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『海から百万石 ~江戸時代に転移した国交省の土木職員、水守と河童と有明海の大干拓に挑む~』  作者: 天手古まい


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第四十三普請 買い手のいない朝

焼きおにぎりの香ばしさと、魚の吸い物の湯気。


賑わう長崎の町で、高来津の味は人々に届くでしょうか。


おたえたちの商いの朝を、どうぞお楽しみください。

長崎の朝は、戸板を外す音から始まった。


 がたん、と一枚。


 隣でも、また一枚。


 荷を担ぐ男たちが声を掛け合い、その間を、湊一には意味の分からない言葉が行き交う。海から吹く風には、潮と魚と、どこかで炊いている飯の匂いが混じっていた。


 通りを行く足は多い。


 高来津なら、これだけの人が歩けば、誰かが必ず立ち止まる。


 ところが、並べた品の前だけ、妙に流れが速かった。


 朝一番、湊一たちは直孝から預かった書状を役所へ届けていた。受け取った役人は、諫早から来たことと泊まっている宿を確かめ、書状を取り次ぐと言った。


 それで、今日の品が売れるわけではない。


 髭の商人が話をつけてくれた飯屋の軒先に、米の見本と干魚、健太の皿、火起こし筒を並べて、もうしばらくになる。


「見ていかんね。諫早の米ば持ってきたとよ」


 おたえの声に、男が一人、足を止めた。


 干魚を手に取りかける。


 けれど、その指が途中で止まった。


 男は通りの向こうの店を見て、手を引っ込めた。


「今日は、よか」


 魚ではなく、誰かの顔を見て決めたようだった。


 おたえは、男の背中が人の間に消えるまで見送った。


「……欲しくなか顔じゃなか。誰かば気にしとる」


 湊一も、向かいの店へ目をやった。店先の男が、こちらの品をじっと見ていた。


 髭の商人が、通りの端で知り合いに呼び止められた。短く言葉を交わして戻ってくると、声を落とした。


「昨日のあの商人が、付き合いのある店に話を回しとる。いつもの仕入れやら、払いの融通やらを気にする者は、こっちへ手を出しにくかろうな」


「品も見ないで?」


「見るだけなら、銭はいらん。買えば、付き合いが変わることもある」


 別の男が、米の見本を覗き込んだ。


「見本はよかろう。次の荷も、同じとは限らんけんな」


 今度は、湊一にも返す言葉がなかった。


 見本を持ってきた。


 自分たちが苦労して育てた米だと、話すことも出来る。


 だが、この男が次にどれだけ買いたいのか、いつ欲しいのか。その日に同じ米を届けられるのか。


 まだ、何も聞いていなかった。


 男が去ると、軒先には、また自分たちだけが残った。


 ガタ吉が、並んだ品と通りを交互に見た。


「人は、こがんおるとに」


 人足の掛け声が、返事の代わりに流れてきた。


 重い荷を下ろした男が、腰を伸ばす。隣の男は腹を押さえながら、次の荷へ向かっていた。


 その足取りを、湊一は見た。


「……飯にしてみようか」


 おたえが振り向く。


「米ば?」


「握り飯にして、表面を焼く。魚は温かい吸い物にする。品を見てもらうだけじゃ、味は伝わらない」


 小春が、飯屋の奥から顔を出した。


「さっき聞いたとよ。港の仕事、まだ飯ば食べとらん人もおるって。荷の切れる時しか、来られんと」


「なら、持っていける飯がいい」


 おたえの目が、通りへ戻った。


「急いどる人には、握り飯だけ。座れる人には、汁もつけたらよかね」


 指先で、米の包みを確かめる。


「けど、全部は炊かん。商いの話ばするときに、見せる米がなくなる」


「うん。食べてもらう分だけにしよう」


 湊一が頷くと、おたえは小さな帳面を開いた。


 米と魚。塩。味見に使う分。


 初めての町で、初めて食べてもらう。


 手を出しやすい値にしたかった。


「こんくらいなら、買いやすかろ。少しは銭も残る」


「まず食べてもらえれば、話もしやすくなるね」


 湊一も、その値に賛成した。


 飯屋の主人は、髭の商人から話を聞くと、竈の方を顎で示した。


「竈と釜は使ってよか。薪は、これだけ。飯が売れたら、一人前ごとに、こっちへこれだけ」


 台の上に銭を置き、使う分と店の取り分を示す。


「釜やら椀やらも、その中で貸す。通りば塞がんごとせんね」


「分かった。ここに書いとくけん」


 おたえは、主人の示した銭を見て、帳面の別のところへ約束を書きつけた。


 小春が椀を借り、湊一が水を運ぶ。


 健太は、その間に火起こし筒を一本取った。


「火ば起こすとこも、見てもらわんね」


 主人が、細い筒を覗いた。


「これでか?」


「うん。おいが、やってみせる」


 健太は軸を押し込み、すぐに引き抜いた。


 先に仕込んだ火口に、小さな赤が灯る。


 主人の眉が上がった。


「ほう」


「してみるね?」


 健太が火口を替えて、筒を渡した。


 主人が握る。


 一度、押す。


 引き抜いても、火はつかなかった。


 もう一度。


 やはり、暗いままだ。


「おいの手じゃ、いかんとか」


「どこが、しにくかったと?」


 小春が、主人の手元を覗き込んだ。


「最後が固か。途中で、手の緩む」


 健太は、筒を受け取らず、主人の手の動きを見た。


「こっちの手で、下ば押さえて。押す方は、途中で止めんごと。こう、最後まで」


 主人が持ち方を変える。


 今度は、短く強く押し込んだ。


 抜いた軸の先で、赤い点が光った。


「……ついた」


 健太の顔が、ぱっと明るくなる。


「そいば、こっちに移すと」


 乾いた火口へ赤を渡し、主人が息を吹いた。


 煙が細く立つ。


 やがて、小さな炎になった。


 主人は炎と筒を見比べた。


「毎朝、これで起こせるとなら、助かるな」


 健太は、売り文句を返そうとして、やめた。


 代わりに、さっきの持ち方をもう一度、主人と確かめた。


 竈で釜が鳴り始めるまでには、時間がかかった。


 湊一はその間、干魚を軽く炙った。


 皮が縮み、香りが立つ。


 小鍋の湯へ入れ、煮立てすぎないよう火を見た。柔らかくなった身をほぐし、小さな骨を拾ってから戻す。


 塩を足すと、澄んだ汁の奥に、魚の味が通った。


 澪が、小さく頷いた。


「これなら、魚も喜ぶであろう」


「源太に聞かせたら、照れそうだ」


「あの者は、照れながら次の魚を干すじゃろ」


 湊一は笑った。


 高来津を出る前、長吉にも言われていた。


 どげん食べたかも、聞いてきて。


 米の包みと魚の束を眺めるだけでは持ち帰れないものが、今、鍋の中にある。


 炊き上がった飯は、小ぶりに十二個、握った。


 一つは、味を試してもらうために使う。


 残りを、順に焼く。


 竈から分けてもらった熾きの上に、借りた網を置いた。健太の皿は火から離し、焼けた飯を受ける方へ回す。


 表面が乾く。


 白かった米に、薄いきつね色がつく。


 裏返したとたん、香ばしい匂いが通りへ広がった。


 荷を担いでいた男が、鼻を動かした。


「……そい、何ば焼きよると?」


「諫早の米。焼いた握り飯だよ」


 湊一が答えると、おたえが味見の一つを割った。


「一口、食べてみらんね」


 男は小さな欠片を受け取り、口へ入れた。


 表面が、かりっと鳴る。


 噛むうちに、頬の動きがゆっくりになった。


「……中は、柔らかか」


「魚の吸い物もあるけん」


 おたえが値を伝える。


 男は懐へ手を入れた。


「なら、汁もくれんね」


 小春が椀を置いた。


 魚の小さな身が、澄んだ汁に浮いている。


 男は一口すすって、長く息を吐いた。


「こいは、腹の底まで温もる」


 おたえが、すぐに帳面へ書いた。


 湊一は、その言葉を自分でも覚えた。


 源太の魚は、長崎で人の腹を温めた。


 最初の銭が、台の上に置かれた。


 続いて、もう一人が握り飯と汁を買った。


 足を止める者が増え、網を覗く顔が並ぶ。


 店の前を通り過ぎるだけだった人が、こちらを向いている。


 ガタ吉も向いていた。


 ただし、目はずっと網に向いていた。


 焼くときにこぼれた飯を、おたえが小さくまとめて渡す。


「ほら。味ば覚えとって」


 ガタ吉は受け取るなり、口へ運びかけた。


「あつっ」


 慌てて手を引き、ふうふうと吹く。


 皆が見ていることに気づくと、少しだけ胸を張った。


「……売る前に、おいが食べきってしまうと思うた?」


 澪が、涼しい顔で答えた。


「その顔なら、誰でも思う」


 小春が噴き出した。


 健太まで笑う。


 おたえも笑って、手の中の銭を握り直した。


 売れた。


 知らない町の、知らない人に。


 高来津の米も魚も、通じた。


「売れ始めたのね」


 その声に、おたえは顔を上げた。


 明美が、軒先に立っていた。


 昨日と同じように、まず品を見る。それから、食べている客の顔を見る。


 おたえは、少し顎を上げた。


「見れば分かるやろ」


「ええ。私にも、汁をつけて一つ」


 明美は、言われた値の銭を置いた。


 握り飯を割り、焼けた表面と中の飯を確かめてから、口へ運ぶ。


 汁もすすった。


「魚は、これを使ったの?」


 干魚を指す。


「そう。小骨は取ってある」


 湊一が答えると、明美は椀の中の身を見た。


「これなら、食べた味と品がつながるわね」


 おたえの口元が、もう少し上がった。


「米も魚も、ちゃんと残しとる。欲しかって言われたら、見せられるけん」


「今日はいくら残るの?」


「今、数えよったとこ」


 おたえは銭を並べた。


 売れた分。


 売れた三人前に使った、米と魚と塩の分。


 味見の一つも、忘れていない。


 その間を指先で行き来して、残る銭を示した。


「こいが、うちの分」


 明美は、銭を動かさなかった。


 開かれた帳面へ、目を落とす。


 別のところに書かれた、飯屋との約束を指した。


「これは、もう引いた?」


 おたえの指が止まった。


「……そいは、あとで主人に払うけん」


「払ったあと、いくら残る?」


 明美が、ようやく銭へ手を伸ばした。


 おたえの示した残りから、薪代を分ける。


 売れた三人前に応じた店の取り分を、隣へ寄せる。


 初めは頼もしく見えた銭のまとまりが、小さくなった。


「釜や椀を貸す分も、店の人の手間も、この取り分に入っているのね」


 主人を見て、確かめる。


「そういう話ばした」


「なら、それは重ねて引かなくていい」


 明美は、おたえへ筆を戻した。


「残った分を、書いて」


 おたえは、帳面へ目を落とした。


 前の数に線を引き、その下へ書き直す。


 筆先が、さっきより遅かった。


「……米も魚も、ちゃんと数えとる」


「数えるのは早い。でも、まだ数えていないものがある」


 明美は、軒先に置いた荷を見た。


「次に米や魚を売りに来るとき、運ぶ人には何で払うの?」


 おたえは、残った銭へ目を戻した。


「包む物は? 運んでいる間に、皿が割れたり、魚が濡れたりしたら?」


 横に並ぶ皿が、急に違って見えた。


 割れれば、一枚減る。


 濡れて売れなくなれば、その分の魚も、運んだ手間も戻ってこない。


 高来津からここまで来る間、荷が軽くなってほしいと思ったことは何度もあった。


 その荷を運んだ人足の肩まで、おたえは思い出した。


 湊一も、黙って銭を見た。


 安くすれば、食べてもらえる。


 まずは、味を知ってもらえる。


 そこまでは、自分にも見えていた。


 その値で売ったあと、おたえが何を持って帰れるかを、自分も一緒に考えたつもりだった。


「……この値でいいって言ったのは、自分もだ」


 湊一が口を開くと、おたえは首を振った。


「うちも、よかって思うた」


 小さな銭のまとまりへ、指を置く。


 ここへ来る道すがら、売れた銭で何を買って帰ろうかと考えた。


 村で使う物。


 皆に見せたい物。


 自分の家へ持って帰りたい物も、少し。


 どれも、この小さなまとまりの向こうへ遠のいた。


「……はがいか」


 声が、帳面へ落ちた。


 明美は、その言葉を急いで慰めなかった。


 食べ終えた椀を置き、網の上を見る。


「握り飯は、あといくつ?」


「八つ」


「汁は?」


 小春が鍋を確かめた。


「六杯は、出せる」


「店の取り分も入れて、握り飯だけの値と、汁をつける値を、別にしてみましょう」


 おたえが、顔を上げた。


 明美は、今度は主人へ聞いた。


「汁をつけない分も、店への取り分は同じ?」


 主人が答える。


 おたえが書く。


 明美は、持ち歩く飯を包む紙の値も主人に確かめた。


 おたえが、それも書き足す。


 明美が、使う米と魚の分を、その隣へ置かせる。


 主人の答えで取り分を確かめ、手に残る銭まで数えた。


 新しい値が決まると、明美は通りへ向いた。


 ちょうど荷を下ろした男が、こちらを見ていた。


「仲間は何人? 飯を食べられるのは、いつ?」


「もう一人おる。あの荷ば片づけたら、二人とも来られる」


「汁も欲しい?」


「欲しか。けど、戻る頃には、なくなっとらんか」


「二人分なら取っておけるわ。戻るのは、あの荷を運び終えたときね?」


 男が頷く。


 明美は値を伝え、もう一度、汁をつけることを確かめた。


 おたえを振り向く。


「二人分、残して。ほかの人には売らないでね」


 おたえは、二つの握り飯を別の皿へ移した。


 帳面に、汁も二杯と書く。


 次に来た男は、握り飯だけを買った。


「汁は、よかと?」


 おたえが聞くと、男は担ぎ棒を示した。


「歩きながら食べんば。椀ば持てん」


 明美が、紙で握り飯を包んだ。


 男は受け取って、すぐに荷へ戻った。


 その後ろの男は、逆だった。


 腰を下ろし、汁も頼んだ。


 網の前で立ち止まったときには高いかどうか迷っていた顔が、椀を持つ頃には、もう海の方を向いていた。


 次の仕事までの短い時間を、温かい飯に使っている。


 値を伝えた明美は、声を張ってもいなかった。


 安いと言いもしなかった。


 それなのに、銭が置かれた。


 おたえは、その銭を、さっきの銭と混ぜずに並べた。


 米も魚も同じだった。


 焼いたのは自分たちで、汁も同じ鍋から注いでいる。


 ただ、握り飯だけでよい人と、汁を飲みたい人がいた。


 今すぐ食べる人と、あとで来る人がいた。


 明美はそれを、相手に聞いた。


 聞いてから、売った。


 おたえは、二人分を取り分けた皿を見た。


 さっきも、急ぐ人と座れる人のことは考えた。


 けれど、売れ始めたとたん、その先を見なくなっていた。


 来た客へ渡すことと、銭を間違えずに数えることだけで、手も頭もいっぱいになった。


 明美は、そこで終わらなかった。


 飯屋の主人へ、残しておいた干魚を見せる。


「この米と魚、次も使いたいと思った?」


 主人は、汁を少し味見していた。


 客が食べるところも見ていた。


「魚は、骨ば取れば食いやすか。汁にもなる。次は、もう少し欲しかな」


「どれくらい? いつ使う分?」


 主人が、いつもの仕入れの話を始めた。


 店に来る人。


 朝と昼に出る飯の数。


 魚の大きさが揃っている方が助かること。


 おたえは、筆を走らせた。


 明美は米の包みを閉じながら言った。


「ここにあるのは見本だから、次の量と日を確かめてから、返事をする。今、届くって約束は出来ないわ」


 主人が頷く。


 髭の商人が、横から口を入れた。


「返事は、おいがこっちへ来るときに持ってこられる」


「なら、その道筋も書いておいて」


 明美が言うと、おたえは帳面へ、主人の求める品と、返事を届ける相手まで書き足した。


 主人は、健太の火起こし筒にも目をやった。


「あの筒の値も、あとで聞かせてくれんね。持ち方ば覚えたけん、今度は自分で起こせそうだ」


 健太が、筒を手元へ寄せた。


 売り物の顔で、主人を見る。


 湊一は、使い終えた椀を重ねながら、そのやり取りを見ていた。


 明美は、飯を売った。


 けれど、飯の銭だけを取って帰るつもりではなかった。


 魚を使う店を見つけ、欲しい量と日を聞いた。


 同じ品をまた届けるために、返事の道筋まで確かめた。


 長崎へ来て品を並べることと、長崎との商いを続けること。


 湊一の目の前で、その間が埋められていく。


 澪が、椀を一つ受け取った。


「そなたが知らぬ仕事を、あの娘は知っておる」


「……うん」


 湊一は、次の椀を持ち上げた。


 土を掘り、水を引くときとは違う。


 今日、誰の背中を見て覚えるべきかは、もう分かった。


 おたえの帳面は、朝よりずっと埋まっていた。


 だが、自分で思いついて書いたことは、少ない。


「うちは、売れたって、喜んどっただけ……」


 明美が、帳面へ目をやった。


「食べた感想を、すぐに書いたのはよかったわ。聞いたことを忘れないでしょう」


 褒められても、おたえの胸は軽くならなかった。


 出来たことと、出来なかったことが、並んではっきり見えてしまった。


「明美は、なんで、こがん分かると」


「売って、次が来なくて困ったこともあるから」


 明美は、残った米の包みへ指を置いた。


「私も、この品が次にいつ届くのか、知りたい。今日おいしかっただけでは、私の先の相手に話せないもの」


 おたえは、その指を見た。


 明美も、向こうに誰かを抱えている。


 ここで交わす一つの約束が、まだ見えない人の飯や仕事まで続いている。


 そこまで考えて、銭を受け取るのか。


 帳面を持つ手に、力が入った。


 そのとき、軒先へ影が差した。


「ずいぶん、賑やかになったな」


 湊一が顔を上げた。


 昨日の商人だった。


 干魚を見る。


 皿を見る。


 最後に、火起こし筒へ目を止めた。


「その筒と、残った干魚を、まとめて買おう」


 おたえの目が動いた。


 商人が示した銭は、今、台に並んでいる分より多かった。


 ここで売れれば、荷が軽くなる。


 帰る道の費えにもなる。


 朝、あれほど声を掛けても、誰も買ってくれなかった。


 それが今、まとめて引き受けると言う買い手が、目の前にいる。


 湊一は、商人の顔を見た。


「今日、ここにある分を?」


「そうだ。米は見本しかないのだろう。次の荷が来たときに話せばいい」


 商人は、米の包みも一瞥した。


「その代わり、この先、長崎へ持ってくる分も、うちへ売ってもらいたい」


 おたえの手が、止まった。


「……この先も?」


「買い手を探して歩かずに済む。こちらも、まとまった荷がある方が話をつけやすい」


 商人の言うことには、確かに楽になるところがあった。


 知らない町で、声を掛け続けなくてよくなる。


 誰に気を使っているのか分からない客の背中を、見送らずに済む。


 明美が、口を開いた。


「今日の品を買う話? これからの売り先まで決める話?」


「これからも、うちへ持ってくればいいと言っている。他へ回さなければ、こちらも安心して買える」


「なら、品の値だけでは決められないでしょう」


 明美は、商人の示した銭を増やせとは言わなかった。


 おたえを見た。


 おたえは、飯屋の主人へ目をやった。


 次は魚をもう少し欲しい。


 あの言葉が、帳面に残っている。


 火起こし筒を覚えた主人の手も、まだ目の前にあった。


 この銭を受け取ったら、次にここへ来たとき、誰と話せるのだろう。


 高来津へ戻って、長吉や源太には、何と報告すればいい。


 売れたよ。


 そう言うだけで、足りるのだろうか。


「少し、話す時間をもらえますか」


 湊一が言った。


「品の数と、今の約束を確かめたいので」


 商人は頷き、店先の少し離れたところへ寄った。


 おたえは、明美を見た。


 このまま値を決めてもらえば、きっと、自分で言うよりよい話になる。


 今日の銭も、次の約束も。


 けれど、次に長崎へ来たときも、また明美の顔を探すのか。


 明美がいなかったら。


 誰かに、こうすれば楽だと言われたら。


 自分は、何を見て決める。


 おたえは、帳面を胸の前へ引き寄せた。


「……うちに、商いば教えてくれんね」


 明美は、すぐには頷かなかった。


 おたえの顔を見ていた。


「教えるかどうかは、まだ決めていないわ」


 胸の奥が、きゅっと縮む。


 朝、買い手が来なかったときより、その返事は痛かった。


 だが、おたえは目を伏せなかった。


「……どげんしたら、教えてくれると?」


 明美が、待っている商人へ目を向けた。


「あの人に、あなたの値を言ってみて。どんな約束なら売れるのかも、一緒に」


 おたえは、商人の手元を見た。


 銭がある。


 欲しかった、買い手がいる。


 その向こうに、まだ書いていない約束がある。


「そいが、試し?」


「ええ。どうしてその値と約束を選んだのか、あとで聞かせてもらう」


 正しい値を、教えてはくれない。


 売ってよいとも、いけないとも言わない。


 おたえは、帳面を開いた。


 米と魚の分。


 薪と店の取り分。


 食べた人の言葉。


 次に欲しい量と、返事を届ける相手。


 朝にはなかったものが、そこにある。


 湊一が、おたえの隣へ立った。


「話は、一緒に聞く。まず、おたえの考えを伝えてみよう」


 澪も、ガタ吉も、健太も、小春も待っていた。


 おたえは、筆を置いた。


「……分かった」


 何を渡して、何を持って帰るのか。


 高来津へ帰ってから、自分の言葉で話せるように。


 明美を、もう一度まっすぐに見る。


「見とって。うちの商いば」

お読みいただき、ありがとうございます。


売れた銭を握る喜びも、明美との差を思い知る「はがいか」も、おたえにとって忘れられない朝になりました。


悔しさを抱えたまま、教えを求めたおたえ。

次回はいよいよ、自分の値と約束を伝える番です。


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