第四十八普請 商売敵
長崎から届いた一通の文が、おたえの商人魂に火をつける!
諫早の干魚に、強力な商売敵が出現。
安く売れば勝てる? それとも……?
一方、健太のものづくりにも新たな発明の兆しが。
商いも、ものづくりも、そして恋も。
長崎の町で、それぞれの新しい挑戦が始まります!
長崎から届いた一通の文が、諫早の小さな商人を怒らせた。
「なんね、これ!」
長吉の家の納屋に、おたえの声が響き渡った。
読みかけの帳面を抱えていた小春が、びくりと肩を震わせる。
「おたえ、どがんしたと?」
「長崎で、うちらん干魚より安う売りよる店が出たとって!」
「安う?」
「そうたい! しかも、うちらに注文するはずだった料理屋まで、そっちに流れよる!」
おたえは文を握り締めた。
差出人は、長崎の明謝楼の娘、明美だった。
諫早の干魚を扱ってくれていた料理屋の一部が、注文を見合わせている。
港近くの商人が、似た品を安く売り始めたという。
そして文の最後には、こう書かれていた。
『おたえ。あなたなら、どうするかしら。答えを楽しみにしています』
「楽しみにしとる場合じゃなかーっ!」
おたえが叫んだ。
その声を聞きつけ、白瀬湊一が納屋へ顔を出した。
「朝から元気だな。何かあったのか?」
「大ありたい!」
おたえは文を突き出した。
白瀬は目を通すと、少しだけ眉を上げた。
「なるほど。競争相手が出てきたわけか」
「競争相手じゃなか! 商売敵たい!」
「同じような意味だろ」
「全然違う!」
何が違うのか。
聞こうとした白瀬だったが、おたえの目があまりに真剣だったため、やめておいた。
その隣で澪が文を覗き込む。
「安く売る者が現れた。それだけで、そなたたちの品が売れなくなるのか?」
「そうたい! お客は安か方ば買うと!」
「……ならば、そなたも安くすればよかろう」
「そう! それたい!」
おたえは勢いよく振り返った。
「澪姉しゃん、分かっとる!」
白瀬は思わず苦笑した。
「おたえ。値段を下げる前に、帳面を見た方がいいぞ」
「見とる!」
「じゃあ、どこまで下げられる?」
「そ、それは……」
おたえは帳面を開いた。
魚を捕る者。
塩を用意する者。
魚を干す者。
籠を編む者。
そして、二日がかりで長崎まで運ぶ者。
全部に銭がかかる。
「……少しなら、下げられる」
「少しって?」
「少しは少したい!」
白瀬は、それ以上言わなかった。
つい先日、諫早では商いの利益の一部を将来のために蓄える「四面蔵」の仕組みが動き始めたばかりである。
働いた者の取り分を先に確保し、無理のない範囲で銭を積み立てる。
使い道は皆で決め、帳面も隠さない。
まだ小さな仕組みだ。
だが、ようやく皆が納得して始めたものだった。
「……四面蔵の銭を使えば」
おたえが小さく呟く。
その瞬間、自分で首を振った。
「いや。そいは違う」
白瀬が微笑んだ。
「そうだな」
「白瀬しゃん!」
「ん?」
「うち、長崎へ行く!」
おたえは帳面を閉じた。
「逃げとったら、商人じゃなか!」
◇
諫早から長崎までは、気軽に行き来できる距離ではない。
一行は矢上を経て、日見峠を越える道を進んだ。
白瀬、澪、おたえ、小春。
そして今回は、健太と源太も同行する。
健太は改良途中の魚籠を背負い、源太は見本用の干魚を大事そうに抱えていた。
「健太、そがん大荷物ば持ってきて、何ばすると?」
小春が尋ねる。
「長崎で見てもらうとたい。前の荷運びで、魚が潰れかけたろ?」
「そうやったね」
「次は、絶対に潰さん!」
健太は胸を張った。
その後ろで、源太がぼそりと言う。
「絶対って言うたら、また白瀬しゃんに怒られるばい」
「……ほんなら、潰れんように頑張る!」
「そいでよか」
白瀬は笑った。
前の商いでは、荒れた水面で人が落ちかけた。
荷を守るか、人を守るか。
源太たちは、迷わず人を選んだ。
損は出た。
それでも、信用は残った。
その経験が、今も子どもたちの中で生きている。
一方、おたえは道中ずっと帳面とにらめっこしていた。
「……一把でこれだけ。五把なら……」
「歩きながら帳面を読むな。転ぶぞ」
「今、大事なところたい!」
「峠道の石も大事だぞ」
「白瀬しゃんは黙っとって!」
「はいはい」
澪が呆れたように言う。
「まったく。そなたたちは、少しも変わらぬな」
「変わってるさ」
白瀬は子どもたちの背中を見た。
「俺が来た頃は、あいつら、ここまで自分の仕事に夢中じゃなかった」
澪はしばらく黙っていた。
やがて、小さく頷く。
「……そうだな」
その声音は、どこか嬉しそうだった。
◇
二日後。
長崎の町は、相変わらず賑やかだった。
荷を担いだ男たちが行き交い、商人が声を張り上げる。
遠くから聞こえる異国の言葉。
潮の匂いに、煮炊きの煙。
諫早とはまるで違う町の熱気が、一行を迎えた。
「おたえ!」
明謝楼の前で、明美が手を振った。
赤い衣に花飾り。
その姿を見つけたおたえは、荷物を放り出しそうな勢いで駆け寄った。
「師匠!」
「ちょっと、荷物!」
「師匠! 敵はどこね!」
挨拶もそこそこに、おたえが詰め寄る。
明美は一瞬きょとんとしたあと、声を上げて笑った。
「ふふっ。まずは中に入りなさい。遠いところを来たんでしょう?」
「敵!」
「逃げたりしないわよ」
「本当ね!?」
「ええ。商人が商いをやめて逃げるものですか」
明美は笑顔のまま、少しだけ目を細めた。
「ただし、おたえ。今回は私も簡単には助けないわよ」
「……え?」
「あなた、自分の商いを守りに来たんでしょう?」
おたえは口を結んだ。
そして、力強く頷いた。
「もちろんたい!」
◇
翌朝。
おたえは早速、商売敵の店へ向かった。
港に近い通り。
干魚や塩魚を扱う店が並ぶ一角に、人だかりができていた。
「安かぞ! 今日はよか品が揃っとる!」
店の男が威勢よく声を張り上げる。
台には、大小さまざまな干魚が並んでいた。
客が値を尋ねる。
店の男が答える。
「……安か」
源太が呟いた。
諫早から運んできた干魚より、確かに安い。
おたえの眉間に、深い皺が寄った。
「うちらん魚と、そがん変わらんやろ!」
「いや、干し加減は違うばい」
源太が一尾を見ながら言った。
「こっちはまだ柔らかか。長く置くなら、うちらん方がよかかもしれん」
「ほら! うちらん方がよかとたい!」
おたえが胸を張った。
すると、後ろから太い声がした。
「なら、なぜ売れねえ?」
一行が振り返る。
そこには、四十代も半ばを過ぎたような男が立っていた。
日に焼けた顔。
太い腕。
商人らしい鋭い目つき。
「堺屋重兵衛だ」
男は名乗った。
「この店の主をしている」
「うちが、おたえたい!」
「ほう。噂の諫早の娘か」
重兵衛はおたえを上から下まで見た。
「思ったより、ずいぶん小せえな」
「背の高さで商いするとじゃなか!」
「はっはっは! そいつは違えねえ!」
重兵衛は豪快に笑った。
だが、すぐに表情を引き締める。
「で、何の用だ?」
「うちらん魚ば、安売りで邪魔しよるやろ!」
「魚を安く売っちゃいけねえ決まりでもあるのか?」
「そいは……なかけど!」
「なら、何の文句だ?」
おたえは言葉に詰まった。
重兵衛は店先の干魚を一把持ち上げた。
「俺は数を仕入れる。売り先も多い。荷をまとめて動かせるから、一つあたりの手間を減らせる」
そして、おたえの籠を顎で示す。
「諫早から峠を越えて運んできた魚と、同じ値にする必要はねえだろう?」
「……っ!」
「嬢ちゃん。いい魚を持ってきたから、いい値で売れる。そんな甘い話はねえぞ」
重兵衛は魚を置いた。
「違うと言うなら、その違いを客に見せてみな」
おたえは、ぐっと拳を握った。
「……見せてやる!」
「おう。楽しみにしてるぜ」
重兵衛は背を向けた。
その背中へ、おたえが叫ぶ。
「絶対、負けんけんね!」
重兵衛は振り返らず、片手をひらひらと振った。
◇
明謝楼に戻ると、おたえは帳面を広げた。
「安うする」
開口一番、そう宣言した。
「師匠! うちらも値ば下げる!」
明美は首を傾げた。
「いくら?」
「向こうより、ちょっと安う!」
「それで、いくら残るの?」
「……え?」
「利益よ。いくら残るの?」
おたえは帳面に筆を走らせた。
魚の代金。
塩。
干す手間。
籠。
運ぶ者の手間賃。
長崎での売り場の費用。
一つずつ足していく。
そして、相手より安い値を当てはめた。
「……あれ?」
もう一度計算する。
「……あれれ?」
小春が覗き込んだ。
「どがんしたと?」
「銭が……残らん」
「どれくらい?」
「……ほとんど」
明美は何も言わなかった。
おたえは唇を噛んだ。
「魚ば捕る人に、少し我慢してもらえば……」
源太が顔を上げた。
「何ば?」
「……ううん」
「おたえ。おいらたち、魚ば捕るのにも銭のかかるとばい」
「分かっとる!」
「網も破れる。舟も直さんばいかん。海に出られん日もある」
「分かっとるって!」
源太は黙った。
怒っているわけではない。
ただ、まっすぐにおたえを見ていた。
「おいらが捕った魚、安う売られるために捕ったとじゃなか」
おたえの顔が赤くなった。
「……そがんこと、うちだって分かっとる!」
帳面を閉じる。
「じゃあ、どがんすればよかとね!」
そのまま、おたえは店の奥へ走っていった。
誰も追いかけなかった。
白瀬だけが、閉じられた帳面を見つめていた。
その上には、何度も書き直された数字が残っていた。
自分の儲けだけではない。
諫早で働く人々の取り分まで、何度も計算した跡だった。
「……成長したな」
白瀬が小さく呟く。
明美が隣に立つ。
「ええ。でも、まだまだよ」
「厳しい先生だな」
「商いは、優しいだけじゃ続かないもの」
明美は奥の戸口を見た。
「でも、あの子なら大丈夫」
その声には、確かな信頼があった。
◇
翌朝。
明謝楼の裏口に、一人の料理屋の主人がやってきた。
以前、諫早の干魚を買ってくれた男だった。
「明美さん、今日は干魚ば頼めるかね?」
「ええ。でも、前は別のお店から買うとおっしゃっていませんでした?」
「そいが、ちょっと困っとってな」
主人は苦笑いした。
「安かとはよか。じゃが、大きさが揃うとらん。汁に使おうと思うても、小さか魚は煮崩れるし、大きか魚は戻すのに時間のかかる」
明美は頷いた。
「なるほど」
「それに、前と同じ品ば頼んでも、次に来るとは限らんらしか」
「……それは困りますね」
その会話を、物陰から聞いていた者がいた。
小春である。
「……あれ?」
小春は首を傾げた。
そして、勢いよく飛び出した。
「おじしゃん!」
「うわっ!」
「魚は安か方がよかとじゃなかと?」
「そりゃ安かに越したことはなか。じゃがな、料理に使う魚は、いつも同じような品であってほしかとよ」
「なんで?」
「料理の出来が変わるけんな。同じ汁ば出すつもりでも、味の濃さが違うたら、客に叱られる」
小春は目を丸くした。
「そがんね!」
そして、店の奥へ駆け込んだ。
「おたえーっ!」
どたどたと足音が響く。
「なんね! 朝から騒がしか!」
「分かった! うち、分かったばい!」
「何が!」
「魚ば安うすることばっかり考えんでもよかとたい!」
おたえは眉をひそめた。
「……は?」
◇
それから小春は、町を歩き回った。
料理屋。
旅籠。
魚を扱う小さな店。
時には明美も付き添い、相手の話を聞いた。
小春は元来、人と話すことが大好きである。
知らない相手にも、物怖じしない。
「おじしゃん、この魚、何に使うと?」
「煮物たい」
「そいなら、大きか魚の方がよか?」
「いや、小さか方が使いやすか」
「おばしゃんは?」
「うちは、よく乾いとる方がよかね。置いとけるけん」
「なるほどー!」
小春は聞いたことを片っ端から覚え、おたえへ伝えた。
おたえはそれを帳面に書き込む。
書き損じては消し、また書く。
白瀬から学び始めた文字も、算術も、今では商いに欠かせないものになっていた。
「……大きさ」
おたえが呟く。
「干し加減」
さらに書く。
「次に、いつ持って来られるか」
そして、ぽんと手を打った。
「そがんことか!」
明美が微笑む。
「何か分かった?」
「お客が欲しかとは、魚だけじゃなかとたい!」
「ほう?」
「料理屋は、いつも同じように使える魚が欲しか。旅籠は、置いとける魚が欲しか。安か魚が欲しか人もおる!」
おたえは興奮して立ち上がった。
「みんな、欲しかもんの違うと!」
白瀬は黙って聞いていた。
その横顔を見て、澪が尋ねる。
「そなた、何か言わぬのか?」
「もう答えに近づいてる。俺が口を出す必要はないさ」
「……そうか」
澪は少しだけ微笑んだ。
白瀬は、子どもたちに何かを教えることが好きだ。
だが、それ以上に、彼らが自分の頭で考え始めることを喜んでいる。
そのことを澪は知っていた。
誰よりも近くで、見てきたのだから。
◇
「問題は、魚の干し加減たい」
源太が言った。
明謝楼の裏庭に、干魚が並べられている。
「大きさば揃えても、干す場所や天気で仕上がりの変わるとよ」
「なら、干す場所ば決めればよか!」
健太が答える。
「決めても、鳥の来るとたい」
「じゃあ、鳥の来られんようにする!」
「虫も来るばい」
「虫も来られんようにする!」
「雨の降ったら?」
「……屋根ん下に入れる!」
源太は呆れた。
「簡単に言うなあ」
健太は腕を組んだ。
庭の隅には、竹籠が置いてある。
店先には、破れた古い蚊帳が干されていた。
その二つを交互に見た健太が、突然、立ち上がった。
「……あっ!」
「今度は何ね!」
「思いついた!」
健太は竹籠を持ち上げた。
「これば、三つ重ねると!」
「重ねて、どがんすると?」
「周りば網で囲む!」
「網?」
「そうたい! 蚊帳んごたる網で囲めば、虫も鳥も入りにくかろ!」
白瀬が顔を上げた。
「……おっ」
健太はさらに続けた。
「中に竹の簀ば入れて、魚ば並べる。上から吊るしたら、地面にもつかん!」
「おお……」
白瀬の目が輝いた。
「健太、それ、面白いぞ!」
「本当ね!?」
「ああ。三段にすれば場所も取らない。風が通れば、かなり便利だ」
「さんだん?」
「三つの段だよ。三段干し籠、ってところかな」
「三段干し籠!」
健太は何度も口にした。
しかし、明美が首を傾げる。
「でも、蚊帳を使うの? あれ、安いものじゃないわよ」
「……そうね」
健太の勢いが止まった。
明美は、しばらく考えてから言った。
「うちに、破れて使えなくなった蚊帳があるわ。試すだけなら、少し使ってもいいわよ」
「本当ね!」
「ただし、次からは材料代をちゃんと考えるのよ」
おたえが、すかさず口を挟んだ。
「もちろんたい! 師匠!」
明美は笑った。
「あなたに言ってるんじゃないんだけど」
「商いの話なら、うちに任せんね!」
こうして、明謝楼の裏庭で、妙なものづくりが始まった。
◇
竹を割る。
細く削る。
四角い骨組みを作る。
竹簀を三段に渡し、麻縄で吊るす。
周囲を蚊帳の切れ端で囲み、前側を紐で開け閉めできるようにした。
健太は夢中だった。
源太も手を貸す。
小春は紐を結ぶ。
おたえは横から口を出す。
「もっと大きゅうしたら、魚のいっぱい入るばい!」
「そがん大きゅうしたら、竹の曲がる!」
「じゃあ、竹ば太うすればよか!」
「重うなるやろ!」
「はがいかーっ!」
白瀬は笑いを堪えながら、二人を見守っていた。
やがて、最初の試作品が完成する。
四角い竹の骨組み。
三段の棚。
周囲を囲む細かな網。
上から吊るしたその姿は、現代の干物ネットによく似ていた。
「できたーっ!」
健太が両手を上げた。
「すごか!」
小春が歓声を上げる。
おたえは早くも値段の計算を始めていた。
「これ、売れるばい!」
ところが。
翌日、試しに入れた小魚を確認すると、思ったほど乾いていなかった。
「……あれ?」
健太は首を傾げる。
源太が魚を手に取った。
「風の通りにくかね」
「なんで!?」
「網の目の細かすぎるとやろ。周りば囲んだけん、風の弱うなっとる」
「……ああっ!」
健太は頭を抱えた。
「虫ば入れんことばっかり考えとった!」
白瀬が笑った。
「よし。一つ分かったな」
「何がよ!」
「虫を防ぐことと、風を通すこと。両方必要だってこと」
健太は唇を尖らせた。
「……分かっとる!」
「じゃあ、次は?」
「直す!」
迷いのない返事だった。
その日、健太は竹の骨組みを組み直した。
風が通りやすいよう、網と棚の間に隙間を設け、布が魚に張りつかないように張り方も変える。
吊るす位置も変えた。
源太と相談しながら、魚の並べ方まで見直した。
そして二度目の試し干し。
数日をかけ、同じ大きさの魚を、従来の竹簀と新しい干し籠で比べた。
今度は風がよく通った。
鳥につつかれることもなく、虫の被害も少なかった。
もちろん、干し加減は天気次第だ。
だが、健太の目には確かな手応えがあった。
「……できた」
小さな声だった。
「できたばい!」
次の瞬間、健太が飛び上がった。
「白瀬しゃん! できたーっ!」
白瀬は試作品を覗き込んだ。
「やったな、健太!」
そう言って、少し緩んでいた竹の結び目を直そうとした、そのときだった。
「あっ」
指先に、小さな痛みが走った。
細く削った竹のささくれが、指を切っていた。
赤い血が一筋、にじむ。
「しまった」
白瀬は笑った。
「竹のささくれ、油断すると危ないんだよな」
その瞬間。
「湊一!」
澪が駆け寄ってきた。
◇
「手を見せよ」
「いや、大した傷じゃ……」
「見せよ」
「……はい」
澪の声に逆らえる者は、そう多くない。
白瀬も例外ではなかった。
澪は白瀬の手を取り、甕から汲んだ清らかな水で傷を丁寧に洗った。
細かな竹片が残っていないことを確かめ、清潔な布を巻く。
指先の小さな切り傷。
それだけのことだった。
「ほら、もう大丈夫だよ」
白瀬が笑う。
しかし、澪は手を離さなかった。
「……そなたは」
「ん?」
「いつも、そうだ」
「何が?」
「己のことを、少しも大切にせぬ」
白瀬は目を瞬いた。
「いや、今回は本当にちょっと切っただけだぞ?」
「分かっておる」
「じゃあ……」
「分かっておる!」
澪が顔を上げた。
その声に、白瀬は言葉を失った。
澪の指先が、わずかに震えていたからだ。
弥助と岩蔵を失った日のことが、ふと胸をよぎった。
誰も、あの日のことを忘れていない。
水は恵みを与える。
だが、時に命を奪う。
澪は水守として、それを誰よりも知っている。
「……ごめん」
白瀬が小さく言った。
澪は俯いたまま、首を振る。
「謝ることではない」
「心配、かけたな」
「……当たり前であろう」
澪は、白瀬の手を包むように持ち直した。
「そなたは、わたしにとって大切な……」
そこで、言葉が止まった。
大切な、何だ?
相棒。
仲間。
共に水を見て、土地を育てる者。
どれも正しい。
なのに。
今、口にしたい言葉は、そのどれとも違う気がした。
「……澪?」
白瀬が顔を覗き込む。
澪は反射的に顔を背けた。
「な、何でもない!」
「いや、何でもないって顔じゃ……」
「よいから、少し黙っておれ!」
白瀬が目を丸くする。
いつもの澪だ。
いつものように怒っている。
はずなのに。
その頬は、ほんのり赤かった。
「……手」
澪が呟いた。
「え?」
「もう少しだけ、このままでおれ」
白瀬は何も言えなかった。
ただ、その小さな手の温もりを感じていた。
澪自身も、なぜそんな言葉が出たのか分からなかった。
ただ。
白瀬の手を離すことが、今は少しだけ惜しかった。
◇
廊下の向こう。
明美は、二人の姿を見ていた。
手には、傷の手当てに使おうと思って持ってきた布。
しかし、声はかけなかった。
「……ふふ」
小さく笑う。
澪が白瀬の手を握っている。
その光景は、少し意外だった。
いつも落ち着いていて、どこか近寄りがたいほど美しい水守。
そんな澪が、まるで普通の娘のように頬を赤らめている。
「……そういう顔もするのね」
明美は静かに踵を返した。
胸の奥に、ほんの小さな違和感があった。
けれど、それが何なのか。
このときの明美には、まだ分からなかった。
◇
その夜。
明謝楼の座敷には、温かな料理が並んでいた。
明美の母、しげよが、皆のために用意してくれたものだ。
焼いた魚。
野菜の煮物。
そして、干魚の旨味を生かした澄んだ汁。
「うまかー!」
健太が叫んだ。
「そりゃよかった」
しげよが笑う。
おたえは黙って汁を飲んでいた。
明美が隣に座る。
「どうしたの? 今日は静かね」
「……うち、まだ負けとる」
「誰に?」
「堺屋の重兵衛に」
明美は微笑んだ。
「そうね」
「師匠、そこは慰めるところたい!」
「あら。慰めてほしいの?」
「……いらん!」
明美は声を上げて笑った。
そして、少しだけ真面目な顔になる。
「おたえ。商いってね、売れればいいわけじゃないの」
「分かっとる」
「本当に?」
「……今日、ちょっと分かった」
おたえは汁椀を見つめた。
「うち、いっぱい売りたかった。いっぱい儲けたかった」
「うん」
「村のみんなに銭ば持って帰って、四面蔵にもいっぱい入れて……」
そこで、おたえは小さく笑った。
「みんなから、すごか商人って言われたかったと」
「それは悪いことじゃないわ」
「でも、安う売ったら、みんなの取り分のなくなる」
「そうね」
「そいじゃ、何のための商いか分からん」
明美は頷いた。
「おたえ。あなた、ちゃんと商人になってきたわね」
「……え?」
「自分が儲けることだけじゃなくて、その銭が誰のところへ行くのか、考えるようになったもの」
おたえは、しばらく明美を見つめていた。
やがて。
「……師匠」
「何?」
「うち、明日もう一回、勝負する!」
明美は嬉しそうに笑った。
「ええ。頑張りなさい」
◇
食事が終わったあと。
明美は、店に置かれた三味線を手に取った。
「少しだけ、歌ってもいい?」
誰も反対する者はいなかった。
明美は静かに弦を鳴らした。
長崎の港。
遠くへ渡る船。
帰りを待つ人。
また会える日を願う心。
そんな景色を思わせる、素朴な歌だった。
まだ名もない歌。
港で働く人々から聞いた言葉を、明美が少しずつ歌にしているものだった。
白瀬は、その歌に耳を傾けた。
不思議な歌だと思った。
知らない時代の、知らない歌。
なのに、どこか懐かしい。
諫早の風景とは違う、長崎の人々の暮らしが浮かんでくる。
歌い終えた明美へ、白瀬は自然と拍手を送った。
「……いい歌だな」
「本当?」
「ああ。何だか、長崎の町が見えるみたいだった」
明美の顔が、ぱっと明るくなった。
「嬉しい。私、いつか長崎のいろんな歌を集めて、もっとたくさんの人に聴いてもらいたいの」
「きっとできるよ」
「そんな簡単に言うの?」
「簡単じゃないさ。でも、明美ならできる気がする」
明美は、少しだけ言葉に詰まった。
「……ありがとう」
そして、照れ隠しのように微笑んだ。
「じゃあ、今度来るときまでに、もっといい歌を覚えておくわね」
「楽しみにしてる」
そのやり取りを、澪は静かに聞いていた。
胸の奥が、ほんの少しだけざわついた。
明美の歌は美しい。
その夢も、まっすぐで眩しい。
澪には、明美のように歌うことはできない。
長崎の商人たちと、笑顔で話すことも難しい。
それでも。
白瀬の隣で、ずっと水を見てきた。
彼が無茶をするときには止めた。
迷うときには、一緒に考えた。
その時間が、何より大切だった。
なのに。
今夜は、少しだけ。
白瀬が明美に向けた笑顔を、気にしてしまった。
「……妙なものだな」
澪は自分の胸に、そっと手を当てた。
水の流れなら、分かる。
潮の満ち引きも、読める。
だが。
自分の胸の奥に生まれた、この小さな波だけは。
どうにも、読み解けなかった。
◇
翌朝。
おたえは、堺屋へ向かわなかった。
向かったのは、以前に諫早の干魚を買ってくれた料理屋である。
白瀬たちは少し離れて、その様子を見守った。
「おじしゃん!」
おたえが声をかける。
主人は驚いた顔をした。
「おお、諫早の娘か。どうした?」
「魚ば買うてほしか!」
「前にも言うたろ。安か方が……」
「安うはできん!」
主人は目を丸くした。
「……は?」
「安うはできんと! でも、料理に使いやすか魚ば持ってきた!」
おたえは籠を開いた。
中には、大きさと干し加減を揃えた干魚が、きちんと分けられていた。
「こっちは汁向き。こっちは焼くとによか。こっちは、よく乾かしとるけん、長う置きたいときに使える!」
主人は一尾を手に取った。
「……ほう」
「それから、次の荷のことも、約束できる分だけ書いてきた!」
おたえは帳面を開く。
「この日までに、これだけ。天気の悪うて干し上がらんときは、先に知らせる!」
「本当にできるのか?」
「できる分しか約束せん!」
主人は、しばらく黙って干魚を眺めていた。
やがて、ぽつりと言う。
「……一度、試してみるか」
おたえが顔を上げる。
「本当ね!?」
「ああ。ただし、少しだけだぞ」
「もちろんたい!」
おたえは満面の笑みを浮かべた。
そして、勢いよく頭を下げた。
「ありがとうございまーす!」
その声は、通りの向こうまで響いた。
◇
最初の注文は、小さかった。
だが、そこから少しずつ話が広がった。
小春が訪ね歩いた料理屋の一つが、別の店を紹介してくれた。
明謝楼でも、諫早の干魚を使った汁を出してくれた。
味を確かめた料理人が、仕入れの条件を尋ねる。
おたえは、そのたびに帳面を開いた。
何を、どれだけ。
いつまでに、どう運ぶか。
無理な注文は受けない。
源太と相談し、漁の様子を確かめる。
健太は、魚籠の仕切りをさらに改良した。
小春は、店主たちの名前と好みを覚えていった。
そして数日後。
おたえは再び、堺屋重兵衛の店先に立った。
「おじしゃん!」
「おう、諫早の嬢ちゃんか」
重兵衛は笑った。
「どうした。値下げする気になったか?」
「せん!」
「ほう?」
「うちらは、うちらの魚ば欲しか人に売る!」
重兵衛は腕を組んだ。
「……なるほど」
「安か魚の欲しか人は、おじしゃんのところで買えばよか!」
「はっはっは! そりゃありがてえ!」
「でも、いつも同じ品ば欲しか人や、料理に使いやすか魚ば欲しか人には、うちらが売る!」
重兵衛は、しばらく黙っていた。
そして、にやりと笑う。
「俺と同じ客を取り合うのを、やめたわけか」
「違う!」
「何が違う?」
「うちらの客ば、見つけたと!」
重兵衛は目を細めた。
「……いい顔になったじゃねえか」
おたえは胸を張った。
「当然たい!」
「だがな、嬢ちゃん」
重兵衛は声を低くした。
「商いは、一度売れたら終わりじゃねえぞ」
「分かっとる!」
「次も、その次も、同じように品を届けてこそ、信用になる」
「……うん」
「いい品を作るだけじゃ足りねえ。届け続けることも、商人の仕事だ」
おたえは真剣に頷いた。
「……覚えとく」
重兵衛は笑った。
「まあ、次は俺も負けねえがな!」
「うちも負けん!」
そのやり取りを、少し離れたところから白瀬が見ていた。
隣の明美が、小さく微笑む。
「どう? うちの弟子」
「すごいな」
「でしょう?」
「……明美も、いい先生だよ」
明美は一瞬、驚いた顔をした。
そして、少し照れたように笑った。
「ふふ。まだまだ厳しくするつもりだけどね」
白瀬も笑った。
その横で、澪は二人をちらりと見て、そっと視線を逸らした。
◇
商いが一段落したころ。
明謝楼の裏庭では、健太が三段干し籠の手直しをしていた。
「ここん紐ば、もう少し長うして……」
「健太、まだ直しよると?」
おたえが声をかける。
「当たり前たい。まだ使いにくかところのある」
「そいなら、売る前に直さんばね!」
「売る?」
健太が顔を上げた。
おたえは、にやりと笑った。
「この籠たい!」
「……え?」
「魚ば干すためだけに作ったとやろ?」
「そうたい」
「でも、料理屋でも使えるやろ。農家でも、薬草ば干す人でも!」
健太は目を瞬いた。
「……売れると?」
「売れるかもしれん!」
「本当ね!」
「ただし!」
おたえは人差し指を立てた。
「材料代と、作る手間ばちゃんと計算せんばいかん!」
「……また帳面ね」
「当たり前たい!」
そこへ、小春が駆けてきた。
「おたえ! もし網の破れたら、どうすると?」
「直せばよか!」
「誰が?」
「健太!」
「おいばい!?」
「そいなら、直す銭ももらえばよかたい!」
健太は口をあんぐりと開けた。
白瀬は思わず吹き出した。
「おたえ、お前……修理まで商売にする気か?」
「壊れたら捨てるとじゃ、もったいなかろ!」
「……参ったな」
白瀬は笑った。
現代なら、当たり前のように行われている修理や部品交換。
しかし、おたえは誰に教わるでもなく、その価値を見抜き始めていた。
「健太」
「何ね?」
「お前の道具、売り物になるかもしれないぞ」
健太の顔が、ぱっと明るくなった。
「……本当ね!」
「ああ。ただし、まだ試作品だ。もっと丈夫にしないとな」
「任せんね!」
そのとき。
健太が庭の隅に積まれた、古い葦簀を指差した。
「そういや、こいはもう使わんと?」
傷んだ葦簀。
細く編まれた葦の茎が、ところどころ折れていた。
小春が言う。
「捨てるとじゃなか?」
「もったいなかねえ」
おたえが呟く。
「ほかに使い道のなかと?」
白瀬は、何気なく一本の葦を手に取った。
そして、ふと思った。
葦。
水辺に群生する植物。
諫早の湿地にも、いくらでも生えている。
今は簀や屋根の材料として使っているが……。
「……紙」
「え?」
おたえが振り向く。
「白瀬しゃん、今、何て言うた?」
「いや。葦の繊維を、紙づくりに使えないかなって」
「紙!?」
おたえの目が輝いた。
「紙って、あの字ば書く紙ね!?」
「ああ。ただ、葦だけで丈夫な紙を作れるかは分からない。楮なんかと混ぜる方法も考えられるけど……」
「売れると!?」
「待て待て。まだ作れるかどうかも分からないぞ」
「でも、作れたら売れるとやろ!?」
「そりゃ、品質がよければ……」
「健太!」
「何ね!」
「次は紙たい!」
「おいが作ると!?」
「もちろんたい!」
「無茶言うなーっ!」
裏庭に笑い声が響いた。
白瀬も笑っていた。
だが、その胸の奥では、別の思いが芽生えていた。
諫早の湿地。
多良山の豊かな水。
高来の山々。
いつか、あの土地でも紙づくりができるかもしれない。
それは、まだ遠い夢だった。
だが、夢の種なら、もう目の前にある。
◇
夕暮れ。
明謝楼の前に、白瀬たちが集まっていた。
今回の商いで、莫大な利益が出たわけではない。
むしろ、長崎に滞在した分、費用はかさんだ。
だが、いくつかの料理屋から、次の注文を受けることができた。
値段を下げずに、である。
「……白瀬しゃん」
おたえが声をかけた。
「ん?」
「うち、間違うとった」
「何が?」
「いっぱい売ることばっかり考えとった」
おたえは帳面を抱き締めた。
「安うすれば、みんな買うてくれると思っとった」
「そうだな」
「でも、そがんしたら、村のみんなの取り分のなくなる」
白瀬は頷いた。
「商いは難しいな」
「難しか!」
おたえは大きく頷いた。
「でも、面白か!」
その顔には、もう悔し涙はなかった。
「うち、また買いに来てもらえる商人になる!」
白瀬は、思わず笑った。
「いい目標だな」
「そいで、いつか長崎一の商人になる!」
「おお、でっかく出たな」
「いや!」
おたえは拳を握った。
「日本一たい!」
小春が笑う。
「そいなら、うちは外国の人とも商いする!」
健太が負けじと胸を張った。
「おいは、日本中で使われる道具ば作る!」
源太も頷いた。
「おいは、どこへでも魚ば届けられるようにする!」
「……おいおい」
白瀬は苦笑した。
まったく。
この子たちの夢は、どこまで大きくなるのだろう。
しかし、不思議と無理だとは思わなかった。
彼らはもう、自分の足で歩き始めている。
白瀬がすべてを教えなくても。
失敗しながら、考え、仲間を頼り、自分たちで道を見つけていく。
澪が、そっと隣に立った。
「……嬉しそうだな」
「ああ」
白瀬は頷いた。
「俺の仕事も、そのうちなくなるかもな」
「なくなりはせぬ」
「そうか?」
「そなたの仕事が、変わるのであろう」
澪は子どもたちを見つめた。
「そなた一人が道を作るのではない。皆が、それぞれの道を見つけてゆく」
白瀬は、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……そうだな」
その横顔を見上げながら、澪も微笑んだ。
胸の奥には、まだ名前の分からない感情がある。
けれど。
今は、それでよかった。
こうして隣に立ち、同じ未来を見られる。
それだけで、十分に幸せだった。
……少なくとも、今は。
◇
その夜。
諫早へ戻る支度をしていた白瀬は、明謝楼の座敷へ呼ばれた。
待っていたのは、明美の父、鈴建華だった。
「白瀬殿。少し、面白い話がありましてな」
「面白い話?」
建華は、一通の文を差し出した。
「長崎で取引のある唐商人からです」
「唐商人?」
「ええ。諫早の干魚と、あの妙な吊り籠に興味を持ったそうで」
「……あれに?」
白瀬は目を丸くした。
建華は笑った。
「品を傷めずに干し、運ぶ。そういう工夫には、海を越えても価値があります」
「なるほど……」
「しかも、先方は魚を買いたいだけではないようです」
建華は文を広げた。
「諫早にないものを、長崎から届ける商いもしてみぬか、と」
白瀬の顔つきが変わった。
諫早から長崎へ品を売る。
それだけではない。
長崎に集まる異国の道具や知恵を、諫早へ持ち帰る。
もし、それができれば。
農業も、漁業も、ものづくりも。
もっと大きく変わるかもしれない。
「……面白いですね」
白瀬が呟いた。
建華は頷いた。
「ただし」
「はい?」
「先方が、もう一つ条件を出しております」
「条件?」
建華は、少し困ったように笑った。
「諫早の品を作っている者たちに、直接会いたいそうです」
「……え?」
「つまり」
建華は白瀬を見つめた。
「諫早へ行ってみたい、と」
白瀬は目を瞬いた。
そのとき、廊下から明美の声がした。
「父さん!」
戸が開く。
明美が顔を出した。
「その話、私も聞いたわ!」
「おお、明美」
「諫早へ行くなら、私も連れていって!」
白瀬は思わず聞き返した。
「明美も?」
「ええ!」
明美は満面の笑みを浮かべた。
「おたえたちの作ったもの、もっと見てみたいもの。それに、諫早の人たちにも会ってみたいわ」
そして、少しだけ声を落とした。
「……それから」
「ん?」
「あなたたちが作っている町も、見てみたいの」
白瀬は、微笑んだ。
「きっと驚くぞ」
「楽しみ!」
明美の笑顔が、ぱっと輝いた。
その様子を、少し離れた廊下から澪が見ていた。
また、胸の奥が小さく波立った。
けれど今度は、目を逸らさなかった。
明美が諫早へ来る。
それは、きっと楽しいことだ。
おたえも、小春も、皆が喜ぶだろう。
自分だって、明美のことは嫌いではない。
むしろ、その明るさを好ましく思っている。
だからこそ。
「……妙なことになりそうだな」
澪は、そっと呟いた。
水守にも読めぬ流れがある。
どうやら、それは水だけではないらしい。
◇
そして、明謝楼の奥。
建華は、まだ白瀬に見せていない一枚の紙を手にしていた。
唐商人から預かった、異国の品々を書き並べた文である。
その中に、妙な一節があった。
『海辺の葦、山の木皮、清らかな水。これらを用いて紙を作る工夫について、知恵を交わしたい』
建華は首を傾げた。
「……紙、か」
諫早から来た若者たちが、つい先ほどまで葦の使い道を話していたことなど、知る由もない。
建華は文を畳んだ。
海の向こうには、まだ見ぬ技術がある。
そして諫早には、まだ誰も気づいていない資源が眠っている。
二つが出会うとき。
また新しい商いが、生まれるかもしれない。
長崎の夜空に、港の灯が揺れていた。
海から生まれた小さな夢は、今度は海の向こうへと広がろうとしていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、おたえが「安く売ること」と「価値を届けること」の違いに気づく物語でした。
健太の三段干し籠は、当時すでにあった竹細工や麻網、蚊帳の技術を組み合わせた創作上の発明です。
そして、作中に登場した葦と紙づくり。
実は諫早市高来町には、幕末から続く伝統和紙「湯江紙」があります。轟峡の清らかな水と楮を生かした、地域の歴史ある工芸品です。
物語では、その歴史につながる小さな夢として描いていきたいと思います。
さて、次回は長崎の唐商人との新たな出会い。
海の向こうから、どんな知恵がやってくるのでしょうか?
次回、第四十九普請「海の向こうから来た知恵」
引き続き、よろしくお願いいたします!




