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『海から百万石 ~江戸時代に転移した国交省の土木職員、水守と河童と有明海の大干拓に挑む~』  作者: 天手古まい


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第四十七普請 四面蔵

長崎での商いを経験し、おたえが考え出した「四面蔵」。


米を守り、普請を支え、商いを育て、人を育てる。


けれど、よか考えだからといって、みんなが賛成してくれるとは限りません。


今回は、おたえにとって商談よりも難しい大勝負!


諫早の仲間たちとともに、新しい国づくりの一歩を踏み出します。

 長崎の朝は、賑やかだ。


 港へ向かう荷車の音。


 魚を売り歩く商人の声。


 遠くから聞こえてくる、異国の言葉。


 そして、明謝楼の厨房からは、女の歌声が流れていた。


「ふふふん、ふん、ふふん……」


 鈴明美である。


 鍋の様子を見ながら、鼻歌交じりに朝餉の支度をしている。


「朝っぱらから、ご機嫌だな」


 白瀬湊一が声をかけると、明美は振り返った。


「あら、白瀬さん。おはようございます」


「おはよう。いい歌だな」


「まあ。ちゃんと聴いてくださっていたの?」


「そりゃ、あれだけ楽しそうに歌われたらな」


 明美が、嬉しそうに笑った。


「いつか、お店の外でも歌ってみたいんです。もっと大勢の人に聴いてもらえたら、きっと楽しいでしょうね」


「いいじゃないか。明美なら、きっと大勢の人を集められるよ」


「……本当に?」


「ああ」


 明美は一瞬だけ目を丸くした。


 それから、いつもの明るい笑顔に戻る。


「では、白瀬さんも聴きに来てくださいね。約束ですよ?」


「もちろん」


「……そなたら、朝から随分と楽しそうじゃな」


 背後から声がした。


 澪である。


 いつの間にか入口に立ち、二人を眺めていた。


「おはよう、澪」


「うむ」


「明美が、いつか大勢の前で歌いたいんだってさ」


「……そうか」


 澪は明美へ視線を移した。


「そなたの歌は、よい。水の流れのように、耳へ自然と入ってくる」


「まあ、澪さんまで。ありがとうございます!」


 明美は嬉しそうに頭を下げた。


 澪も小さく微笑む。


 ただ、そのあと白瀬を見た目が、ほんの少しだけ細くなった。


「……白瀬」


「ん?」


「そなた、朝餉の支度を手伝うと言っておらなんだか?」


「あ」


「明美ばかり働かせておる場合ではなかろう」


「はいはい。今やります」


「返事は一度でよい」


 明美が、くすくすと笑った。


 澪は何事もなかったように席へ向かう。


 白瀬は首を傾げた。


(……なんか怒らせたか?)


 もちろん、答えなどわからない。


 なにしろ、この男。


 水の流れを読むことには熱心だが、女心の流れには、どうにも疎いのである。


     ◇


「さて!」


 朝餉が終わると、おたえが勢いよく立ち上がった。


「昨日の話ば、ちゃんと形にするばい!」


 卓の上には、一冊の帳面が置かれている。


 昨夜、おたえが遅くまで書きつけていたものだ。


 表には、覚えたばかりの文字で大きく記されていた。


『四面蔵』


「四面蔵?」


 明美が首を傾げる。


「はい!」


 おたえは得意満面で帳面を開いた。


「一つ目は、米ば蓄える蔵!」


 指を一本立てる。


「二つ目は、舟や堤ば直すための銭!」


 二本目。


「三つ目は、次の商いに使う品と銭!」


 三本目。


「四つ目は、みんなが勉強するための蔵たい!」


 四本目。


「どがんね! これがあれば、諫早はもっともっと豊かになるとばい!」


 おたえは胸を張った。


 白瀬は帳面を覗き込む。


「なるほどな」


「白瀬しゃんも、よかと思うやろ?」


「ああ。いい考えだ」


「やった!」


「ただし、三つ聞いていいか?」


「……三つ?」


 おたえの笑顔が、少しだけ引きつった。


「まず、誰が管理する?」


「うちたい!」


「おたえが長崎に商売へ出ている間は?」


「……小春?」


「うち!?」


 隣で粥を食べていた小春が、驚いて顔を上げた。


「次に、銭や米を出すかどうかは、誰が決める?」


「そいは……みんなで?」


「最後に、その銭と米は、どこから持ってくる?」


「…………」


 沈黙。


 おたえは、ゆっくりと帳面を閉じた。


「……白瀬しゃん」


「なんだ?」


「意地悪か!」


 明謝楼に笑い声が響いた。


「ははは! いや、意地悪じゃないって!」


「せっかく、よかこと考えたとに!」


 頬を膨らませるおたえへ、明美が湯呑みを差し出した。


「でもね、おたえちゃん。そこが一番大切なのよ」


「……明美姉しゃん?」


「商いは、品を売って終わりじゃないの。仕入れた銭、舟賃、人に払う銭。それを全部引いたあとに、何が残るかを考えなきゃ」


 明美は帳面の余白を指さした。


「それに、みんなが苦労して稼いだ銭でしょう? 使い道を勝手に決めてしまったら、きっと怒られるわ」


「……うち、みんなのために使いたかだけなのに」


「ええ。それはわかるわ」


 明美は、優しく笑った。


「でも、あなたがよいと思うことと、みんなが望むことは、同じとは限らないのよ」


 おたえは俯いた。


 それを聞いていた小春が、ぽんと手を打つ。


「なら、みんなに聞けばよかたい!」


「……え?」


「諫早に帰って、みんなに聞くとよ。そいで、みんなで決めればよか!」


 白瀬が頷いた。


「そうだな。最初から完璧な仕組みなんて作れない。まずは、みんなが何に困っているかを聞くところからだ」


 澪も静かに口を開いた。


「水も同じじゃ。流す道を決める前に、どこへ届けるべきかを知らねばならぬ」


 おたえは、しばらく考え込んだ。


 そして、顔を上げた。


「……わかった!」


 帳面を胸に抱く。


「うち、諫早でみんなに聞いてくる!」


「よし」


「そいで、四面蔵ば作ると!」


 明美が微笑んだ。


「楽しみにしているわ。できたら、ぜひ教えてね」


「もちろんたい!」


 おたえは大きく頷いた。


 まだ、この少女は知らなかった。


 よい考えを思いつくことと、それを人々に受け入れてもらうこと。


 その二つが、まったく別の難しさを持っていることを。


     ◇


 数日後。


 諫早の村に戻った一行を、懐かしい声が迎えた。


「白瀬しゃーん!」


「おたえー!」


「小春も帰ってきたぞー!」


 長吉と健太が駆け寄ってくる。


 源太はその後ろから、魚籠を抱えて歩いてきた。


「長崎はどがんやった!?」


「儲かったとか!?」


「唐人ば見たか!?」


「一人ずつ聞かんね!」


 おたえが笑いながら叫ぶ。


 だが、その顔はすぐに得意げなものへ変わった。


「聞いて驚くなかれ!」


 帳面を掲げる。


「うち、諫早ば豊かにする、ものすごか仕組みば考えてきたとばい!」


「……また何か思いついたとね」


 健太が、早くも嫌な予感のする顔をした。


「そがん顔せんで聞かんね!」


 白瀬は笑っていた。


 この村へ来たばかりの頃、おたえは商人になることを夢見る少女だった。


 売れれば嬉しい。


 儲かれば、もっと嬉しい。


 儲けた銭で、家族に何を買ってやろう。


 村のみんなに何をしてやろう。


 そんな夢を、目を輝かせて語っていた。


 今は違う。


 この少女は、儲かったあとのことを考え始めている。


(……大きくなったな)


 白瀬は、ふと思った。


 もちろん、本人に言えば、きっと怒るだろう。


     ◇


 翌日の昼。


 村の広場には、大勢の人々が集まっていた。


 農民。


 漁師。


 舟を扱う者。


 農具を作る職人。


 そして、子どもたち。


「えー、皆の衆!」


 おたえが木箱の上に立った。


「今日は、うちから大事な話があるとばい!」


「おたえが嫁に行くとか!」


「違うわ!」


 いきなり笑いが起きる。


「なんね、まだ嫁に行かんとか!」


「行く行かんは、うちが決めると!」


 さらに笑いが広がった。


 白瀬は少し離れたところで、苦笑している。


 澪は腕を組み、成り行きを見守っていた。


 ガタ吉に至っては、木箱の横で何やら団子を食べている。


「……静かにせんね!」


 おたえが叫んだ。


 ようやく、人々の声が収まる。


「うち、長崎で商いばしてきた」


 おたえは、ゆっくりと言葉を続けた。


「品ば売るとは楽しか。銭が増えるとも嬉しか。ばってん……」


 帳面を開く。


「舟が壊れたら、次の商いができん」


 村人たちが耳を傾け始めた。


「米が採れん年が来たら、みんな困る。水路が壊れたら、田んぼも魚も困る」


 おたえは帳面を高く掲げた。


「だから、うちは考えた!」


 その声が、広場に響いた。


「四つの蔵ば作ると!」


 おたえは、一つずつ説明した。


 米を蓄える蔵。


 修繕のための銭。


 次の商いへつなげる品と銭。


 そして、人が知恵を身につけるための学び。


「これがあれば、諫早はずっと豊かになっていけるとばい!」


 おたえは、胸を張った。


 きっと、みんな喜んでくれる。


 そう思っていた。


 ところが。


「……ちょっと待たんね」


 人垣の中から、低い声が上がった。


 漁師の与平である。


「その蔵に入れる銭は、どこから出すとね?」


「そいは、商いで儲けた銭から……」


「おいたちの稼ぎから取るとね?」


「違うと! そがん意味じゃなか!」


「なら、どがん意味ね?」


 おたえは言葉に詰まった。


 別の農民が口を開いた。


「米ば蓄えると言うばってん、年貢とは別に米ば出せと言うとか?」


「そいも違う!」


「ばってん、米は勝手に増えんぞ」


「うちたちも、食べていかんばとぞ!」


 声が、次々と上がった。


「商いで儲けた分まで持っていかれたら、次の網も買えん!」


「堤ば直すとは大事ばってん、誰の堤から直すとね!」


「学びに銭ば使うと言うても、腹の膨れるわけじゃなかろう!」


 おたえは必死に答えようとした。


「ちょ、ちょっと待って!」


 だが、声は止まらない。


「そもそも、誰がその蔵ば預かるとね?」


「うちが……」


「おたえが?」


 与平は眉をひそめた。


「おたえ。お前が商売上手になったとは、みんな知っとる」


「……うん」


「ばってん、人の銭ば預かるとは、品ば売るより難しかとぞ」


「……そいは」


「儲かったけん、何でも決められると思うたら、いかん」


 その言葉が、おたえの胸に突き刺さった。


「……うちは、そんなつもりじゃ」


「なら、ちゃんと話してくれんね」


 与平は怒鳴らなかった。


 ただ、真剣な顔をしていた。


「おいたちも、暮らしが懸かっとるけん」


 おたえの唇が震える。


 何か言わなければ。


 説明しなければ。


 けれど、言葉が出てこない。


「……今日は、ここまでにしよう」


 白瀬が静かに声をかけた。


 人々は、気まずそうに顔を見合わせた。


 やがて、一人、また一人と広場を離れていく。


 木箱の上には、おたえだけが残された。


 先ほどまで誇らしげに掲げていた帳面が、ひどく重く感じられた。


「……なんで」


 ぽつりと呟く。


「うち、みんなのために考えたとに……」


 俯いた頬を、一粒の涙が伝った。


     ◇


「はがいかぁぁぁ!」


 夕方。


 長吉の家の納屋に、おたえの叫び声が響いた。


「はがいか! はがいか! はがいかーっ!」


 小春が、そっと顔を覗かせる。


「……おたえ?」


「なんね!」


「団子、食べる?」


「食べる!」


 即答だった。


 小春は、持ってきた団子を差し出した。


 おたえは一口で頬張った。


 そして、また俯いた。


「……うち、間違うたとやろか」


 小春は答えなかった。


 代わりに、おたえの隣へ腰を下ろした。


 しばらくして、長吉が入ってきた。


「おたえ」


「……なんね」


「米ば蓄える話、悪うなかと思う」


 おたえが顔を上げた。


「……本当?」


「うん。ばってん、全部蔵に入れたら駄目たい」


「なんで?」


「来年の種籾まで食べたら、次の田植えができんけん」


 長吉は、持ってきた稲穂を見せた。


「米は、今食べる分と、次に育てる分が要るとよ」


「……そっか」


「それに、湿ったまま置いとけば傷む。鼠にも食われる。蓄えるなら、守り方も考えんば」


 以前の長吉なら、こんなことを言えただろうか。


 田んぼで泥だらけになりながら、大人たちに叱られ、悔し泣きをしていた少年だった。


 今は、自分の言葉で米を語っている。


「おいも、手伝うけん」


「……長吉」


 そこへ、健太がやってきた。


 手には、傷んだ舟の櫂を持っている。


「おたえ、これば見てみんね」


「……櫂?」


「そうたい。柄の根元が割れかけとる」


 健太は、ひび割れを指でなぞった。


「今なら直せる。ばってん、折れてからじゃ、舟も出せん」


「……うん」


「おい、考えたとよ。舟も農具も、壊れてから慌てて直すより、壊れそうなところば先に見つけた方がよか」


「……そいで?」


「修繕の銭が少しでもあれば、材料ば先に買うこともできる」


 健太は得意げに笑った。


「そしたら、商いも止まらん!」


 おたえは、じっと櫂を見つめた。


 さらに源太が顔を出す。


「おいも話がある」


「……源太まで?」


「漁師のことたい」


 源太は真剣な顔をした。


「魚は、捕れん日もある。網が破れることもある。舟が出せん日だってある」


 おたえは黙って聞いていた。


「この前の長崎の舟も、危なかったとやろ?」


「……うん」


 新八が海へ落ちた、あの日。


 源太は荷より人を選んだ。


 濡れた品は売り物にならず、おたえたちは損を引き受けた。


 それでも、信用だけは失わなかった。


「おい、あんとき思うた」


 源太が言う。


「舟があって、網があって、人がおって、初めて魚ば売れるとたい」


「……うん」


「どれか一つでもなくなったら、商いも止まる」


 源太は、おたえを見た。


「そいけん、おいは四面蔵、よかと思う」


 おたえの目が大きく開いた。


「……ほんとに?」


「ほんとたい」


 小春が笑った。


「うちも賛成!」


「……小春」


「ばってん、うちには難しか話はわからん!」


「そこは、わかってよ!」


「わからんもんは、わからんたい!」


 納屋に笑いが起きた。


 そのとき。


「お前ら、何ば騒ぎよるとね!」


 戸口から、ひょこりと小さな頭が現れた。


 ガタ吉である。


 頭の皿には、水がたっぷり溜まっていた。


「ガタ吉!」


「団子の匂いがしたけん来たとに、難しか話ばしよるとは何事ね!」


「団子なら、もうなかよ」


「なんねぇぇぇ!」


 ガタ吉が膝から崩れ落ちた。


 小春が声を上げて笑う。


 おたえも、思わず吹き出した。


「……ガタ吉、団子のことばっかり」


「団子は大事たい!」


 ガタ吉は胸を張った。


「腹が減ったら、力も出らんけんね!」


 その言葉に、長吉が頷いた。


「そいは、そうたい」


「ほら見んね!」


 得意げになるガタ吉。


 だが、ふと帳面を見つけた。


「……四面蔵?」


「うん」


 おたえが頷く。


「みんなが困らんように、米や銭ば蓄える仕組みたい」


「ふーん」


 ガタ吉は腕を組んだ。


「なら、水路と同じたい」


「……水路?」


「そうたい。水が多かところから、少なかところへ渡す。ばってん、全部流したら、元の水がなくなる」


 ガタ吉は床に指で線を描いた。


「大雨のときは逃がして、日照りのときは残した水ば使う。そうせんば、田んぼも川も守れん」


 おたえは、じっとその線を見た。


「……水と、銭」


「似とるやろ?」


 ガタ吉が、にっと笑った。


「おいの父ちゃんも、よう言いよった。水ば独り占めしたら、どっかで困るもんが出るって」


 その声が、ほんの少しだけ静かになった。


 ガタ吉の父と兄は、かつての水難で命を落としている。


 幼い若棟梁は、その教えを胸に、水工衆を率いているのだ。


 おたえは頷いた。


「……うん」


 そのとき、納屋の戸が静かに開いた。


「よい話をしておるな」


 澪だった。


「澪しゃん!」


 澪は、おたえの傍らへ座った。


「そなた、今日のことが悔しかったのであろう?」


「……うん」


「なぜじゃ?」


「……みんなのために考えたとに、わかってもらえんかったけん」


「そうか」


 澪は、少し考えた。


「おたえ。そなたは、みんなに何を渡したかったのじゃ?」


「……え?」


「蔵か? 米か? 銭か?」


 おたえは答えられなかった。


 澪は、優しく続けた。


「そなたが本当に渡したかったものは、何じゃ?」


 おたえは、帳面を見つめた。


 米。


 修繕の銭。


 次の商い。


 学び。


 どれも大切だ。


 だが、それだけではない。


 長崎で、新八が海へ落ちたとき。


 源太が迷わず助けに飛び込んだとき。


 濡れた品を前に、どうすればいいのかわからなくなったとき。


 おたえが一番恐れたもの。


 それは――。


「……明日」


 小さな声が漏れた。


「うち、明日も商売ばしたかったと」


 澪が頷く。


「うむ」


「舟が壊れても、魚が捕れんでも、米が採れんでも……」


 おたえの声が、少しずつ強くなっていく。


「みんなが、明日も働けるようにしたかった!」


 長吉が頷いた。


 健太も。


 源太も。


 小春も。


 ガタ吉も。


 澪が微笑んだ。


「ならば、それを伝えればよい」


 おたえは、ぱちりと目を瞬かせた。


「……そっか」


 帳面を開く。


 今度は、勢い任せではなかった。


 一文字ずつ、ゆっくりと書き始めた。


『明日も、みんなで働くため』


 不揃いな文字だった。


 けれど、おたえには、それが何より大切な言葉に思えた。


     ◇


 翌朝。


 村の広場に、再び人々が集まった。


 ただし、昨日ほど多くはない。


 農作業も漁もある。


 誰もが暇ではないのだ。


 それでも、与平をはじめ、昨日の話を聞いていた者たちが顔を出していた。


「……また蔵の話か?」


「うん」


 おたえは頷いた。


「もう一回だけ、聞いてくれんね」


 与平は腕を組んだ。


「……聞くだけなら、よか」


「ありがとう」


 おたえは、木箱の上に立たなかった。


 今日は、みんなと同じ地面に立った。


「昨日は、うちの説明が悪かった」


 深く頭を下げる。


 広場が静かになった。


「うちは、みんなの銭ば勝手に取りたかと思っとらん」


 おたえは顔を上げた。


「商いで働いた人には、ちゃんと銭ば払う。魚ば捕った人にも、舟ば出した人にも、品ば作った人にも」


 与平が頷く。


「そいは当然たい」


「うん。当然たい」


 おたえは続けた。


「そいで、仕入れた銭も、舟賃も、損した分も、ちゃんと計算する」


 帳面を開いた。


「全部引いて、それでも残った分があったら……その一部を、次のために残さんねって話たい」


「……次のため?」


「うん」


 おたえは顔を上げた。


「この前、長崎へ行ったとき、舟で事故があった」


 人々が耳を傾ける。


「新八しゃんが、海に落ちたと」


「……なんね!?」


 与平が目を見開いた。


「源太が、助けに飛び込んだ」


 皆の視線が、源太へ集まった。


 源太は少し照れくさそうに頭を掻いた。


「……そがん大したことじゃなか」


「大したことたい!」


 おたえが声を上げる。


「人が死ぬかもしれんかったとぞ!」


 広場が静まった。


「荷も濡れた。売れん品も出た。うちらは損ばした」


 おたえの声が震える。


「ばってん、人は助かった」


 与平が、ゆっくりと頷いた。


「……そいは、よかった」


「うん」


 おたえは、与平をまっすぐ見た。


「でも、考えたと」


 息を吸う。


「もし、あの舟が壊れたら?」


「…………」


「もし、直す銭がなかったら?」


「…………」


「次の商いば、誰がどうやって始めると?」


 答える者はいなかった。


 おたえは続けた。


「一回儲けても、次の一回ができんかったら、意味なかろう?」


 その声は、昨日よりずっと小さかった。


 だが、不思議とよく通った。


「うちは、みんなが明日も働けるようにしたか」


 長吉が、一歩前へ出た。


「おいも、話してよか?」


「長吉?」


「米のことたい」


 長吉は、手に持っていた稲穂を掲げた。


「今は、米が採れるようになった。ばってん、来年も同じように採れるとは限らん」


 農民たちが頷いた。


「日照りもある。大雨もある。虫もつく」


「そうたいな……」


「そいけん、食べる分だけじゃなく、困ったときの米も残したか」


 長吉は続けた。


「もちろん、種籾は別にちゃんと残す。蓄える米も、傷まんように守る」


 年配の農民が声を上げた。


「長吉、お前、よう考えとるな」


 長吉は照れくさそうに笑った。


「……白瀬しゃんに、教わったけん」


「いや」


 白瀬が首を横に振った。


「そこから先は、長吉が自分で考えたんだ」


 長吉は、嬉しそうに頬を赤くした。


 次に健太が進み出た。


「おいは、舟と農具の話ばしたか!」


 手に持っているのは、昨日の傷んだ櫂である。


「これ、まだ使える。ばってん、このまま使えば、いつか折れる」


 健太は、ひび割れを見せた。


「今直せば、材料も少なくて済む。折れてからじゃ、もっと銭がかかる」


「……確かにな」


 職人たちが頷いた。


「堤も同じやろ? 小さか穴ば見つけたときに塞げば、大きゅう崩れんで済む」


 その言葉に、白瀬の胸が少しだけ痛んだ。


 かつて、試験干拓で崩れた堤。


 その事故で失った、弥助と岩蔵。


 二人の命は戻らない。


 だからこそ、二度と同じ過ちを繰り返してはならない。


「……そうだな」


 白瀬は静かに言った。


「壊れてから直すんじゃない。壊れる前に気づくことも、普請の大事な仕事だ」


 健太が大きく頷いた。


「うん!」


 源太も前へ出た。


「おいは海のことたい!」


 威勢よく言ったものの、集まった漁師たちを前に、少し緊張した顔になった。


「魚は、捕れる日もあれば、捕れん日もある」


「当たり前たい!」


 与平が笑う。


「そうたい!」


 源太も笑い返した。


「ばってん、魚ば捕りに行く舟が壊れたら、魚がおっても捕れん」


 与平の表情が変わった。


「網が破れたら、魚がおっても捕れん」


「……うむ」


「そいけん、少しずつでも、次の漁のために残しておきたか」


 与平は、しばらく源太を見つめていた。


「……お前も、よう考えるようになったな」


「へへへ」


 源太が笑った。


 最後に、小春が前へ出る。


「うちは!」


 元気よく手を上げる。


「難しかことは、ようわからん!」


「またか!」


 健太が突っ込んだ。


 広場に笑いが起きる。


「ばってん!」


 小春は負けずに続けた。


「うち、長崎で思うたと!」


 人々が静かになった。


「唐人しゃんと話したかった。ばってん、言葉がわからんかった!」


 明美の力を借りながら、身ぶり手ぶりで伝えようとした、あの日。


 小春は悔しかった。


「もっと話したかった! もっと知りたかった!」


 小春は両手を握り締める。


「文字も、算術も、唐の言葉も、覚えたら、もっと遠くの人とも仲良うなれると!」


「……小春」


 おたえが、微笑んだ。


「そいけん、学ぶ場所も欲しか!」


 小春は、にっと笑った。


「うちだけじゃなか。みんなが覚えられる場所たい!」


 誰かが、ぽつりと言った。


「……ばってん、おいは字が読めんぞ」


 年配の漁師だった。


 白瀬が笑った。


「なら、覚えましょう!」


「なんでそうなるとや!」


「覚えたら、帳面の中身を自分で確かめられますから」


「おいが今から字ば覚えるとか!?」


「もちろん」


「年寄りば、あんまりいじめんでくれ!」


 広場が笑いに包まれた。


 おたえも笑った。


 昨日は、何を言っても通じなかった。


 今日は、みんなが自分の言葉で話している。


 それだけで、胸がいっぱいになった。


     ◇


「……ところで、おたえ」


 与平が、腕を組んだまま口を開いた。


「話はわかった。ばってん、まだ一つ大事なことが残っとる」


「……なんね?」


「銭ば預かるのは、誰ね?」


 再び、広場が静かになった。


 おたえは、ゆっくりと頷いた。


「……そいも、考えてきた」


 帳面を開く。


「うち一人じゃ、預からん」


 与平が眉を上げた。


「ほう?」


「商いの銭は、商いに関わった人たちと一緒に数える。修繕の銭は、普請に関わる人たちとも相談する」


 おたえは続けた。


「米は、農民の人たちに守り方ば教えてもらう。帳面も、うちだけじゃなく、何人かで確かめる」


「……使うときは?」


「独りでは決めん。みんなで相談して決める」


「そいだけ?」


 与平の目は厳しかった。


 おたえは、少しだけ緊張した。


 しかし、今度は逃げなかった。


「誰が、何ば出したか。何に使ったか。全部、帳面に残す」


「……ふむ」


「読めん人には、声に出して伝える」


 与平が黙った。


 おたえは、もう一歩踏み込んだ。


「それから、出したくなか人からは取らん」


 広場がざわついた。


「……本当か?」


「うん。年貢とは違うと。商いで得た分から、みんなが納得した分だけ、次のために残すとたい」


 与平は、しばらく考えていた。


「……なら、おいにも帳面ば見せてくれんね」


「もちろん!」


「字は読めんばってん」


「そいは、覚えてもらう!」


「やっぱりか!」


 再び笑いが起きた。


 だが、与平は笑いながらも、真剣な顔で続けた。


「おたえ。おいは、まだ全部よかとは思っとらん」


「……うん」


「ばってん、試してみる価値はあると思う」


 おたえの目が大きくなった。


「……ほんと?」


「ああ」


 与平は頷いた。


「最初から大きか蔵ば作る必要はなかろう。今ある蔵の片隅から始めればよか」


「……うん!」


「そいで、うまくいかんかったら直せばよか」


 白瀬が、思わず笑った。


「それが一番大事ですね」


 与平が振り返る。


「なんね、白瀬どん」


「仕組みも普請と同じです。最初から完成しているものなんてありません」


 白瀬は、村人たちを見渡した。


「使ってみて、困ったところを見つけて、みんなで直していく。そうやって、少しずつよくしていけばいいんです」


「……なるほどな」


 与平は、ゆっくりと頷いた。


 そのとき、ガタ吉がぴょんと飛び出してきた。


「ちょっと待たんね!」


「……今度はなんだ?」


「おいたち河童水工衆も、忘れんでくれんね!」


 ガタ吉は胸を張った。


「川んことなら、おいたちに任せんね! 樋門も水路も、ちゃんと見て回るけん!」


 白瀬が笑う。


「もちろんだ。お前たち抜きじゃ、始まらないよ」


「よっしゃ!」


 ガタ吉は嬉しそうに飛び跳ねた。


 ところが。


「ばってん、一つ条件がある!」


「……条件?」


「団子の備えも必要たい!」


「なんでや!」


 今度こそ、広場が大笑いになった。


 おたえは腹を抱えて笑った。


 昨日、泣いていたことが嘘のようだった。


 そして、笑いながら思った。


(……うち一人じゃ、何もできん)


 けれど。


(みんながおれば、何でもできるかもしれん!)


     ◇


 数日後。


 白瀬とおたえは、諫早の城を訪れていた。


 謁見の間には、領主・諫早直孝が座している。


 傍らには家老と、勘定を預かる役人の姿もあった。


「……四面蔵、とな」


 直孝が、帳面を手に取った。


「はい!」


 おたえが元気よく答える。


「村のみんなで、少しずつ備えば作りたかとです!」


 直孝は帳面に目を落とした。


 米。


 修繕。


 商い。


 学び。


 四つの言葉が、不揃いな文字で並んでいる。


「……ふむ」


 しばらくして、直孝が口を開いた。


「白瀬」


「はい」


「そなたは、この考えをどう見る?」


 白瀬は、少し考えてから答えた。


「よい考えだと思います」


「それだけか?」


「いえ」


 白瀬は、正直に続けた。


「危ういところもあります」


 家老が、わずかに眉を動かした。


 直孝は面白そうに目を細める。


「申してみよ」


「人の米や銭を預かる以上、誰か一人に任せきりにはできません」


「うむ」


「使い道を決める人間と、帳面を確かめる人間も必要です。それに、領主様のお力を借りるとしても、領内の決まりや年貢と混同されてはいけません」


 直孝が頷いた。


「……そうじゃな」


 白瀬は続けた。


「だから、まずは小さく始めたいんです。商いに関わった人たちが納得した分を積み立てる。米も、余裕のある分から少しずつ」


「ふむ」


「うまくいったら広げる。問題が起きたら直す」


 直孝は、しばらく黙っていた。


 やがて、帳面を閉じる。


「おたえ」


「は、はい!」


 突然名を呼ばれ、おたえの背筋が伸びた。


「そなたに、一つ尋ねたい」


「はい!」


「なぜ、そこまでして人のために銭を使おうとする?」


 おたえは、すぐには答えられなかった。


 儲けたい。


 商人になりたい。


 いつか大きな店を持ちたい。


 その夢は、今も変わらない。


 けれど。


「……うちは」


 おたえは、膝の上で拳を握った。


「商売が、好きです」


 直孝が頷く。


「うむ」


「品ば売って、お客しゃんが喜んでくれたら、嬉しかです」


 少しだけ声が弾む。


「儲かったら、もっと嬉しかです!」


 家老が思わず咳払いをした。


 直孝は笑った。


「正直でよい」


「ばってん……」


 おたえの顔が、真剣になった。


「うちだけ儲かっても、つまらんとです」


「……ほう?」


「魚ば捕る人がおらんかったら、うちは魚ば売れん。米ば作る人がおらんかったら、ご飯も食べられん」


 おたえは顔を上げた。


「舟ば作る人も、水路ば守る人も、みんな必要です」


「……うむ」


「そいけん、みんなが明日も笑って働けるようにしたかとです」


 直孝は、長い間、おたえを見つめていた。


 そして、ゆっくりと頷いた。


「……よい志じゃ」


 おたえが息を呑む。


「ただし」


 直孝の声が、少しだけ厳しくなった。


「銭を預かるということは、人の信を預かるということぞ」


「……はい」


「預かったものを私することは許されぬ。誰が見てもわかるようにせねばならぬ」


「はい!」


「家老」


「はっ」


「村の者たちと相談し、勘定方から帳面の付け方を教える者を出せ。まずは試みとして進めよ」


「承知いたしました」


 直孝は続けた。


「ただし、年貢の取り立てと混同させてはならぬ。誰が何を出し、どう使うかも明らかにせよ」


「はっ」


 白瀬は、深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


 直孝は、そんな白瀬を見て微笑んだ。


「白瀬」


「はい」


「そなたがこの地へ来てから、随分と変わったものじゃ」


 白瀬は顔を上げた。


「……そうでしょうか」


「堤を築き、田を増やし、魚を戻し、今度は商い。そして、蔵か」


 直孝は、楽しそうに笑った。


「いったい、どこまで広げるつもりじゃ?」


 白瀬も苦笑した。


「……自分でも、わかりません」


「ほう?」


「ただ、一つだけ」


「申せ」


「いつか、おれがいなくても、この仕組みが続いていくようにしたいんです」


 その言葉に、直孝の表情が変わった。


「……いなくなる?」


 白瀬は、はっとした。


 少しだけ、言葉が先走った。


「……いえ。その、いつまでも自分一人に頼っていては、いけないと思いまして」


 直孝は、しばらく白瀬を見つめた。


 やがて、静かに頷いた。


「……そうじゃな」


 その声には、どこか寂しさが混じっていた。


「人は、いつか去る」


 白瀬は何も言わなかった。


「されど、残したものは、人から人へと受け継がれてゆく」


 直孝は、おたえの帳面を返した。


「よいものを残せ、白瀬」


「……はい」


「そして、おたえ」


「はい!」


「そなたも、よい商人になれ」


 おたえは、胸を張った。


「はい! 諫早一の商人になってみせます!」


 直孝が笑う。


「ははは! 頼もしいのう!」


 家老まで、口元を緩めていた。


     ◇


 それから、数日が経った。


 村の納屋の一角に、小さな木箱が四つ並べられた。


 健太が作ったものである。


 ただし、どれも立派な蔵とは程遠い。


 木箱には、それぞれ一枚の木札が取り付けられていた。


『田』


『川』


『海』


『人』


「……これが、四面蔵?」


 源太が首を傾げる。


「そうたい!」


 おたえが胸を張った。


「田は、米。川は、普請。海は、商い。人は、学び!」


 白瀬が頷いた。


「四つは別々に見えて、全部つながっているんだ」


 田で米が育つ。


 川が田を潤す。


 海は魚を育て、遠くの町と人を結ぶ。


 そして、人が知恵を身につければ、田も川も海も、もっと豊かにできる。


「この四つを、みんなで守っていこう」


 白瀬の言葉に、子どもたちが頷いた。


 最初に動いたのは長吉だった。


「田の蔵は、おいに任せんね!」


 保存に向いた米を選び、種籾とは分けて、既存の蔵へ納める。


 母親や年配の農民たちに相談しながら、湿気や鼠への備えも考えた。


 次は健太である。


「川の蔵には、これたい!」


 健太は、修繕が必要な舟や農具を書き出した木札を並べた。


「どこが傷んどるか、いつ直したか、残しておけばわかるとよ!」


 白瀬は感心した。


「いいな。点検の記録だ」


「点検?」


「壊れる前に調べることだよ」


「……ほんなら、おいは点検名人になる!」


「気が早いな!」


 笑いが起こる。


 源太は、漁師たちから網や舟の傷み具合を聞いて回った。


 ガタ吉も、水工衆に声をかけて水路や樋門の様子を調べるという。


「水ん道は、おいたちの仕事たい!」


 胸を張るガタ吉の頭を、白瀬が軽く撫でた。


「頼りにしてるぞ、若棟梁」


「へへっ!」


 おたえは、商いの帳面を開いた。


 売上。


 仕入れ。


 舟賃。


 働いた人の取り分。


 損になった品。


 これまで、明美に何度も直された数字である。


「……あ」


 おたえが呟いた。


「どがんした?」


 小春が覗き込む。


「……思ったより、残っとらん」


「なんね!」


 小春も目を丸くした。


 長崎で品を売り、次の注文まで得た。


 大成功だと思っていた。


 だが、すべての費用と損失を差し引いてみると、残った銭は驚くほど少ない。


「……商売って、難しかね」


 おたえが苦笑した。


 白瀬も笑う。


「そうだな」


「でも、ゼロじゃなか」


 おたえは、小さな銭の包みを取り出した。


「次の仕入れに必要な分も残した。そのうえで、みんなと相談して積み立てると決めた分たい」


 包みを、海の札の前へ置いた。


 小さな音がした。


 ちゃりん。


 たった、それだけ。


 けれど、おたえは嬉しそうに笑った。


「……最初の一歩たい!」


 長吉が頷く。


「うん!」


 健太も。


 源太も。


 小春も。


 ガタ吉も。


 みんなが笑った。


 そして、四つ目の木箱。


『人』


 その前には、手習いの木札が置かれていた。


「あー、いー、うー、えー、おー!」


 年配の漁師が、必死に声を上げている。


「……白瀬どん!」


「はい?」


「なんで、おいまで勉強せんばとね!」


「自分で帳面を読むんでしょう?」


「そがん約束した覚えはなか!」


「昨日、見たいって言いましたよね?」


「……言うたばってん!」


 周りの子どもたちが、大笑いした。


 小春が、すかさず隣へ座る。


「よかよか! うちが教えるけん!」


「お前に教わるとか!」


「なんね! うちも先生になれるとよ!」


 納屋に笑い声が響いた。


 白瀬は、その光景を眺めていた。


 干拓地ができた。


 田んぼが増えた。


 米が採れた。


 魚が戻ってきた。


 商いも始まった。


 けれど。


(……本当に増えたのは、米や魚だけじゃないんだな)


 この村には、自分で考え、自分で動く人が増えていた。


 白瀬が知らないうちに、子どもたちは大きく成長していた。


「……嬉しそうじゃな」


 隣に澪が立っていた。


「ああ」


 白瀬は頷いた。


「なんか、みんな、すごいなと思ってさ」


「そなたが教えたのであろう?」


「最初だけだよ」


 白瀬は首を振った。


「今は、俺が教えてもらってることの方が多い」


 澪が、ふっと微笑んだ。


「よいことじゃ」


「そうだな」


「そなた一人では、ここまでできなんだ」


「ああ。絶対に無理だった」


 白瀬は笑った。


「澪も、ガタ吉も、みんなもいたからな」


 澪は、少しだけ目を伏せた。


「……そうか」


 それから、静かに言った。


「ならば、これからも共に進めばよい」


「もちろん」


 白瀬は、迷わず頷いた。


 澪は微笑んだ。


 ほんの少しだけ、嬉しそうに。


     ◇


 夕暮れ。


 四つの木箱の前に、おたえが一人で座っていた。


 帳面を開く。


 今日から始まった、小さな仕組み。


 米も、銭も、品も、まだほんのわずかしかない。


 学びの道具に至っては、木札が数枚と、借りてきた手本だけである。


 立派な蔵とは、とても呼べない。


 それでも。


「……これからたい」


 おたえは呟いた。


 筆を取る。


 まだ、難しい文字は書けない。


 白瀬や勘定方に教わりながら、少しずつ覚えてきた。


 だからこそ、時間をかけて、一文字ずつ書いた。


『この蔵は、今日の銭より、明日の暮らしを守るためにある』


 書き終えると、長く息を吐いた。


「……できた」


 そのとき。


「おたえ」


 背後から声がした。


 白瀬だった。


「……白瀬しゃん」


「まだいたのか」


「うん」


 おたえは帳面を閉じかけた。


 だが、思い直して差し出した。


「……見てくれんね」


 白瀬は帳面を受け取った。


 そして、ゆっくりと文字を読んだ。


「……いい言葉だな」


「ほんと?」


「ああ」


 白瀬は頷いた。


「俺には、思いつかなかったよ」


 おたえの目が大きくなった。


「……白瀬しゃんでも?」


「当たり前だろ」


 白瀬は笑った。


「俺だって、知らないことばっかりだ」


 おたえは、少しだけ考え込んだ。


 そして、ぽつりと言った。


「……うち、商人になれるやろか」


「なれるさ」


「諫早一の?」


「ああ」


「……長崎一の?」


「頑張ればな」


「……日の本一の?」


 白瀬は、思わず笑った。


「そこまでいくか!」


「行くと!」


 おたえは立ち上がった。


「うちは、日の本一の商人になるとばい!」


 その声が、夕暮れの納屋に響いた。


 白瀬は、笑いながら頷いた。


「よし。期待してるぞ」


「うん!」


 おたえは、満面の笑みを浮かべた。


     ◇


 だが。


 その日の夕刻。


 村へ、一人の使いが駆け込んできた。


「白瀬殿! おたえ殿はおられるか!」


 長崎からの使いだった。


 息を切らし、懐から一通の文を取り出す。


「明謝楼の鈴明美殿より、急ぎの文にございます!」


「……明美姉しゃんから?」


 おたえが受け取る。


 白瀬も近寄った。


 文を開くと、見覚えのある整った文字が並んでいた。


 明美の字である。


 おたえは、覚えた文字を追いながら読み始めた。


「……え?」


 表情が変わった。


「どがんした?」


 小春が覗き込む。


 おたえは、文を握り締めた。


「……そがん……」


 声が震える。


「そがんこと、あるとね……!」


 白瀬が文を受け取り、続きを読んだ。


 そこには、こう記されていた。


『おたえちゃんへ。


 長崎で、諫早の干魚と同じ品を、もっと安く売る商人が現れました。


 先日、試しに品を求めてくださったお客様も、次の注文を迷っておられます。


 商売ですから、値を下げる者が現れるのは珍しいことではありません。


 けれど、どうか慌てて値下げをしないで。


 あなたたちの品には、きちんと選んでもらえる理由があります。


 もう一度、そこを考えてみてください。


 明美』


 おたえは、しばらく黙っていた。


 そして。


「……なんね、それ!」


 大声を上げた。


「うちたちが、あがん苦労して運んだ品たい!」


 小春が、心配そうに顔を覗き込む。


「おたえ……」


「安く売るだけなら、誰にでんできるたい!」


 おたえは拳を握った。


「でも……」


 そこで、言葉が止まった。


 安く売ることも、商人の工夫である。


 買う人にとって、値が安いことは嬉しい。


 それは、おたえにもわかっていた。


「……白瀬しゃん」


「ん?」


「うちたちの品は、なんで買ってもらえたとやろか」


 白瀬は、すぐには答えなかった。


 代わりに、静かに尋ねた。


「おたえは、どう思う?」


 おたえは、目を閉じた。


 長崎の市場。


 明謝楼で教わった商売の厳しさ。


 初めての商談。


 舟の事故。


 濡れた品を売らなかったこと。


 新八が助かったこと。


 そして、もう一度注文をくれた客の顔。


 全部が、頭の中を駆け巡った。


 やがて。


「……値段だけじゃ、なか」


 ぽつりと呟いた。


 白瀬が頷いた。


「そうだな」


 おたえは、顔を上げた。


「うちたちは、ただ魚ば売っとるわけじゃなか」


 その目に、いつもの光が戻っていた。


「捕った人がおる。作った人がおる。運んだ人がおる」


 小春も頷いた。


「うん!」


「その人たちが、ちゃんと仕事ばしたってことも、一緒に売っとると!」


 白瀬は微笑んだ。


「……いい答えだ」


 おたえは帳面を閉じた。


 そして、力いっぱい宣言した。


「よし!」


「……おたえ?」


「長崎へ行くばい!」


 小春が目を丸くする。


「また!?」


「当たり前たい!」


 おたえは、にっと笑った。


「うちの商いは、安売り合戦で終わらせん!」


 白瀬も頷いた。


「よし。今度は商売の勝負だな」


 その横で、澪が静かに微笑んでいた。


「ふふ。そなたらは、本当に休むことを知らぬな」


 ガタ吉が、頭を抱えた。


「また長崎ね!? 今度こそ、おいも美味かもん食べたか!」


「ガタ吉は団子ばっかりやろ!」


「団子は大事たい!」


 笑い声が響く。


 だが、おたえの目は、もう長崎の方を向いていた。


 四面蔵は、ようやく産声を上げたばかり。


 その小さな仕組みが、本当に人々の暮らしを守れるかどうか。


 答えは、まだ誰にもわからない。


 そして、商いの世界には、昨日まで味方だった風が、今日は向かい風になることもある。


 おたえは、明美から届いた文をもう一度開いた。


 最後に、小さく書き添えられた一文があった。


『追伸。


 白瀬さんにもお伝えください。


 いつか皆さんの村へ、歌を届けに参ります。


 その日を楽しみにしていますね。』


「……明美姉しゃん、諫早に来るって!」


 小春が嬉しそうに声を上げた。


「本当か?」


 白瀬が笑う。


「そりゃ楽しみだな!」


 澪は、その笑顔を横目で見た。


 そして、ほんの少しだけ首を傾げる。


「……歌、か」


 何気なく胸元へ手を当てた。


 不思議だった。


 水の流れなら、どんな小さな変化も感じ取れる。


 それなのに。


 今、胸の奥で生まれた小さな波紋の正体だけは、どうにもわからなかった。


 澪は、静かに目を伏せた。


 遠く、有明海の潮が満ち始めていた。


 水も、人も、そして銭も。


 留まるばかりでは、豊かになれない。


 流れ、巡り、次の誰かへ届いてこそ、未来を生み出す。


 けれど、その流れを守ることは、決して容易ではない。


 長崎では今、一人の新たな商人が、諫早の品を見つめていた。


 その男が何を考えているのか。


 なぜ、同じ品を安く売り始めたのか。


 おたえたちは、まだ知らない。


 そして、その出会いが、諫早の商いを次の段階へ押し上げることになるとも。

最後までお読みいただき、ありがとうございます!


海を拓き、米を育て、魚を増やし、商いを始めた諫早。


今回のおたえは、儲けた銭を「次の誰かのために生かす」という、新しい答えにたどり着きました。


そして、長吉、健太、源太、小春も、それぞれの得意なことで村を支える存在へと成長しています。


一方、長崎では新たな商売敵が登場!


さらに、明美からは諫早訪問を予感させる嬉しい便りも……。


次回、第四十八普請「商売敵」。


おたえの本当の商才が試されます!


面白かった、続きが気になると思っていただけましたら、評価やブックマークで応援いただけると嬉しいです。


次回もどうぞお楽しみに!

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