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『海から百万石 ~江戸時代に転移した国交省の土木職員、水守と河童と有明海の大干拓に挑む~』  作者: 天手古まい


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第五十一普請 教える暇などない

海から土地をつくり、米を育て、商いを始めた白瀬たち。

そして今度は、未来を育てる新たな普請が始まります。

第七章「水学所の子ら」、開幕!

小さな納屋から始まった学びが、やがて諫早の未来を変えていきます。

 寛永三年(一六二六年)、春。


 諫早の田には若草が萌え、水路には雪解けの名残を含んだ水が流れていた。


 海から生まれた新しい土地では、今年も田植えの支度が始まっている。


 畑では人々が土を返し、川では舟が荷を運び、村のあちこちから槌を打つ音が聞こえてくる。


 五年前には、想像もできなかった風景だった。


 そして、その風景を眺めながら、白瀬湊一は今、猛烈に後悔していた。


「白瀬しゃん! こっちば先に見てくれんね!」


「いや、白瀬先生! おいの方が先に来とったばい!」


「先生! ちょっと帳面ば見てほしかとです!」


「白瀬しゃーん!」


「おーい、白瀬! 団子はまだか!」


「最後のお前は何しに来たんだ!」


 朝っぱらから、長吉の家の納屋は大騒ぎだった。


     ◇


「一人ずつ! 一人ずつ話せ!」


 白瀬が両手を広げても、誰も止まらない。


 最初に詰め寄ってきたのは長吉だった。


「新しか田の水ば分ける順番ば決めたかとです。ばってん、上の田と下の田で話がまとまらんとですよ!」


「そうか。じゃあ、まず水の量と田の広さを――」


「先生! こっちも!」


 横から健太が木の棒を差し出した。


「こいば見てくれんね! 水ば測る道具ば作ったとです!」


「お、いいじゃないか。どれ――」


「白瀬先生!」


 今度はおたえが割って入った。


「長崎から来た注文ば帳面に書きよったら、銭の数が合わんとですよ! どこで間違うたか分からん!」


「いや、それはお前の方が得意だろ!」


「得意でも間違う時は間違うとです!」


「威張るな!」


「白瀬しゃん!」


 源太が大きな板を抱えて入ってきた。


「舟に荷ば積む時、片側に寄ると危なかけん、積み方ば図にしてみたとです!」


「おお、それは大事だな」


「それから、潮の満ち引きも書き込んで――」


「先生!」


 小春まで、ひょいと顔を出した。


「明美しゃんから唐語の文が届いたとです! ばってん、うち、まだ読めん字のあって……」


「唐語は俺だって分からんぞ!?」


「そこば一緒に考えるとですよ!」


「無茶を言うな!」


 納屋の中は、もはや市場のようだった。


 そんな騒ぎの真ん中で、ただ一人、のんびりと団子を食べている者がいた。


 ガタ吉である。


「白瀬。忙しそうじゃのう」


「見れば分かるだろ!」


「おいは邪魔せんけん、ゆっくり仕事するとよか」


「だったら静かにしてくれ!」


「ところで白瀬」


「何だ!」


「団子が十個あって、三個食うたら残りはいくつじゃ?」


「七個!」


「ほう。さすが白瀬じゃ」


「……お前、何がしたいんだ?」


「いや、団子ば七個も食えると思うたら嬉しゅうなってのう」


「全部お前が食うつもりか!」


 笑い声が起こった。


 しかし、白瀬だけは笑えなかった。


 目の前には、まだ片づかない仕事が山ほどある。


 田の水配り。


 水門の修繕。


 干拓地の塩抜き。


 長崎への荷の手配。


 新しい道具の試験。


 商いの帳面。


 そして、子どもたちへの読み書き算術。


「……俺、身体が三つくらい欲しい」


「三つで足りるかのう」


 背後から声がした。


 振り向くと、澪が湯呑みを持って立っていた。


「おぬしのことじゃ。三つあっても、すぐに仕事を増やすじゃろう」


「否定できない……」


「まったく。世話の焼ける男じゃ」


 澪は呆れた顔で湯呑みを差し出した。


「ほれ。少し休め」


「ありがとう、澪」


「礼を申す暇があるなら、少しは頭を使うことじゃな」


「……厳しいなあ」


 白瀬が湯をすすっていると、澪は納屋の中を見渡した。


「のう、白瀬」


「ん?」


「なぜ、おぬしが全部答えねばならぬ?」


「え?」


「この者たちは、いつまでも何も知らぬ子どもではなかろう」


 白瀬は湯呑みを持ったまま、動きを止めた。


     ◇


 その日の昼。


 白瀬は五人を納屋の前に集めた。


 春の日差しが、土の庭を暖かく照らしている。


「今日は、ちょっと話がある」


「何ですか、先生?」


 長吉が首を傾げる。


「お前たち、最近ずいぶん仕事ができるようになったよな」


「そりゃあ、白瀬しゃんに教えてもろうたけん」


 健太が笑った。


「違うぞ」


「え?」


「俺が教えたことを、そのままやっているだけじゃないだろ?」


 白瀬は長吉を見た。


「長吉。去年、田の土が固くなった時、どうした?」


「水ば入れる前に、土ばよく見たとです。場所によって肥やしの入れ方も変えました」


「誰が教えた?」


「……自分で考えました」


「そうだ」


 次に健太を見る。


「健太。魚を運ぶ道具、何回作り直した?」


「五回です!」


「俺、五回も作り直せって言ったか?」


「言わんかったです。ばってん、使う人が持ちにくかって言うけん……」


「そうだよな」


 白瀬はおたえに向き直った。


「おたえ。長崎で干魚の値段を決める時、俺に聞いたか?」


「聞いとらんです」


「どうして?」


「白瀬先生より、うちの方が商いのことは分かっとるけん!」


「そこは少し遠慮してくれないか!?」


 また笑いが起きた。


 白瀬も笑った。


「でも、その通りなんだ」


 そして、源太と小春にも目を向ける。


「源太は潮を読むことなら俺より詳しい。小春は人の話を聞くことなら、誰より上手い」


「そがん褒められたら、照れるばい」


 小春が頬をかいた。


「だから、今日から少しやり方を変えたい」


 白瀬は地面に一本の線を引いた。


「今までは、俺がみんなに教えてきた」


 線の端に、自分の名前を書く。


 そこから五本の線を伸ばして、五人の名前を書いた。


「でも、これからは違う」


 五人の名前から、さらに何本もの線を伸ばした。


「お前たちが、次の人に教えるんだ」


「……おいらが?」


 長吉が目を丸くする。


「そうだ。長吉は田と土のことを。健太は道具のことを。おたえは算術と商いのことを。源太は海と舟のことを。小春は人と話すことを」


「うちが先生になるとですか?」


 おたえが自分を指さした。


「そういうこと」


「……先生?」


「先生」


「……うちが?」


「何回聞くんだ」


 おたえはしばらく黙っていた。


 そして、にやりと笑った。


「では、先生にはお給金が出るとですか?」


「お前は本当に商人だな!」


     ◇


 もっとも、話はそう簡単には進まなかった。


 夕方、納屋の前に集まった村人たちは、白瀬の提案を聞いて顔を見合わせた。


「子どもに字ば教える?」


「そいはよか話じゃ。ばってん、田の仕事はどうするとね?」


「うちの子は、明日も畑に出てもらわんば困るとぞ」


「紙や墨も安かもんじゃなかろう?」


 白瀬は黙って頷いた。


 どれも、もっともな意見だった。


 この時代、子どもは大切な働き手である。


 田を耕し、草を刈り、薪を集め、弟や妹の面倒を見る。


 学ぶことが大切だからといって、暮らしを犠牲にはできない。


「毎日、朝から晩まで集まるつもりはありません」


 白瀬は説明した。


「農繁期は仕事を優先します。雨の日や、仕事が落ち着いた時間を使う。小さな子には短い時間からでいい」


「ばってん、字ば覚えて何になるとね?」


 一人の男が尋ねた。


「百姓が字ば読めても、米が増えるわけじゃなかろう?」


 白瀬が答えようとした時だった。


「増えるかもしれんとですよ!」


 長吉が声を上げた。


 皆が振り向く。


「田の広さば書き残して、去年と今年の採れ高ば比べたら、どこが良うなったか分かるとです。肥やしばどれだけ使うたかも、忘れんで済むけん!」


「ほう……」


 男が腕を組む。


 すると、おたえも前に出た。


「商いでも同じたい。銭ば数えられんかったら、損しとっても分からんとです!」


「そりゃあ、そうじゃが……」


「長崎の商人に、魚十尾でいくらと言われた時、ちゃんと計算できんかったら困るでしょうが!」


「うっ……」


 源太も口を開いた。


「舟に荷ば積む時も、重さと数が分かった方が安全たい。積みすぎて沈んだら、元も子もなか」


 健太が頷く。


「道具ば作る時も、長さば測って書き残したら、同じもんば作れるとです」


 小春が笑った。


「それに、字ば読めたら遠くの人とも文ば交わせるとよ。会えん人にも、気持ちば伝えられるたい」


 村人たちは、いつの間にか静かになっていた。


 白瀬は五人の背中を見つめていた。


 少し前まで、自分が懸命に説明していたことを。


 今は、この子たちが自分の言葉で語っている。


「……なるほどな」


 先ほどの男が、ぽつりと言った。


「なら、うちの倅にも少し習わせてみるか」


「うちの娘もよかね?」


「おいも計算ば習いたか!」


 あちこちから声が上がった。


 白瀬は笑顔になった。


「もちろんです!」


 ところが。


「白瀬どん、場所はどこでするとね?」


「……え?」


 白瀬は納屋を振り返った。


 道具と材木と農具がぎっしり詰まっている。


 とても大勢が入れる場所ではない。


「……そこは、考えます」


 こうして、新たな問題が一つ増えた。


     ◇


 数日後。


 村の長屋の一角を借り、最初の手習いが始まった。


 もっとも、建物の中に入りきれる人数ではない。


 晴れた日は庭先に板を並べ、むしろを敷いて座る。


 いわば、青空教室である。


「はい。今日はまず、数を数えるところから!」


 おたえが胸を張った。


 目の前には、小さな子どもたちが十人ほど座っている。


「魚が三尾あります。そこへ二尾増えました。全部で何尾?」


「五尾!」


「正解たい!」


 おたえは満足そうに頷いた。


「では、その魚を一尾二文で売ったら、全部でいくらになると?」


「……え?」


「分からん!」


「先生、銭ば見せて!」


「まだ早か!」


 おたえが叫ぶ。


 少し離れた場所では、健太が木の棒と縄を使って、道具の仕組みを教えていた。


「こっちば押したら、向こうが持ち上がるとよ」


「おおー!」


「じゃあ、重か石も持ち上がると?」


「やってみるか!」


「健太! 大きすぎる石はやめろ!」


 白瀬が慌てて止めた。


 その横では、長吉が小さな桶に土を入れている。


「こっちは水ば通しやすか土。こっちは水が溜まりやすか土たい」


「なんで違うと?」


「粒の大きさが違うけんたい」


「つぶ?」


「……ええと」


 長吉は少し考えた。


 そして、砂と粘り気のある土を子どもたちの手に乗せた。


「触ってみんね」


「あ、違う!」


「こっちはさらさらしとる!」


「そうたい。土にもいろいろあるとよ」


 白瀬は思わず笑った。


 教科書などない。


 立派な机もない。


 黒板もなければ、揃いの筆さえない。


 それでも、子どもたちの目は輝いている。


 源太は潮の満ち引きを、水を張った桶と舟の模型で説明していた。


 小春は子どもたちを二人ずつ組ませ、互いの名前や好きなものを聞き合う遊びを始めている。


 最初は恥ずかしがっていた子も、いつの間にか笑っていた。


「白瀬」


 隣に澪が立っていた。


「なかなか、よい眺めじゃな」


「ああ」


 白瀬は頷いた。


「俺が教えるより、ずっと楽しそうだ」


「そりゃあ、同じ村で育った者同士じゃ。伝わることも多かろう」


「……俺の立場がなくなるな」


「何を申す」


 澪は小さく笑った。


「おぬしが種を蒔いたのであろう?」


 白瀬は、子どもたちを見た。


 長吉が笑っている。


 健太が身振り手振りで説明している。


 おたえが指を折って計算している。


 源太が舟を動かしている。


 小春が子どもの手を取っている。


「……そうだな」


 白瀬は静かに頷いた。


     ◇


 昼を過ぎた頃。


 突然、長吉が白瀬のところへ駆けてきた。


「先生! ちょっと来てくれんね!」


「どうした?」


「田の水ば巡って、また揉めよるとです!」


 白瀬は腰を上げかけた。


 だが、その腕を澪がそっと掴んだ。


「待て」


「澪?」


「おぬし、今朝なんと言うた?」


「……今朝?」


「みなが、みなの先生になるのであろう?」


 白瀬は口を閉じた。


 そして長吉を見る。


「長吉。お前ならどうする?」


「……おいが?」


「そうだ。まず、何を確かめる?」


 長吉は少し考えた。


「……水の量と、田の広さ。それから、どっちが先に水ば必要としとるか」


「うん」


「ばってん、おい一人じゃ……」


「一人でやる必要はないだろ?」


 白瀬は納屋の方を見た。


 そこには、仲間たちがいる。


 長吉はぱっと顔を上げた。


「健太! 源太! ちょっと手ば貸してくれんね!」


「何ね?」


「水ば測ると!」


「おお、よかばい!」


 おたえも顔を出した。


「時間ば決めるなら、うちが書くたい!」


「うちも行く!」


 小春が立ち上がった。


「揉めとるなら、話ば聞かんば!」


 五人が走り出した。


 白瀬はその後ろ姿を見送った。


「……大丈夫かな」


「心配なら、見に行けばよかろう」


 澪が笑った。


「ただし、口は出さずにな」


     ◇


 水路の脇では、二人の農夫が腕を組んでいた。


「こっちの田が先たい!」


「いや、上の田ば先にせんば、水が届かん!」


「去年もそがん言うたろうが!」


 長吉は二人の間に入った。


「ちょっと待ってくれんね!」


「何ね、長吉!」


「まず、田ば見せてくれんですか!」


 最初は、二人とも不満そうだった。


 だが、長吉が実際に土を握り、水の入り具合を確かめ始めると、黙って見守るようになった。


 健太は水路の脇に目盛りを刻んだ木を立てた。


 源太は下流の水位を調べる。


 おたえは板に順番を書き出した。


 小春は、それぞれの農夫から事情を聞いた。


「上の田は昨日から水ば待っとるとね?」


「そうたい!」


「下の田は、今日中に少し入れんば困ると?」


「そうじゃ!」


「なら、どっちも困っとるとたいね」


 小春は頷いた。


「どっちかだけが我慢するんじゃなくて、分け方ば考えんね」


 長吉たちは相談を始めた。


 最初の案では、下の田まで水が届かなかった。


 健太が目盛りを読み違えたのだ。


「……あれ?」


「健太、こい違うとじゃなか?」


「ほんとたい!」


「おい、しっかりせんね!」


「分かっとる!」


 やり直し。


 今度は、水路の途中で泥が溜まっていることに気づいた。


 ガタ吉が水面から顔を出す。


「おお、こっちは底が浅うなっとるぞ」


「ガタ吉、そこば見てくれんね!」


「任せんしゃい!」


 河童水工衆が泥を取り除く。


 澪は少し離れた場所から、水の流れを見つめていた。


「……そこじゃな」


 澪が小さく呟く。


 流れが変わり、水が下流へ届き始めた。


 長吉たちは、あらためて水を分ける順番を考えた。


 上の田に先に必要な量を入れ、その後、下の田へ流す。


 水位を見ながら、日によって調整する。


 おたえが板に順番を書き、小春が二人の農夫に説明した。


「これなら、どっちも困らんと思うとです」


 二人の農夫は顔を見合わせた。


「……なるほどな」


「長吉、お前、いつの間にそがんことば覚えたとね?」


 長吉は照れくさそうに頭をかいた。


「白瀬しゃんに教わったとです。ばってん、今日はみんなで考えました」


「ほう……」


 農夫の一人が笑った。


「なら、今度はおいにも教えてくれんね」


 長吉が顔を上げた。


「……よかとですか?」


「もちろんたい。田ばよくするためじゃろうが」


 長吉は大きく頷いた。


「はい!」


 その様子を、少し離れた場所から白瀬が見ていた。


 胸の奥が、じんわりと熱くなった。


 かつて、子どもの遊びでは田は育たぬと笑われた少年。


 その少年が今、村の大人に教えを求められている。


 白瀬は小さく息を吐いた。


「……すごいな、あいつら」


「そうじゃな」


 澪が隣で頷いた。


「おぬしの出る幕が、少し減ったようじゃ」


「嬉しいような、寂しいような……」


「ふふ。親とは、そういうものかもしれぬな」


「俺、まだ親じゃないんだけど」


「似たようなものじゃろう」


 澪は笑った。


     ◇


 その日の夕方。


 青空教室では、最後の手習いが行われていた。


 子どもたちは地面に字を書き、覚えたばかりの数字を指でなぞっている。


 小さな男の子が、白瀬のところへ駆けてきた。


「白瀬先生!」


「どうした?」


「おい、名前ば書けるようになったと!」


「おお! 見せてくれ」


 男の子は板の上に、ぎこちない文字を書いた。


 まだ形は揃っていない。


 それでも、自分の名前を一生懸命に書いている。


「……すごいじゃないか」


「へへっ!」


「誰に教わった?」


「長吉兄ちゃん!」


 男の子は嬉しそうに笑った。


「今度は、おいが弟に教えると!」


 白瀬は、思わず言葉を失った。


 教わった者が、次の者へ伝える。


 そして、その次へ。


 水路を流れる水のように。


 知恵もまた、人から人へと流れていく。


「……そうか」


 白瀬は男の子の頭を撫でた。


「頼んだぞ、先生」


「おいが先生!?」


「ああ。弟にとっては、お前が先生だ」


 男の子は目を輝かせた。


「分かった!」


 そして、勢いよく走っていった。


 白瀬はその後ろ姿を見つめた。


 五年前。


 この時代に迷い込んだ自分には、何もなかった。


 住む場所も、帰る方法も分からなかった。


 ただ、目の前の人々を助けたくて、必死に走り続けてきた。


 海から土地をつくった。


 水を引いた。


 米を育てた。


 魚を運び、商いを始めた。


 けれど。


 今、目の前にある光景は、そのどれとも違う。


 人が、人を育てている。


 白瀬がいなくても、次の世代へ何かが伝わっていく。


「……これが、本当の国づくりなのかもしれないな」


 白瀬は、そう呟いた。


     ◇


 日が傾き始めた頃。


 教室の片づけを終えた白瀬は、長屋の軒先に腰を下ろしていた。


 澪が隣に座る。


「疲れたか?」


「ああ。今日は本当に疲れた」


「何もしておらぬのに?」


「それを言うなよ」


 澪がくすりと笑った。


 庭には、子どもたちが書いた文字の跡が残っている。


 白瀬はそれを眺めながら言った。


「なあ、澪」


「なんじゃ?」


「俺がいなくても、あいつらならやっていけるようになるのかな」


 澪の表情が、わずかに変わった。


「……白瀬」


「ん?」


「勝手におらんことにするでない」


 白瀬は澪を見た。


 澪は庭先へ視線を向けたまま、続けた。


「おぬしが教えた者が育つのは、よいことじゃ。されど、それでおぬし自身の居場所がなくなるわけではなかろう」


「……そうだな」


「それに」


「それに?」


 澪は少しだけ頬を染めた。


「おぬしがおらねば、誰が妾に訳の分からぬ未来の話をするのじゃ」


 白瀬は思わず笑った。


「そうか。まだ俺にも仕事があるんだな」


「当然じゃ」


 澪は立ち上がった。


「ほれ、帰るぞ。明日も早いのであろう?」


「ああ」


 白瀬も腰を上げた。


 その時だった。


 ぽつり。


 白瀬の頬に、水滴が落ちた。


「……ん?」


 空を見上げる。


 西の山の向こうに、黒い雲が広がっていた。


 ぽつり。


 ぽつり。


 雨粒が、庭先に落ち始める。


「雨か」


「春の雨じゃな」


 澪が空を見上げる。


 白瀬は、ふと足元を見た。


 地面には、子どもたちが一生懸命に書いた文字。


 雨粒が落ちるたび、その文字が少しずつ崩れていく。


「あ……」


 さっきまで、あんなに楽しそうに書いていたのに。


 覚えたばかりの字が、水に溶けて消えていく。


 白瀬は長屋を見た。


 小さな部屋。


 狭い軒先。


 入りきれず、庭で学ぶ子どもたち。


「……そうか」


 白瀬は呟いた。


「学ぶ場所が、足りないんだな」


 澪が隣に立つ。


「どうするつもりじゃ?」


「考えるさ」


 白瀬は雨に濡れる庭を見つめた。


「せっかく学びたいって言ってくれたんだ。雨が降ったくらいで、諦めさせたくない」


 澪は静かに頷いた。


「ならば、また一つ普請じゃな」


「ああ」


 白瀬は笑った。


「今度は、海でも川でもない」


 雨に消えていく文字を見つめながら、続けた。


「子どもたちの未来を守る普請だ」


 その時、背後から声がした。


「白瀬! 雨が降っとるぞ!」


 ガタ吉だった。


「見れば分かる!」


「団子が濡れるけん、早う屋根の下へ入らんね!」


「お前、まだ団子持ってたのか!」


 いつもの騒ぎが戻ってきた。


 澪が笑う。


 白瀬も笑った。


 けれど、胸の奥には新しい思いが芽生えていた。


 土地をつくるだけでは、国は豊かにならない。


 米を増やすだけでも、銭を増やすだけでもない。


 人が学び、考え、次の世代へ知恵を伝えていく。


 そのための場所が必要なのだ。


 春の雨は、庭の文字を静かに消していった。


 だが、子どもたちの胸に刻まれたものまでは、消せなかった。


 そして、この小さな青空教室が、やがて諫早の未来を大きく変えることになるとは――。


 この時の白瀬は、まだ知らなかった。


     ◇


 その翌朝。


 村の長屋の前に、一人の少年が立っていた。


 雨上がりの庭をじっと見つめている。


 見慣れない、上等な着物。


 少年は、消えかけた地面の文字を指でなぞった。


「……ここで、百姓の子が学んでおるのか」


 供の男が頷く。


「はい。白瀬殿が始められた手習いにございます」


「面白い」


 少年は顔を上げた。


「父上にも、お知らせせねばなるまい」


 その言葉を、まだ誰も聞いていなかった。


 諫早の小さな学び舎に、やがて城からも人が訪れることになる。


 そして、雨をしのぐ屋根さえ持たぬこの教室を見て、領主が一つの決断を下す日が近づいていた。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

第五十一普請、いかがでしたでしょうか。

かつて白瀬に教わるばかりだった長吉たちも、今では誰かに知恵を伝える立場になりました。

土地は一代でつくれても、豊かな国は一代ではつくれません。

次回、第五十二普請。

学びたい子どもたちは増える一方。しかし、青空教室には大きな弱点が……。

引き続き、白瀬たちの新たな国づくりをお楽しみください!

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