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『海から百万石 ~江戸時代に転移した国交省の土木職員、水守と河童と有明海の大干拓に挑む~』  作者: 天手古まい


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第五十普請 銭もまた、水のように

第六章「長崎へ続く道」、いよいよ最終話です。

長崎で始まった商いは、諫早の村に新たな豊かさをもたらそうとしていました。

しかし、品が売れることと、暮らしが豊かになることは同じではありません。

銭を稼ぎ、守り、そして未来へつなぐ。

今回は、おたえたちの成長と、白瀬が目指す「国づくり」の新たな一歩をお届けします。

有明海から吹く風に、冬の匂いが混じり始めていた。


白瀬湊一、三十一歳。


元和七年の夏、二十七歳でこの時代へ迷い込んだ男は、いつの間にか四度目の秋を迎えていた。


そして今、目の前には――。


「白瀬しゃん! 大変たい!」


またしても、厄介事が転がり込んできた。


もっとも、今回は洪水でもなければ、堤の決壊でもない。


「注文の増えたとよ!」


長吉の家の納屋。


そこを改めて仕事場に使っている一同の前で、おたえが一通の文を高々と掲げていた。


「長崎の唐商人さんから、干魚ばもっと仕入れたかって! そいに、健太の三段干し籠も見本ば欲しかって!」


「おお!」


「やったじゃなかか!」


源太と健太が歓声を上げる。


小春も両手を叩いた。


「明美さんの言うた通りたい! ちゃんと約束ば守っとけば、次の商いにつながるって!」


「ふふん!」


おたえは得意満面で胸を張った。


「こいで諫早の商いも、いよいよ大きゅうなるばい!」


「そいつはめでたいな」


白瀬も笑った。


長崎で苦労したことを思えば、これほど嬉しい知らせはない。


干魚の値段を叩かれたこともあった。


舟の手配に失敗し、信用を失いかけたこともあった。


商売敵の堺屋重兵衛に、経験の差を思い知らされたこともある。


それでも、おたえたちは諦めなかった。


安く売るだけではなく、品質を揃え、約束した日に届け、買い手の望む品を考えた。


その積み重ねが、ようやく実を結ぼうとしている。


「それで、いくら儲かるんだ?」


白瀬が尋ねる。


「そいはもう!」


おたえは帳面を開いた。


そこには、おたえ自身が書き込んだ数字が並んでいる。


「今度の商いが全部うまくいけば、こいだけ銭が入るとよ!」


「ほう……」


白瀬が帳面を覗き込んだ。


そして。


「……おたえ」


「なんね?」


「この数字、何の金額だ?」


「売上たい!」


「じゃあ、魚を買う銭は?」


「……へ?」


「干すための手間賃。籠に使う竹。縄。舟賃。荷を運ぶ人足代。途中で傷んだ品の損失は?」


「…………」


おたえの笑顔が、ゆっくり消えていく。


「そ、それは……」


「それから、次の商いの仕入れ銭も必要だろ?」


「…………」


ぱたん。


帳面が閉じられた。


「白瀬しゃん」


「ん?」


「ちょっと黙っとって」


「はい」


澪が横で小さく笑った。


「おぬしも意地が悪いのう」


「いや、今のうちに気づいた方がいいと思って」


「そういうところじゃ」


おたえは帳面を抱えたまま、唇を尖らせた。


「……はがいか」


悔しい。


しかし、今回はいつものように白瀬へ噛みつかなかった。


もう一度、帳面を開く。


「……売れた銭と、残る銭は違うとね」


「そういうことだ」


「なら、残る銭ば増やすには……」


おたえはしばらく考えた。


やがて顔を上げる。


「もっと売ればよか!」


「それも一つの方法だな」


「じゃろ!」


「ただし、売るほど赤字が増える商いもあるぞ」


「なんでたい!」


納屋に笑い声が弾けた。


だが白瀬は知っていた。


これから彼らがぶつかる問題は、そんな笑い話では済まないことを。


     ◇


その日の昼。


問題は、三つまとめてやってきた。


最初に現れたのは、源太だった。


「白瀬しゃん、舟ば見てくれんね!」


「どうした?」


「船底の板が傷んどる。今のまま荷ば増やしたら危なか!」


源太の案内で川岸へ向かう。


舟を岸へ寄せて調べると、確かに板の継ぎ目が傷み、隙間から水が染み込んでいた。


まだ沈むほどではない。


しかし、重い荷を積んで長崎まで運ぶとなれば話は別だ。


「修繕せんばいかん」


源太が腕を組む。


「板も縄も要る。船大工さんにも頼まんば」


「どれくらいかかる?」


「安うはなか」


「だよなあ……」


そこへ健太が駆け込んできた。


「白瀬しゃん!」


「今度は何だ?」


「干し籠の材料が足らん!」


「えっ」


「今までの分は作れる。ばってん、注文の増えた分まで作るなら、竹も縄も足らん!」


健太は悔しそうに拳を握った。


「それに三段干し籠は、もう一つ改良したかとよ。風が通るようにしたら、前よりずっとよか品になる!」


「それはいいな」


「ばってん、試す分の材料も要る!」


「……なるほど」


そして三人目。


長吉が田の方から走ってきた。


「白瀬しゃん!」


白瀬は思わず空を見上げた。


「……今度は田んぼか?」


「なんで分かったと!?」


「なんとなく」


「水路の板が傷んどる! この前の詰まりば取った時に調べたら、枠の一部が弱っとった。冬のうちに直さんば、春の水ば通す時が怖か!」


白瀬は額を押さえた。


つい先日、皆で力を合わせて枝や枯れ葦を取り除いたばかりだ。


水の流れは戻った。


しかし、水路そのものが新しくなったわけではない。


木は腐る。


縄は傷む。


土は崩れる。


一度造ったものでも、手入れを怠れば、いずれ壊れる。


「分かった。現場も見に行こう」


「頼むばい!」


三人はそれぞれ、ほっとした顔をした。


だが白瀬の頭の中では、別の計算が始まっていた。


舟の修繕。


干し籠の材料。


水路の補修。


どれも必要なものだ。


そして、どれも銭がかかる。


そこへ、遅れておたえがやってきた。


「白瀬しゃん!」


「……おたえ」


「なんね、その顔」


「いや、何でもない」


「新しい干魚ば仕入れる銭が要るとよ!」


「…………」


白瀬は静かに両手で顔を覆った。


「……銭が、足りない」


誰も返事をしなかった。


ようやく始まった商い。


増えていく注文。


広がっていく村の仕事。


喜ばしいはずの出来事が、揃いも揃って銭を要求していた。


しかも、唐商人から届いた文には、支払いは品を受け取ってから、とある。


つまり。


「売れることは決まってるのに、今使える銭が足りないってことか……」


「そうたい!」


おたえが勢いよく頷く。


「売れれば銭は入るとに、売るための銭が足らんとよ!」


白瀬は苦笑した。


現代ならば、資金繰りという言葉がある。


売上が増えているのに、手元に現金がなくなる。


下手をすれば、儲かっている商売が潰れることさえある。


まさか江戸時代の諫早で、それを経験するとは。


「白瀬」


澪がそっと声をかけた。


「川の水が増えたところで、流れ道が足らねば溢れる。銭も同じようなものかのう」


「……そうだな」


白瀬は顔を上げた。


「銭もまた、水のように流れるものなんだ」


     ◇


夕刻。


長吉の家の納屋に、村の者たちが集められた。


農民。


漁師。


舟を扱う者。


大工。


女たち。


そして、子どもたち。


納屋の中央には、以前皆で考えた四面蔵の帳面が置かれていた。


四面蔵。


田、川、海、人。


暮らしに必要な四つの働きを守るため、蓄えを分け、使い道を記録する仕組みだ。


大きな蔵が四棟建っているわけではない。


今はまだ、小さな貯えと、幾冊かの帳面。


それでも、その仕組みには村人たちの願いが込められている。


困った時に、誰か一人だけが泣かずに済むように。


災いが来ても、次の春を迎えられるように。


「……それで?」


年配の農民が口を開いた。


「銭の足らんけん、どうするって話じゃ?」


白瀬は頷いた。


「今日は、それを皆で決めたいんです」


「白瀬どんが決めればよかろうもん」


別の男が言った。


「今まで、そうしてきたじゃなかか」


その言葉に、何人かが頷く。


白瀬は少しだけ考えてから、首を横に振った。


「俺が全部決めたら、俺がいない時に困るでしょう?」


「そいは……」


「この村の田んぼも、川も、舟も、俺のものじゃありません。皆のものです」


白瀬は帳面を開いた。


「だから今日は、皆で使い道を決めましょう」


最初に立ち上がったのは長吉だった。


「おいは、水路ば直したか!」


「理由は?」


「春になって水ば通す時、途中で壊れたら田んぼが駄目になる! 今まで苦労して作った田たい!」


長吉の父も頷いた。


「そいは確かに大事じゃ」


すると源太が立ち上がった。


「ばってん、舟も直さんばいかん!」


「何で舟が先なんね!」


長吉が言い返す。


「舟が動かんかったら、魚ば売れん! 売れんかったら銭も入らん! 水路ば直す銭もなくなるばい!」


「田んぼば守らんで何が村たい!」


「海で食うとる者もおるとぞ!」


二人の声が大きくなった。


さらに健太が割り込む。


「おいの籠はどうすると!」


「籠は後でもよかろう!」


「後じゃ間に合わん! 唐商人さんが欲しかって言うた品たい!」


「そいは銭ば儲けるためじゃろ!」


「銭がなかったら、どっちも直せんじゃなかか!」


がやがや。


わあわあ。


たちまち納屋は騒がしくなった。


「田が先たい!」


「いや、舟たい!」


「商いば止めたらいかん!」


「冬の蓄えまで使うつもりか!」


「今年はまだよかばってん、来年が豊作とは限らんぞ!」


誰も間違ったことは言っていない。


だからこそ、話がまとまらない。


おたえは黙って皆の顔を見ていた。


やがて、帳面をぱたんと閉じた。


「……みんな、ちょっと聞いて」


しかし、声は騒ぎにかき消される。


「聞いてって!」


まだ収まらない。


おたえの眉がぴくりと動いた。


「聞かんねえええっ!」


納屋が静まり返った。


白瀬が思わず肩をすくめる。


「……すごい声だな」


「白瀬しゃんも黙っとって!」


「はい」


おたえは大きく息を吸った。


そして、静かに言った。


「うちは、商いば続けたか」


皆が耳を傾ける。


「長崎で魚ば売るとは、簡単じゃなかった。安う買い叩かれそうになったし、舟の手配ば失敗して、皆に迷惑もかけた」


源太が気まずそうに頭を掻く。


「ばってん、やっと次の注文が来たとよ」


おたえは帳面に手を置いた。


「商いが続けば、銭が入る。銭が入れば、田んぼも水路も直せる。道も造れる。子どもたちの学ぶ紙も買える」


そこで、言葉を切った。


「……ばってん」


顔を上げる。


「そのために今、種籾まで売ったら、来年の田んぼはどうなると?」


長吉が目を見開いた。


「水路ば後回しにして、春に水が通らんごとなったら?」


今度は源太が黙った。


「舟ば危なかまま走らせて、魚も舟も人も失うたら?」


健太も口を閉じる。


おたえは、一人ひとりの顔を見た。


「そがん商いは、うちは嫌たい」


誰も口を挟まなかった。


「うちは銭ば儲けたか。いっぱい儲けたか。ばってん……」


少しだけ、声が震えた。


「皆の暮らしば削って儲けても、嬉しゅうなか」


白瀬は何も言わなかった。


以前のおたえなら、もっと売ればいい、もっと高く売ればいい、と真っ先に叫んでいただろう。


それも商人として大切な力だ。


しかし、今のおたえは違う。


売ることの向こう側に、働く人たちの顔が見えている。


それでも――。


「……おたえ」


白瀬が尋ねた。


「じゃあ、どうする?」


おたえは答えられなかった。


正しいことを言うだけでは、銭は増えない。


どれも大事だと言うだけでは、何一つ進まない。


長吉も、源太も、健太も、自分の仕事を守りたくて声を上げた。


その気持ちも分かる。


では、どうする。


おたえは唇を噛んだ。


そして、帳面を抱えたまま納屋を飛び出した。


     ◇


納屋の外では、秋風が刈り取られた田を渡っていた。


おたえは川岸に腰を下ろし、膝を抱えた。


「……はがいか」


また、この言葉が出た。


だが、今度の悔しさは少し違う。


商売敵に負けたからではない。


思うように品が売れないからでもない。


皆のために商いを始めたはずなのに、皆の願いを叶える方法が見つからない。


それが、悔しかった。


「ここにおったんですね」


振り向くと、明美が立っていた。


長崎から諫早へやってきた客人。


そして、おたえにとっては商いの師匠でもある。


「……明美さん」


「隣、よろしいですか?」


おたえが頷くと、明美は川岸に腰を下ろした。


しばらく、二人は黙って水面を眺めていた。


「うち、商人に向いとらんとかもしれん」


ぽつり。


おたえが呟く。


「どうしてです?」


「銭ば儲けたかとに、使う銭のことばっかり考えとる。商売のことだけ考えとけばよかとに、田んぼも、舟も、村のみんなも気になるとよ」


明美は少し驚いた顔をした。


そして、ふわりと笑った。


「それは、素敵な商人じゃありませんか」


「……へ?」


「商いは、銭を数えるだけではありませんもの」


明美は川面に視線を戻した。


「父も、よく申します。客が喜んでくれれば、また店へ来てくれる。店が繁盛すれば、仕入れ先にも仕事が増える。働く者も暮らしていける」


「…………」


「そうして、また新しい客を迎えられる。商いとは、そういうものだと」


おたえは黙って聞いていた。


「おたえさんは、もう見えているのでしょう?」


「何が?」


「銭の向こうにいる人たちです」


秋風が二人の髪を揺らした。


「でも……」


おたえは顔を伏せた。


「そいだけじゃ、銭は足らんとよ」


「ええ」


明美はあっさり頷いた。


「ですから、知恵を使うんです」


「知恵?」


「全部を一度に叶えようとしなくても、よいのではありませんか?」


おたえは顔を上げた。


明美は川の向こうを指さした。


「舟は、一度にどれだけの荷を運べます?」


「……積める分だけたい」


「ならば、運べないほどの注文を一度に受けたら?」


「舟が沈む」


「そうですね」


明美が笑う。


「商いも同じです。欲張って約束を破るより、守れる約束を重ねた方が、よほどよい商いになります」


おたえの目が、少しずつ輝き始めた。


「……一度に全部売らんでもよか?」


「ええ。相手が納得してくだされば」


「一度目の商いで入った銭ば、次の仕入れに回して……」


「それなら、最初に必要な銭も減らせますね」


「そいに、銭だけじゃなくて……」


おたえは勢いよく立ち上がった。


「明美さん!」


「はい?」


「うち、もう一回考えてみる!」


明美は微笑んだ。


「ええ。おたえさんなら、きっと」


おたえは走り出した。


しかし、数歩進んだところで振り返る。


「明美さん!」


「はい?」


「やっぱり、うちの師匠は最高たい!」


明美は目を丸くした。


それから、声を上げて笑った。


     ◇


翌朝。


納屋には、再び村人たちが集まっていた。


おたえは一晩かけて書き直した帳面を広げた。


目の下には、うっすら隈ができている。


「まず、昨日うちが書いた売上の数字は、忘れてほしか」


「えっ」


「なんね、そい!」


村人たちが騒ぎ出す。


「正確には、あれは入ってくる予定の銭たい」


おたえは落ち着いて説明した。


「今ある銭じゃなか。魚ば仕入れて、運んで、売って、ようやく受け取れる銭たい」


「……そいで?」


「だから、今ある銭と、後で入る銭ば分けて考える」


白瀬は黙って頷いた。


おたえは帳面の隣に、もう一冊の帳面を置いた。


そこには大きく四つの文字が書かれている。


田。


川。


海。


人。


四面蔵。


「まず、田の分。こいは簡単には使わん」


長吉が顔を上げる。


「種籾や、もしもの時の食い物は残す。いくら商いが忙しゅうなっても、そこに手ばつけたらいかん」


「……おう!」


長吉が力強く頷いた。


「次は川。水路の傷んだところは、冬のうちに直す」


「そいは助かる!」


「ばってん、新しい材木ば全部買う銭はなか。使える木は使う。手伝える者には、力ば貸してほしか」


村の大工が顎を撫でた。


「古か橋板の中に、まだ使えるもんがあったな」


「ああ、あれなら傷んだ部分ば避けて使えるぞ」


「なら、川の方は何とかなりそうじゃ」


おたえは頷いた。


「次は海」


源太と健太が身を乗り出す。


「舟は直す。そいは絶対たい」


「おお!」


源太が拳を握った。


「ばってん、今すぐ大きか舟ば造るとはせん。今ある舟ば、安全に使えるようにする」


「そいで十分たい!」


「健太の干し籠も、最初から全部は作らん」


「……えっ」


「まず、見本と最初の注文に必要な分だけ作る。実際に使うてもろうて、具合ば確かめるとよ」


健太は腕を組んだ。


「……そいなら、改良した籠ば先に試せる」


「そうたい!」


おたえは得意げに笑った。


「いきなり山ほど作って、売れんかったら大損たい!」


「……そいは困る」


「じゃろ?」


皆が笑った。


「それから、唐商人さんには文ば出す。注文ば全部引き受けるんじゃなくて、何度かに分けて届ける相談ばする」


「向こうが承知せんかったら?」


白瀬が尋ねた。


「その時は、できる数までしか約束せん」


おたえは即答した。


「欲張って約束ば破るより、確実に届ける方がよか。前に、そいば嫌というほど学んだけん」


白瀬は嬉しくなった。


長崎での失敗。


舟一艘に頼りすぎたこと。


商売敵との勝負。


そのどれもが、無駄にはなっていない。


「それで、最後の『人』は?」


小春が尋ねた。


おたえは一瞬、口を閉じた。


そして、ゆっくり顔を上げた。


「……こいが、一番難しか」


「なんで?」


「田んぼも、舟も、道具も、壊れたら分かる。直したら、目にも見える」


おたえは集まった人々を見回した。


「ばってん、人に使う銭は、すぐには増えて戻ってこん」


誰も口を挟まなかった。


「子どもに文字ば教えても、明日から魚が倍売れるわけじゃなか。病人ば助けても、帳面に儲けは書けん」


おたえは帳面を閉じた。


「……ばってん、うちは、ここも減らしたくなか」


白瀬は、思わず顔を上げた。


「うちが文字ば覚えて、算術ば覚えて、初めて商いができるごとなった。もし教えてもろうとらんかったら、今でも銭ば数えることしかできんかったと思う」


小春が隣で頷く。


「うちも、言葉ば習わんかったら、長崎の唐商人さんと話せんままたい」


「おいも」


健太が言った。


「白瀬しゃんから、寸法ば揃えることや、何度も試して確かめることば習わんかったら、籠も改良できんかった」


長吉も口を開いた。


「田んぼも同じたい。前は大人の言うことば聞いて、ただ働くだけやった。ばってん、今は自分で考えるごとなった」


源太が笑った。


「おいは、まだ字が下手ばってんね!」


「そいは勉強せんけんたい!」


「うるさか!」


再び笑い声が広がった。


おたえは皆を見て、胸を張った。


「だから、四面蔵の『人』は、これからの村に使いたか!」


しばらく沈黙があった。


やがて、一人の老婆が口を開いた。


「……うちの孫にも、文字ば教えてもらえるとね?」


おたえは大きく頷いた。


「もちろんたい!」


「なら、うちも賛成じゃ」


別の男も手を挙げた。


「若か者が学んでくれるなら、銭の使い道として悪うなか」


「田んぼば守る者も、舟ば操る者も、育てんばいかんけんね」


「おたえ、お前も大した商人になったもんじゃ」


「まだまだたい!」


おたえが笑う。


「うちは、これからもっと大きか商人になるとやけん!」


白瀬はその姿を、眩しいものを見るように眺めていた。


最初の頃、儲けた銭で何を買おうかと目を輝かせていた少女が、今は村の未来を考えている。


だが、ここで終わりにはできない。


「おたえ、一ついいか?」


「なんね?」


「四面蔵の銭は、今日決めたからといって、好き勝手に使えるわけじゃない」


「分かっとる!」


おたえは帳面を叩いた。


「何に使ったか、誰が確かめたか、全部書き残すとよ!」


「そうだな」


「うち一人で決めん。村の者に見てもろうて、領主様にも報告する。前に決めた約束は守るばい」


「よし」


白瀬は笑った。


「それでこそ、四面蔵だ」


ただ銭を貯めるための仕組みではない。


誰かが独り占めするためのものでもない。


必要な時に、必要なところへ。


そして、使った後には、何が残ったのかを皆で確かめる。


銭が足りなければ、知恵を出す。


知恵が足りなければ、人に尋ねる。


人手が足りなければ、互いに助け合う。


一人ではできないことを、皆でやる。


それは、白瀬がこの時代へやってきてから、何度も繰り返してきたことだった。


     ◇


数日後。


諫早の川岸は、朝から賑わっていた。


「そっち持たんね!」


「よかぞ! もう少し上げろ!」


船大工と漁師たちが力を合わせ、傷んだ舟の板を取り替えている。


少し離れたところでは、大工たちが水路の補修に使う木材を選んでいた。


長吉も手伝っている。


「そいは使える!」


「こっちは傷んどる!」


「健太! 寸法ば見てくれんね!」


「今行く!」


健太は干し籠の改良と水路の補修を行ったり来たり。


小春は人足の数を確かめ、食事を届ける女たちと相談している。


源太は舟の修理を手伝いながら、次の漁の段取りを組んでいた。


誰も、白瀬の指示を待っていない。


それぞれが、自分にできることを考えて動いている。


白瀬は、その光景を眺めていた。


「……すごいな」


「何がじゃ?」


いつの間にか、澪が隣に立っていた。


「皆だよ」


「ふむ」


「前は、何かあるたびに俺のところへ来てたんだ」


白瀬は笑った。


「今は、勝手に始めてる」


「不満か?」


「まさか」


白瀬は首を振った。


「最高だよ」


澪はしばらく黙っていた。


やがて、小さく微笑んだ。


「ようやく、気づいたか」


「何に?」


「おぬしの仕事は、一人で何もかも片づけることではないということじゃ」


白瀬は苦笑した。


「……手厳しいな、水守先生」


「おぬしが放っておけば、何でも抱え込むからじゃ」


「反省してます」


「口だけではあるまいな?」


「……努力します」


澪は満足そうに頷いた。


そして、川面へ目を向けた。


「水も同じじゃ」


「ん?」


「一人の水守が、すべての流れを見張ることなどできぬ」


澪の瞳が、静かに揺れる。


「山から湧く水。田を潤す水。川を下る水。海へ出る水。それぞれが違う道を通り、違う役目を果たしておる」


「……うん」


「じゃが、どれもつながっておる」


澪は白瀬を見上げた。


「人も、そうなのじゃろう?」


白瀬はしばらく考えた。


「……そうかもしれないな」


「ならば、忘れるでないぞ」


澪が少しだけ声を柔らかくした。


「おぬしも、その流れの一つなのじゃ」


白瀬は澪を見た。


水を読む少女。


人には見えない流れを感じ、時に川と語り、海の怒りを知らせてくれる存在。


しかし、彼女もまた、すべてを一人で守れるわけではない。


「……ありがとう、澪」


「ふん」


澪は顔を背けた。


「礼など要らぬ。忘れねばよい」


その耳が、ほんの少し赤くなっていた。


     ◇


さらに幾日かが過ぎた。


長崎へ出した文に、返事が届いた。


唐商人は、おたえの提案を受け入れた。


干魚は数回に分けて納める。


三段干し籠は、まず見本を確かめてから注文数を決める。


最初の荷を届けて受け取った代金を、次の仕入れへ回していく。


大儲けできる話ではない。


しかし、無理に品を揃える必要もない。


村の備えを削らず、商いを続けられる。


「……やった」


おたえは文を握りしめた。


「やったあああっ!」


納屋いっぱいに歓声が響いた。


源太が拳を突き上げる。


「これで安心して舟ば出せる!」


「おいの籠も、長崎で使うてもらえるとね!」


健太が跳ねた。


小春はおたえに抱きついた。


「よかったねえ!」


「まだたい!」


おたえは胸を張った。


「こいからが本番たい!」


白瀬は笑った。


まったく、その通りだった。


注文が来たことは、終わりではない。


商いが続くということは、次の約束が生まれるということだ。


そして、その約束を守るためには、また新しい仕事が生まれる。


川岸では舟の修繕が終わり、次の荷を運ぶ準備が始まっていた。


水路も、傷んだ箇所の手当てが進んでいる。


四面蔵には、使った銭の記録が一つずつ書き加えられた。


蓄えは減った。


しかし、ただ失われたわけではない。


直した舟が残った。


春へ備える水路が残った。


新しく作った道具が残った。


そして何より――。


自分たちで相談し、決め、やり遂げた経験が残った。


     ◇


初冬のある朝。


明美が長崎へ帰る日がやってきた。


川岸には、白瀬たちが見送りに集まっていた。


明美は、いつもの赤を基調とした装いで、柔らかな笑みを浮かべている。


「皆さん、本当にお世話になりました」


「いやいや、こちらこそ」


白瀬が頭を下げる。


「明美が来てくれたおかげで、ずいぶん助かったよ」


「ふふっ。私は少しお話をしただけです」


明美はおたえへ視線を向けた。


「立派になりましたね、おたえさん」


「まだまだたい!」


おたえは胸を張った。


「うちはいつか、長崎一の商人になるとやけん!」


「まあ」


明美は楽しそうに笑った。


「では、私も負けていられませんね」


「明美さんは、うちの師匠たい!」


「でしたら、弟子に追い越されないように頑張らなくては」


二人は顔を見合わせて笑った。


小春が明美の手を握った。


「明美さん、うち、唐語の勉強ば続けるけん!」


「ええ。父にも伝えておきます」


「次に長崎へ行った時は、もっと話せるごとなっとく!」


「楽しみにしていますね」


そして明美は、澪の前に立った。


「澪様」


「うむ」


「お世話になりました」


澪は少し首を傾げた。


「わらわは、大したことなどしておらぬぞ」


「いいえ。水のことも、諫早のことも、たくさん教えていただきました」


明美は微笑んだ。


「この土地が、ますます好きになりました」


「……そうか」


澪は静かに頷いた。


「ならば、また来るがよい」


「はい。今度は歌も、もっとたくさんお届けしたいです」


「楽しみにしておる」


その言葉は、心からのものだった。


互いに違う世界で育ち、違うものを大切にしている二人。


しかし、どちらも人の営みを愛している。


明美はふと、白瀬へ目を向けた。


「白瀬さん」


「ん?」


「長崎で歌う時、諫早の皆さんのことも思い出しますね」


「そいつは嬉しいな」


「いつか、長崎と諫早の人たちが、一緒に歌って踊れるようなお祝いができたら素敵ですね」


白瀬は笑った。


「いいな、それ」


「でしょう?」


明美は少しだけ声を落とした。


「その時は……白瀬さんも、聴きに来てくださいますか?」


「もちろん」


即答だった。


明美は嬉しそうに目を細める。


「……約束ですよ」


「約束する」


少し離れたところで、澪が二人を見ていた。


別に、何か言うつもりはない。


ただ。


ほんの少しだけ、胸の奥が落ち着かない。


――妙なものじゃ。


水の乱れならば分かる。


潮の満ち引きも、雨の気配も。


だが、自分の胸に生まれたこの小さな波ばかりは、どうにも読み切れない。


「澪?」


白瀬が振り向いた。


「どうした?」


「……何でもない」


澪は顔を逸らした。


「明美さんが帰るのじゃ。きちんと見送らぬか」


「そうだな」


白瀬が再び川岸へ目を向ける。


明美は舟に乗る前に、もう一度振り返った。


「皆さん!」


大きく手を振る。


「また、お会いしましょう!」


「おう!」


「また来んね!」


「今度はもっと美味しか魚ば食べさせるけん!」


源太の声に、皆が笑った。


舟がゆっくり岸を離れる。


明美は遠ざかる村に向かって、小さく歌い始めた。


長崎で覚えた歌に、諫早で聞いた節回しが、少しだけ混じっていた。


風が、その歌声を川面の向こうへ運んでいく。


澪は黙って耳を傾けた。


やがて舟が小さくなると、ぽつりと呟く。


「……よい声じゃのう」


「だろ?」


白瀬が笑った。


澪は横目で彼を見た。


「おぬし、嬉しそうじゃな」


「そりゃ、仲間が増えたんだから」


「……仲間、か」


澪は少しだけ笑った。


「ならば、わらわも異存はない」


「何の話だ?」


「何でもないわ」


澪は先に歩き出した。


白瀬は首を傾げ、それから慌てて後を追った。


     ◇


その日の夕暮れ。


城からの使いが、長吉の家を訪れた。


家老からの知らせだった。


四面蔵の運用について、報告が領主・諫早直孝のもとへ届いたという。


白瀬は受け取った書付を読んだ。


もっとも、難しい文字には、まだ少し苦労する。


隣で澪が口元を緩める。


「白瀬、また眉間に皺が寄っておるぞ」


「……読める字は増えたんだけどな」


「ならば、もっと学べ」


「おっしゃる通りです」


どうにか読み進めると、そこには簡潔な言葉が記されていた。


年貢以外の実りを、領内のため、人のために生かしてほしい。


かつて直孝が白瀬へ託した願い。


その願いが、四面蔵という小さな仕組みになって動き始めたことを、領主は喜んでいた。


そして、こう続いていた。


『蔵に納めるは米や銭のみにあらず。


 人の知恵もまた、領の宝なり』


白瀬は書付を見つめた。


「……知恵も、宝か」


澪が頷く。


「よい言葉じゃ」


「ああ」


しかし、その時だった。


白瀬の胸に、一つの疑問が浮かんだ。


もし。


もし、明日から自分がこの村にいなくなったら。


水路の測量は、誰がする?


大雨の時、どの樋門を先に開けるべきか、誰が判断する?


新しい干拓地で塩害が起きたら、誰が原因を調べる?


帳面に書かれた数字が間違っていたら、誰が気づく?


長吉は農業を学んでいる。


健太は道具作りに夢中だ。


源太は漁と舟に詳しくなった。


おたえは商いを覚え始めた。


小春は人と人を結び、遠い国の言葉まで学ぼうとしている。


それぞれが成長している。


だが。


「……まだ、足りない」


白瀬が呟いた。


澪が振り向く。


「何がじゃ?」


「人だよ」


「人?」


「ああ。俺たちが何年もかけて覚えたことを、次の誰かに渡さなきゃいけない」


白瀬は書付を置いた。


「皆が俺より上手になればいい。俺の知らないことを、皆が知っていてくれればいい」


澪は黙って聞いていた。


「長吉が田を教えて、健太が道具を教える。源太が海を教えて、おたえが商いを教える。小春が言葉を教える」


白瀬の声が、少しずつ弾み始めた。


「誰か一人が全部知っている必要なんてない。教え合えばいいんだ」


「……ふむ」


「俺も、まだ知らないことだらけだ。だから皆と一緒に学べばいい」


白瀬は立ち上がった。


「そうだ!」


「何じゃ、急に」


「学ぶ場所を造ろう!」


澪が瞬きをした。


「……学ぶ場所?」


「そう。子どもも大人も、仕事の合間に集まって教え合える場所だ!」


白瀬は夢中で話し始めた。


「文字も、算術も、測量も、農業も、道具作りも、商いも。机の上だけじゃなくて、田んぼや川で実際に試すんだ!」


澪はしばらく白瀬を見つめていた。


そして、ふっと笑った。


「また、大きなことを言い始めたのう」


「そうか?」


「そうじゃ」


「でも、面白そうだろ?」


澪は答えなかった。


代わりに、窓の外へ目を向けた。


暮れかけた村。


家々から立ち上る夕餉の煙。


納屋では、明日も子どもたちが集まるだろう。


田のことを語り、道具のことを話し、商いのことで笑い合う。


その姿を思い浮かべて、澪は微笑んだ。


「……悪くない」


「よし!」


「ただし」


「ん?」


「おぬし一人で教えるつもりなら、反対じゃ」


白瀬は目を丸くした。


澪は指を一本立てた。


「皆で学ぶ場所なのであろう?」


「……ああ!」


白瀬は笑った。


「もちろんだ!」


     ◇


翌朝。


白瀬は子どもたちを集めた。


「みんな、ちょっと相談がある!」


「なんね?」


「また新しか普請たい?」


健太が目を輝かせる。


「今度は何ば造ると?」


「……学校だ」


「がっこう?」


五人が揃って首を傾げた。


白瀬は笑った。


「この村に、皆で学べる場所を造ろうと思う」


「文字ば習うと?」


小春が尋ねる。


「文字もだ」


「算術も?」


おたえが身を乗り出す。


「もちろん」


「田んぼのことも?」


長吉の目が輝いた。


「当然!」


「道具も?」


「作るぞ!」


「魚のことも?」


源太が叫ぶ。


「海のことも学ぼう!」


五人の顔が、一斉に輝いた。


「そいなら、おいも行く!」


「うちも!」


「おいもたい!」


「ばってん!」


おたえが手を挙げた。


「なんだ?」


「学校って、銭のかかると?」


白瀬は思わず笑った。


「……おたえらしいな」


「大事なことたい!」


「そうだな。紙も筆も必要だし、教える人のことも考えないといけない」


「なら、四面蔵の『人』から使えるとね?」


「そのための蓄えでもある。ただ、皆に相談してからだ」


おたえは満足そうに頷いた。


「そいならよか!」


「でも、最初から立派な建物を造る必要はないんだ」


白瀬は納屋を見回した。


「ここから始めよう」


長吉が目を丸くした。


「うちの納屋で?」


「そうだ」


「……母ちゃんに聞かんば」


「そりゃそうだ!」


皆が笑った。


その時、健太がぽつりと呟いた。


「……白瀬しゃん」


「ん?」


「おい、教える側にもなれると?」


白瀬は頷いた。


「もちろん」


健太が驚いた顔をした。


「おいが?」


「ああ。お前が作ってきた道具のことは、お前が一番よく知ってるだろ?」


「……うん!」


「長吉も、源太も、おたえも、小春も同じだ。教わるだけじゃない。自分が覚えたことを、誰かに教えるんだ」


五人は顔を見合わせた。


やがて、小春が笑った。


「そいなら、うちにも教えられることのある!」


「何たい?」


源太が尋ねる。


「人と仲良うなる方法!」


「そいは小春しか教えられんばい!」


大笑いが起きた。


白瀬も笑った。


しかし、その時。


長吉が真剣な顔で手を挙げた。


「白瀬しゃん」


「どうした?」


「おい、一つだけ聞きたか」


「何だ?」


「もし、白瀬しゃんがおらんごとなっても……」


白瀬の笑顔が、少しだけ止まった。


「おいたちだけで、田んぼも、川も、守れるごとなると?」


納屋が静かになった。


白瀬は長吉を見つめた。


いつか。


いつか、この時代を去る日が来るかもしれない。


四百年先の世界へ帰る日が。


その時、この村はどうなるのだろう。


その答えを、ずっと探していた。


白瀬は、ゆっくり頷いた。


「……なれるさ」


長吉が目を見開く。


「本当に?」


「ああ」


白瀬は五人を見回した。


「いや、違うな」


そして、笑った。


「そうなってもらわなきゃ困る」


「……!」


「俺がいなくても、皆が自分たちで考えて、自分たちの土地を守れる。そんな村にしよう」


長吉が拳を握った。


健太が大きく頷いた。


源太が笑った。


小春が目を輝かせた。


そして、おたえが胸を張った。


「任せんね!」


五人の声が重なる。


「おいたちが、この村ば守るけん!」


白瀬は、思わず目を細めた。


四年前。


何もなかった干潟で、最初の杭を打ち込んだ。


水に負けたこともある。


海に叩きのめされたこともある。


大切な仲間を失った。


それでも、歩みを止めなかった。


やがて田が生まれた。


米が実った。


魚が戻ってきた。


村に笑い声が増えた。


長崎との商いも始まった。


そして今。


自分たちの未来を、自分たちで守ろうとする子どもたちがいる。


――ああ。


白瀬は思った。


これが、本当の国づくりなのかもしれない。


干潟に土を盛ることだけではない。


堤を築くことだけでもない。


米を増やし、銭を稼ぐことだけでもない。


人が育ち、その知恵が次の人へ渡っていく。


そうして初めて、国は豊かになっていくのだ。


「……よし!」


白瀬は立ち上がった。


「次の普請は決まりだ!」


「何ばすると!?」


子どもたちが声を揃える。


白瀬は、笑って答えた。


「人を育てる!」


     ◇


夕方。


川岸に立つ白瀬の隣へ、澪がやってきた。


水面には、茜色の空が映っていた。


「白瀬」


「ん?」


「また、面白いことを始めたのう」


「まだ始まってないよ」


「同じことじゃ」


澪が笑う。


「おぬしが言い出せば、どうせ皆が動き始める」


「……そうかな」


「そうじゃ」


澪は川面へ目を向けた。


静かな流れ。


かつて荒れ狂い、村を脅かした水が、今は田を潤し、舟を運び、海へと向かっている。


「白瀬」


「何だ?」


「銭も、人も、知恵も……水のように流れるものなのじゃな」


「ああ」


白瀬は頷いた。


「ただ溜め込むんじゃない。必要なところへ渡して、次につなげていくんだ」


「ふむ」


澪は満足そうに頷いた。


そして、少しだけ白瀬へ寄り添った。


「ならば、わらわも流れの一つじゃ」


「もちろん」


「おぬしと共に、この地を潤す流れじゃ」


白瀬は澪を見た。


澪もまた、白瀬を見上げた。


ほんのひととき、言葉が途切れた。


冬を迎えようとする川風は冷たい。


だが、不思議と寒くはなかった。


「……これからも頼むよ、澪」


「言われるまでもない」


澪は微笑んだ。


「わらわは、水守じゃからな」


二人は並んで、川を眺めた。


有明海へと続く水。


その先にある長崎。


さらに遠く、海を越えた世界。


かつて白瀬が夢見た百万石は、まだ遥か彼方だ。


だが、その夢はもう、一人の男だけのものではなかった。


田を育てる者。


川を守る者。


海へ漕ぎ出す者。


商いを広げる者。


遠い国の人々と手を結ぶ者。


そして、その知恵を受け継ぐ子どもたち。


小さな村から生まれた流れは、確かに大きくなり始めていた。


白瀬は、夕日に染まる川へ向かって呟いた。


「……次は、未来を造ろう」


澪が小さく笑った。


「また、忙しくなるのう」


「ああ」


白瀬も笑った。


「でも、きっと面白いぞ」


――海から百万石。


その夢を支えるのは、土でも、水でも、銭でもない。


この地に生きる、人々なのだから。


そして翌朝。


長吉の家の納屋には、いつもより早く五人の子どもたちが集まっていた。


それぞれが、白瀬に教えてほしいことを山ほど抱えて。


やがてここから、諫早の未来を担う者たちが育っていく。


その場所は、いつしか一つの名で呼ばれるようになる。


――水学所。


まだ、誰も知らない。


この小さな学び場から生まれる知恵が、やがて諫早の領内を越え、多くの人々の運命を動かしていくことを。


そして何より。


最初の先生となる白瀬自身が、子どもたちの成長に誰よりも驚かされることになるのだった。

第六章「長崎へ続く道」、最後までお読みいただきありがとうございました!

干拓から農業へ、そして長崎での商いへ。

白瀬たちの挑戦は、土地を造ることから、人々の暮らしを豊かにすることへと広がってきました。

そして今回、おたえが学んだのは、銭を儲けること以上に大切な「銭の生かし方」。

四面蔵の理念も、少しずつ村人たち自身のものになり始めています。

次なる舞台は、第七章「水学所の子ら」。

長吉、健太、おたえ、源太、小春。五人の才能が、いよいよ本格的に花開いていきます。

もちろん、澪と明美、そして白瀬の関係にも、まだまだ続きがあります。

百万石への道は、田畑だけでは拓けない。人を育ててこそ、未来が拓ける。

次章もどうぞお楽しみに!

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