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『海から百万石 ~江戸時代に転移した国交省の土木職員、水守と河童と有明海の大干拓に挑む~』  作者: 天手古まい


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第四十四普請 値段は誰が決める

長崎商売合戦、いよいよ大勝負!


目の前の大金に揺れるおたえ。

そんな彼女に、とんでもない幸運が舞い込みます。


一方、誰とでも仲良くなれる小春にも、新しい世界との出会いが……。


商いと友情、そして一匹の尾曲がり猫。


二人の少女が、長崎の町を駆け回ります!

 長崎の港から、船の鐘が聞こえてきた。


 潮の匂いを含んだ風が、飯屋の軒先を吹き抜ける。


 おたえの目の前には、銭が並んでいた。


 今日一日、あれほど苦労して集めた銭より、ずっと多い。


 残った干魚と、健太が作った火起こし筒。


 それらをまとめて買うという商人は、腕を組んで返事を待っていた。


「どうした。悪い話ではあるまい?」


「……うん」


 おたえは小さな帳面を握りしめた。


 確かに悪い話ではない。


 この銭があれば、高来津の皆に土産が買える。


 長吉には新しい農具を。


 源太には立派な釣り針を。


 健太には、もっとよい道具を作るための材料を。


 おっ母には、きれいな布だって買って帰れるかもしれない。


 そして自分は――。


(村一番の大商人、おたえ様の凱旋たい!)


 頭の中で、村人たちが道の両側に並んでいる。


『おたえ様、ばんざーい!』


『さすがは高来津の宝!』


『どうか、うちの娘も商いば教えてください!』


(ふふふ……悪うなか。実に悪うなかばい……!)


「おたえ?」


 小春に袖を引かれ、我に返った。


「顔、にやけとるよ?」


「に、にやけとらん!」


 慌てて頬を押さえる。


 隣では、白瀬湊一が何とも言えない顔でこちらを見ていた。


「……また何か、とんでもないこと考えてただろ」


「考えとらん!」


「まだ何も言ってないぞ」


「白瀬しゃんの顔に書いてあった!」


「俺のせい!?」


 小春が吹き出した。


 けれど、明美(ミンメイ)だけは笑わなかった。


 彼女は銭にも、商人にも手を出さない。


 ただ、おたえの返事を待っている。


『どうして、その値と約束を選んだのか』


 さっき明美に言われた言葉が、胸の中によみがえった。


 おたえは帳面を開く。


 今日売れた焼きおにぎり。


 魚の吸い物。


 薪に使った銭。


 飯屋の主人へ渡す取り分。


 そして、次に魚を欲しいと言ってくれた人の名前。


 干魚をもっと欲しいと言ってくれた飯屋の主人。


 火起こし筒を面白がってくれた人たち。


 今、この商人へ全部売ってしまえば、その人たちとの約束はどうなるのだろう。


「……あのね」


 おたえが顔を上げた。


「今日の魚は、売ってもよか。ばってん、全部は困ると」


 商人の眉が動いた。


「なぜだ?」


「次に欲しかって言うてくれた人に、見せる分も残したかけん」


「ほう」


「それと、火起こし筒は健太が作ったもんたい。うちが勝手に、これから先の分まで売る約束はできん」


 健太が驚いたように顔を上げる。


「おたえ……」


「村に戻って、何本作れるか確かめんば分からんやろ?」


「う、うん!」


 健太は大きく頷いた。


 商人はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。


「では、今後の品をわしへ優先して回す話は?」


「それも、村の皆と相談せんば決められん」


「わしは、そなたたちのために買い手を探す手間を引き受けると言っておるのだぞ?」


「分かっとる。そいは、ありがたか」


 おたえは息を吸った。


「ばってん、うちは、また長崎に来たかとよ」


「……何?」


「今日だけ売って終わりじゃなか。来月も、その次も、ずっと商いばしたか!」


 声が少し震えた。


 けれど、目は逸らさなかった。


「じゃけん、今日の銭だけでは決められん」


 商人の目が細くなる。


「なるほどな」


 銭を一枚、指先で弾いた。


「だが、それではわしにも利がない。まとめて引き受けるからこそ、この値を出せるのだ」


「……そいは」


「今日の品を少し売るだけなら、わざわざわしが買う必要もあるまい」


 商人は銭を懐へ戻し始めた。


 一枚。


 また一枚。


 おたえの目の前から、大金が消えていく。


(あああああっ! うちの銭がぁぁぁ!)


「では、話はなかったことにしよう」


 商人は立ち上がった。


 おたえは思わず手を伸ばしかけた。


 待って。


 やっぱり売ります。


 そう言えば、あの銭は戻ってくる。


 けれど――。


 高来津で荷を積んでくれた村人たち。


 何度も火起こし筒を作り直した健太。


 海で魚を追いかけていた源太。


 皆の顔が浮かんだ。


 おたえは伸ばしかけた手を、ぎゅっと握った。


「……分かった」


 商人が振り返る。


「また話ができるとよかね」


「ふむ。気が変わったら訪ねてこい」


 商人はそのまま通りへ消えていった。


 おたえは、しばらく動かなかった。


「……終わった」


 ぽつりと呟く。


「終わってしもうたぁぁぁ!」


 がくりと膝をつく。


「うちの! 初めての! 大商談がぁぁぁ!」


「お、おたえ! 元気出さんね!」


 小春が背中をさする。


「ばってん、まだ魚は残っとるたい!」


「魚が銭に見えるくらい、今は悲しかとぉぉ!」


 湊一は苦笑した。


 しかし、何も言わなかった。


 商談がまとまらなかったのは事実だ。


 けれど、おたえは自分で考え、自分で決めた。


 明美も静かに頷いている。


 そのときだった。


「……にゃあ」


 一匹の猫が、飯屋の軒先へ入り込んできた。


 痩せた、茶色と白の混じった野良猫だった。


 何より目を引いたのは、その尻尾である。


 短めの尻尾は途中でくいっと折れ曲がり、先端が小さな鉤のようになっていた。


 猫は、その曲がった尻尾をぴんと持ち上げている。


 おたえは涙目のまま顔を上げた。


「……なんね、あんたまで笑いに来たと?」


「にゃあ」


「慰めてくれると?」


 猫は曲がった尻尾を、ぴくりと揺らした。


「……よか猫たい」


 おたえが手を伸ばした、その瞬間。


 ひょい。


 猫が台の上の干魚をくわえた。


 おたえの手が宙で止まった。


 猫と目が合う。


「こらぁぁぁぁっ!」


 猫が飛び出す。


「それ、うちの商売もんたいぃぃ!」


 おたえも飛び出した。


「おたえ!?」


 小春が慌てて追う。


「待てぇぇ! 泥棒猫ぉぉ!」


 人で賑わう長崎の通りを、少女二人と、鉤形の尻尾を揺らす一匹の猫が駆け抜けていった。


 湊一は呆然と見送った。


「……何でこうなるんだ?」


 ガタ吉が腕を組む。


「魚は大事たい」


「それはそうだけど!」


 澪は、猫が消えた路地をじっと見ていた。


「……妙じゃな」


「何が?」


「水の流れではない。人の縁というものも、あの娘の周りでは不思議な巡り方をする」


 湊一が首を傾げる。


「それ、どういう意味?」


「さあのう」


 澪は小さく笑った。


「追えば分かるやもしれぬぞ」


 このとき湊一は、まだ知らなかった。


 たった一匹の尾曲がり猫が、おたえの人生を変える出会いを運んでくることを。


     ◇


 猫は速かった。


 狭い路地を右へ。


 積んである薪の間を左へ。


 干した布の下をくぐり抜け、桶の並ぶ店先をひと跳び。


 折れ曲がった尻尾が、ひょこひょこと左右に揺れている。


「待たんねぇぇ!」


 おたえが追う。


 小春も追う。


「おたえ! こっち! 猫、右に曲がった!」


「見えとる!」


「そっちは左たい!」


「分かっとるぅぅ!」


 分かっていなかった。


 勢い余って別の路地へ飛び込んだおたえは、荷を担いだ男と正面からぶつかりそうになった。


「うわっ!」


「おっと!」


 男が慌てて荷を支える。


 おたえは尻餅をついた。


「いったぁ……」


「大丈夫か、お嬢ちゃん!」


「だ、大丈夫たい……」


 男が手を差し伸べる。


 おたえはそれにつかまって立ち上がった。


 後から来た小春が、すぐに頭を下げた。


「ごめんなさい! うちら、猫ば追いかけよって!」


「猫?」


「そうたい! 尻尾の曲がった猫に魚ば盗まれたと!」


 男は笑った。


「ああ、あの尾の曲がった猫か。さっき港の方へ走っていったぞ」


「港!?」


「ほら、あの荷の向こうだ」


「ありがとう!」


 おたえは再び駆け出そうとした。


 ところが、小春はまだ男の前に立っている。


「小春! 何しよっと!」


「おじちゃん、港で働いとると?」


「そうじゃ。船の荷を運んどる」


「重かろ? 腰、痛うならん?」


「ははは! 毎日やっとるけん、慣れたもんよ」


「ばってん、そん紐、ほどけかけとるよ?」


 男が荷を下ろして確かめる。


「おお、本当じゃ。危なかところじゃった」


 小春は、にっこり笑った。


「よかったね!」


「ありがとうな。お嬢ちゃん、名前は?」


「小春たい!」


「小春か。覚えとくぞ!」


 男は笑って荷を担ぎ直した。


 おたえは信じられないものを見るように、小春を眺めていた。


「……あんた、何しよっと?」


「おじちゃんと話しよった!」


「見れば分かるたい! 猫は!?」


「あっ!」


 二人は顔を見合わせた。


「逃げられたぁぁぁ!」


     ◇


 長崎の港は、村の浜とはまるで違っていた。


 大きな船が幾艘も浮かび、岸には荷が積み上げられている。


 麻袋。


 木箱。


 縄で固く縛った包み。


 人足たちが威勢よく声を掛け合い、荷を肩に担いで行き交っていた。


 船からは見慣れない衣服を着た男たちが降りてくる。


 聞こえる言葉も、ひとつではない。


 湊一が初めて長崎へ来たとき、その賑わいに驚いた理由を、おたえもようやく理解し始めていた。


「……ふとか船ばっかり」


 思わず足を止める。


 高来津の漁船とは大違いだ。


 あんな船に、いったいどれだけの荷が積めるのだろう。


「おたえ! 猫たい!」


 小春が指さした。


 見ると、茶白の猫が積み荷の陰から顔を出している。


 あの短く曲がった尻尾だ。


「ああっ! おったぁ!」


 おたえが走る。


 猫は慌てて逃げようとしたが、大きな木箱に行く手を阻まれた。


 右へ行こうとして、人足の足に驚く。


 左へ行こうとして、縄の束に足を取られる。


 最後は木箱の陰に飛び込み、くわえていた干魚をぽとりと落とした。


「捕まえたぁ!」


 おたえは干魚を拾い上げた。


「まったく! 人の商売もんば盗んでから!」


 猫は少し離れた場所に座り、曲がった尻尾を足元へ寄せて毛繕いを始めた。


 まるで反省していない。


「……なんね、その顔は」


 おたえは干魚を見下ろした。


 猫の歯形がついている。


 泥もついていた。


「……もう売れんね」


 がっくり肩を落とす。


「せっかく取り返したとに……」


 すると、小春が隣にしゃがんだ。


「ばってん、猫は腹が減っとったとやろ?」


「そいは分かるばってん……」


「その魚、もう売れんとやろ?」


「……うん」


「なら、猫にやればよかたい」


 おたえは目を見開いた。


「盗んだ猫に!?」


「だって、取り返したっちゃろ?」


「取り返したけど!」


「そいなら、今度はおたえがやる番たい!」


 何とも理不尽な理屈だった。


 おたえは、しばらく猫と睨み合った。


 猫は平然と、鉤形の尻尾を揺らしている。


「……あんた、運のよか猫たいね」


 大きくため息をつき、魚を猫の前へ置いた。


「ほら。もう盗んだらいかんとよ」


「にゃあ」


 猫は魚をくわえ、今度こそ荷の向こうへ消えていった。


「……ほんと、今日はついとらん」


 おたえが呟いた、そのときだった。


 背後から、聞き慣れない言葉が飛んできた。


「――――!」


「……え?」


 振り返る。


 そこには、唐風の衣服を着た男が立っていた。


 男はおたえの手元を指さし、何やら話しかけてくる。


「……なんね?」


 男が繰り返す。


 おたえは小春を見る。


 小春も首を傾げた。


「……分からん」


「うちも分からん」


 男は困った顔をしている。


 やがて、両手で魚の形を作るような仕草をした。


 おたえが目を見開く。


「……魚?」


 男が頷いた。


「魚ば探しよっと!?」


 おたえは魚が泳ぐ真似をした。


 男が大きく頷く。


「そうたい! 魚たい!」


 小春も両手を合わせて、魚が泳ぐ真似をする。


「こがんして泳ぐと!」


 男が笑い始めた。


 周囲の唐人たちまで集まってくる。


 何やら楽しそうに話している。


 小春はますます張り切った。


「ほら、魚は海におるやろ?」


 今度は大きな波の真似。


「そいば漁師が捕まえて!」


 網を引く真似。


「干したら、こがんなると!」


 両腕を広げ、干物になったつもりでじっとする。


 唐人たちが声を上げて笑った。


 おたえは頭を抱えた。


「小春! 何ばしよっと!」


「説明しよっと!」


「踊りにしか見えんたい!」


「ばってん、笑ってくれとるよ!」


 確かにそうだった。


 最初は警戒していた男たちが、今は皆、笑顔になっている。


 小春が誰かに何かを尋ねると、男たちは身振り手振りで答えようとしてくれた。


 それでも――。


 肝心なことが、さっぱり分からない。


 おたえは唇を噛んだ。


(魚ば欲しかとやろか……?)


 もしそうなら、商売になるかもしれない。


 けれど、いくら欲しいのか。


 どんな魚が欲しいのか。


 いつまでに必要なのか。


 何ひとつ分からない。


「……はがいか」


 その言葉を聞いた小春が、初めて笑顔を消した。


「……ほんとね」


 目の前の男は、何かを伝えたがっている。


 小春だって、聞きたいことが山ほどある。


 なのに、言葉が違うだけで、こんなにも遠い。


 小春は男を見上げた。


「……うち、あんたと話したかとに」


 もちろん、その言葉も伝わらなかった。


     ◇


「二人とも! こんなところにいたのね!」


 聞き覚えのある声がした。


 振り返ると、明美が人混みをかき分けてやってきた。


 後ろには湊一たちもいる。


「明美しゃん!」


 小春が駆け寄った。


「助けて!」


「どうしたの?」


「このおじちゃん、何か話しよらすとに、うちら、全然分からん!」


 明美は唐人の男を見た。


 そして、自然な調子で話しかけた。


 男の顔がぱっと明るくなる。


 返事が返ってきた。


 明美がまた尋ねる。


 男が船を指さす。


 さらに何か説明すると、明美は頷いた。


 おたえも小春も、口を開けたまま見ていた。


「……明美しゃん」


「なあに?」


「今、何ば話しよったと?」


「この人たちは、船で使う食べ物を探しているの」


「……食べ物?」


「ええ。保存の利く魚が欲しいそうよ」


 おたえの目が輝いた。


「干魚!?」


「そう。さっき、あなたが持っていた魚を見たんですって」


「……え?」


 明美は男ともう一度言葉を交わす。


「猫にあげた魚を見て、どこで手に入れたのか聞きたかったそうよ」


 おたえは固まった。


 脳裏によみがえる。


 尾曲がり猫。


 路地。


 尻餅。


 逃走。


 そして、猫にくれてやった干魚。


「……あの猫」


 おたえは震える声で呟いた。


「……もしかして、福の神やったと?」


「猫は猫だと思うけど」


 湊一が冷静に答えた。


「ばってん!」


「でも、すごい偶然だな」


「偶然じゃなか! きっと商いの神様が!」


「神様が猫を使って魚を盗ませたのか?」


「……そいは、ちょっと嫌な神様たいね」


 小春が噴き出した。


 明美も笑った。


 けれど、おたえはすぐに表情を引き締めた。


「明美しゃん!」


「何?」


「うちらの魚、見てもらえんやろか!」


 明美が目を細める。


「見本は残っているの?」


「ある! 飯屋に!」


「なら、まず何が必要なのか、詳しく聞いてみましょう」


 おたえは大きく頷いた。


「うん!」


 明美は再び唐人の男へ向き直った。


 小春も、その隣にぴたりとくっつく。


 男が何か言うたび、明美の顔を見る。


 明美が頷くたび、小春も頷く。


 何も分かっていないのに、頷く。


「……小春」


 おたえが小声で尋ねる。


「今の、分かったと?」


「全然!」


「なんで頷きよっと!?」


「何となくたい!」


「何となくで商談ば進めんでぇぇ!」


 唐人の男が、また笑った。


 その笑顔を見て、小春も笑う。


 不思議なものだった。


 言葉が分からないのに、この二人は、さっきより少し仲良くなっていた。


     ◇


 話を聞き終えた明美が、皆へ説明した。


 男は唐船の荷を扱う商人の手伝いをしているという。


 船で食べるための保存食を探しており、干魚にも興味がある。


 ただし、今ここで勝手に買い取れるわけではない。


 荷を扱う商人や、役所に関わる通事を通して話を進める必要がある。


「つまり、まだ売れたわけじゃないのか」


 湊一が確かめる。


「そうよ。でも、品を見せて、仕入れの相談をすることはできるわ」


 おたえは力強く頷いた。


「十分たい!」


 ところが、明美が続けた。


「それから、必要な数を聞いてみたんだけれど……」


「うん!」


「今、あなたたちが持ってきた分では、とても足りないわ」


「……え?」


「船に積む分だから、まとまった数が欲しいの」


 おたえは目を丸くした。


「そ、そがんいっぱい?」


 明美は頷く。


「しかも、長い間保存できること。荷の中で傷まないこと。大きさや干し具合が、ある程度揃っていることも大切なんですって」


 おたえの顔から、少しずつ笑顔が消えていった。


「……待って」


「何?」


「そい、うちらの村で作れるとやろか……?」


 分からなかった。


 魚なら獲れる。


 干魚だって作れる。


 けれど、これほどの数を、同じように仕上げられるのか。


 村の皆が食べる分だって必要だ。


 漁に出られない日もある。


 雨が続けば、魚を干すことも難しくなる。


 おたえは途方に暮れた。


(……こい、全部売れたら、どがん大金になるとやろ)


 思わず想像する。


 山のような銭。


 立派な店。


 店先には大勢の奉公人。


 自分は座敷で、扇子をぱたぱた。


『おたえ様、本日も大繁盛にございます!』


『うむ、苦しゅうなか!』


(ふふふふふ……!)


「おたえ?」


 小春が顔を覗き込む。


「また、にやけとるよ?」


「はっ!」


 おたえは慌てて首を振った。


 危ない。


 今の自分は、また大金の夢に飲み込まれかけていた。


 明美が静かに尋ねる。


「どうする?」


 おたえは顔を上げた。


「……何が?」


「買ってくれるかもしれないのよ。大きな商いになるかもしれない。でも、品が足りるか分からない。どうする?」


 先ほどの商談が頭をよぎる。


 銭を見て。


 欲しくなって。


 それでも、自分で決めた。


 今度も同じだ。


 おたえは息を吸った。


「……約束は、まだできん」


 明美が頷く。


「それから?」


「村へ帰って、どれだけ作れるか確かめる。源太や漁師のおじちゃんたちにも聞かんば」


「うん」


「そいで、ちゃんと作れる数だけ、売る!」


 明美は微笑んだ。


「いいと思うわ」


 おたえの胸が、ぱっと明るくなる。


 すると小春が、唐人の男へ身を乗り出した。


「ねえ、おじちゃん!」


「……?」


「うちら、また来るけん!」


 両手で自分たちを指さす。


 次に、港の向こうを指さす。


 また自分たちを指さす。


 最後は、両手を大きく振った。


「またねー!」


 男は首を傾げた。


 明美が笑いながら言葉を取り次ぐ。


 男の顔が明るくなった。


 そして、小春に向かって手を振った。


 小春は嬉しそうに飛び跳ねた。


「通じた!」


「明美しゃんが言うてくれたとやろ!」


 おたえが突っ込む。


「ばってん、笑ってくれたもん!」


 小春は得意満面だった。


 その様子を見ていた湊一が呟く。


「……あいつ、本当にすごいな」


 澪が隣で頷く。


「あの娘は、人と人の間にある壁を恐れぬ」


「言葉が分からなくても、平気で話しかけるもんな」


「そなたは?」


「俺?」


「異国の者を前に、あれほど笑えるか?」


 湊一は少し考えた。


「……いや。無理かも」


「であろう?」


 澪は小さく笑った。


 そのとき。


「明美しゃん!」


 小春が駆け寄ってきた。


「うちにも教えて!」


「何を?」


「唐の言葉たい!」


 明美が目を丸くする。


「唐の言葉?」


「うん!」


「商いのため?」


 小春は首を傾げた。


「そいもあるばってん……」


 そして、港の方を振り返った。


 さっきの唐人の男が、まだこちらへ手を振っている。


 小春は満面の笑みを浮かべた。


「うち、あのおじちゃんと、もっとお話ししたか!」


 明美は、しばらく小春を見つめていた。


 やがて、ふっと笑う。


「……そう。なら、父に聞いてみましょうか」


「ほんとね!?」


「ええ。ただし、唐の言葉といっても、土地によって違うのよ」


「……違うと?」


「そう。父の故郷で話す言葉と、別の土地から来た人の言葉では、通じにくいこともあるわ」


 小春は目を丸くした。


「……唐って、そがん広かと!?」


「とても広いわ」


 小春は少し考えた。


 そして。


「なら、いっぱい覚えんばね!」


 明美は思わず笑った。


「……あなた、本気なのね」


「当たり前たい!」


 小春は胸を張った。


「うち、いろんな人と友達になりたかもん!」


 その言葉に、明美は何とも言えない表情を浮かべた。


 商いのために言葉を学ぶ人はいる。


 仕事として通訳をする人もいる。


 けれど、この少女は違った。


 ただ、もっと話したい。


 もっと相手を知りたい。


 それだけだった。


「……面白い子ね」


 明美は小春の頭を優しく撫でた。


「いいわ。最初は挨拶から始めましょう」


「やったぁ!」


 小春が跳び上がる。


 おたえは、その様子を横目で見ていた。


(……小春まで、何か始めようとしよる)


 何となく、負けていられない気がした。


「うちも!」


 突然、声を上げる。


 皆が振り返った。


「うちも、商いば覚えたか!」


 明美が、おたえを見た。


「……それなら」


 少しだけ悪戯っぽく笑う。


「さっきの試験、まだ終わっていないでしょう?」


「……あ」


 おたえの顔が固まった。


 そうだった。


 最初の商談は、まとまらなかった。


 あれで終わりではない。


「帰って、もう一度話しましょう」


 明美が言った。


 おたえは、ごくりと唾を飲んだ。


「……うん!」


     ◇


 飯屋へ戻ると、思いがけないことが起きていた。


「おお! 戻ってきたか!」


 主人が軒先から手を振っている。


 その周りには、数人の男たちが立っていた。


 おたえが首を傾げる。


「……なんね?」


「さっきの焼いた握り飯、まだあるとか?」


 男の一人が尋ねた。


「……え?」


「港で聞いたとよ。諫早から来た娘たちが、うまか飯ば売りよるって」


「おいも食べたか」


「魚の汁も、うまかったらしかね」


 おたえは呆然とした。


 朝は、誰も買ってくれなかった。


 それが今は、向こうから買いに来ている。


「……ちょっと待って」


 慌てて帳面を開く。


 握り飯の残り。


 汁の残り。


 明美と一緒に、あとで来る客のために取り分けていた分。


「……売れる分、もうあんまりなか!」


「何だ、売り切れか?」


「そがん……」


 おたえの顔が曇る。


 せっかく客が来たのに。


 また、銭を逃してしまう。


 すると小春が、ぱっと手を挙げた。


「ねえ! 明日も食べたか人、おると?」


 男たちが頷いた。


「そりゃ、うまかなら食べたか」


「朝の仕事前に買えるなら助かるばい」


「汁も欲しかな」


 小春が振り返る。


「おたえ! 明日も作ればよかたい!」


「……明日?」


「うん!」


「……材料は?」


「え?」


「米は? 魚は? 薪は? 飯屋の主人にも聞かんば!」


「……あ」


 小春は固まった。


 おたえは腰に手を当てた。


「何でもかんでも、よかよかって約束したらいかんと!」


「……そいは、そうね」


「まず、作れる数ば確かめると!」


 おたえは飯屋の主人を振り返った。


「おじちゃん!」


「何じゃ?」


「明日の朝、竈ば使わせてもらえる?」


「使えるが、店の飯も炊かねばならんぞ」


「なら、何時ならよか?」


 主人が少し考える。


「日が昇る前なら、空いとる釜がある」


「薪は?」


「使った分は払ってもらうぞ」


「分かった!」


 おたえは帳面へ書き込んだ。


 明日の朝。


 竈。


 薪。


 米と魚の残り。


 そして、何人分なら作れるか。


「……よし!」


 顔を上げる。


「明日は、数ば決めて売るけん!」


 男たちが笑った。


「なら、朝一番に来るぞ!」


「待っとるけん!」


 小春は隣で、次々に客へ声を掛けていた。


「おじちゃん、朝は何時から仕事ね?」


「そっちのおじちゃんは?」


「汁は好き?」


「魚は骨がなか方がよか?」


 まるで昔からの知り合いのように話しかける。


 湊一は呆気に取られていた。


「……あいつ、いつの間にあんなに知り合いを」


 小春が振り返る。


「今、知り合うたと!」


「今!?」


 健太が笑いながら言った。


「小春は、どこ行っても友達ば作るけんね」


「そいはよかことたい!」


 ガタ吉が胸を張った。


「おいも友達ば作れるぞ!」


「……お前、港の猫と喧嘩してなかったか?」


「魚ば横取りされたけん!」


「お前も猫と同じこと考えてるじゃないか!」


 皆が笑った。


 そのとき、飯屋の主人が健太の方を向いた。


「そういや、坊主」


「なんね?」


「あの火起こし筒、もう一度見せてくれんか?」


 健太の目が輝く。


「よかよ!」


 健太は筒を取り出した。


 火口を確かめ、慎重に軸を押し込む。


 ぽん、と短い音。


 先端に小さな赤い火が灯る。


「おおっ!」


 男たちが声を上げた。


「そがん小さかもんで、火の起こるとか!」


「便利そうじゃな!」


 健太は得意満面。


「ばってん、ちょっとこつが要ると!」


 主人にもう一度持たせてみる。


 すると、主人が言った。


「もう少し握りやすかったら、もっとよかろうな」


 健太の表情が変わった。


「……握りやすく?」


「そうじゃ。手の大きか者も、小さか者もおるけんな」


「……なるほど」


 健太は筒を見つめる。


 そして、突然叫んだ。


「白瀬しゃん!」


「何だ!?」


「帰ったら、もう一回作り直したか!」


 湊一が笑った。


「いいぞ。今度は使う人の手に合わせてみよう」


 健太は大きく頷いた。


 その横で、おたえがにやりと笑う。


「……そいなら、もっと高う売れるかもしれんね」


「おたえ!」


「冗談たい!」


 皆が笑った。


 ただし、おたえの目は本気だった。


 便利な物を作る健太。


 それを欲しがる人。


 両方が喜べる値段を考える。


 商いとは、そういうことなのかもしれない。


     ◇


 夕暮れが近づいた頃だった。


 飯屋の軒先に、見覚えのある男が現れた。


「……ほう。ずいぶん賑やかになったな」


 おたえの背筋が伸びた。


 あの商人だった。


 昼間、大金を見せて立ち去った男。


 おたえは思わず帳面を胸に抱えた。


「……また来たと?」


「来ては悪いか?」


「悪うなかばってん……」


 商人は、売り場を見渡した。


 干魚を見て。


 火起こし筒を見て。


 最後に、おたえを見た。


「唐船の者と話をしたそうだな」


 おたえは目を丸くした。


「……なんで知っとっと!?」


「長崎は広いようで狭い。港の話は、すぐ耳に入る」


 商人は苦笑する。


「それで、どうなった?」


「……まだ何も決まっとらん」


「ほう?」


「品ば見せて、村に帰って数ば確かめてから、また話すことになっとる」


「なるほど」


 商人は顎を撫でた。


「ならば、わしも改めて話をしよう」


 おたえは目を見開く。


「……え?」


「今日の干魚を、少し買いたい」


 心臓が跳ねた。


 商人は続ける。


「今後の品をすべてわしへ回せとは言わぬ。ただし、次の荷についても、わしに話を聞かせてほしい」


 おたえは呆然とした。


(……戻ってきた)


 逃がしたはずの商談が、向こうから戻ってきた。


(……やっぱり)


 思わず港の方を見る。


(あの尾曲がり猫、福の神やったとね!?)


 小春が隣で小声を掛ける。


「おたえ、また変な顔になっとるよ」


「なっとらん!」


「口元が、にやーって」


「なっとらんって!」


 商人が咳払いした。


「……話を進めてもよいか?」


「あっ、はい!」


 おたえは慌てて帳面を開いた。


 明美は少し離れた場所に立っている。


 助けてはくれない。


 けれど、見守ってくれている。


 おたえは、もう一度深呼吸した。


「……今日の魚は、これだけ売れる」


 残っている干魚のうち、見本や約束に必要な分を除いた束を示す。


「値は、これだけ欲しか」


 商人が眉を上げる。


「昼間より高いではないか」


「昼間は、これから先の分もまとめて売る話やった。今度は今日の分だけたい」


「だからといって、その値は高かろう」


 おたえは唇を噛んだ。


 早速、難しい。


 いくらなら売れるのか。


 どこまでなら譲れるのか。


 頭の中で銭が飛び交う。


(ええっと……仕入れ……違う、村から持ってきた費え……運び賃……)


 帳面をめくる。


 めくる。


 めくる。


「……あれ?」


 商人が怪訝な顔をする。


「どうした?」


「……ちょっと待って」


 おたえは、さらにめくった。


「……こっちに書いたはずやったとに……」


 小春が覗き込む。


「おたえ、そい、焼きおにぎりのとこたい」


「分かっとる!」


「さっき、魚はこっちに書きよらんかった?」


「……あっ!」


 おたえは別の頁を開いた。


 あった。


 高来津から運んだ魚の数。


 運ぶのに掛かった費え。


 今日使った分。


 残りの数。


 商人が吹き出した。


「そなた、本当に商いができるのか?」


 おたえの頬が真っ赤になる。


「で、できる!」


「ほう?」


「……今から、もっと上手になると!」


 商人は一瞬驚き、それから大声で笑った。


「はっはっは! そりゃよい!」


 おたえは、むっとした。


 けれど、今は怒っている場合ではない。


 帳面を見直す。


 値段を確かめる。


 自分たちが持ち帰らなければならない銭。


 次に品を運ぶための費え。


 それを考える。


「……これより安うしたら、次に持って来るとき、困ると」


 商人が笑うのをやめた。


「だから、この値にしたい」


 おたえは商人を見た。


「ばってん、全部買ってくれるなら、少しは考える」


「……少しとは?」


 おたえは指で銭の数を示す。


 商人が首を振る。


「まだ高い」


「なら、こっちは?」


「もう一声」


「……そいなら!」


 二人の間で、値段が行き来する。


 一度。


 二度。


 三度。


 小春は隣で、二人の顔を交互に見ていた。


 商人が腕を組む。


 おたえが帳面を睨む。


 しばらくの沈黙。


 そのとき、小春がぽつりと言った。


「ねえ、おじちゃん」


「何だ?」


「さっきから、魚ば欲しかって言いよるとに、なんで買わんと?」


 商人は目を丸くした。


「……値が合わぬからだ」


「ばってん、欲しかとやろ?」


「欲しいからこそ、値を決めておるのだ」


「そいなら、おたえと同じたい!」


 小春はにっこり笑った。


「おたえも売りたか。おじちゃんも買いたか。二人とも同じことば考えとるとに、何でこがん難しかとやろね!」


 商人は、ぽかんと小春を見つめた。


 それから、腹を抱えて笑い始めた。


「はっはっは! まったくだ!」


 おたえも、つられて笑った。


 確かにそうだ。


 自分は売りたい。


 相手は買いたい。


 なのに、なかなか決まらない。


 そのことが、急におかしくなった。


 商人が笑いを収める。


「……よし。ならば、この値でどうだ」


 先ほどより、少しだけ高い値だった。


 おたえは帳面を確かめた。


 もう一度、数を数える。


 今度は間違えない。


 明美の顔を見る。


 明美は何も言わない。


 自分で決めなければならない。


 おたえは、ゆっくりと頷いた。


「……よか」


 商人が手を差し出す。


「決まりだな」


 おたえは、その手を握った。


「うん!」


 そして、満面の笑みを浮かべた。


「ありがとう!」


 商人も笑った。


「礼を言うのはこちらだ。よい品を持ってきてくれ」


 おたえの胸に、熱いものが込み上げた。


 売れた。


 自分で。


 自分の言葉で。


 自分の決めた値段で。


 最初の大商談は失敗した。


 けれど、もう一度挑んで、今度は決まった。


「……やった」


 小さく呟く。


 そして。


「やったぁぁぁぁ!」


 おたえは飛び跳ねた。


「売れたぁぁぁ!」


 小春も一緒に飛び跳ねる。


「やったね、おたえ!」


「うん!」


「おたえ、すごか!」


「うん、うん!」


 健太が笑い、ガタ吉が両手を振り上げる。


 湊一も、思わず拍手した。


 澪は静かに微笑んでいる。


 商人は、おたえの様子を眺めながら呟いた。


「……妙な娘だ」


 明美が隣で答えた。


「ええ。本当に」


「商いは、まだまだだな」


「そうですね」


「だが……」


 商人は笑った。


「あれほど嬉しそうに品を売る者も、珍しい」


 明美も笑った。


「……ええ。私も、そう思います」


     ◇


 商人が帰ったあと。


 おたえは、まだ興奮していた。


 帳面を開いては閉じ。


 銭を数えては並べ。


 また数え直す。


「……ふふふ」


「おたえ」


「……ふふふふ」


「おたえ?」


「……ふふふふふ!」


「おたえ!」


「はっ!」


 明美が目の前に立っていた。


「……何を笑っているの?」


「銭が増えたけん!」


 即答だった。


 明美は思わず吹き出した。


「正直ね」


「正直が一番たい!」


「そうね。でも、まだ終わっていないわよ」


「……え?」


「今日の取り分を払って、村へ持ち帰る分を確かめないと」


 おたえの笑顔が固まった。


「……あ」


 明美が帳面を指さす。


「運び賃は?」


「……書いとる」


「飯屋の主人への取り分は?」


「……書いとる」


「次に長崎へ来るための費えは?」


「……そいも、考えんば」


「ええ」


 おたえは、もう一度銭を並べた。


 一枚。


 二枚。


 三枚。


 計算していく。


 増えたと思っていた銭の山が、少しずつ小さくなる。


 そして、最後に残った銭を見つめた。


「…………」


 明美が尋ねる。


「どう?」


 おたえは、ぽつりと呟いた。


「……思うたより、少なか」


 明美は頷いた。


「でも、残ったでしょう?」


「……うん」


「それに、今日の商いで得たものは、銭だけじゃないわ」


 明美は帳面を開く。


 飯屋の主人の名前。


 次に欲しいと言われた品。


 船の食料を探している唐人との出会い。


 そして、もう一度取引したいと言ってくれた商人。


「これだけの人が、あなたたちの品に興味を持ってくれたのよ」


 おたえは、その頁を見つめた。


 朝。


 誰も買ってくれなかった。


 何度声を掛けても、誰も足を止めてくれなかった。


 それが今は。


 こんなにも、名前が増えている。


「……うち」


 おたえは、小さく呟いた。


「……もっと商いば覚えたか」


 明美が顔を上げる。


「うち、まだまだ何も分からん」


「……うん」


「今日も、いっぱい失敗した」


「そうね」


「ばってん……」


 おたえは明美をまっすぐ見た。


「もっと上手になりたか!」


 明美は、しばらく黙っていた。


 そして。


「……いいわ」


「……え?」


「教えてあげる」


 おたえの目が大きくなる。


「……ほんとね?」


「ええ。ただし、厳しいわよ?」


「……うん!」


「計算だけじゃなく、品のことも、人のことも、約束を守ることも、全部覚えないといけない」


「うん!」


「失敗したら、ちゃんと理由を考えること」


「うん!」


「それから、分からないことは、分からないと言うこと」


「うん!」


 明美は笑った。


「……なら、今日から私の弟子ね」


 おたえは目を見開いたまま、明美を見つめた。


 次の瞬間。


「お師匠さまぁぁぁぁ!」


 明美へ飛びついた。


「きゃっ!」


「一生ついていくけん!」


「ちょ、ちょっと! 離れなさい!」


「うち、絶対に大商人になるけん!」


「分かった! 分かったから!」


 小春が大笑いする。


 健太も笑い転げる。


 ガタ吉が胸を張った。


「おいも弟子になる!」


 明美が困惑した顔で振り返る。


「あなたは何を覚えるつもりなの!?」


「魚の売り方たい!」


「まず、食べないことを覚えなさい!」


「……そいは難しか」


「そこから!?」


 湊一は腹を抱えて笑った。


 澪も、口元を袖で隠している。


 おたえは明美の手を握った。


「お師匠様!」


「何?」


「うち、長崎で一番の商人になるけん!」


「ええ。頑張りなさい」


「そいで、いつか唐の国にも商いばしに行く!」


「……唐の国?」


 明美が目を丸くする。


 おたえは胸を張った。


「うん! あんだけ大きか船の来よるとやけん、海の向こうには、もっといっぱい人のおるとやろ?」


 明美は笑った。


「そうね」


「なら、もっといっぱい売れるたい!」


 小春が横から飛び込んだ。


「うちも行く!」


「小春?」


「うちは、世界中に友達ば作るけん!」


「……友達?」


「そうたい!」


 小春は満面の笑みを浮かべた。


「おたえが商いばして、うちが友達ば作ると!」


 おたえは少し考えた。


 そして、にやりと笑う。


「……そいは、よかね」


「やろ?」


「うちが品ば売って、小春が人ば集めて……」


「うん!」


「二人で大儲けたい!」


「うちは友達が欲しかだけたい!」


「なんね、それぇ!」


 また笑い声が響いた。


 湊一は、その様子を眺めながら、静かに呟いた。


「……すごいな、あいつら」


 澪が隣に立つ。


「何がじゃ?」


「俺が何か教えなくても、自分たちで次の道を見つけていく」


「当然であろう」


「当然?」


「そなたが、いつまでも手を引いてやるわけにはいくまい」


 澪は、少女たちを見つめた。


「あの者たちにも、それぞれ歩む道がある」


 湊一は頷いた。


「……そうだな」


 高来津では、皆で水路を造った。


 田を拓いた。


 魚を獲り、米を育てた。


 けれど、今日。


 おたえと小春は、自分たちの力で、初めて長崎に道を造った。


 目には見えない。


 水も流れない。


 それでも、人と人を結ぶ、大切な道だった。


     ◇


 その夜。


 一行は、明美の実家である明謝楼(ミンシャロウ)を訪れていた。


 店の中には、湯気と香辛料の匂いが満ちている。


 竈では大きな鍋が音を立て、包丁がまな板を叩く軽快な音が響いていた。


「お帰り、明美」


 厨房から声を掛けたのは、母のしげよだった。


「ただいま、母さん」


「今日は遅かったね。あら、お客様も一緒?」


「ええ。諫早から来た人たちよ」


 しげよは優しく微笑んだ。


「いらっしゃい。さあ、座って座って!」


 奥から、がっしりした体格の男が現れた。


 鈴建華。


 明美の父である。


「ほう。お前が話していた諫早の客か」


「そうよ、父さん」


 建華は湊一たちを見渡した。


 そして、おたえに目を止める。


「お前さんが、今日、大商談をまとめた娘か?」


「……え?」


 おたえが驚く。


 明美が笑った。


「さっき話したでしょう?」


 建華は大きく頷いた。


「聞いたぞ。唐船の者にも声を掛けられたそうじゃないか」


「……うん!」


「なかなか運のよい娘だな」


 おたえは胸を張った。


「うちは、商いの神様に好かれとるけん!」


 建華が大笑いする。


「はっはっは! そりゃ頼もしい!」


 湊一は苦笑した。


「……本当に、妙なところで運がいいんですよ」


 澪が静かに頷く。


「運だけではない。あの娘は、自ら足を動かしておる」


「……ああ」


 湊一は微笑んだ。


「そうだな」


 そのとき。


「建華しゃん!」


 小春が突然、前へ出た。


「なんだい?」


「うちに、唐の言葉ば教えてくれんね!」


 建華は目を丸くした。


「……唐の言葉?」


「うん!」


「どうしてだ?」


 小春は、昼間の港の出来事を話した。


 唐人のおじさんと出会ったこと。


 言葉が通じなかったこと。


 明美が助けてくれたこと。


 そして、もっと話したいと思ったこと。


 建華は黙って聞いていた。


 やがて、にっこり笑う。


「……なるほどな」


 椅子を引き、小春の前に座った。


「では、まず一つ覚えてみるか」


「ほんとね!?」


「ああ。ただし、わしの故郷の言葉だ。他の土地の唐人には通じぬこともあるぞ」


「うん!」


「人に礼を言うときの言葉だ」


 建華は、ゆっくりと発音した。


「多謝。トーシア」


「……とーしゃ?」


「トーシア」


「とーしあ!」


「そうだ」


 小春の顔が輝いた。


「……そい、ありがとうって意味ね?」


「そうだ」


「とーしあ!」


 何度も繰り返す。


 建華が笑う。


「よし。では、明日誰かに言ってみなさい」


「うん!」


 小春は、すぐに明美を振り返った。


「明美しゃん!」


「何?」


「とーしあ!」


 明美は一瞬驚いて、それから笑った。


「……どういたしまして」


 小春は嬉しそうに飛び跳ねた。


「通じた!」


 建華が大笑いする。


「はっはっは! よかったな!」


 おたえは隣で、羨ましそうに見ていた。


「……小春、もう覚えたと?」


「うん!」


「うちは銭の計算で頭いっぱいとに……」


 小春は、にっこり笑った。


「おたえが銭ば数えて、うちが言葉ば覚えればよかたい!」


 おたえは、はっとした。


「……そいもそうね」


「やろ?」


 二人は顔を見合わせて笑った。


 明美は、その姿を見ながら父へ囁いた。


「……ねえ、父さん」


「何だ?」


「あの二人、面白いでしょう?」


 建華は頷いた。


「……ああ」


 そして、少し真面目な顔になった。


「明美。お前が商いを教えるのか?」


「ええ」


「大変だぞ」


「分かっているわ」


 建華は小さく笑った。


「……なら、しっかり教えてやれ」


 明美は頷いた。


「もちろん」


     ◇


 食事の支度が整う頃。


 明美は、厨房の隅に置いてあった三味線を手に取った。


 弦を軽く弾く。


 ぽろん。


 柔らかな音が、店の中に響いた。


 小春が振り返る。


「……明美しゃん、歌も歌うと?」


「ええ。好きなの」


「聞きたか!」


「……今?」


「うん!」


 明美は少し照れたように笑った。


 そして、ゆっくりと弦を鳴らし始めた。


 長崎の港。


 行き交う船。


 海の向こうから届く品々。


 人々の出会いと別れ。


 そんな風景を思わせる、柔らかな節回しだった。


 歌い終えると、小春が手を叩いた。


「すごかぁ!」


 おたえも笑顔になる。


「明美しゃん、歌もうまかとね!」


 明美は少し頬を染めた。


「ありがとう」


 そして、窓の外を見た。


「……いつか、この長崎の歌を、もっとたくさんの人に聴いてもらいたいの」


 小春が首を傾げる。


「たくさん?」


「ええ。長崎の人だけじゃなく、海の向こうから来た人たちにも」


 小春の目が輝いた。


「そいなら!」


「何?」


「うちが、いろんな国の人ば連れてくるけん!」


 明美が目を丸くする。


「……え?」


「うちが友達ばいっぱい作って、皆で歌ば聞けばよかたい!」


 おたえも負けじと声を上げた。


「なら、うちは、その人たちに飯ば売る!」


「おたえ!」


「だって、腹の減ったら歌も楽しめんやろ!」


 建華が大笑いした。


「はっはっは! 商いのことばかりじゃな!」


 しげよも笑う。


 明美は、三味線を抱えたまま、二人の少女を見つめていた。


 商い。


 言葉。


 歌。


 それぞれ違うもののようで、どれも人と人を結ぶものなのかもしれない。


 長崎には、いろいろな土地から人が集まる。


 違う言葉を話し、違う服を着て、違う歌を歌う。


 けれど、同じ飯を食べれば笑い合える。


 同じ歌を聴けば、心を動かされることもある。


 明美は、ふっと微笑んだ。


「……本当に、面白い子たちね」


     ◇


 夜も更けた頃。


 湊一たちは、今日の成果を整理していた。


 おたえは帳面を広げている。


 今日の売上。


 費え。


 残った銭。


 そして、次に必要な品。


「……ふう」


 大きく息を吐く。


「何とか、全部書けた……」


 明美が覗き込む。


「よくできたわ」


「……ほんとね?」


「ええ。ただし、明日はもう少し早く書き終えましょうね」


「……うっ」


 おたえは肩を落とした。


 小春は隣で、建華から教わった言葉を繰り返している。


「とーしあ……とーしあ……」


 健太は火起こし筒を握りしめ、改良のことを考えていた。


 ガタ吉は、すでに眠そうだ。


 澪は、その様子を静かに眺めている。


 湊一は、帳面を閉じたおたえへ声を掛けた。


「……おたえ」


「なんね?」


「今日、楽しかったか?」


 おたえは一瞬きょとんとした。


 そして。


「……うん!」


 満面の笑みを浮かべた。


「すっごく楽しかった!」


 湊一も笑う。


「そっか」


「ばってん、悔しかこともいっぱいあった!」


「うん」


「銭ば逃がしたときは、泣きそうになった!」


「……泣いてたぞ」


「泣いとらん!」


「そうか?」


「泣いとらん!」


 皆が笑った。


 おたえは、少し頬を膨らませた。


 けれど、すぐに笑顔へ戻る。


「……でもね、白瀬しゃん」


「ん?」


「うち、もっともっと商いばしたか!」


 その目は、昼間よりずっと輝いていた。


「高来津の米も、魚も、健太の道具も、もっといろんな人に知ってもらいたか!」


「うん」


「そいで、いっぱい銭ば稼いで……」


 少しだけ言葉を切る。


「……村の皆に、もっとよか暮らしばしてもらいたか」


 湊一は、静かに頷いた。


「……きっとできるよ」


「ほんとね?」


「ああ」


 おたえは嬉しそうに笑った。


 その隣で、小春が手を挙げる。


「うちは、世界中に友達ば作るけん!」


「……知ってる」


「ほんとに作るけん!」


「分かった、分かった」


 湊一は笑った。


 そして、ふと思った。


 自分は、四百年後の知識を持っている。


 水の流れも、土の扱いも、ある程度は分かる。


 けれど、この子たちには何もない。


 未来の知識も。


 特別な力も。


 それでも。


 自分たちの力で、新しい道を見つけようとしている。


 おたえは商いの道を。


 小春は人と人を結ぶ道を。


 健太は物を作る道を。


 長吉は田を育てる道を。


 源太は海と生きる道を。


 それぞれが、少しずつ歩き始めている。


 湊一は、胸の奥が温かくなるのを感じた。


「……すごいな、お前ら」


 おたえが首を傾げる。


「なんね?」


「いや。何でもない」


 湊一は笑った。


「俺も負けてられないなって思っただけだよ」


 澪が隣で小さく笑う。


「ようやく気づいたか」


「……何が?」


「そなた一人で、この国を豊かにするのではないということじゃ」


 湊一は、澪を見た。


 そして、静かに頷いた。


「……ああ」


 その言葉は、胸に深く沁みた。


     ◇


 皆が寝支度を始めた頃だった。


 建華が、帳面を片づけていたおたえへ声を掛けた。


「……おたえ、と言ったな」


「うん!」


「昼間、唐船の者と話したそうだな」


「そうたい!」


 建華は、少し真面目な顔になった。


「その男が探していた干魚の話だが……」


 おたえが顔を上げる。


「……うん?」


「わしも少し心当たりがある。船に積む食料を揃えようとしている者がおる」


「……ほんとね!?」


「ただし、相手が本当に買うつもりかどうかは、まだ分からん。品の数も、質も、役所を通す話も、確かめねばならん」


 おたえは真剣に頷いた。


「うん!」


「それでも、もし話がまとまれば……」


 建華は、少し言葉を切った。


「かなりの量になるぞ」


 おたえの目が輝いた。


「……どれくらい?」


 建華は、帳面の空いた頁へ数字を書いた。


 おたえは、その数字を見つめた。


 じっと。


 じーっと。


 そして。


「…………え?」


 顔を上げる。


「……こ、こい、間違うとらん?」


 建華が首を振った。


「間違っておらん」


「……そがんに!?」


「ああ」


 おたえは、もう一度数字を見た。


 そして、ゆっくりと湊一を振り返る。


「……白瀬しゃん」


「何だ?」


「……うちらの村、こんだけ魚ば獲れるとやろか?」


 湊一は帳面を覗き込んだ。


 次の瞬間。


「……は?」


 思わず声が漏れた。


 そこに書かれた数は、今の高来津から持ってきた干魚とは、比べものにならなかった。


「……これ、本当に?」


 建華が頷く。


「まだ決まった注文ではない。だが、唐船の食料を扱うとなれば、それくらいの量が必要になることもある」


 湊一は、思わず腕を組んだ。


 魚を獲る。


 干す。


 保存する。


 運ぶ。


 そして、決められた日に届ける。


 簡単な話ではない。


 むしろ、今の村の力だけでは難しいかもしれない。


 けれど――。


「……おたえ」


「なんね?」


「これ、もし本当にやるなら、村の皆と相談しないとな」


 おたえは大きく頷いた。


「うん!」


「源太たち漁師にも、干魚を作る人たちにも、無理のない方法を考えてもらわないと」


「うん!」


「それに、長崎まで運ぶ道も……」


 そこまで言って、湊一はふと気づいた。


 道。


 そうだ。


 道なら、造ってきた。


 水路も。


 堤も。


 人が行き来するための道も。


 今度は、それを商いのために使えばいい。


 湊一の口元が、ゆっくりと上がる。


「……面白くなってきたな」


 澪が、すぐ隣で微笑んだ。


「また、何か企んでおるな?」


「……ばれた?」


「顔に書いてある」


 おたえが勢いよく立ち上がった。


「白瀬しゃん!」


「何だ!?」


「うち、やりたか!」


 その目は、真っ直ぐだった。


「高来津の魚ば、海の向こうまで届けたか!」


 小春も立ち上がる。


「うちも!」


「小春?」


「うちは、海の向こうの人と友達になるけん!」


 健太まで顔を上げた。


「なら、おいは、魚ば運ぶ道具ば作る!」


 ガタ吉が飛び起きた。


「おいは船ば押す!」


「いや、お前はまず寝ろ!」


 湊一が突っ込むと、皆が笑った。


 その笑い声の中で、明美は父の帳面を見つめていた。


 これほどの数を揃えるのは、簡単ではない。


 商いには、銭も要る。


 人も要る。


 信用も要る。


 何より、品が必要だ。


 それでも。


 明美は、おたえを見た。


 昼間、商談に失敗して泣きそうになっていた娘。


 尾曲がり猫に魚を盗まれ、港まで走り回った娘。


 それが今、海の向こうへ品を届けたいと目を輝かせている。


「……本当に、面白い弟子を持ったわね」


 思わず呟く。


 建華が笑った。


「苦労するぞ」


「……ええ」


 明美も笑った。


「でも、楽しみだわ」


 そのとき。


 窓の外から、小さな鳴き声が聞こえた。


「……にゃあ」


 おたえが振り返る。


 窓の向こう。


 昼間の茶白の猫が、ちょこんと座っていた。


 短く折れ曲がった尻尾が、窓枠の上で小さな鉤を描いている。


「……あっ!」


 おたえが指さす。


「福の神!」


 猫は首を傾げ、曲がった尻尾をぴくりと揺らした。


 湊一は頭を抱えた。


「……まだ言ってるのか」


 おたえは満面の笑みを浮かべた。


「白瀬しゃん!」


「何だよ」


「明日から、あの猫にも魚ばやるけん!」


「……売り物じゃない分ならな」


「分かっとる!」


 小春が笑う。


 明美も笑う。


 澪は窓辺の尾曲がり猫を見つめながら、小さく呟いた。


「……福を引っかける尻尾、か」


 猫は、何も知らぬ顔で毛繕いをしている。


 澪は、くすりと笑った。


「案外、あながち間違いでもないやもしれぬのう」


 誰も、その言葉を聞いてはいなかった。


 けれど。


 あの日、長崎の港で起きた小さな偶然が、やがて諫早の運命を大きく動かすことになるとは――。


 まだ、誰も知らなかった。


 おたえの商いは、ようやく始まったばかりだった。


 そして小春もまた、海の向こうへ続く最初の言葉を手に入れた。


 ――大商人への道と、世界へ続く道。


 その二つが、長崎の夜に、静かにつながり始めていた。

最後までお読みいただき、ありがとうございます!


おたえ、ついに商いのお師匠様を見つけました!


失敗しても、転んでも、なぜか幸運を引き寄せるおたえ。

そして、言葉が通じなくても友達になってしまう小春。


そんな二人の小さな一歩が、やがて諫早と世界をつなぐ大きな道になるかもしれません。


ちなみに、今回登場した「尾曲がり猫」は、現在の長崎でも親しまれている猫です。


果たして、おたえは本当に大商人になれるのか?


次回もお楽しみに!


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