと、最後まで水ん残る」
白瀬の顔から笑みが消えた。
真剣な顔で水筋を見る。
「……なるほど」
しゃがむ。
泥に指で線を描く。
「ここから来た水が……」
一本。
「こっちからも集まって……」
もう一本。
「ここへ出る」
線が一つにつながった。
「白瀬?」
「潰しちゃ駄目だ」
澪が首を傾げる。
「何をじゃ?」
「この水の道だよ」
白瀬は立ち上がった。
「田んぼを増やしたいからって、全部囲えばいいわけじゃない」
ガタ吉を見る。
「水は必ず出てくる」
「ああ」
「なら、出ていく道を最初から残す」
白瀬の頭の中で、景色が変わり始めていた。
泥の干潟。
そこに堤が走る。
その内側に水路ができる。
樋門ができる。
田が生まれる。
だが、田を守るためには水を外へ出さなければならない。
「……そうか」
白瀬は呟いた。
「何じゃ」
「干拓って、新しい田んぼを作るだけじゃないんだ」
「?」
「今ある田んぼも守れる」
白瀬は陸の方を指した。
「海側に新しい排水路を延ばせる。水の出口を確保できれば、大雨の時にも今より水を逃がしやすくなる」
澪の目が少し見開かれた。
「田を増やしながら……田を守るのか」
「ああ」
白瀬は笑った。
「その方がいいだろ?」
澪は水筋へ視線を戻した。
「……悪くない」
「褒めてる?」
「調子に乗るでない」
「はいはい」
その時。
「おーい!」
浜の方から声がした。
年老いた男が二人、丸太を担いで歩いてくる。
後ろには竹の束。
ガタ吉が手を上げた。
「爺さん!」
「何ばしよっとか、ガタ吉!」
「白瀬が海ば田んぼにするんだと!」
「また大法螺か!」
「おいじゃなか!」
白瀬は抗議した。
老人たちは笑いながら干潟の端まで来る。
そして、白瀬が興味を示したのは、その荷物だった。
「その丸太、何に使うんです?」
「これか?」
老人が干潟の先を指した。
「ここに打つとばい」
「ここに?」
「そうたい」
もう一人が竹を持ち上げる。
「木ば立ててな。間に竹やら枝ば絡ませるとさ」
「絡ませる……」
「そうすっと、潮がガタば置いていく」
白瀬の動きが止まった。
「……え?」
「知らんとや?」
「いや」
知らないわけではない。
むしろ、その意味が分かった。
だからこそ、驚いた。
白瀬は丸太を見る。
竹を見る。
泥を見る。
そして海を見る。
「これ……」
頭の中で、水の流れを描く。
潮が入る。
潮が出る。
そのたびに細かな土が運ばれる。
竹と枝が流れを弱める。
そこへ泥が残る。
また潮が来る。
また泥が残る。
「堆積させるのか……」
「たいせき?」
「土を、ここに残すんです」
「そうたい」
「自分たちで全部運んで埋めるんじゃない」
白瀬の声がだんだん大きくなる。
「川と潮が運んでくる土を、ここで捕まえる」
ガタ吉が首を傾げる。
「だから、そう言いよるたい」
「すげえ……」
「何が?」
「すげえよ、これ!」
白瀬は興奮していた。
「こんなの、自然を相手に力比べしてるんじゃない」
竹束を持つ。
「自然に仕事をさせてるんだ!」
「しぜん?」
「川が土を運ぶ。潮が運ぶ。それをここへ置いていってもらう」
白瀬は笑った。
「俺たちは、置いてほしい場所を作るだけだ」
老人たちが顔を見合わせる。
「そがんとは当たり前たい?」
「そうなんですけど!」
「なら、なんばそがん喜びよっとか」
「こういうのが好きなんです!」
澪が小さくため息をついた。
「始まったな」
ガタ吉も頷く。
「ああ。白瀬ん面倒くさかやつたい」
「聞こえてるぞ!」
だが白瀬は止まらなかった。
丸太の位置。
竹の組み方。
泥の固さ。
潮の向き。
どれくらいガタが溜まるのか。
どの場所が早いのか。
老人たちへ次々質問する。
しまいには老人の方が後ずさった。
「お、お前、本当に役人か?」
「一応!」
「役人がそがん泥ば見て喜ぶもんかね」
「それは偏見です」
「白瀬」
澪が袖を引く。
「子どもが怯えておる」
「なんで!?」
見ると、子どもたちが少し離れていた。
小春が長吉の陰から顔を出す。
「白瀬、ちょっと怖か」
「なんで!?」
「泥ば見て笑いよるもん」
「違うから!」
長吉も真顔で頷いた。
「おいも、ちっと怖かばい」
「長吉まで!?」
笑い声が広がった。
白瀬も笑った。
そして、ふと思った。
未来から来た自分が。
この時代の人間へ、何もかも教える。
そんな話ではない。
この土地の人間は、とっくに海を見ていた。
潮を知っていた。
泥を知っていた。
生きるために考え。
試し。
失敗し。
また工夫してきた。
「……そうだよな」
白瀬は小さく呟いた。
四百年後に道路があり、堤防があり、広い田んぼがあるのは。
ある日突然、誰か天才が現れたからではない。
名前さえ残らない、大勢の人間が。
一本ずつ杭を打ったからだ。
だったら。
自分がやることも同じだ。
「ガタ吉」
「ん?」
「この辺で、一番ガタが溜まりやすい場所は?」
「向こうたい」
「澪」
「何じゃ」
「そこ、水の道から外れてる?」
澪は目を閉じた。
やがて頷く。
「外れておる」
「よし」
白瀬は朝からの記録板を開いた。
潮の高さ。
干潮の時刻。
地面の高さ。
水の通る位置。
ガタ吉が知る地盤。
村人たちが知る昔からの潮。
一つずつ重ねる。
「ここだ」
白瀬が言った。
「何がじゃ?」
「最初に試す場所」
白瀬は一本の竹杭を持った。
「いきなり大きな堤防は造らない」
「海を田にするのではなかったのか?」
「するよ」
「ならば、なぜ――」
「失敗するから」
澪が黙った。
ガタ吉も白瀬を見る。
白瀬は平然としていた。
「最初から全部うまくいくと思って工事する方が怖い」
杭を地面へ立てる。
「まず小さくやる」
一歩進む。
「潮に耐えるか」
さらに一本。
「どこへ泥が溜まるか」
さらに一本。
「水はちゃんと抜けるか」
縄を張る。
「駄目なら直す」
白瀬は三人を見た。
「それを何度も繰り返す」
ガタ吉が笑った。
「ずいぶん地味たい」
「ああ」
「未来から来たんだろ?」
「ああ」
「もっとこう、ぱーっとできんとか?」
「できない」
「役に立たんな!」
「うるさい!」
また笑いが起きた。
だが白瀬も、それでいいと思った。
奇跡はいらない。
一夜で田んぼになる必要もない。
一つできたら。
次は二つ。
二つできたら。
その次は、もっと大きく。
失敗したら戻る。
直して、また進む。
それでいい。
未来というのは、きっとそうやって作るものだ。
◇
夕方。
満ちてきた潮が、白瀬たちの打った杭へ届いた。
「来たばい!」
長吉が叫ぶ。
白瀬たちは少し高い場所から見守っていた。
水が竹の間を通る。
枝が揺れる。
「白瀬」
「ああ」
まだ何も起こらない。
当然だ。
これで土地ができるわけではない。
一度や二度の潮で、田んぼが生まれるはずもない。
それでも。
潮が再び引き始めた時。
ガタ吉が泥へ降りた。
「おい!」
「どうした?」
「来んね!」
白瀬も駆ける。
竹と枝の陰。
そこに。
ほんの薄く。
新しい泥が残っていた。
「…………」
小春が首を伸ばした。
「白瀬?」
「なんだ?」
「……こいだけ?」
「ああ」
指先ですくえるほどだった。
「少なかね」
「少ないな」
「こいで田んぼになると?」
白瀬は泥を見る。
それから広い海を見た。
「今日じゃならない」
「明日は?」
「明日も無理だな」
「じゃあ、いつになると?」
白瀬は少し考えた。
そして笑った。
「分からない」
「えーっ!」
子どもたちから一斉に声が上がった。
「分からないから、測る。試す。直す」
白瀬は小春の頭をぽんと叩いた。
「でもな」
夕日が干潟を赤く染めていた。
「今日より明日の方が、一歩だけ田んぼに近い」
小春は竹の根元に残った泥を見る。
「……ほんと?」
「ああ」
「じゃあ明後日は?」
「もう一歩だ」
「その次は?」
「もう一歩」
「ずっと?」
「ずっとだ」
小春が笑った。
「なら、いつかできるたい!」
白瀬も笑った。
「ああ」
長吉が身を乗り出した。
「米、いっぱい採るっと?」
「まず一枚作ってから考えよう」
小春が続ける。
「そしたら、うちも腹いっぱい食べられる?」
その問いには。
白瀬は少しだけ間を置いた。
村を見た。
痩せた田。
小さな家。
働く大人たち。
そして、自分を見上げる子どもたち。
「――食べられるようにする」
約束ではない。
願いだけでもない。
そうするために、方法を考える。
白瀬には、それしかできない。
だが。
それで十分だった。
◇
帰り道。
白瀬は何度も振り返った。
夕暮れの海に、竹杭が小さく並んでいる。
澪が尋ねた。
「まだ見るのか?」
「うん」
「ただの杭じゃろう」
「今日はな」
「明日は違うのか?」
「明日も、たぶん杭だ」
「ならば同じではないか」
「でも、少し泥が増えてるかもしれない」
澪は呆れたように白瀬を見る。
「それが、そんなに嬉しいのか」
「嬉しいよ」
白瀬は即答した。
「だって、増えるんだぞ」
「泥が?」
「土地が」
白瀬は立ち止まった。
海を見る。
自分が知っている未来の諫早。
どこまでも続く田。
道。
家。
町。
今は、その多くがまだ海の向こうにある。
「取られた土地が戻らないなら」
白瀬が呟いた。
「土地を増やせばいい」
ガタ吉が振り返った。
「は?」
「山は増えない」
白瀬は海を指した。
「でも、ここなら増やせる」
澪も、その先を見る。
広い。
あまりにも広い海だった。
「どれほど増やすつもりじゃ」
澪が尋ねる。
白瀬は一瞬だけ真面目な顔をした。
そして。
笑った。
「どうせなら――」
夕日を受けた海が、黄金色に光った。
「百万石くらい」
沈黙。
波の音だけがした。
ガタ吉が口を開く。
「……馬鹿たい、おぬし」
「夢はでかい方がいいだろ」
「でかすぎるわ!」
「まず一枚からだよ!」
「百万石と一枚の間が遠すぎるたい!」
澪が吹き出した。
白瀬も笑った。
ガタ吉も、最後には笑っていた。
少し後ろでは、子どもたちも何の話か分からないまま笑っている。
小春が長吉に小声で聞いた。
「百万石って、どがんくらい?」
「知らん」
「米、いっぱい?」
「たぶん、ものすごういっぱいたい」
「なら、よかね!」
「ああ。よかばい!」
三人の向こうで。
潮はまた、ゆっくりと満ち始めていた。
海は今日も海だった。
明日も、きっと海だ。
けれど。
今日、そこには一本の杭が打たれた。
そして、その杭の根元には。
昨日までなかった土が、ほんの少しだけ残っていた。
未来は、一夜では変わらない。
けれど、一日ぶんは変えられる。
その積み重ねの先に。
まだ誰も見たことのない諫早がある。
白瀬には――
それが、少しだけ見えた気がした。
第四普請までお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、いよいよ「海を土地へ変える」最初の一歩でした。
ただし白瀬たちの干拓は、魔法で一夜にして完成するものではありません。
実際の有明海・諫早湾では、大きな干満差と河川が運ぶガタ土によって干潟が成長し、その自然の働きを利用しながら先人たちは新しい土地を拓いてきました。干潟へ丸太を打ち、竹などを絡ませてガタ土を堆積させ、植物を生やし、堤防の基礎としていく昔の方法も伝えられています。(長崎県公式サイトより)
白瀬は未来の知識を持っています。
でも、この時代の人々にも知恵があります。
澪には水が見え、ガタ吉には干潟が分かる。
誰か一人が全部できるのではなく、みんなの力を合わせて少しずつ未来を変えていく――そんな国づくりを描いていきたいと思います。
次回。
第五普請――いよいよ「最初の一枚」に挑みます。
海は、本当に田んぼになるのか。
どうぞお楽しみに。




