第四十六普請 一舟の信用
長崎で初めての大きな注文を勝ち取った、おたえたち。
けれど、品を売ることと、無事に届けることは別の話。
今回の主役は、商人を目指すおたえと、海を愛する源太です。
知らない海で待ち受ける試練に、仲間たちはどう立ち向かうのか。
高来津の小さな商いが、また一歩前へ進みます。
長崎の朝は、騒がしい。
まだ日が昇りきらぬうちから、港には人の声が満ちていた。
櫓を漕ぐ音。
荷を担ぐ男たちの掛け声。
唐船の高い帆柱から聞こえる、ぎしぎしという縄の軋み。
潮の匂いに、焚き物の煙と、どこからか漂ってくる異国の香りが混ざっている。
そんな港町の一角。
明謝楼の裏手に、少女の歓声が響き渡った。
「来たあああっ!」
おたえである。
目の前には、諫早から届いたばかりの荷が積まれていた。
干魚の包み。
干潟で採れた海の幸。
高来津の人々が、丹精込めて仕上げた品々だ。
荷を運んできた男たちは、すっかり汗だくになっている。
「矢上から日見の峠ば越えてきたとぞ。こっちは腰の折れそうたい」
「ありがとう! ほんにありがとう!」
おたえは荷を受け取ると、真っ先に包みの紐を確かめた。
その隣で、源太がしゃがみ込む。
「待て待て。先に中ば見らんば」
「わかっとる!」
「なら、そがん引っ張るな。結び目ば傷める」
「うるさかねえ!」
口喧嘩をしながらも、二人の手は慎重だった。
荷を開くと、中には大きさを揃えた干魚が、竹の仕切りで分けられていた。
健太が考えた荷造りだ。
魚を重ねすぎず、揺れても押し潰されにくいように工夫してある。
源太が一つ取り、指で身を押した。
「……よか」
別の包みも開く。
「こっちも、よか」
鼻を近づけ、乾き具合を確かめる。
最後に、小さく息を吐いた。
「村のみんな、ちゃんと仕上げてくれたばい」
おたえの顔が、ぱっと明るくなる。
「なら、早う届けよう!」
「どこへ?」
背後から声がした。
振り返ると、明謝楼の娘、鈴明美が立っていた。
赤い衣の袖を軽くたくし上げ、にこにこと笑っている。
「唐船のお客さんに、でしょ?」
「そうたい!」
「それで、どうやって届けるの?」
「……どうやって?」
明美が港の方角を指差した。
「お客さんの舟は、岸から離れたところにいるわよ」
おたえは目を瞬かせた。
「……え?」
「荷を積んで、あそこまで運ばなくちゃ」
「そがんこと、聞いとらん!」
「昨日、話したでしょう?」
「聞いたばってん!」
「ばってん?」
「……舟が要るとは、思わんかった」
明美は呆れたように肩を落とした。
そして、にっこり笑う。
「おたえ。まさか、泳いで届けるつもりだった?」
「泳ぐわけなかろうもん!」
明謝楼の裏庭に、笑い声が弾けた。
*
「つまり、最後は舟か」
白瀬湊一は、港を眺めながら腕を組んだ。
諫早から長崎までは、荷を人の手で運んできた。
だが、今回の買い手は唐船の商人である。
試験注文の品を、指定された荷受け先へ届けなくてはならない。
そこまでが、商いの約束だった。
「舟代も要るし、船頭さんへの手間賃も要るわ」
明美が指を折る。
「しかも、初めての相手でしょう? 知らない人の荷を運ぶのを嫌がる船頭さんもいるの」
「なんでね!」
「代金を払わず逃げる人だっているもの」
「うちは逃げん!」
「それを、相手が知っているかしら?」
「……知らん」
おたえがしゅんとなった。
湊一は思わず苦笑した。
品を作る。
運ぶ。
売る。
代金を受け取る。
現代なら、物流会社や取引先が当たり前のように担っている仕事だ。
だが、この時代。
その一つ一つに、人の顔と信用が必要になる。
「よし。船頭を探そう」
湊一が言うと、おたえは勢いよく顔を上げた。
「うちが探す!」
「待て待て。舟のことなら、源太の出番だろ」
全員の視線が、一人の少年に集まった。
源太は、干魚の包みを閉じていた手を止めた。
「……おい?」
「そう。お前」
「ばってん、おいは長崎の海ば知らんぞ」
その答えに、湊一は頷いた。
「だから、知っている人に聞こう」
源太は少し考えた。
そして、立ち上がる。
「なら、港ば見てくる」
「おいも行く!」
ガタ吉が飛び跳ねた。
「でっかか舟、近くで見たか!」
「遊びじゃなかぞ」
「わかっとる!」
返事だけは立派だった。
澪が、そんな二人を見ながら小さく笑う。
「そなたたちだけでは、少々心配じゃな」
「じゃあ、みんなで行こうか」
湊一が言うと、おたえは大慌てで帳面を抱えた。
「ちょっと待たんね! 舟代ば決めるとは、うちの仕事たい!」
明美が嬉しそうに笑った。
「そうね。商人さん」
その呼び方に、おたえは胸を張る。
「任せときんしゃい!」
*
港には、いくつもの舟が並んでいた。
大きな唐船。
荷を運ぶ小舟。
漁から戻ったばかりの舟。
荷揚げ場では、男たちが米俵や木箱を次々と運んでいる。
「おおおおっ!」
ガタ吉が笠の下から目を輝かせた。
「あがんでかか舟、どがんして浮いとるとや!」
「そりゃ、木でできとるけん――」
源太が答えかけて、首を振った。
「いや、そいだけじゃなか」
「なんね?」
「……おいにも、ようわからん」
「なんじゃそりゃ!」
ガタ吉が文句を言う。
湊一は笑った。
「舟の中が空っぽだから、重たい荷を載せても浮いていられるんだよ」
「空っぽ?」
「まあ、詳しくは帰ってから教える」
「ほんとか!」
横で、健太がじっと唐船を見上げていた。
「白瀬しゃん。あん帆、なんであがん何枚もあると?」
「風を使うためだな」
「風?」
「うん。舟を動かす力になる」
健太の目が、さらに輝いた。
だが、源太だけは別のものを見ていた。
舟ではない。
水面だ。
岸へ寄る波。
沖から戻る小舟。
風に揺れる帆。
そして、港の入り口。
「……違う」
ぽつりと呟いた。
「何が?」
湊一が尋ねる。
「有明の海と、違う」
源太は水面を指差した。
「向こうは潮の満ち引きの大きか。干潟が出れば、舟の通れん場所もある」
「うん」
「ばってん、ここの海は……」
言葉を探す。
「岸が迫っとる。波の返り方も違う。風の当たり方も、ようわからん」
湊一は頷いた。
「そうだな」
「おいが知っとる海とは、別もんたい」
そのときだった。
「ほう。よう見とるじゃなかか」
背後から、しゃがれた声がした。
振り返ると、日に焼けた老人が立っていた。
背は高くない。
だが、太い腕と、縄のように節くれだった指をしている。
港の船頭、佐兵衛だった。
「小僧。舟ば探しよっとか?」
「はい」
「どこの者じゃ?」
「諫早の高来津から来た源太たい」
「高来津?」
佐兵衛は目を細めた。
「有明の海ん向こうか」
「そうたい」
「なら、舟は扱えるとや?」
「小舟なら」
「ここでも同じように扱えるか?」
源太は少し黙った。
港を見回す。
風が吹く。
波が岸に当たる。
「……わからん」
佐兵衛が眉を上げた。
「わからん?」
「ここは初めてやけん」
「なら、なんで舟ば扱えると言うた?」
「有明では扱える。ばってん、長崎じゃ知らんことがある」
源太は、まっすぐ老人を見た。
「じゃっけん、教えてくれんね」
佐兵衛の顔が、少しだけ変わった。
「……ほう」
「どこが危なかと。風が変わったら、どこへ逃げればよかと」
老人はしばらく源太を見つめていた。
やがて、声を上げて笑った。
「はっはっは!」
源太が驚く。
「なんね!」
「いやいや。久しぶりに面白か小僧に会うた」
佐兵衛は港の奥を指差した。
「あそこに入り込むと、風向きによっては舟ば岸へ押しつけられる」
次に、岬の陰を指す。
「あっちは風を避けられることもある。ばってん、潮の流れは見らんばならん」
源太が頷く。
「なるほど……」
「海はな、知っとるつもりになったときが、一番怖か」
その言葉に、源太は深く頷いた。
「おいも、そう思う」
佐兵衛はにやりと笑う。
「よか。お前の荷、わしが運んでやろう」
「ほんとか!」
「ただし、舟代はまけんぞ」
その瞬間。
「そこは、うちが決める!」
おたえが割って入った。
佐兵衛が目を丸くする。
「なんじゃ、この娘は」
「商人のおたえたい!」
「……商人?」
「そう! 舟代はいくらね!」
佐兵衛は大笑いした。
そこから始まったのは、激しい値段交渉だった。
おたえが値を下げようとする。
佐兵衛は譲らない。
おたえが荷の少なさを訴える。
佐兵衛は船頭の手間を説明する。
小春が、笑顔で二人の間に入る。
「まあまあ! おじちゃん、まず荷ば見てみんね!」
「おじちゃん?」
「じゃあ、お兄ちゃん!」
「……お前、口のうまか娘じゃな」
結局。
明美の口添えもあり、他の荷と積み合わせる条件で話がまとまった。
おたえは帳面に舟代を書き込む。
「よし!」
その顔は誇らしげだった。
ところが佐兵衛は、最後に言った。
「約束の時刻に間に合うかは、海次第じゃけんな」
おたえが首を傾げる。
「海次第?」
「海にゃ、人間の都合なんぞ通じん」
源太だけが、その言葉を真剣に聞いていた。
*
翌朝。
空は晴れていた。
港には薄い雲が流れ、穏やかな風が吹いている。
干魚の包みが、次々と舟へ積み込まれた。
源太は佐兵衛と一緒に荷を確かめていた。
「こっちの包みは、上に置いたほうがよか」
「なんでじゃ?」
「下に重かもんば載せすぎたら、魚の潰るる」
「なるほどのう」
佐兵衛が頷く。
「荷を大事にする漁師か。悪うなか」
「村のみんなが作った品やけん」
源太は、一つの包みの紐を締め直した。
「傷めて持っていくわけにはいかん」
少し離れた岸では、おたえが帳面を抱えていた。
「源太! 絶対に遅れんでよ!」
「わかっとる!」
「約束の時刻までに届けんば!」
「わかっとるって!」
「わかっとるなら、早う行かんね!」
「まだ積みよるやろ!」
いつもの口喧嘩に、港の男たちが笑う。
明美も笑っていた。
「元気ねえ、あの二人」
「毎日あがん感じたい」
小春が答える。
「でも、仲はよかとよ」
「そうなの?」
「うん。おたえの一番信頼しとる相手の一人やけん」
その言葉を聞いた明美は、少し意外そうな顔をした。
そして、嬉しそうに微笑んだ。
「そういう仲間って、いいわね」
一方。
澪は岸辺に立ち、水面を見つめていた。
足元へ寄る波。
港の奥へ流れ込む水。
そして、遠くの空。
「……白瀬」
「ん?」
「今の水は穏やかじゃ」
「そうだね」
「じゃが、風は水とは別に動く」
澪は空を見上げた。
「遠くの雲が、少し速い」
湊一も見上げる。
港の上空には、薄い雲が流れていた。
山の向こうには、やや濃い雲が見える。
「念のため、佐兵衛さんに伝えよう」
佐兵衛は二人の話を聞くと、空を見た。
「ふむ。今なら行ける。ばってん、風が強まるようなら戻る」
荷の積み込みが終わる。
佐兵衛が櫓を取った。
「さあ、行くぞ!」
「頼んだばい!」
源太が乗り込む。
若い船乗りの新八も、一緒に舟へ乗った。
縄が解かれる。
舟がゆっくり岸を離れた。
「行ってらっしゃーい!」
小春が手を振る。
おたえは両手を口に当てて叫んだ。
「源太ーっ! 魚ば落とすなよーっ!」
「落とさん!」
「絶対たい!」
「わかっとる!」
舟の上から返事が飛ぶ。
ガタ吉が、笠の下で嬉しそうに笑った。
「なんか、夫婦喧嘩みたかね」
「誰が夫婦ね!」
おたえの声が港中に響いた。
澪が笑う。
湊一も笑った。
そのときだった。
沖の方で、風が一度、強く吹いた。
*
最初に気づいたのは、佐兵衛だった。
「……ん?」
櫓を動かす手が止まる。
空を見上げた。
山の向こうにあった雲が、いつの間にか港の上へ広がっていた。
「源太」
「なんね?」
「風が変わる」
源太も顔を上げた。
それまで舟の背を押していた風が、横から当たり始めている。
水面に、小さな波が増えた。
「……まずか」
源太が呟く。
佐兵衛は頷いた。
「戻るぞ」
「え?」
新八が驚いた。
「親方! もう少しで荷受けの場所です!」
「風が強まる」
「ばってん、今日のうちに届けんと!」
「知っとる!」
佐兵衛が声を荒らげた。
その直後。
ごうっ!
風が唸った。
舟が大きく揺れる。
「うわっ!」
新八が荷へしがみつく。
干魚の包みが一つ、横へ滑った。
「荷が!」
新八が手を伸ばした。
「触るな!」
源太が叫ぶ。
だが、間に合わなかった。
舟が反対側へ傾く。
新八は荷を掴んだまま、足を滑らせた。
「うああっ!」
ざばあん!
水しぶきが上がった。
「新八っ!」
佐兵衛の声が響く。
水面に、若い船乗りの頭が見えた。
腕をばたつかせている。
「た、助け……!」
波が、その声を飲み込んだ。
源太の背筋が凍った。
有明の海で、何度も聞かされてきた話が頭をよぎる。
海に落ちた者を、慌てて追うな。
助けようとして、二人とも帰らなくなる。
父や村の漁師たちが、繰り返し教えてきたことだ。
新八が沈みかける。
源太は咄嗟に舟の縁へ走った。
飛び込もうとした足が、止まる。
違う。
おいまで落ちたら、誰が縄ば投げる。
「佐兵衛さん! 舟ば寄せて!」
「おう!」
「新八! そこにおれ!」
源太は縄を掴んだ。
端を舟の丈夫なところへ回し、自分の手に残りを取る。
「これば掴めーっ!」
縄が水面を走った。
だが、届かない。
新八の指先が空を切る。
波が彼の顔へかぶさった。
「くそっ!」
源太は縄を引き戻した。
そのとき、後ろで包みが崩れかけた。
荷が舟の片側へ寄っている。
このままでは、舟そのものが危ない。
佐兵衛が怒鳴った。
「源太! 荷ば押さえろ!」
源太は振り返った。
干魚の包み。
村人たちの手。
おたえの帳面。
唐船との約束。
全部、頭に浮かんだ。
けれど。
水面には、必死に手を伸ばしている人間がいる。
源太は叫んだ。
「荷は後たい!」
「何っ!」
「人ば先に助けんば!」
佐兵衛の目が見開かれる。
ほんの一瞬。
老人は、源太の顔を見た。
そして、歯を食いしばった。
「……よし!」
荷を押さえていた縄を緩め、舟を動かせるようにする。
波をかぶった包みが一つ、舟底へ転がった。
佐兵衛が櫓を操る。
舟の向きが変わった。
「今じゃ!」
源太が、もう一度縄を投げた。
今度は届いた。
「掴めーっ!」
新八の手が伸びる。
縄を掴んだ。
「よし!」
源太が引く。
だが、水を含んだ衣が重い。
新八の顔が、再び水面へ近づく。
「新八! 離すな!」
「げ、源太……!」
源太は必死に縄を引いた。
腕が痛む。
手のひらが焼けるように熱い。
それでも、離さなかった。
そのとき。
水の下で、何かが動いた。
*
「……おい!」
岸の上で、ガタ吉が小さく叫んだ。
笠の下の目が、水面へ釘付けになっている。
あの流れ。
舟の下へ潜り込む潮。
人間には見えない、水の癖。
「白瀬!」
ガタ吉が振り返る。
湊一も、すでに動いていた。
「わかってる! 岸の人を集める!」
小春と明美が走り出す。
「誰か! 舟ば助けて!」
「縄を! 長い縄を持ってきて!」
港の男たちが、一斉に顔を上げた。
湊一は佐兵衛の舟の進む先を見た。
このままなら、風を避けられる岸の陰へ寄せられるかもしれない。
だが、人手がいる。
「健太! あの杭、縄を掛けられるか!」
「見てくる!」
健太が走る。
岸に打ち込まれた太い杭を確かめ、縄の傷みを見た。
「こっちはよか! ばってん、あっちはぐらついとる!」
「なら、こっちを使おう!」
湊一は港の男たちへ声を掛けた。
「舟が近づいたら、縄を取ってください! 一人で引かず、みんなで!」
明美が、顔見知りの荷役人を呼んでいる。
「お願い! 佐兵衛さんの舟なの!」
「佐兵衛の爺さんか!」
「そう! 新八も乗ってる!」
「そりゃ大変じゃ!」
男たちが駆け寄ってきた。
その一方で、小春は港にいた唐人の若者にも身振りで訴えていた。
「舟! あそこ! 人が落ちたと!」
若者は困った顔をした。
小春の言葉が通じない。
「ええと……」
小春は、両手で舟の形を作った。
次に、水へ落ちる仕草。
最後に、縄を引っ張る仕草。
「助けたかと! お願い!」
若者の顔色が変わった。
何かを叫び、仲間を呼ぶ。
その男たちも、岸へ走り出した。
小春は大きく息を吸った。
「……通じた!」
それでも。
まだ、足りない。
小春は走りながら、何度も何度も声を掛けた。
唐語を知っていれば。
もっと早く、もっと正確に、伝えられるのに。
そんな悔しさを、胸の奥へ押し込めながら。
*
澪は、港の端に立っていた。
その目には、水の流れが見えている。
風に押される表面の波。
岸へ戻る水。
その下を、別の向きへ流れる潮。
「……あそこじゃ」
小さく呟く。
舟の進む先に、比較的流れの穏やかな場所があった。
だが、そこまで舟を寄せるには、横からの波を一度受けなければならない。
澪は湊一を呼んだ。
「白瀬!」
「何だ!」
「舟をあの岸の陰へ! 今なら、水の流れが弱い!」
湊一は佐兵衛へ向けて、大きく手を振った。
「佐兵衛さーん! あっちの岸へ!」
声は風に消される。
湊一は、もう一度叫んだ。
今度は源太が気づいた。
岸を指す。
澪が両手で大きく方向を示した。
源太が佐兵衛へ叫ぶ。
「親方! あっちたい!」
「わかっとる!」
佐兵衛は櫓を踏ん張った。
そして、水面の下。
ガタ吉が、誰にも見えないように泳いでいた。
緑色の小さな身体が、舟の陰を抜ける。
「……新八!」
水の中で、必死に足を動かしている若者が見えた。
縄は掴んでいる。
だが、舟へ近づこうとするたび、流れに身体を持っていかれる。
ガタ吉は、その足元を横切った。
流れの向きを確かめる。
水の下から新八の身体を支え、舟の近くへ押し戻した。
強引には引かない。
水に逆らえば、かえって二人とも危ない。
父から何度も教わったことだった。
『水ば力でねじ伏せるな。流れに道ば借りるとぞ』
ガタ吉は、小さな歯を食いしばった。
「……父ちゃん」
一瞬だけ、昔の記憶がよぎる。
帰ってこなかった父。
帰ってこなかった兄。
あの日の水の冷たさ。
ガタ吉は首を振った。
「……今度は、帰すけん!」
水を蹴る。
新八の身体が、舟の側へ流れた。
「今たい!」
水面の上で、源太が叫んだ。
佐兵衛が腕を伸ばす。
二人で新八の衣を掴んだ。
「せえのっ!」
ざばあっ!
若い船乗りの身体が、舟の中へ引き上げられた。
新八が激しく咳き込む。
「げほっ! げほっ!」
「新八!」
源太が顔を覗き込む。
「息、できるか!」
新八は何度も咳をした。
それから、小さく頷いた。
「……で、できる」
源太の肩から、力が抜けた。
「……よかった」
佐兵衛が、すぐさま怒鳴る。
「安心するな! まだ岸へ戻らんば!」
「はい!」
源太は立ち上がった。
舟は、まだ波に揺られている。
そして、荷の一部はすっかり濡れていた。
それでも。
源太は振り返らなかった。
「帰るばい!」
*
岸では、救助の準備が整っていた。
縄が投げられる。
佐兵衛の舟からも縄が伸びる。
健太が、岸の杭へ縄を回した。
「こっち! ここへ掛けて!」
男たちが集まる。
その中には、唐人の若者もいた。
言葉は通じない。
だが、何をすべきかはわかっていた。
「引けーっ!」
誰かが叫ぶ。
男たちが縄を引く。
しかし、力の入る時がばらばらだった。
舟が横へ揺れる。
「待って!」
明美が叫んだ。
人々が振り返る。
「声を揃えて!」
明美は、縄を引く男たちのそばへ立った。
そして、はっきりした声で拍子を取り始めた。
「せーのっ!」
ぐいっ!
縄が張る。
「もう一度!」
ぐいっ!
舟が、少しだけ近づく。
「せーのっ!」
男たちの声が重なった。
湊一も縄に手を掛ける。
健太が足元を確かめる。
小春は、唐人の男たちへ身振りで拍子を伝えた。
いつしか、日本語も唐語も入り混じった掛け声が、港へ響いていた。
「せーのっ!」
ぐいっ!
ぐいっ!
舟が岸へ寄る。
最後に佐兵衛が櫓を動かした。
「よし! 今じゃ!」
どんっ。
舟が岸へ着いた。
「着いた!」
小春が叫ぶ。
男たちが歓声を上げた。
湊一は真っ先に新八の様子を確かめた。
顔色は悪い。
だが、呼び掛けには答えられる。
佐兵衛が濡れた衣を脱がせ、近くの者に乾いた布を頼んだ。
「温かいところへ運んでくれ。しばらく目ば離すな」
新八は震えながら、源太を見た。
「……ありがと」
源太は、何も言えなかった。
ただ、頷いた。
その少し後ろ。
ガタ吉が、何食わぬ顔で岸の陰から現れた。
笠も蓑も、びしょ濡れだった。
澪が、その姿を見つける。
「……無茶をしたのではないか?」
「ちょっとだけたい」
「ちょっと?」
「ほんに、ちょっとだけ!」
澪がじっと見る。
ガタ吉は目を逸らした。
「……新八、助かった?」
澪は小さく頷いた。
「ああ。助かったぞ」
ガタ吉の顔が、くしゃりと崩れた。
「……そっか」
それだけ言って、笠を深くかぶり直した。
*
嵐が過ぎると、港には嘘のように穏やかな空が戻ってきた。
しかし、積荷の被害は小さくなかった。
明謝楼の裏手。
無事だった包みと、濡れてしまった包みが分けられている。
おたえは、呆然とそれを見つめていた。
「……そがん」
干魚の一部は、海水をかぶっていた。
包みの中まで濡れたものもある。
源太が、一つずつ確かめる。
「こいは、売れん」
別の包みを開く。
「こっちも、駄目たい」
健太が、自分の作った竹の仕切りを見た。
いくつかは割れている。
「……もっと丈夫にしとけば」
「違う」
源太が首を振った。
「お前の仕切りがあったけん、助かった分もある」
健太は唇を噛んだ。
「ばってん……」
「次、直せばよか」
その言葉に、健太はゆっくり頷いた。
一方、おたえは帳面を開いていた。
注文の数量。
約束した時刻。
受け取るはずだった代金。
そして、今、残っている品。
何度数えても、足りない。
「……足りん」
小さな声だった。
「……どうしよう」
明美が、隣へしゃがんだ。
「おたえ」
「……なんね」
「どうするの?」
おたえは顔を上げなかった。
「……わからん」
「そう」
「注文ばもろうたとに……」
声が震える。
「村のみんなに、ちゃんと売ってくるって約束したとに……」
帳面を握る指に、力が入った。
「うち、失敗した」
誰も、すぐには答えなかった。
小春も。
源太も。
湊一も。
ただ、明美だけが静かに尋ねた。
「おたえ。何に失敗したの?」
「……魚ば届けられんかった」
「全部?」
「……全部じゃなか」
「じゃあ、無事なものは?」
「ある」
「それは、どうするの?」
おたえが顔を上げた。
明美は、じっと待っている。
答えを教えてくれる気配はない。
おたえは、もう一度帳面を見た。
無事な品。
傷んだ品。
約束した数。
今からでも届けられる数。
しばらくして。
少女は、ぽつりと呟いた。
「……謝りに行く」
明美は頷いた。
「それから?」
「無事な分だけでも、買うてもらえんか聞く」
「それでも足りなかったら?」
「……足りん分は、うちが責任ば取る」
明美の目が、少しだけ細くなる。
「どうやって?」
おたえは唇を噛んだ。
すぐには答えられない。
だが、今度は顔を伏せなかった。
「ちゃんと話す。どがんしたらよかか、相手に聞く」
「うん」
「黙って逃げたり、傷んだ魚ば混ぜたりは、せん」
明美が微笑んだ。
「それなら、行っておいで」
「……一緒に来てくれんね?」
「もちろん」
おたえは、ようやく小さく笑った。
「……ありがとう」
明美は立ち上がった。
「ただし、商談をするのは、おたえよ」
「わかっとる!」
少女は帳面を抱え直した。
そして。
もう一度、無事だった干魚を数え始めた。
*
唐船の商人は、厳しい顔をしていた。
約束の時刻は、すでに過ぎている。
品の数も足りない。
商人の前には、無事だった干魚の包みだけが並べられていた。
隣には、明美の父、鈴建華が座っている。
おたえの言葉を唐語へ。
商人の言葉を日本語へ。
その一つ一つを、丁寧に伝えていた。
「……約束した数を、揃えられませんでした」
おたえは深く頭を下げた。
建華が訳す。
商人は何かを尋ねた。
「なぜ、遅れたのかと」
「港で、風が強うなりました。舟が戻る途中、人が海に落ちました」
商人の眉が動く。
「その者は?」
「助かりました」
おたえは、はっきり答えた。
「けが人も出ましたが、命は助かりました」
建華が訳す。
商人はしばらく黙っていた。
やがて、短く言った。
「事情はわかった。だが、約束は約束だ」
建華の声も厳しかった。
おたえは頷いた。
「はい」
「こちらにも、その品を待っている相手がいる」
「はい」
「渡せなければ、困るのはこちらも同じだ」
おたえは、ぎゅっと拳を握った。
それでも、目を逸らさなかった。
「……わかっとります」
商人が包みへ目を落とした。
「これは、全部無事なのか?」
「はい。濡れたものは、持ってきとりません」
「なぜ?」
おたえは少し驚いた。
「……なぜって」
商人が、じっと見ている。
おたえは考えた。
濡れた干魚を乾かし直せば、見た目だけは似たような品になるかもしれない。
けれど、海水をかぶったものが、どれほど傷んだかはわからない。
それを、何も知らない相手へ売る。
そんなことをしたら。
「……食べる人が困るけん」
おたえは答えた。
「うちが食べられんと思うもんば、人に売るわけにはいかんです」
建華が訳す。
商人は、しばらくおたえを見つめていた。
やがて、干魚を一つ手に取る。
香りを確かめる。
身を割る。
少し口へ運ぶ。
噛む。
ゆっくりと頷いた。
「……品は、よい」
おたえの顔が明るくなりかけた。
だが、商人は続けた。
「ただし、受け取るのは無事だった分だけだ」
「はい!」
「代金も、その分しか払えない」
「……はい」
「足りなかった分は、今回の注文が果たせなかったものとして扱う」
おたえの胸が、ぎゅっと痛んだ。
だが、当然だ。
相手は約束した品を受け取れなかった。
損をしたのは、自分たちだけではない。
「……わかりました」
おたえは頭を下げた。
そのまま、立ち上がろうとした。
ところが。
「待ちなさい」
商人が呼び止めた。
おたえが振り返る。
「一つ、聞きたい」
「……はい」
「また、同じことが起きたら、どうする?」
部屋が静かになった。
おたえは、すぐには答えられなかった。
嵐。
壊れた荷。
海へ落ちた新八。
必死に縄を引いた源太。
その姿が、次々と浮かんだ。
また同じことが起きたら。
また約束の日に、風が強くなったら。
どうする。
「……一つの舟だけに、頼らんようにします」
ようやく口を開いた。
「ほう?」
「荷を分けて運べるようにします。途中で傷まんように、包み方も直します」
商人は黙っている。
おたえは続けた。
「それでも、海が荒れたら……」
源太の顔が浮かんだ。
『荷より命たい!』
あの声が、耳の奥に残っていた。
「……無理には、運びません」
商人の目が細くなる。
「それでは、また遅れるかもしれぬぞ」
「はい」
「それでもか?」
「……はい」
おたえは、まっすぐ相手を見た。
「舟が沈んだら、次の商いはできません」
建華が訳す。
商人の顔が、わずかに動いた。
「じゃっけん、もし遅れるなら、できるだけ早う知らせます。約束ば守れんときは、黙って待たせんようにします」
少し間を置いた。
「それで……次こそ、ちゃんと届けたいです」
部屋に沈黙が落ちた。
やがて。
商人が、ふっと息を吐いた。
「……よかろう」
おたえの目が見開かれる。
「え?」
「次の品も、見せてもらおう」
「……ほんとですか!」
「ただし、次は今日より厳しく確かめる。数も、品も、届ける日もだ」
「はいっ!」
「約束を軽く考える者とは、商いはできぬ」
「はい!」
「だが……」
商人は、並んだ干魚へ目を向けた。
「失敗を隠さぬ者なら、もう一度話をする値打ちはある」
建華の訳を聞いた瞬間。
おたえの顔が、くしゃりと崩れた。
「……ありがとうございます!」
深く、深く頭を下げる。
明美は、その姿を静かに見ていた。
そして、少しだけ誇らしそうに笑った。
*
夕暮れ。
明謝楼の裏庭には、久しぶりに賑やかな声が戻っていた。
「で、どうやったと!」
小春が身を乗り出す。
「売れた!」
おたえが胸を張る。
「おおっ!」
健太が声を上げた。
「全部か!」
「……全部じゃなか」
「次の注文は!」
「また話ばしてくれるって!」
「おおおっ!」
ガタ吉が飛び跳ねた。
「なら、祝宴たい!」
「待たんね!」
おたえが叫ぶ。
「なんね!」
「まだ、勘定の終わっとらん!」
少女は帳面を開いた。
売れた品の代金。
諫早から運ぶための費用。
舟代。
荷運びの手間賃。
傷んでしまった魚の分。
それから、今後の荷造りに必要な費え。
一つずつ、指で追う。
明美が隣から覗き込んだ。
「どう?」
「……待って」
おたえが数える。
もう一度。
それから、さらにもう一度。
「……あれ?」
「どうした?」
湊一が尋ねる。
「……足りん」
「何が?」
「銭」
全員が顔を見合わせた。
おたえは、ゆっくりと顔を上げた。
「……出ていった銭のほうが、多か」
沈黙。
次の瞬間。
「えええええっ!」
裏庭が揺れるほどの声が上がった。
ガタ吉が頭を抱えた。
「なんじゃそりゃあ!」
健太が口を開く。
「売れたとに!」
「売れたばってん!」
「じゃあ、儲からんかったと?」
「……うん」
小春が心配そうに尋ねた。
「おたえ、大丈夫?」
「……大丈夫じゃなか」
おたえは帳面へ突っ伏した。
「うちの大儲けがあああ……」
その姿に、湊一は思わず吹き出した。
「笑うとこじゃなか!」
「いや、ごめんごめん」
「うち、村のみんなに何ば買うて帰ればよかと!」
「買わなくていいだろ」
「そがんわけにはいかん! うちの商人としての面目が!」
明美が、くすくす笑った。
「面目より、帳面のほうが大事よ」
「……わかっとる!」
おたえは顔を真っ赤にした。
その横で、ガタ吉が真剣な顔になった。
「おたえ」
「なんね」
「……団子も食わんほうがよか?」
全員が黙った。
おたえは、ゆっくりと顔を上げた。
「……ガタ吉」
「なんね」
「そいは、自分で払わんね!」
「なんでじゃあ!」
笑い声が弾けた。
しかし。
その輪から少し離れたところで、源太だけが静かに座っていた。
*
「源太」
湊一が声を掛けた。
「……白瀬しゃん」
「どうした?」
「……おい」
源太は俯いた。
膝の上で、拳を握っている。
「……怖かった」
ぽつりと呟いた。
湊一は、何も言わなかった。
「新八が落ちたとき、飛び込もうとした」
「うん」
「ばってん、足の動かんかった」
源太は唇を噛んだ。
「おい、怖うて……」
その声が、震えた。
「何もできんごとなるかと思うた」
湊一は、源太の隣へ腰を下ろした。
「でも、お前は動いた」
「……縄ば投げただけたい」
「その縄で、新八は助かった」
「佐兵衛さんも、おったけん」
「そうだな」
「澪も、ガタ吉も、みんなもおったけん」
「うん」
湊一は頷いた。
「みんながいたから、助かったんだ」
源太が顔を上げた。
「……おい一人じゃ、何もできんかった」
「そうだな」
湊一は、少し笑った。
「俺だって、一人じゃ何もできなかった」
「白瀬しゃんも?」
「もちろん」
源太は、不思議そうな顔をした。
「……ばってん、白瀬しゃんは何でも知っとるやろ」
「知らないことだらけだよ」
「ほんとね?」
「本当」
湊一は港を見た。
夕暮れの水面。
並ぶ舟。
帰っていく船乗りたち。
「源太。今日、お前が一番すごかったのは、何だと思う?」
「……縄ば投げたこと?」
「違う」
「舟ば戻したこと?」
「それも大事だけど、違う」
源太は首を傾げた。
湊一は、まっすぐ少年を見た。
「荷より、命を選んだことだ」
源太の目が、大きくなった。
「約束を守りたい気持ちは、わかる。でも、無理をして誰かが死んだら、その約束は何のためのものなんだ?」
「……」
「お前は、そこで間違えなかった」
源太は、しばらく黙っていた。
やがて。
「……おい、また舟に乗ってよかと?」
その言葉に、湊一は少し驚いた。
「どうして?」
「……怖かとに、また乗りたか」
源太は、港を見た。
「海ば、もっと知りたか」
そして、小さな声で続けた。
「今度は、誰も落とさんごとしたか」
湊一は微笑んだ。
「だったら、もっと学ぼう。今日のことも、ちゃんと覚えておこう」
そのとき。
「おう、小僧!」
背後から声がした。
佐兵衛だった。
老人は、二人の前へ立った。
「新八は、飯ば食えるくらいに落ち着いたぞ」
「……ほんとか!」
「おう。今夜は休ませる」
源太の顔に、ようやく笑みが戻った。
佐兵衛は、そんな少年をじっと見た。
「源太」
「はい」
「お前、怖かったか?」
「……はい」
「そうか」
老人は頷いた。
「なら、よか」
「……え?」
「怖かもんを怖かと知っとる奴は、無茶ばせん」
佐兵衛は、節くれだった手で源太の肩を叩いた。
「海で長生きするには、そいが大事たい」
源太の目が潤んだ。
「……はい」
「また、わしの舟に乗れ」
「……よかと?」
「当たり前じゃ」
佐兵衛は笑った。
「次は、もっと上手に荷ば運ぼうや」
源太は、深く頭を下げた。
「……はい!」
*
夜。
明謝楼の灯が、静かに揺れていた。
客たちの声が少しずつ遠ざかり、店の奥では鈴しげよが片付けをしている。
小春は、明美の隣に座っていた。
「明美しゃん」
「なあに?」
「今日、うち、唐人のお兄ちゃんに話しかけたと」
「見てたわ」
「ばってん、全然通じんかった」
小春は、膝の上で手を握った。
「舟に人が落ちたって言いたかったとに」
「でも、助けに来てくれたでしょう?」
「うん」
「それなら、伝わったじゃない」
小春は首を振った。
「もっと、ちゃんと伝えたかった」
明美が小春を見る。
「……うち、言葉ば覚えたか」
小春は顔を上げた。
「唐人のお兄ちゃんにも、あっちの国のことば聞いてみたか。どがんところで暮らしよるととか、どがん歌ば歌いよるととか」
明美は微笑んだ。
「じゃあ、お父さんに頼んでみる?」
「よかと!」
「もちろん。でも、唐語は簡単じゃないわよ」
「頑張る!」
小春は、勢いよく頷いた。
そして、少し照れくさそうに笑った。
「……今日、助けてくれたお兄ちゃんにも、ちゃんとありがとうって言いたかけん」
明美の目が、優しく細められた。
「うん。そうね」
少し離れた席では、健太が濡れた竹の仕切りを眺めていた。
「……ここば変えれば」
ぶつぶつと呟く。
源太が覗き込む。
「何しよっと?」
「次は、舟が揺れても荷の片寄らんごとしたか」
「そいは難しかぞ」
「知っとる」
「重さも考えんば」
「わかっとる」
「魚の潰れんごとも」
「……源太」
「なんね」
「ちょっと黙っとって!」
また、笑い声が起こった。
明美は、そんな一同を見ていた。
まだ、みんな子どもだ。
自分より年下の者たちばかり。
けれど。
誰かが失敗すれば、誰かが手を貸す。
誰かが悔しがれば、別の誰かが次の方法を考える。
不思議な仲間たちだった。
「……いいわねえ」
明美が、ぽつりと呟く。
小春が振り返った。
「何が?」
「あなたたち」
「うちら?」
「そう。なんだか、見ているだけで元気になるわ」
小春は、にっこり笑った。
「なら、明美しゃんも仲間になればよか!」
明美は目を丸くした。
「私も?」
「うん!」
小春は当然のように頷いた。
「もう、仲間みたいなもんやろ?」
明美は、しばらく小春を見つめた。
そして、声を上げて笑った。
「……そうね!」
その笑顔は、長崎の灯よりも明るかった。
*
さらに夜が更けた頃。
明謝楼の奥の小部屋には、湊一と澪、そしておたえが残っていた。
机の上には、帳面が開かれている。
おたえは、まだ数字を数えていた。
「……やっぱり、足りん」
「もう十回くらい数えてないか?」
湊一が苦笑する。
「十一回たい!」
「増えてるじゃないか」
「数え間違いがあるかもしれんやろ!」
「まあ、気持ちはわかるけど」
澪が、静かに笑った。
「そなた、随分と落ち着かぬのう」
「澪しゃんは、悔しくなかと!」
「悔しいのは、そなたであろう?」
「そがんたい!」
「ならば、次に生かせばよい」
おたえは、むっとした。
「簡単に言うばってん……」
そのとき。
湊一が、帳面へ指を置いた。
「なあ、おたえ」
「なんね」
「今日の商い、何が一番まずかったと思う?」
「……魚が濡れたこと」
「それだけ?」
「舟が遅れたこと」
「それから?」
おたえは考えた。
舟。
嵐。
傷んだ魚。
届かなかった品。
そして、足りなくなった銭。
「……余分な品ば、持っとらんかったこと」
湊一が頷いた。
「そうだな」
「無事な魚がもう少しあれば、約束した数ば揃えられたかもしれん」
「うん」
「それに……」
おたえは帳面を見た。
「銭がなくなったら、次の荷も運べん」
その言葉に、湊一は微笑んだ。
「いいところに気づいたな」
「……ほんと?」
「本当」
湊一は、帳面の端に丸を一つ描いた。
「おたえ。商売って、儲けたら終わりじゃないんだ」
「……うん」
「次も続けられるようにしなくちゃいけない」
もう一つ、丸を描く。
「もしまた舟が遅れたら?」
「困る」
「干魚が傷んだら?」
「困る」
「村で洪水が起きて、魚も米も運べなくなったら?」
「……もっと困る」
おたえは、唇を噛んだ。
湊一は三つ目の丸を描いた。
「だったら、困ったときのために備えよう」
「……備える?」
「そう。いつも全部を売らず、品や銭を残しておくんだ」
おたえは目を見開いた。
「……蔵?」
「うん。そういうものが必要だと思う」
そのとき。
澪が、静かに口を開いた。
「水も同じじゃ」
二人が振り返る。
「水をすべて流してしまえば、日照りのときに困る。かといって、すべて堰き止めれば、溢れて人を苦しめる」
澪は、湊一の描いた丸を見た。
「必要な分を残し、必要なところへ渡す。そのために、水路と堤がある」
湊一は頷いた。
「そうだ。銭も、米も、同じなんだ」
おたえは、帳面を見つめた。
今までは、売ることばかり考えていた。
いくらで売れるか。
いくら儲かるか。
儲けたら、何を買おうか。
村のみんなに何を配ろうか。
けれど。
今日、初めて知った。
売れなくても、銭は出ていく。
品がなくなっても、人は飯を食べる。
舟が壊れれば、直さなければならない。
誰かが怪我をすれば、助けなくてはならない。
商売は、ただ品を売るだけではないのだ。
「……白瀬しゃん」
「ん?」
「蔵ば造ったら、みんな助かると?」
「蔵だけじゃ駄目だよ」
「……なんで?」
「何を入れて、誰が管理して、いつ使うか。その約束も決めないと」
おたえは、目を輝かせた。
「なら、うちが決める!」
「おお、頼もしいな」
「もちろんたい!」
胸を張る。
だが、澪がすかさず言った。
「今日、赤字を出した商人がか?」
「そいは、もう言わんでよかーっ!」
三人の笑い声が、小部屋に響いた。
*
しばらくして、おたえは部屋を出ていった。
明日の朝、もう一度荷の数を確かめるという。
湊一と澪だけが残された。
机の上には、まだ帳面が開かれていた。
澪が、その文字を眺める。
「……そなた、嬉しそうじゃな」
「そう見える?」
「ああ」
湊一は、少し照れくさそうに笑った。
「源太も、おたえも、すごいなと思ってさ」
「うむ」
「俺が何か言う前に、自分で考えるようになった」
澪は頷いた。
「そなたが教えたからであろう」
「いや」
湊一は首を振った。
「みんなが、自分で覚えたんだよ」
窓の外から、遠く港の音が聞こえる。
まだ、舟の行き交う音がしていた。
「昔さ」
湊一が呟いた。
「俺、堤防を造れば人を守れると思ってた」
澪が顔を向ける。
「……今は違うのか?」
「造るだけじゃ駄目なんだ。維持する人がいて、危ないときに逃げる人がいて、次に直す人がいる」
湊一は、窓の向こうを見た。
「そういう仕組みがあって、初めて人を守れる」
澪は静かに聞いていた。
「商売も一緒なんだな」
「……そうじゃな」
「一度売れたからって、終わりじゃない」
湊一は帳面を閉じた。
「続けられるようにしなきゃいけない」
澪は、少しだけ微笑んだ。
「ならば、そなたの仕事はまだまだ終わらぬな」
「そうみたいだ」
「困った男じゃ」
「え?」
「田を造れば終わりかと思えば、次は村。村が豊かになれば、今度は商い。その次は蔵か」
澪は、湊一を見つめた。
「そなた、どこまで広げるつもりじゃ?」
湊一は、少し考えた。
そして笑った。
「……百万石くらい?」
澪が目を丸くする。
次の瞬間。
「ふふっ」
小さく笑った。
「大きく出たのう」
「夢は大きく、ってね」
「ならば、わたしも付き合わねばならぬな」
「……いいの?」
澪は、当たり前のように答えた。
「そなた一人では、また無茶をするであろう」
「……否定できないな」
「ゆえに、わたしがおる」
そう言って、澪は静かに笑った。
湊一も笑った。
港には、月が昇っていた。
*
翌朝。
おたえは、誰よりも早く起きていた。
明謝楼の裏庭で、帳面を広げている。
昨日の損失。
残った品。
次の商いに必要な銭。
それから。
まだ何も書かれていない、新しい頁。
おたえは、筆を取った。
しばらく考える。
そして、大きく四つの丸を描いた。
一つ目。
困ったときの、米。
二つ目。
壊れたものを直すための、銭。
三つ目。
次の商いを始めるための、品。
四つ目。
……。
そこで、筆が止まった。
「……もう一つ」
何にしよう。
おたえは、昨日の出来事を思い出した。
源太が学んだ、知らない海のこと。
健太が考え始めた、新しい荷造り。
小春が覚えたがっている、異国の言葉。
そして。
白瀬が、村の子どもたちへ教えてきたこと。
「……そうたい」
少女は、にっこり笑った。
四つ目の丸に、字を書き込む。
まだ拙い文字だった。
けれど、その意味ははっきりしていた。
――学び。
「よし!」
おたえは、勢いよく立ち上がった。
「白瀬しゃーん!」
明謝楼に、元気な声が響き渡る。
「なんか、また思いついたぞーっ!」
その声に、二階から湊一の返事がした。
「今度は何だー!」
「蔵たい!」
「蔵?」
「四つに分けると!」
「……四つ?」
「そう! 四つたい!」
おたえは、朝日に向かって帳面を掲げた。
「みんなが困らんための、四つの蔵ば造ると!」
その声を聞きつけて、源太が顔を出す。
健太も、小春も。
ガタ吉まで、寝ぼけ眼で飛び出してきた。
「蔵?」
「なんば入れると?」
「団子も入れてよか?」
「ガタ吉は黙っとって!」
また、笑い声が起こった。
けれど。
おたえの目は、本気だった。
昨日、初めて知った。
銭を稼ぐだけでは、商いは続かない。
品を売るだけでは、人は豊かにならない。
困ったときに助け合えるように。
失敗しても、また立ち上がれるように。
そして。
自分たちより小さな子どもが、もっと遠くまで行けるように。
そんな商いを、してみたい。
おたえは、帳面を胸へ抱いた。
「……うち、やってみたか」
その言葉に、湊一は静かに頷いた。
「よし。みんなで考えよう」
朝の光が、明謝楼の屋根を照らしていた。
長崎の港では、今日も新しい舟が出ていく。
品を積み。
人を乗せ。
約束を運んで。
そして、また帰ってくる。
一舟の信用から始まった、小さな商い。
それは今、諫早の未来を支える、大きな仕組みへと変わろうとしていた。
だが――。
「……おたえ」
湊一が、ふと尋ねた。
「その四つの蔵、誰が管理するんだ?」
「……え?」
「米を出すときは、誰が決める?」
「……え?」
「そもそも、誰の銭で造る?」
「…………え?」
おたえの顔から、笑みが消えた。
澪が、そっと口元を隠す。
源太が笑う。
健太も笑う。
小春まで笑い始めた。
「……白瀬しゃん」
「ん?」
「……蔵ば造るって、難しかとね」
湊一は、大きく頷いた。
「そうだな」
そして、にやりと笑う。
「でも、面白いだろ?」
おたえは、しばらく考えた。
やがて。
その顔にも、ゆっくりと笑みが戻った。
「……うん!」
少女は帳面を開いた。
「なら、まずはみんなで相談たい!」
こうして、高来津の新しい普請が始まろうとしていた。
海から得た実りを。
人から得た信用を。
次の世代へ渡すための――。
四つの蔵の物語が。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
今回のテーマは「信用」です。
商売で損をしても、取り戻せるものがあります。
けれど、失った命だけは取り戻せません。
源太の決断と、おたえの覚悟。二人とも、諫早の村で育ったからこその成長を見せてくれました。
そして、赤字から生まれた新しい夢。
次回、第四十七普請「四面蔵」。
米も、銭も、技術も、学びも。
みんなの未来を守るため、今度はおたえが大きな普請に挑みます!
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