第四十五普請 干潟の品
長崎の港から、ついに唐の国へ――!
明美を師匠に迎え、商人への道を歩み始めたおたえ。
今度の相手は、海を越えて商いをする唐商人です。
美味しい魚なら、きっと売れる!
……ところが、商売はそう簡単にはいかないようで?
小春の唐語修行も始まり、今日も長崎は大賑わいです!
長崎の朝は、忙しい。
夜明けとともに港では荷を運ぶ人足たちの声が響き、坂道を下る荷車が石畳をがたがたと鳴らしていた。
潮の匂いに、炊きたての飯の香り。
どこからか聞こえてくる、聞き慣れない異国の言葉。
そんな長崎の一角にある料理屋、明謝楼。
その二階から、突然、景気のよい声が響き渡った。
「うっひゃああ! こいでうちも大金持ちたい!」
白瀬湊一は、湯飲みを持ったまま動きを止めた。
「……朝から何事だ?」
隣で団子を食べていたガタ吉が、目を輝かせる。
「金持ち!? おいにも団子ば買うてくれるとやろか!」
「まず働け」
「おいは働いとるばい!」
「今は食ってるだろ」
「こいも大事な仕事たい!」
何がどう大事なのかは分からない。
だが、ガタ吉が幸せそうなので放っておくことにした。
問題は、二階である。
◇
おたえは、朝早くから帳面を広げていた。
昨日、明美の助けを借りながら、長崎の飯屋と継続して魚を売る約束を取りつけた。
自分の力で品を売った。
それも、一度きりではない。
次も買ってもらえる。
その喜びは、夜が明けても少しも薄れていなかった。
むしろ、膨らんでいた。
「まず、おっ母に新しか着物ば買うやろ」
おたえは筆を動かす。
「そいから家の屋根ば直して、長吉ん家には牛ば一頭……健太には立派な道具ば買うて……」
うんうん、と一人で頷く。
「小春には、なんば買うてやろうかねえ」
「うちは別によかよ?」
「ひゃっ!」
いつの間にか背後に立っていた小春を見て、おたえは飛び上がった。
「勝手に人の帳面ば覗かんで!」
「だって、おたえが朝から一人で笑いよるけん」
「笑うとらん!」
「笑いよったばい。こがん顔して」
小春は頬を膨らませ、目を細めて、何ともいやらしい笑みを浮かべてみせた。
「そがん顔しとらん!」
「しとった!」
二人が騒いでいると、階段から涼しい声がした。
「朝から元気のよかこと」
明美だった。
赤い衣の袖を軽く押さえ、階段を上がってくる。
その目がおたえの帳面に止まった。
「あら。もう商いの勘定ばしよると?」
「はいっ! 明美師匠!」
おたえは胸を張った。
「うちが大きか商人になったときの計画です!」
「へえ。見せてごらん」
「もちろんです!」
明美は帳面を受け取り、一行ずつ目を通した。
しばらく沈黙が続く。
「……おたえ」
「はい!」
「仕入れの銭は?」
「……へ?」
「魚を買う銭たい」
「そいは……」
「長崎まで運ぶ人の手間賃は?」
「……あ」
「売れ残ったら、どうすると?」
「……ああ」
「それから、あんたがおっ母さんに買う着物の銭は、どこから出てくると?」
おたえの顔が、見る見る青くなった。
「し、師匠……!」
「なんね?」
「うちの夢ば、朝から全部壊さんでください!」
小春が腹を抱えて笑い出した。
明美も口元を押さえる。
「夢ば見るとはよかことよ。だけど、銭は数えんと逃げていくと」
「銭が逃げる!?」
「そう。あんたが寝とる間にもね」
「そ、そがん恐ろしかもんやったとですか……」
おたえは慌てて帳面を抱き締めた。
ちょうどそのとき、階下から声が響いた。
「明美! おたえはおるか!」
明美の父、鈴建華だった。
「父ちゃん、どげんしたと?」
「港から知らせじゃ」
建華は階段を上がり、手にした紙をひらひらと振った。
「唐船の買付けを取り仕切る商人が、諫早の干魚を見たいそうじゃ」
おたえの動きが止まる。
「……唐船?」
「そうじゃ」
「唐の国へ行く、あの船ですか?」
「ほかに何がある」
おたえは、ゆっくりと小春を見た。
小春も見返す。
二人の目が、同時に大きく開いた。
「うわああああっ!」
またしても明謝楼に歓声が響き渡った。
◇
「いいか、おたえ。まず落ち着け」
白瀬が言った。
「はいっ!」
「深呼吸」
「すううう……はあああ……」
「もう一回」
「すううう……はあああ……」
「よし。何をしに行く?」
「唐の国で大金持ちになります!」
「全然落ち着いてない!」
澪が隣で小さく笑った。
「よいではないか。夢を見るのは自由じゃ」
「夢を見るのと、今から唐へ渡るつもりになるのは違うだろ」
「……そなたも似たようなものではないか?」
「俺?」
「初めて海を干拓すると申したとき、どれほど大きなことを言うておった?」
白瀬は言葉に詰まった。
確かに。
海を干して田んぼを作る。
そんな話を初めて口にしたとき、周囲の人々は何を言っているのかと呆れていた。
「……まあ、夢が大きいのは悪くないか」
「そうじゃ」
澪は満足そうに頷いた。
「ただし、夢には働いてもらわねばならぬ」
「それはそうだな」
明美が、おたえの肩を軽く叩いた。
「今日はあんたが商談するとよ」
「えっ?」
「うちが全部代わりに話したら、あんたの商いにならんやろ?」
「で、でも、唐の人は言葉が……!」
「そいは父ちゃんとうちが手伝うけん」
「値段は?」
「あんたが考えんね」
「品物は?」
「あんたが説明せんね」
「もし失敗したら?」
明美は少しだけ表情を和らげた。
「失敗したら、何が悪かったか考えればよか」
おたえは明美を見上げる。
「……師匠」
「なんね?」
「やっぱり怖かです」
「うん」
「うち、できるやろか」
明美は、すぐには答えなかった。
代わりに、おたえの胸元にある帳面を指した。
「昨日、飯屋の人と話したときも怖かったやろ?」
「……はい」
「でも、逃げんかった」
「はい」
「なら、今日も同じたい」
おたえは帳面を抱き直した。
そして、小さく頷く。
「……やってみます!」
「よし!」
明美が明るく笑った。
「そいでこそ、うちの弟子たい!」
◇
港へ向かう道は、人で溢れていた。
肩に俵を担ぐ人足。
荷車を引く男たち。
威勢よく客を呼ぶ商人。
干した魚の匂いが漂ったかと思えば、次の角からは薬種や香木の独特な香りが流れてくる。
木綿の反物が積まれ、陶器を詰めた箱が縄で固く縛られていた。
白瀬は、その光景に目を奪われる。
「……すごいな」
現代の長崎も港町だ。
だが、目の前の長崎は、何もかもが違う。
大きな荷役機械もない。
自動車もない。
荷物は人の肩と手で運ばれる。
それでも港は動いていた。
人が声を掛け合い、品が運ばれ、銭が行き交う。
どこを見ても、暮らしを支える仕事がある。
「白瀬しゃん!」
小春が前を指差した。
「見て! 見て!」
湾内には、何艘もの船が浮かんでいた。
小さな和船の向こうに、ひときわ大きな唐船が見える。
高い船尾。
太い帆柱。
幾重にも張られた綱。
白瀬は思わず足を止めた。
「……あれが唐船か」
ガタ吉も口を開けている。
「ふ、ふとか……!」
「でかいな」
「こがん大きか木の塊が、なんで沈まんと!?」
「船だからな」
「そいは分かっとる!」
ガタ吉は両手を広げた。
「おいらの川舟とは、あまりにも違うばい!」
白瀬は笑った。
「まあ、理屈は同じだよ。水に浮く力を利用してるんだ」
「ふむ……」
ガタ吉は腕を組む。
「なら、もっと大きか船も作れると?」
「作れるさ」
「山より大きか船も?」
「さすがに山は……いや、現代には相当大きな船もあるな」
「げんだい?」
「……未来の話」
「また白瀬どんの未来話か!」
ガタ吉が笑う。
そんな二人を見て、澪がため息をついた。
「まったく。そなたらは船を見ただけで一日潰しそうじゃな」
「だって澪、すごいだろ?」
「すごいことは認めよう」
澪は港へ目を向けた。
大小の船が浮かぶ水面。
潮がゆっくりと動いている。
山に囲まれた湾の奥まで、その流れは届いていた。
「……海が、これほど人を集めておるのじゃな」
白瀬は頷いた。
「ああ。海は土地を隔てるだけじゃない。遠く離れた場所をつなぐ道にもなる」
澪は、その言葉を確かめるように繰り返した。
「……海が、道になる」
水を守る者にとって、それは不思議な響きだった。
水は田を潤す。
水は川を流れる。
水は、ときに人の命を奪う。
だが、ここでは水が人と人を結びつけている。
澪は、少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
◇
「多謝!」
突然、小春が叫んだ。
唐船から荷を降ろしていた一人の男が、驚いて振り向く。
小春は満面の笑みで、もう一度言った。
「多謝!」
男は一瞬きょとんとしたあと、笑い声を上げた。
何やら早口で話しかけてくる。
「……?」
小春は固まった。
男はさらに何かを言う。
「……えっと」
小春が助けを求めて明美を振り向いた。
「明美しゃん! 今、なんて言わしたと!?」
「なんで礼ば言いよると、って」
「えっ?」
「小春。多謝は、ありがとうって意味たい」
「……あっ!」
小春は顔を真っ赤にした。
「まだ何もしてもろうとらんかった!」
男は腹を抱えて笑っている。
つられて小春も笑った。
だが、それだけでは終わらなかった。
男が荷を下ろそうとしていたので、小春は駆け寄り、置く場所を指差した。
男が頷く。
小春は一緒に軽い荷を運び、最後に深々と頭を下げた。
「多謝!」
今度は男も笑顔で礼を返した。
「……通じた!」
小春の顔が、ぱっと輝く。
「明美しゃん! 今度は通じたばい!」
「よかったねえ」
「うち、もっと覚えたか!」
「まだ一つしか覚えとらんとに?」
「一つ覚えたけん、次も覚えられると!」
小春は胸を張る。
白瀬は、その姿を見て感心していた。
知らない言葉。
知らない文化。
普通なら尻込みしてしまいそうな相手にも、小春は平気で飛び込んでいく。
いや、平気なのではない。
言葉が通じないことを、悔しいと思っている。
だからこそ、知ろうとしているのだ。
「……小春はすごいな」
思わず呟くと、澪が隣で頷いた。
「あの子は、人を恐れぬ」
「うん」
「そして、相手を知ろうとする」
白瀬は笑った。
「将来、大物になるかもな」
「すでに十分、大物ではないか?」
「それもそうだ」
◇
唐船のそばで、澪が足を止めた。
「……白瀬」
「ん?」
「あれは何じゃ?」
澪の視線の先には、船内に祀られた小さな像があった。
女性の姿をした神像である。
白瀬も目を細めた。
「あれは……」
「媽祖様じゃよ」
建華が答えた。
「媽祖?」
「海を渡る者を守ってくださる神様じゃ」
建華は穏やかに説明した。
嵐の海を渡る船乗りたちは、無事に港へ辿り着けるよう祈る。
故郷に家族を残して海へ出る者もいる。
二度と帰れぬかもしれない旅だからこそ、航海の守り神を大切にするのだと。
澪は、しばらく神像を見つめていた。
「……海の向こうにも、水を守る神がおるのか」
「そうじゃ。唐の船乗りたちにとって、大切なお方じゃ」
建華が頷く。
白瀬は、ふと悪戯心を起こした。
「水守先生。海外にも先生がいたみたいだな」
「……そなた」
澪の眉がぴくりと動いた。
「神々を、そのように軽々しく申すでない!」
「いや、尊敬してるって!」
「まったく!」
ぷいっと横を向く澪。
しかし、その目はすぐに神像へ戻った。
「……不思議じゃな」
「何が?」
「この地の水も、諫早の水も、遠い唐の海も……皆、つながっておる」
「そうだな」
「人は、それぞれ違う言葉を話し、違う暮らしをしておるのに……」
澪は小さく息を吐いた。
「水に祈る心は、同じなのじゃな」
白瀬は答えなかった。
ただ、澪の隣に立って港を眺めた。
波の向こうには、まだ見ぬ国がある。
その国にも、人がいて、暮らしがあって、大切な家族がいる。
そして水がある。
澪にとって、それは初めて触れる大きな世界だった。
◇
「さあ、おたえ。いよいよたい」
明美の声に、おたえは背筋を伸ばした。
港の荷捌き場に設けられた一角。
そこには、唐船の買付けを取り仕切る商人が待っていた。
四十を過ぎた頃だろうか。
落ち着いた顔立ちの男で、鋭い目をしている。
建華が一礼し、唐語で何かを話した。
男は頷き、おたえへ視線を向ける。
「……!」
おたえは思わず息を呑んだ。
これまで相手にしてきたのは、村人や長崎の飯屋の主人だった。
目の前にいるのは、海を越えて品物を売り買いする商人である。
衣も違う。
言葉も違う。
何より、こちらを見る目が違った。
値打ちのあるものか。
売れるものか。
信用できる相手か。
おたえは、そんな目で値踏みされている気がした。
「お、おはようございます!」
思い切って頭を下げる。
建華が訳した。
男は少し笑い、何かを答える。
明美が小声で教えた。
「まず品物を見せてほしか、って」
「はいっ!」
おたえは持参した魚籠を開けた。
中には、諫早から運んできた干魚が丁寧に並べられている。
有明海で獲れた小魚。
身の締まった魚。
塩を当て、日に干し、保存しやすくしたもの。
漁師たちが手間をかけて仕上げた品だった。
「こいは諫早の海で獲れた魚です!」
おたえは一尾を取り出した。
「干潟が広がる海で、潮の満ち引きが大きゅうて……魚も、よか魚の獲れるとです!」
建華が通訳する。
男は黙って魚を受け取った。
表を見た。
裏返した。
鼻に近づけた。
身を軽く折って、内側まで確かめた。
さらに別の魚を取り上げる。
おたえは固唾を呑んだ。
男が何かを言った。
「……!」
明美が訳す。
「味を確かめたいそうよ」
「はい!」
建華は厨房で試せるよう手配してくれた。
やがて、軽く火で炙った干魚が運ばれてくる。
香ばしい匂いが広がった。
男は一口食べる。
ゆっくりと噛む。
もう一口。
そして、小さく頷いた。
おたえの胸が高鳴る。
「どうですか!?」
建華が尋ねた。
男が答える。
明美の顔が明るくなった。
「美味しか、って!」
「やったあ!」
おたえは思わず拳を握った。
だが。
男は次の魚を手に取り、首を傾げた。
そして、いくつかの干魚を並べ始めた。
大きな魚。
小さな魚。
よく乾いた魚。
少し柔らかさの残る魚。
男の表情が、徐々に険しくなる。
「……?」
おたえの笑顔が消えた。
建華が長い説明を聞いたあと、静かに口を開いた。
「味はよい。じゃが……このままでは唐まで運ぶ品としては難しいそうじゃ」
「……え?」
◇
「ど、どこがいかんとですか!?」
おたえは思わず身を乗り出した。
明美が魚を二尾持ち上げる。
「おたえ。こっちとこっち、触ってごらん」
「はい……」
一尾は、しっかりと乾いている。
もう一尾には、まだ少し柔らかさが残っていた。
「……違います」
「そう。乾き具合が違うとよ」
「でも、どっちも美味しかです!」
「今日食べるならね」
明美は、柔らかい方の魚を置いた。
「でも、唐の国まで船で運ぶとしたら?」
「……」
「海の上では、雨も降る。湿った空気もある。何日も荷の中に置かれることもある」
おたえは魚を見る。
「……傷むとですか?」
「傷むこともある」
建華が続けた。
「一つ傷めば、その荷全体を疑われる。海の向こうでは、簡単に取り替えることもできん」
おたえは、昨日の飯屋の主人の顔を思い出した。
近くの飯屋なら、何か問題があればすぐに駆けつけられる。
事情も説明できる。
新しい品を持って行くこともできる。
だが、唐の国は違う。
一度船が出たら、追いかけることなどできない。
「……遠かところに売るって、そがん大変なことやったとですね」
男はさらに何かを話した。
建華が訳す。
「同じ品として買うなら、品質を揃えてほしいそうじゃ」
「品質……?」
おたえは聞き慣れない言葉に首を傾げる。
白瀬が説明した。
「品物の出来具合ってことだよ」
「出来具合……」
「魚の大きさや乾き具合がばらばらだと、買う側は困るんだ」
おたえは、自分の魚籠を見つめた。
村の漁師たちが懸命に獲った魚。
大切に塩を当て、干した魚。
どれも自慢の品だ。
それなのに、売れないと言われる。
「……はがいか」
小さく呟いた。
「おたえ?」
小春が顔を覗き込む。
「こがん美味しか魚なのに……」
おたえは唇を噛んだ。
「なんで分かってもらえんとやろ……!」
明美は、何も言わなかった。
白瀬も、口を挟まない。
おたえが自分で考える時間を、二人は待っていた。
◇
おたえは、魚籠の前にしゃがみ込んだ。
魚を一尾取り出す。
また一尾。
並べる。
見比べる。
手で触る。
何度も何度も繰り返した。
最初は、どれも同じに見えた。
けれど、よく見ると違う。
大きさが違う。
身の厚さが違う。
乾き具合が違う。
おたえは、ふと顔を上げた。
「……白瀬しゃん」
「ん?」
「田んぼば作ったとき、全部同じにせんかったですよね?」
白瀬は少し驚いた。
「田んぼ?」
「水の入りやすかところと、入りにくかところ。土の違うところ。全部、別々に考えたとやろ?」
「ああ」
白瀬は頷いた。
「同じ土地に見えても、場所によって条件が違うからな」
「……そいなら」
おたえは魚をもう一度並べた。
「魚も、同じもん同士で分ければよかとやろか?」
明美の目が、わずかに動いた。
「……続けんね」
「大きか魚と小さか魚ば分ける。よく乾いた魚と、まだ柔らかか魚ば分ける」
おたえは手を動かした。
「そしたら、こっちの魚は唐へ持っていける。こっちは長崎の飯屋に売れる」
小春も手伝い始めた。
「おたえ、こいはどっち?」
「そいは大きか方!」
「こいは?」
「もう少し乾かさんば!」
あっという間に魚の山がいくつかに分かれた。
おたえは、それぞれを指差した。
「全部まとめて売れんなら、分けて売ればよか!」
明美が腕を組んだ。
「……なるほどねえ」
その声には、少しだけ驚きが混じっていた。
白瀬も感心する。
おたえは教えられた方法を真似したのではない。
自分で問題を見つけ、自分で工夫した。
「おたえ」
「はい!」
「じゃあ、次は何をすればいい?」
おたえは、唐商人を見た。
そして深く頭を下げた。
「……どの魚なら、買うてもらえるか教えてください!」
建華が通訳する。
男はしばらくおたえを見つめていた。
やがて、並べられた魚の中から一尾を選んだ。
それを別の魚と比べる。
身の厚さ。
乾き具合。
塩の具合。
一つずつ指で示しながら説明していく。
おたえは必死に頷いた。
分からないところは聞き直す。
建華が訳す。
また聞く。
明美も手伝う。
男は、次第に表情を和らげていった。
おたえは帳面を開き、教えられたことを書き留めた。
まだ難しい文字を自在に書けるわけではない。
だから、魚の大きさを絵に描いた。
乾いた魚には丸をつけた。
もっと干す必要のある魚には、別の印をつけた。
数も記した。
あとで見返して分かるように。
それは、商売人として初めて自分の手で作った、大切な記録だった。
「……よし!」
おたえは顔を上げる。
「次は、もっとよか魚ば持ってきます!」
明美が笑った。
「その前に、まだ話は終わっとらんよ」
「……へ?」
建華が、唐商人の言葉を訳した。
「それでは、まず少しだけ注文したいそうじゃ」
「……え?」
「試しに、船へ積む品を用意してほしいと」
おたえは固まった。
「……ちゅ、注文?」
「そうじゃ」
「うちの魚を?」
「うむ」
「唐の国へ?」
「そうじゃと言うとろうが」
一拍。
二拍。
おたえの両手が、ぷるぷると震え始めた。
「……や」
明美が素早く口を開く。
「おたえ、ここは商談の場たい。大声は――」
「やったあああああっ!」
間に合わなかった。
港中に響き渡るほどの歓声に、人足たちまで振り向いた。
◇
だが、本当の試練はここからだった。
唐商人は、さらに希望する数量を伝えた。
最初は少量。
その品がよければ、次はもっと多く。
さらに、安定して納められるなら、継続した取引も考えるという。
おたえの目が輝いた。
「継続……!」
昨日の飯屋。
今日の唐船。
もし、どちらにも魚を売れるようになれば。
諫早の魚は、今までよりずっと高く売れるかもしれない。
漁師たちも喜ぶだろう。
村に銭が入る。
母にも新しい着物を買える。
おたえは勢いよく口を開きかけた。
「できます!」
……と言いそうになって。
止まった。
頭の中に、昨日の明美の言葉が蘇った。
売ることより、また買ってもらうこと。
品物を揃えること。
約束を守ること。
そして、白瀬が以前から口にしていた言葉。
無理をすれば、どこかに皺寄せが来る。
おたえは、諫早の浜を思い浮かべた。
朝早くから舟を出す漁師たち。
魚を運ぶ源太。
籠を工夫する健太。
浜で魚を干す村人たち。
長吉の家族。
小春の家族。
そして、魚を待つ村の人々。
獲れた魚を全部売ってしまったら。
村の人々は、何を食べるのだろう。
天気が悪くて魚が獲れなかったら。
注文を守るために、漁師たちへ無理をさせるのだろうか。
おたえは、ぎゅっと拳を握った。
「……建華様」
「どうした?」
「訳してもろうても、よかですか?」
「もちろんじゃ」
おたえは唐商人をまっすぐに見た。
「今のうちには、そがん大きか約束はできんとです」
明美が、はっと顔を上げた。
白瀬も驚いた。
おたえは続ける。
「諫早の漁師たちと相談せんば、どれだけ魚ば用意できるか分からんとです」
言葉を一つずつ選ぶ。
「でも……!」
顔を上げた。
「まず、少しだけ買うてください!」
建華が訳す。
「そいで、よか魚やったって思うてもろうたら、次はもっと売りたかです!」
おたえの声が震えた。
それでも、逃げなかった。
「うちは、何回でも買うてもらえる商人になりたかとです!」
建華が最後まで訳す。
唐商人は、しばらく黙っていた。
おたえの額に汗が滲む。
断られるかもしれない。
せっかくの注文が、なくなるかもしれない。
それでも、嘘はつかなかった。
やがて。
男の口元が、ゆっくりと緩んだ。
建華が頷く。
「……まずは、その約束でよいそうじゃ」
「……!」
「ただし、次に持ってくる品を見てから、さらに大きな取引をするか決めたいと」
おたえは何度も頷いた。
「はい! はいっ!」
そして、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます!」
建華が訳すより先に、唐商人は微笑んでいた。
言葉は分からなくても。
その顔を見れば、感謝の気持ちは伝わったのだろう。
◇
商談が終わると、おたえはその場にへたり込んだ。
「……つ、疲れたあ……」
小春が駆け寄る。
「おたえ! すごかったばい!」
「もう、心臓の飛び出すかと思うた……」
「飛び出しとらん?」
「飛び出しとったら死んどる!」
二人が笑う。
その背後から、明美が歩いてきた。
「おたえ」
「……師匠」
おたえは慌てて立ち上がった。
「うち、ちゃんとできとったですか?」
明美は、すぐには答えなかった。
おたえの帳面を受け取り、ゆっくりと眺める。
魚の絵。
丸や印。
数量。
聞き取った条件。
決して綺麗な帳面ではない。
だが、必死に考えた跡が残っている。
「……そうねえ」
明美は少し考えた。
「まだまだたい」
「ええっ!」
「最初から大騒ぎするし、すぐ儲けた気になるし、値段の話もまだ甘か」
「うう……」
「それに、注文を取っただけで安心したらいかん。約束どおり品物ば届けて、初めて商いになると」
おたえの肩が落ちる。
しかし。
「……でも」
明美の声が柔らかくなった。
「最後の返事は、よかったよ」
おたえは顔を上げた。
「……ほんとですか?」
「うん」
明美は笑った。
「できんことは、できん。そいでも、できるようになりたか。そう言える商人は、悪くなか」
「……師匠!」
「ただし、これからもっと勉強してもらうけんね」
「はいっ!」
おたえは嬉しそうに頷いた。
白瀬は、そのやり取りを少し離れたところから見ていた。
澪が隣に来る。
「そなた、嬉しそうじゃな」
「……分かる?」
「顔に書いてある」
白瀬は苦笑した。
「おたえ、本当に成長したなと思ってさ」
「そうじゃな」
「最初は自分が大儲けすることばっかり考えてたのに」
「今でも考えておるであろう」
「……まあ、そうだけど」
澪がくすくすと笑う。
「それでよいではないか」
「え?」
「自分のために何かを欲する。それも、人が生きる力じゃ」
澪はおたえを見つめた。
「ただ、それだけではないと知ったのじゃろう」
白瀬は頷いた。
「ああ」
自分も豊かになりたい。
家族にも、よい暮らしをさせたい。
村のみんなにも喜んでもらいたい。
その願いは、決して悪いものではない。
白瀬は、おたえが抱き締めている帳面を見た。
あの小さな帳面に、どれほど大きな未来が書き込まれていくのだろう。
◇
昼を過ぎた頃。
小春は、朝に出会った唐船の船乗りを見つけた。
「おった!」
駆け寄る小春。
「多謝!」
男はまた笑った。
今度は、昨日より少しだけ顔を覚えてくれたようだった。
小春は身ぶりを交え、色々と話しかける。
「お国はどこね?」
「家族はおると?」
「こがん大きか船で、何日かけて来たと?」
もちろん、日本語は通じない。
男も何か答えてくれるが、小春には分からない。
それでも、二人は楽しそうだった。
やがて男は、懐から小さな布包みを取り出した。
中には、旅の間に大切にしているらしい小さな飾りが入っていた。
男はそれを見せながら、遠い故郷の方角を指差した。
小春は、その指の先を見つめた。
海。
どこまでも続く海。
その向こうに、この人の故郷がある。
小春は、急に静かになった。
明美が近づいてくる。
「どげんしたと?」
「……明美しゃん」
「うん?」
「この人、何ば話しよると?」
明美は男に尋ねた。
男は、ゆっくりと答えた。
建華の手も借りながら話を聞き、明美は小春に伝える。
「故郷には、家族のおるそうよ」
「……家族」
「海に出ると、長いこと会えんとって」
小春は男を見た。
男は笑っている。
だが、その目は少し寂しそうだった。
「……そうね」
小春は小さく呟いた。
そして、男に向かって深く頭を下げる。
「無事に帰ってね」
男には言葉が分からない。
だが、小春の表情を見て、何かを感じ取ったのだろう。
胸に手を当て、静かに頷いた。
小春は明美を振り向いた。
「……うち、もっと言葉ば覚えたか」
「そうね」
「ありがとうだけじゃ、足りん」
小春は真剣だった。
「この人が何ば考えとるか、どげんな暮らしばしとるか……自分の言葉で聞きたか」
明美は少し驚いた。
だが、すぐに微笑む。
「父ちゃんに頼んでみようか」
「ほんと!?」
「まずは簡単な言葉からね」
小春は満面の笑みを浮かべた。
「うん!」
そのときだった。
船乗りが、何やら鼻歌を歌い始めた。
異国の旋律。
聞いたことのない節回し。
小春は耳を傾ける。
「……綺麗か歌ねえ」
明美も足を止めていた。
船乗りが歌い終えると、明美は小さく口ずさんでみた。
同じ旋律を、確かめるように。
男は驚いた顔をしたあと、嬉しそうに笑った。
もう一度歌う。
明美も真似する。
少しずつ旋律が重なっていった。
小春が手を叩く。
「明美しゃん、すごか!」
「……ふふっ」
明美は照れくさそうに笑った。
「海の向こうにも、こがん歌のあるとね」
「明美しゃんの歌も、向こうまで届ければよか!」
「うちの歌を?」
「うん! 絶対喜ばすばい!」
明美は、しばらく海を眺めていた。
そして、小さく呟いた。
「……そんな日が来たら、面白かねえ」
潮風が吹いた。
遠い国の歌が、長崎の港に溶けていった。
◇
帰り道。
空に薄い雲が広がり始めた。
ぽつり。
白瀬の頬に、水滴が落ちる。
「……雨か?」
見上げると、雲の向こうから細かな雨が降り始めていた。
港の人足たちが、慌てて荷に覆いをかける。
商人が声を張り上げた。
「濡らすな! そっちの荷を先に運べ!」
人足たちが走る。
積み上げられた荷の間を、雨が細かく打ち始めた。
おたえは、思わず立ち止まった。
「……あ」
目の前で、一人の人足が慌てて荷を抱えている。
縄が緩みかけた箱を、別の男が支えた。
品物を守るために、大勢の人が動いていた。
「……明美師匠」
「なんね?」
「もし、うちの魚があそこにあったら……」
明美は雨を見た。
「ちゃんと包んどらんかったら、濡れるやろね」
「……」
「濡れたら、どうなる?」
「……傷むかもしれん」
「そう」
明美は、おたえへ視線を戻した。
「品物をよか状態で作るだけじゃ足りんとよ。買う人のところまで、よか状態で届けんば」
おたえは、港の荷を見つめた。
さっきまで、唐の国へ魚を売れることしか考えていなかった。
だが、その魚はどうやって運ぶのだろう。
諫早から長崎まで。
長崎から唐の国まで。
その間に雨が降ったら。
船が揺れたら。
荷が崩れたら。
商いは、売る約束をしただけでは終わらない。
むしろ、そこから始まるのだ。
「……うち、まだまだ知らんことばっかりたい」
明美が笑った。
「そいでよかと」
「よかとですか?」
「知らんことば知ったら、一つ賢うなるやろ?」
おたえは少し考えた。
そして、にっと笑った。
「なら、うちは明日にはもっと賢うなっとですね!」
「明日だけじゃ足りんよ」
「ええっ!」
「明後日も、その次も、ずっとたい」
「……師匠、厳しかあ!」
雨の中に、二人の笑い声が響いた。
◇
夕暮れ。
雨はすっかり上がっていた。
明謝楼へ戻った一行を、温かな料理の匂いが迎えた。
厨房では、明美の母・しげよが忙しく働いている。
「おかえり。商談はどうやったね?」
「母ちゃん!」
明美が笑う。
「おたえが、初めて唐船から注文ば取ったとよ!」
「あらまあ!」
しげよは嬉しそうに手を叩いた。
「そりゃ、よかったねえ!」
おたえは照れくさそうに笑った。
「まだ、ちょっとだけですけど……」
「ちょっとでも立派たい」
しげよは優しく頷いた。
「今日は頑張ったけん、たくさん食べんね」
「はいっ!」
おたえは勢いよく返事をした。
ガタ吉も両手を挙げる。
「おいも頑張ったばい!」
「ガタ吉は何ば頑張ったと?」
小春が尋ねる。
「唐船ば見た!」
「見るだけなら、うちも見たばい!」
「そいでも腹は減ると!」
白瀬が笑う。
「まあ、それは分かる」
澪も小さく頷いた。
「確かに、腹は減る」
「澪まで!」
一同、大笑い。
やがて、温かい汁物と飯が運ばれてきた。
香りのよい魚の料理。
野菜の煮物。
湯気の立つ椀。
長崎の一日が、ようやく静かに終わろうとしていた。
おたえは箸を手にしたまま、ふと動きを止めた。
「……白瀬しゃん」
「ん?」
「うち、今日、初めて分かったことのあるとです」
「何だ?」
おたえは少し考えた。
「魚ば売るって、魚だけ見とったらいかんとですね」
白瀬は箸を置いた。
「……うん?」
「魚ば獲る人がおって、干す人がおって、運ぶ人がおって……」
おたえは一人ずつ指を折る。
「そいから買う人がおって、食べる人がおる」
明美が黙って聞いていた。
「うちは今まで、魚が売れたら全部うちの手柄やと思うとったとです」
小春が、くすっと笑う。
「実際、そう言いよったもんね」
「……うるさか!」
おたえは顔を赤らめた。
だが、すぐに真剣な顔に戻る。
「でも、違うとですね」
白瀬は静かに頷いた。
「そうだな」
「みんなが働いてくれんば、うちは何も売れん」
「うん」
「そいに、うちが失敗したら、みんなにも迷惑のかかる」
おたえは、帳面を見つめた。
今日、唐商人から教わったこと。
魚の乾き具合。
大きさ。
荷造り。
約束した数量。
一つひとつが、村の仕事につながっている。
「……商いって、難しかですね」
明美が笑った。
「やっと分かったと?」
「はい……」
「でも、面白かやろ?」
おたえは顔を上げた。
少し考える。
そして、満面の笑みで答えた。
「……ものすごく面白かです!」
明美も笑った。
「そいでよか」
◇
食事が終わったあと。
白瀬とおたえは、店先の縁台に腰を下ろしていた。
夕暮れの長崎。
坂道の向こうから、まだ人々の声が聞こえる。
港では、夜に備えて船の灯が一つ、また一つと灯り始めていた。
おたえは、今日の帳面を膝に置いていた。
白瀬が尋ねる。
「なあ、おたえ」
「はい?」
「そんなに頑張って商売して、たくさん儲けたらどうするんだ?」
おたえは、すぐに答えようとした。
「そいはもう、おっ母に着物ば買うて……」
そこで、言葉が止まる。
少し考える。
「……それだけじゃなかです」
「うん?」
「村のみんなにも、よか暮らしばしてもらいたか」
白瀬は頷いた。
おたえは続けた。
「長吉んところは、毎日田んぼで頑張りよる。健太は、道具ば作ってくれる。源太は、魚ば運んでくれる」
「そうだな」
「うちが商いば頑張って、みんなの仕事が増えたら、みんなにも銭の入るとやろ?」
「ああ。うまく回ればな」
おたえは嬉しそうに笑った。
だが、その笑顔が少しずつ真剣なものに変わっていく。
「……それと」
「ん?」
「もし、また大雨が来たら……」
白瀬は、おたえを見た。
「また田んぼが壊れたり、家が流されたりしたら……銭のいるとですよね?」
「……そうだな」
「そんときに、銭がなかけん直せんとか、困っとる人ば助けられんとか……」
おたえは膝の上で拳を握った。
「そがんとは、嫌たい」
白瀬の胸に、静かなものが広がった。
弥助と岩蔵。
あの干拓の失敗で命を落とした二人のことが、頭をよぎる。
どれほど備えても、すべての災いを防げるわけではない。
だが。
備えがあれば、救える命がある。
銭があれば、直せる家がある。
米があれば、飢えずに済む家族がいる。
「……そうだな」
白瀬は、もう一度頷いた。
「そういうときのために、蓄えておくことも大切だな」
おたえは顔を上げた。
「……白瀬しゃん」
「ん?」
「うち、もっともっと商いば覚えます!」
「ああ」
「そいで、諫早ば、もっと豊かにするとです!」
白瀬は笑った。
「頼もしいな」
「任せとってください!」
おたえは胸を張った。
そのとき。
「おいの団子代も忘れんでくれよ!」
縁台の下から、突然声がした。
「うわっ!」
白瀬が飛び上がる。
覗き込むと、ガタ吉がちゃっかり座っていた。
「お前、いつからそこにいた!?」
「ずっと聞いとったばい!」
「聞くなら普通に出てこい!」
おたえが呆れた顔をした。
「ガタ吉には団子ば買うてやらん!」
「なんで!?」
「自分で働いて稼がんね!」
「おいは若棟梁ぞ!」
「なら、自分の団子代くらい稼げるやろ!」
「……そいは、そうじゃが!」
言い返せなくなったガタ吉に、白瀬は腹を抱えて笑った。
おたえも笑う。
長崎の夕暮れに、三人の声が響いた。
◇
その夜。
明謝楼の一室には、再び一行が集まっていた。
机の上には、おたえの帳面。
唐商人から示された条件を書き写した紙。
そして、諫早から運んできた干魚の見本が並べられていた。
建華が口を開く。
「さて。今日の商談はよかった。じゃが、ここからが大切じゃ」
おたえは姿勢を正した。
「はいっ!」
「まず、品物を揃えること」
「はい!」
「乾き具合を確かめること」
「はい!」
「決めた数量を、決めた日までに届けること」
「はい!」
建華は頷いた。
「それから、運ぶ間に品を傷めぬことじゃ」
「……はい!」
おたえは一つずつ帳面に書き足した。
明美が指を折る。
「魚ば獲る人。干す人。包む人。運ぶ人。みんなの仕事ば考えんばね」
「はい!」
「それから、荷を運ぶのにも銭がかかるけん」
「……はい!」
「商いの相手にも約束がある。勝手に増やしたり減らしたりもできんよ」
「はいっ!」
白瀬は、そのやり取りを聞きながら考えていた。
これまで諫早で行ってきたことは、主に農業と治水だった。
水路を整える。
田畑を増やす。
魚が戻る環境をつくる。
それによって、食べ物は増えた。
暮らしも少しずつ豊かになった。
だが、ここから先は違う。
作ったものを売る。
遠くまで運ぶ。
その利益で、さらに暮らしをよくする。
人と物と銭の流れを、考えなければならない。
ふと、白瀬は机の上の魚籠に目を落とした。
「……待てよ」
明美が振り向く。
「どげんしたと?」
白瀬は魚籠を指差した。
「これ、諫早から長崎までどうやって運ぶ?」
おたえは首を傾げた。
「……どうって?」
「今までは、運べる量を人の手で持ってきた。だけど、次は数が増えるんだろ?」
「……はい」
「大量の魚を運ぶなら、人手も時間もいる。しかも、途中で雨が降ったらどうする?」
おたえの表情が固まった。
「……あ」
「陸路なら山道を通る。荷車が通りにくいところもある」
白瀬は続ける。
「船なら一度に多く運べるかもしれない。でも、有明海から長崎の港まで海を回るとなると、距離も風も潮も考えなきゃいけない」
ガタ吉が腕を組んだ。
「川と海じゃ、勝手の違うばい」
「そうだな」
「海は広かけん、潮ば読めんと危なか」
澪も頷く。
「それに、海は突然荒れることもある。水の流れを読むだけでは足りぬぞ」
白瀬は、おたえを見た。
「それから、魚を運ぶ籠も考え直した方がいいかもしれない」
「……籠?」
「今のままだと、雨や波しぶきに弱い。荷を重ねたときに、下の魚が潰れるかもしれない」
おたえは、自分の帳面を見つめた。
さっきまで、唐船から注文をもらった喜びでいっぱいだった。
だが。
品物を揃える。
傷まないように包む。
期日までに運ぶ。
そして、それを全部、商売として成り立たせる。
考えなければならないことが、次から次へと増えていく。
「……白瀬しゃん」
「ん?」
「商いって……」
おたえは震える声で言った。
「……こがんに大変なことやったとですか?」
白瀬は少し考えた。
そして、笑った。
「まあ、そういうことだな」
「最初に教えてくださいよおおお!」
おたえの叫びが響き渡る。
明美が笑う。
「教えたやろ? 商いは簡単やなかって」
「こがんに大変とは聞いとらんです!」
「今、分かったけんよかたい」
「よくなかですうう!」
小春も大笑いしている。
澪は口元を隠して笑った。
ガタ吉は、何故か得意げだった。
「おいは最初から分かっとったぞ!」
「嘘つかんね!」
「……ちょっとだけ分かっとった!」
また笑いが起こる。
だが、白瀬はその中で、静かに考えていた。
運搬。
荷造り。
大量の品物を扱うための道具。
そこまで考えたとき、二人の顔が浮かんだ。
源太。
そして、健太。
「……そうか」
白瀬が呟いた。
「何ね?」
おたえが顔を上げる。
「俺たちだけで考える必要はないんだ」
「……え?」
「源太は舟と海を知ってる。健太は道具を作るのが得意だ」
白瀬は笑った。
「諫早には、頼れる仲間がいるじゃないか」
おたえは目を見開いた。
そして、ぱっと顔を輝かせた。
「……そうたい!」
「まず諫早に戻って、みんなで相談しよう」
「はいっ!」
おたえは帳面を力強く閉じた。
「源太に、どげんして魚ば運ぶか聞きます!」
「うん」
「健太には、魚の濡れん籠ば作ってもらいます!」
「そうだな」
「長吉には……」
そこで一瞬、考え込む。
「……何ば頼もうか」
白瀬は笑った。
「長吉にも、村の食べ物を守る仕事があるだろ?」
「……あっ!」
おたえは頷いた。
「魚ば全部売ってしまわんように、みんなで考えんば!」
「そういうこと」
明美が満足そうに頷く。
「よか商いは、一人じゃできんとよ」
おたえは、大きく息を吸い込んだ。
そして、胸を張った。
「よか! うちは絶対に、諫早の魚ば唐の国まで届けてみせる!」
その声は、明謝楼の外まで響いた。
◇
その頃。
長崎の港に近い商家の一室では、一人の男が知らせを聞いていた。
「……諫早の娘が、唐船の注文を取っただと?」
報告に来た男が頭を下げる。
「はい。まだ試しの注文だけのようですが……」
商人は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
以前、諫早から来た品を買わぬよう、飯屋や商人たちへ働きかけた男だった。
田舎から来た小娘など、長崎の商売の厳しさを知れば、すぐに諦めると思っていた。
それなのに。
明謝楼の娘と手を組み。
飯屋との取引を取りつけ。
今度は唐船まで。
「……面白くないな」
男は低く呟いた。
「よい品だと言っても、売れねば意味はない」
そして、窓の外へ目を向ける。
港の灯が揺れていた。
「商いには、品物以外にも難しいことがあると……教えてやらねばならんか」
男の口元に、冷たい笑みが浮かんだ。
◇
明謝楼では、まだ笑い声が続いていた。
おたえは帳面を抱え、小春と何やら話している。
明美は二人を見ながら、楽しそうに茶を飲んでいた。
ガタ吉はいつの間にか団子を一つ増やしている。
澪がそれを見つけ、呆れた顔をした。
「ガタ吉。そなた、また食べておるのか」
「働く前には腹ごしらえが必要たい!」
「先ほども同じことを言うておったぞ」
「働くあとは、もっと腹の減ると!」
「まだ働いておらぬではないか!」
白瀬は、そんな仲間たちを眺めていた。
諫早の小さな村から始まった挑戦。
水路を直し。
田をつくり。
海と向き合い。
仲間を増やし。
そして今、長崎で商売を始めた。
自分一人では、何もできなかった。
だが、仲間がいれば。
もっと遠くへ進める。
もっと大きな夢を描ける。
白瀬は、机の上に置かれた魚籠を見つめた。
有明海で獲れた小さな魚。
かつては村の中で食べるだけだった魚が、今、海の向こうへ渡ろうとしている。
「……海から百万石、か」
小さく呟いた。
澪が振り向く。
「何か申したか?」
「いや」
白瀬は笑った。
「まだまだ、やることがいっぱいあるなと思って」
澪も微笑んだ。
「そうじゃな」
「大変だなあ」
「そなたが始めたことであろう?」
「……そうでした」
澪は、少しだけ白瀬に近づいた。
「だが、そなた一人ではない」
白瀬は澪を見た。
「わたしもおる。ガタ吉もおる。あの子らもおる」
澪は、おたえと小春へ目を向けた。
「そして、諫早には大勢の仲間がおる」
白瀬は、ゆっくりと頷いた。
「……ああ」
澪は満足そうに微笑んだ。
「ならば、何を恐れることがあろう」
その言葉に、白瀬は思わず笑った。
「澪って、たまにすごいこと言うよな」
「たまにとは何じゃ!」
「いつもです!」
「まったく、そなたは!」
二人の笑い声が、長崎の夜に溶けていった。
だが。
翌朝、一行が諫早へ戻る支度を始める頃には、もう新しい難題が待っている。
魚を守るための荷造り。
大量の荷を運ぶための舟。
そして、長崎の商人たちが決して見逃さない、商売の競争。
小さな注文を取っただけでは、終われない。
諫早の干潟で育った品を、海の向こうまで届けるために。
今度は、仲間たちの知恵を集める番だった。
おたえ、ついに唐船から初注文を獲得!
ですが、注文を取ることと、品物を無事に届けることは別のお話。
商いの厳しさを知りながら、おたえは少しずつ頼もしい商人へと成長していきます。
そして小春も、海の向こうの人々との交流を通じて、新しい夢を見つけ始めました。
ちなみに、長崎に渡った唐人たちは、航海安全の神様「媽祖」を大切にしていました。澪にとっても、異国の水の信仰との出会いは新鮮だったようです。
次回、第四十六普請「一舟の信用」。
今度は健太と源太の出番です!
二人の知恵と技術は、諫早の魚を無事に長崎まで届けられるのでしょうか?
次回もお楽しみに!
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