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『海から百万石 ~江戸時代に転移した国交省の土木職員、水守と河童と有明海の大干拓に挑む~』  作者: 天手古まい


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第四十二普請 世界の入口、長崎!

諫早から長崎へ――いよいよ新章開幕です!


日見峠を越えた先に待つのは、異国の船、人々、そして未知の商い。


その道中、矢上の社で白瀬は懐かしい青春の記憶と再会します。


夢を胸に長崎へ向かう仲間たち。


しかし、華やかな港町には、まだ誰も知らない厳しい世界が待っていました。


第六章「長崎商売合戦」、いよいよ始まります!

元和九年、秋。


諫早を出て二日目の朝。


街道の向こうには、薄い朝霧が漂っていた。


草履が湿った土を踏む。


荷を背負った男たちが行き交い、道端では農夫が朝露に濡れた野菜を籠に詰めている。


遠くから、馬のいななきが聞こえた。


「白瀬しゃーん!」


先頭を歩いていた健太が振り返った。


「長崎は、まだ遠かとですかー!」


「もう少しだ! あの山を越えれば長崎だぞ!」


「昨日もそがん言うた!」


「昨日は『まだ遠い』って言ったんだよ!」


「同じこったい!」


健太が頬を膨らませる。


その隣では、おたえが背中の荷を揺すり上げていた。


「健太! あんたが文句ば言うたところで、道は短うならんと!」


「おたえだって、さっきから足が痛かって言いよったろ!」


「うちは言うとらん!」


「言うた!」


「言うとらん!」


「……朝から元気だなあ」


白瀬湊一は、思わず苦笑した。


隣を歩く澪が、呆れたように息をつく。


「そなたが連れてきたのであろう」


「そうだけどさ」


「ならば、最後まで面倒を見るがよい」


「はいはい」


「返事は一度でよい」


「はい」


背負い籠の陰から、ひょっこりと小さな顔が覗いた。


「おいも疲れたばい」


河童水工衆の若棟梁、ガタ吉である。


「お前、さっきから一歩も歩いてないだろ!」


「心が疲れたと!」


「便利な心だな!」


一行に笑い声が広がった。


諫早での大豊作から、まだ幾日も経っていない。


田に実った黄金色の稲穂。


刈り取った米を囲んで喜ぶ村人たち。


初めて白い飯を頬張った子どもたちの歓声。


白瀬の脳裏には、あの日の景色が鮮やかに残っていた。


けれど、米が実ったからといって、国づくりが終わるわけではない。


次に必要なのは、実りを暮らしの豊かさへ変えること。


諫早で作ったものを、必要とする人へ届ける。


その対価を持ち帰り、新しい道具を作り、蔵を満たし、次の世代を育てる。


領主・直孝から託された願いを胸に、白瀬たちは長崎へ向かっていた。


荷物の中身は、諫早の米の見本、丁寧に仕上げた干魚、そして健太が改良した火起こし道具。


大量の商品ではない。


まずは、長崎という大きな市場に何が求められているのか、自分たちの目で確かめるための旅だった。


「白瀬どん。そろそろ矢上じゃぞ」


先を歩いていた髭の行商人が、杖で街道の向こうを指した。


諫早での商いを通じて知り合った男で、今回は長崎まで道案内を買って出てくれている。


「この先は日見の峠越えじゃ。長崎へ入る前の、最後のひと踏ん張りじゃな」


「……峠?」


健太が立ち止まった。


「まだ山ば登ると!?」


「そうじゃとも」


「聞いとらん!」


「昨日、話したじゃろう」


「聞いとらん!」


「都合の悪か話は、耳に入らんらしかのう!」


行商人が豪快に笑った。


その横で。


白瀬だけは、ふと足を止めていた。


「……矢上」


その名前を、口の中で繰り返す。


矢上。


四百年後にも残る、その地名。


何度も通った道。


見慣れた家並み。


そして――。


もう一度会いたいと思いながら、いつしか会わなくなった一人の少女。


白瀬の胸の奥で、遠い夏の日の記憶が目を覚ました。


     ◇


「せっかくじゃ。大王社にお参りしていこうかの」


行商人が、街道脇の木立を指した。


「あの社は昔から矢上を守ってくださる神様じゃ。諫早の殿様も大切になさっとる。旅の無事をお願いしておこう」


「お参り!」


小春が嬉しそうに声を上げた。


「うち、何ばお願いしようかな!」


「そりゃ、商いの大成功たい!」


おたえが即答する。


「おたえはそればっかりやな!」


健太が呆れる。


「健太は何ばお願いすると!」


「長崎の坂が平らになりますように!」


「そがん願い、神様も困るばい!」


また笑い声が上がった。


白瀬は、一歩ずつ木立の中へ足を進めた。


八郎川の流れる矢上の地。


木々に囲まれた社は、街道の賑わいから切り離されたように静かだった。


葉の隙間から秋の日差しが落ちている。


風が吹くたび、枝が揺れた。


「……ここか」


白瀬は、思わず呟いた。


記憶にある社とは、何もかもが違っていた。


石段の様子も、社の形も、周りの家々も。


当たり前だ。


今は元和九年。


自分が知る矢上神社とは、四百年もの隔たりがある。


それでも、不思議だった。


土の匂い。


木々のざわめき。


風に混じる川の気配。


そのどれもが、胸の奥にしまっていた思い出を連れてきた。


「白瀬?」


澪が振り返った。


「どうした。急に静かになって」


「ああ……いや」


白瀬は、小さく笑った。


「懐かしい場所だなって思ってさ」


「そなた、この地を知っておるのか?」


「……昔、来たことがあるんだ」


「そうか」


澪は、それ以上尋ねなかった。


けれど。


白瀬の横顔から、目を離せなかった。


いつもの白瀬とは、少し違う。


嬉しそうで。


それでいて、どこか寂しそうだった。


     ◇


高校二年生の夏。


白瀬には、好きな女の子がいた。


名前は、美宇(みう)。


矢上神社のすぐ近くに住む、同じ年の少女だった。


出会いは、長崎で行われた河川調査の体験活動。


当時から川や水の仕組みに興味があった白瀬は、休日を使って参加していた。


美宇は、そこで知り合った女の子だった。


『ねえ、湊一くん』


『ん?』


『さっきから川ばっかり見よるけど、何が面白かと?』


初めて声をかけられたとき、美宇は不思議そうな顔をしていた。


『水がどこから来て、どこへ流れていくのか調べてるんだ』


『……魚じゃなくて?』


『魚じゃなくて』


『泳ぐためでもなくて?』


『泳ぐためでもなくて』


『……変わっとるね』


『よく言われる』


美宇は、くすくす笑った。


それが、始まりだった。


何度か顔を合わせるうちに、白瀬は自然と彼女を探すようになっていた。


調査活動が終わっても、何かと理由をつけて矢上へ足を運んだ。


川を見に行く。


水の流れを調べる。


近くへ用事ができた。


どれも、嘘ではなかった。


ただ、本当の理由は別にあった。


美宇に会いたかったのだ。


ある夏の日。


二人は矢上神社を訪れた。


蝉がうるさいほど鳴いていた。


境内には大きな木陰が落ち、風が吹くたびに葉が揺れていた。


美宇は社の前で手を合わせた。


白瀬も隣に並ぶ。


しばらくして。


『ねえ、湊一くん』


『何?』


『何ばお願いしたと?』


『……将来、川の仕事ができますようにって』


美宇は目を丸くした。


『また川!?』


『悪いかよ』


『悪うなかけど……本当に川が好きとね』


『うん』


『ふふっ。変わっとる』


『またそれか』


二人で笑った。


白瀬は、思い切って尋ねた。


『美宇は?』


『ん?』


『何をお願いしたんだ?』


美宇は、いたずらっぽく笑った。


『秘密!』


『なんだよ、それ』


『願い事は、人に言うたら叶わんとよ』


『そうなのか?』


『そうたい!』


美宇は、得意げに胸を張った。


『でもね』


『ん?』


『叶ったら、教えてあげる』


白瀬は、何も言えなくなった。


そのときの美宇が、あまりにも嬉しそうに笑ったから。


帰り道。


神社のすぐ近くまで来たところで、美宇が立ち止まった。


『うちの家、もうそこやけん』


『そっか』


『今日は楽しかったね』


『うん』


『……また遊びに来んね』


白瀬の胸が、大きく跳ねた。


『……うん。また来る』


『約束たい!』


美宇が小指を差し出した。


白瀬も、照れながら小指を絡めた。


たったそれだけの約束。


けれど、あの夏の白瀬には、何よりも大切なものだった。


その後も何度か会った。


一緒に歩いた。


くだらない話をした。


時には、ただ黙って川を眺めた。


だが。


結局、好きだとは言えなかった。


受験が始まり、進学先が決まり、互いの暮らしが少しずつ離れていった。


連絡も減り、やがて途絶えた。


喧嘩をしたわけではない。


嫌いになったわけでもない。


ただ、あの夏が終わった。


それだけだった。


――美宇。


今頃、どうしているだろう。


元気にしているだろうか。


幸せに暮らしているだろうか。


四百年後の世界。


自分が帰れなくなった場所で、美宇は今も生きている。


けれど。


ここには、まだ生まれてもいない。


『また遊びに来んね』


その言葉だけが、妙にはっきりと思い出された。


まさか。


こんな形で、約束を果たすことになるなんてな。


白瀬は、小さく笑った。


     ◇


「……白瀬しゃん?」


声をかけたのは、小春だった。


「ん? どうした?」


「ううん。白瀬しゃん、さっきから変な顔しとるけん」


「変な顔?」


「うん」


小春は首を傾げた。


「嬉しかごたるけど、ちょっと寂しかごたる顔」


白瀬は、返事に困った。


「……そう見えるか?」


「うん!」


小春は白瀬の顔を覗き込んだ。


そして、何かを思いついたように目を輝かせた。


「ねえ、白瀬しゃん」


「何だ?」


「ここに、誰かおったと?」


「……え?」


「白瀬しゃんの、大事な人」


ぎくり。


白瀬の肩が、分かりやすく跳ねた。


「な、何でそうなるんだよ!」


「当たりたい!」


小春が手を叩いた。


「やっぱり! 女の人やろ!」


「おいおい!」


「どがん人!? かわいか人!?」


「ちょっと待て!」


「白瀬しゃんの、お嫁さんになるはずやった人!?」


「話が飛びすぎだ!」


小春は、満面の笑みだった。


「白瀬しゃん、顔の赤かよ!」


「暑いだけだ!」


「今日は涼しかよ?」


「……そうだったな!」


その声を聞きつけて、おたえが飛んできた。


「なんね! 白瀬しゃん、昔の恋人のおったと!?」


「だから、恋人じゃないって!」


「なら、片思いたい!」


「おたえ!」


「当たりたい!」


健太まで顔を出した。


「白瀬しゃん、恋ばしとったと?」


「お前まで!」


「恋したら、どがんなると?」


「どうって……」


「腹いっぱいになると?」


「何でだよ!」


「おたえが商いで儲かる夢ば見よるとき、腹いっぱいになるって言いよったけん!」


「健太ぁっ!」


今度は、おたえが真っ赤になった。


境内に、笑い声が広がった。


白瀬も、つられて笑っていた。


こんな話を誰かにする日が来るとは、思わなかった。


しかも。


四百年前の子どもたちに。


     ◇


少し離れたところで、澪は白瀬を見つめていた。


あの男が、あんな顔をするとは。


諫早では、いつも何かを考えている。


水路のこと。


田のこと。


村人たちの暮らしのこと。


誰かが困っていれば、自分のことを後回しにして駆けつける。


馬鹿がつくほどのお人好し。


無茶ばかりして、自分に叱られてばかりいる男。


それなのに、先ほどは。


まるで大切な宝物を見つけたように、優しく笑っていた。


「……昔の、想い人か」


澪は、小さく呟いた。


胸の奥で、何かが揺れた。


ほんの小さな波。


水の流れなら、誰よりもよく分かる。


潮の満ち引きも、雨の気配も。


澪には、感じ取ることができた。


なのに。


自分の胸に生まれたこの波だけは、どうにも正体が分からなかった。


「澪しゃん」


不意に声をかけられ、澪は肩を揺らした。


小春だった。


「……何じゃ」


「白瀬しゃん、昔好きな人のおったとって」


「……聞こえておる」


「かわいか人やったとやろね」


「……そうであろうな」


「澪しゃん、気にならんと?」


「何がじゃ」


「その人のこと」


「わたしには、関わりのない話じゃ」


即答だった。


小春は、にっこり笑った。


「そうやねぇ」


「……何じゃ、その顔は」


「なんでもなかよ」


「そなた、何か言いたげじゃな」


「うふふ」


小春は澪の隣に並んだ。


そして、少しだけ声を落とした。


「でもね、澪しゃん」


「何じゃ」


「うち、ちょっとうらやましか」


「……何がじゃ?」


「白瀬しゃんの昔ば、知っとる人って」


澪は、黙った。


それは、自分でも気づかなかった思いだった。


白瀬が生きてきた年月。


この地へ来るまでに出会った人々。


何を見て、何を喜び、何を悲しんできたのか。


自分は、そのほとんどを知らない。


あの男が笑う理由も。


寂しそうな顔をする理由も。


知らないことが、まだまだたくさんある。


それなのに。


これから先も共にいることだけは、当たり前のように思っていた。


「……過ぎた日々は、戻らぬものじゃ」


澪は、静かに答えた。


「そうやね」


「されど、これからのことならば……」


そこで、言葉を止めた。


小春が顔を上げる。


「これからのことならば?」


「……何でもない」


「えー!」


「何でもないと言うておる!」


小春は口元に手を当てた。


ふふっ。


「澪しゃん、顔の赤かよ」


「日差しのせいじゃ!」


「木陰ばい?」


「……小春!」


小春は笑いながら逃げ出した。


その背中を見送りながら、澪は小さくため息をついた。


まったく。


あの娘には、敵わぬ。


やがて、参拝を終えた白瀬が戻ってきた。


「澪、待たせたな」


「……ずいぶん長かったのう」


「ちょっと、昔のことを思い出してさ」


「そうか」


澪は、白瀬の顔を見た。


何かを聞いてみたかった。


どのような娘だったのか。


その娘を、今でも想っているのか。


だが。


そんなことを聞いて、どうする。


澪は口を閉じた。


代わりに、少しだけ意地悪を言った。


「その娘は、そなたのような無茶ばかりする男を好いておったのか?」


「うっ!」


「さぞ、苦労したであろうな」


「ひどい言い方だなあ」


「事実であろう」


白瀬は頭をかいた。


「……どうだったかな。結局、聞けなかったから」


思いのほか、静かな返事だった。


澪は、言葉を失った。


白瀬は苦笑する。


「昔、好きだった人がいたんだ。何も言えないまま、離れちゃったけどね」


「……そうか」


「元気でいてくれたら、それでいいんだ」


そこにあったのは、後悔よりも優しい懐かしさだった。


澪は、ふっと表情を緩めた。


「ならば、よい思い出であったのじゃな」


「うん」


「大切にしておくがよい」


「……澪?」


「そなたを今のそなたにした、大切な日々なのであろう」


白瀬は、驚いたように澪を見た。


そして、笑った。


「ありがとう」


その笑顔を見た途端。


澪は、なぜだか胸のあたりが温かくなった。


「……礼を言われるほどのことではない」


慌てて顔を背ける。


そのとき。


「うふふふ」


物陰から、小春の笑い声が聞こえた。


「小春! そなた、まだおったのか!」


「おるよぉ!」


「何をしておる!」


「うち、何もしとらんもん!」


遠くから健太の声が飛んできた。


「白瀬しゃーん! 早う行かんば、日が暮れるばい!」


「お前が一番休んでただろ!」


「もう元気になった!」


「現金なやつだな!」


一行は、再び街道へと歩き出した。


社を出るとき。


白瀬は、一度だけ振り返った。


美宇。


ありがとうな。


あの夏があったから、俺は川の仕事を、もっと好きになれたのかもしれない。


白瀬は、心の中で呟いた。


そして、前を向く。


今の自分には、共に歩く仲間がいる。


守りたい暮らしがある。


これから作りたい未来がある。


「白瀬!」


少し先で、澪が呼んでいた。


「何をしておる。置いてゆくぞ!」


「今行く!」


白瀬が駆け出す。


小春は、そんな二人を見比べて、ひとり満足げに頷いた。


「……うん。こいは、面白うなりそうたい」


     ◇


日見峠は、健太の想像をはるかに超えていた。


「……もう、駄目ばい」


道端の石に腰を下ろした健太が、空を見上げた。


「おいは、ここで暮らす……」


「馬鹿言わんで! こがん山ん中で何ば食うと!」


おたえが呆れる。


「魚ば捕って暮らす!」


「海まで山ば下りんばいかんたい!」


「……そりゃ困る」


「ほら、立たんね!」


行商人が腹を抱えて笑った。


「いやはや! こがん賑やかな峠越えは初めてじゃ!」


道は険しかった。


山肌を縫うように細い道が続き、ところどころ石が露出している。


足を滑らせれば、谷へ転げ落ちそうな場所もあった。


山の斜面には杉や松が茂り、陽の届かない場所では苔がしっとりと湿っていた。


旅人が通るたび、土埃が舞う。


荷を背負った馬が、鼻を鳴らしながらゆっくりと坂を登っていく。


「おいおい! そっちへ寄ると危ないぞ!」


白瀬が声を上げた。


道端の草をかき分けていた健太が、慌てて戻る。


「あそこに、変わった石のあったけん!」


「石は逃げないから! まず長崎へ着こうな!」


「分かった!」


返事だけは立派だった。


その背中では、自分で作った火起こし道具が、包みの中でごとごと音を立てている。


「健太」


白瀬が手を差し出した。


「少し持とうか?」


健太は迷った。


だが、首を横に振る。


「……よか」


「本当に?」


「おいが作ったもんたい。長崎の人に見せるまでは、おいが持って行く」


白瀬は、その顔を見て笑った。


「そうか。じゃあ、あとひと頑張りだな」


「おう!」


健太は勢いよく立ち上がった。


しかし。


「あっ!」


足元の小石が転がった。


健太の身体が大きく傾く。


「健太!」


白瀬が手を伸ばすより早く、おたえが背中の包みを掴んだ。


「何しよっと!」


「うわっ!」


二人そろって尻餅をつく。


包みの口が緩み、木製の道具がひとつ転がり出た。


ころころ。


ころころ。


「ああっ! おいの道具!」


健太が叫ぶ。


道具は斜面へ向かって転がっていく。


そのとき。


「任せんね!」


白瀬の背負い籠から、小さな影が飛び出した。


ガタ吉だった。


道具は道端の小さな水溜まりへ落ちる。


ぴしゃん!


ガタ吉が、その直前で道具を掴み取った。


「取ったばい!」


「ガタ吉!」


健太が駆け寄る。


「ありがと!」


「おう! 河童水工衆の棟梁ば、なめたらいかん!」


胸を張ったガタ吉。


だが、その頭に澪の手が伸びた。


「……ガタ吉」


「なんね?」


「街道で人前に姿をさらしてはならぬと、何度申せば分かる」


「……あ」


ガタ吉は固まった。


幸い、通りかかった旅人たちは騒ぎに気を取られ、小さな河童に気づいていなかった。


「まったく!」


澪がガタ吉を白瀬の籠へ押し戻す。


「次は籠の中で大人しくしておれ!」


「……はい」


「返事は一度でよい!」


「はい!」


「……あれ?」


白瀬が首を傾げる。


澪も気づいた。


二人は顔を見合わせる。


そして、噴き出した。


峠道に、また笑い声が響いた。


     ◇


やがて、坂の上から風が吹いてきた。


山の匂いとは、少し違う。


湿り気を含んだ、懐かしい匂い。


「……潮の匂いだ」


白瀬が顔を上げた。


澪も足を止める。


「うむ。海が近い」


そのとき。


先を歩いていた小春が、突然立ち止まった。


「……あっ」


「どうした?」


白瀬が尋ねる。


小春は答えなかった。


ただ、道の先を指さしている。


「……海」


声が震えていた。


「海ばい!」


一行が顔を上げる。


尾根を回り込んだ、その先。


山々の間に、青く輝く水面が広がっていた。


だが、諫早の海とは違う。


山が両側から迫り、その間へ海が深く入り込んでいる。


遠くに岬が重なり、湾の奥には家々が小さく寄り添っていた。


さらに道を進むにつれ、その景色は次第に大きくなっていった。


そして。


「……なんね、あれ」


おたえが、ぽつりと呟いた。


海の上に、何本もの棒が立っている。


いや、棒ではない。


船の帆柱だ。


一本。


二本。


三本。


数えるのを諦めるほどの帆柱が、青空に突き出していた。


巨大な船の周りを、小舟が行き交っている。


遠くの岸には、白い帆を広げた船も見えた。


まるで海の上に、もう一つの町が浮かんでいるようだった。


「……船?」


健太が呟いた。


「船たい!」


行商人が笑う。


「唐の船も、南蛮の船も来る。日の本だけではない。遠い遠い海の向こうから、人も品物も集まる場所じゃ」


「……あれが?」


白瀬の胸が高鳴った。


行商人は杖を上げた。


「あれが、長崎じゃ!」


その瞬間。


健太が叫んだ。


「ふっとかぁぁぁっ!」


「お前の声の方が大きいわ!」


白瀬も思わず叫び返した。


小春は両手を胸に当て、目を輝かせている。


おたえは、港に浮かぶ船から目が離せない。


「……あがん大きか船に、どがん品物ば積んどっとやろ」


「絹や薬種、珍しか焼き物。それに砂糖や香りの強か品々もあるじゃろうな」


「砂糖!?」


おたえが振り向いた。


「そがん高かもんが、いっぱいあると!?」


「あるとも」


「売ったら、銭が山ほどになると!?」


「おたえ、お前はそればっかりだな!」


白瀬が笑う。


だが、その白瀬も、誰よりも目を輝かせていた。


現代で見慣れていた長崎。


大きな橋があり、車が走り、港には観光客が集まる町。


その長崎の、四百年前の姿が目の前にある。


出島は、まだない。


眼鏡橋も、まだない。


後世、長崎くんちと呼ばれる大祭も、まだ生まれていない。


これから、この町には幾度となく歴史の波が押し寄せる。


人々が集まり、別れ、喜び、悲しみ、文化を生み出していく。


その始まりの時代に、自分は立っている。


「……すごいな」


気づけば、白瀬は呟いていた。


澪が隣に並ぶ。


「何がじゃ?」


「世界って、広いんだなって」


「今さら何を申す」


「いや、分かってたつもりだったんだけどさ」


白瀬は眼下の港を指した。


「俺たちが作った米も、魚も、道具も。いつかあの船に乗って、ずっと遠くまで行けるのかもしれない」


澪は、しばらく海を見つめていた。


そして、静かに頷く。


「水は、どこまでもつながっておる」


「うん」


「そなたの夢も、そうなのであろうな」


白瀬が振り向く。


澪は海を見たままだった。


「諫早の小さな田から始まったものが、ここまで届いた。ならば、その先があっても不思議ではあるまい」


白瀬は笑った。


「そうだな」


「……わたしも、見てみたいものじゃ」


「何を?」


「そなたたちが、その先で何を始めるのかを」


白瀬は、自然と手を差し出した。


「じゃあ、一緒に行こう」


澪は、その手を見た。


ほんの一瞬。


矢上の社で聞いた、昔の娘の話が頭をよぎった。


けれど。


今、目の前にいる白瀬は、こちらを見て笑っている。


澪は、その手を取った。


「……言われずとも、共に行くつもりじゃ」


二人が歩き出す。


その後ろで。


小春が、おたえの袖を引いた。


「ねえ、おたえ」


「なんね?」


「あの二人、仲よかねぇ」


「今さら何ば言いよっと」


「うふふ。そやね」


小春は、それ以上何も言わなかった。


ただ、二人の背中を見つめていた。


     ◇


長崎の町へ入った途端、一行を迎えたのは、とんでもない騒ぎだった。


「どいたどいたぁっ!」


「そこの荷、先に運ばんか!」


「魚ば買わんね!」


「唐渡りの品もあるぞ!」


声。


声。


声。


どこを向いても、人がいる。


大きな荷を担いだ男たちが走り抜ける。


海から上がったばかりの魚を売る女たちが、威勢よく客を呼び込んでいる。


荷車の車輪が石に当たり、がたがたと音を立てた。


鍛冶屋の方角からは、鉄を打つ甲高い音が響く。


町家の軒先には、干した魚が吊るされていた。


桶の中では、銀色の魚が跳ねている。


道端で煮炊きする鍋からは、湯気が立ち上っていた。


その向こうから、見慣れない甘い香りが流れてくる。


「……なんね、この匂い」


小春が鼻をひくつかせた。


「あれは香辛料じゃろうな」


行商人が答える。


「薬にも料理にも使う。遠い国から渡ってくるものじゃ」


「へえぇ……」


小春は、目を丸くした。


少し先の店では、白く滑らかな焼き物が並んでいる。


別の店には、鮮やかな赤や青の布。


艶やかな漆塗りの箱。


細かな模様の入った器。


白瀬が知っている江戸の農村とは、まるで違う景色だった。


そして何より驚いたのは、人々の姿だった。


日本人だけではない。


ゆったりとした衣を着た唐人。


見慣れない帽子を被った南蛮人。


さまざまな言葉が飛び交う。


「……白瀬しゃん」


健太が、小さな声で尋ねた。


「なんで、あの人は髪の色が違うと?」


「ああ。生まれた国が違うからだよ」


「国が違うと、髪の色も変わると?」


「人によってな」


「……すごか」


健太は感心しきっていた。


「おい、初めて見た!」


「そうだな」


「海の向こうには、もっと違う人もおると?」


「いるぞ」


「……行ってみたか!」


白瀬は笑った。


「俺もだよ!」


そのとき。


「白瀬しゃーん!」


小春の声が響いた。


振り向くと、見知らぬ男の前で、何やら身振り手振りをしている。


男は唐人の商人らしく、日本の言葉があまり得意ではないようだった。


小春が両手を広げる。


男も両手を広げる。


小春が何かを尋ねる。


男が首を傾げる。


小春も首を傾げる。


やがて。


二人は声を上げて笑い始めた。


「……何やってるんだ、あいつ」


白瀬が呟いた。


見ていると、男が小さな包みを開いた。


中から、赤茶色の実をひとつ取り出す。


小春に差し出した。


「もろうた!」


「おいおい!」


白瀬が慌てて駆け寄った。


「何やってるんだ!」


「お話ししよった!」


「言葉、通じたのか?」


「ちょっとだけ!」


「何を話したんだ?」


「どこから来たとって!」


「それで?」


「分からんやった!」


「分かってないじゃないか!」


小春は声を上げて笑った。


男も、意味が伝わったのか笑った。


白瀬は思わず頭を抱えた。


「……すごいな、お前」


「えへへ!」


小春は、得意げに胸を張った。


その様子を見て、澪が小さく呟く。


「言葉が違うても、心は通じるものなのじゃな」


白瀬は頷いた。


「小春は、俺たちにできないことを、平気でやってのけるな」


「……そうじゃな」


二人は、笑いながら手を振っている小春を見つめていた。


     ◇


一方。


健太は、港へ向かう道の途中で動かなくなっていた。


「……なんじゃ、あれ」


視線の先では、男たちが太い縄を使って荷を持ち上げている。


大きな木製の滑車が軋み、重い荷がゆっくりと宙へ上がっていた。


「白瀬しゃん!」


「今度は何だ?」


「あれ! 何で、あがん重かもんが上がると!?」


「滑車を使ってるんだよ」


「かっしゃ?」


「縄を車に通して、力の向きを変えたり、組み合わせて小さな力で重い物を持ち上げたりする道具だ」


健太は、まばたきもせずに見つめていた。


「……あれ、おいにも作れるかな」


「作れるさ。仕組みを覚えればな」


「じゃあ、ちょっと見てくる!」


「おい! 勝手に――」


言い終わる前に駆け出していた。


「……行っちゃったよ」


白瀬がため息をつく。


澪が呆れたように言った。


「そなたに似てきたのではないか?」


「……否定できない」


二人は顔を見合わせ、苦笑した。


健太は港の作業場の端で、男たちの動きを夢中になって見つめていた。


「おい、坊主!」


荷役の男が声をかける。


「邪魔になるぞ!」


「あっ、ごめんなさい!」


慌てて下がる。


すると男は、笑いながら言った。


「見たけりゃ、そっちから見ろ。縄の下へは入るなよ」


「よかと!?」


「邪魔せんならな!」


「ありがとう!」


健太は、その場にしゃがみ込んだ。


縄の通し方。


木の車の形。


男たちが力を合わせるタイミング。


そのひとつひとつを、目に焼き付けようとしていた。


やがて、大きな荷が地面に下ろされる。


健太は、思わず拍手した。


「すごかぁ!」


男たちが笑う。


「お前も大きくなったら、港で働くか!」


「おいは、もっとすごか道具ば作る!」


「ほう! そりゃ楽しみじゃ!」


健太は、満面の笑みだった。


その横で、籠の陰に隠れたガタ吉が呟く。


「……おいなら、あの縄ばもっと丈夫にしたか」


「お前もか」


白瀬が笑う。


「ばってん、あがん大きか船ば浮かべる海も、たいしたもんばい!」


ガタ吉は、港の水面をじっと見つめていた。


「諫早の海とは、流れの違うねぇ」


澪も頷いた。


「山に囲まれ、入り江が深い。潮の入り方も、風の吹き方も違う」


「ここに水路ば作ったら、面白かろうね」


「そなたは、どこへ行っても水の仕事ばかりじゃな」


白瀬が笑った。


だが、澪は静かに答えた。


「……それは、そなたも同じであろう」


「……確かに」


三人は、顔を見合わせて笑った。


諫早の田を作った三人。


その三人が今、異国の船が集まる港を眺めている。


白瀬には、それだけで胸がいっぱいになる思いだった。


     ◇


昼もだいぶ過ぎた頃。


一行は、行商人の紹介で小さな商いの場所を借りることができた。


港から少し入った、人通りのある通り。


一軒の商家の軒先を、わずかな時間だけ借りたのである。


「さて、ここからが本番じゃぞ」


行商人が髭を撫でる。


「長崎は銭の集まる町じゃ。じゃが、その銭を自分の懐へ入れるのは簡単ではない」


「任せんね!」


おたえが胸を張った。


「うちは諫早で商いばしたことのあるとばい!」


「ほう。ならば腕を見せてもらおうかの」


「見とって!」


おたえは、持ってきた品物を並べ始めた。


干魚。


米の見本。


そして、健太の火起こし道具。


品物の横には、小さな帳面。


白瀬や勘定方から教わった文字と数字を、おたえなりに書き込んだものだった。


その帳面を開くと、おたえは大きく息を吸った。


「さあさあ! 諫早から持ってきた、うまか魚ばい!」


通りへ向かって声を張り上げる。


「米もあるばい! 見ていかんね!」


……。


誰も止まらなかった。


「さあさあ! 諫早の品ばい!」


……。


一人の男が振り向いた。


おたえの目が輝く。


だが、男はそのまま通り過ぎた。


「……あれ?」


もう一度、声を張り上げる。


「諫早の魚ばい! うまかとばい!」


……。


誰も来ない。


目の前を人々が行き交っている。


魚を買う者もいる。


米を運ぶ者もいる。


なのに。


自分たちの品物には、誰も興味を示さない。


「……なんで?」


おたえの額に、汗が浮かんだ。


諫早では、みんなが知っていた。


おたえのことも。


村の魚のことも。


白瀬たちが作った田のことも。


だから、呼びかければ立ち止まってくれた。


けれど、ここは長崎。


誰も、おたえを知らない。


諫早の魚がうまいことも、米を作るまでにどれほど苦労したかも。


誰も知らないのだ。


「……白瀬しゃん」


おたえが振り返った。


「うち、何か間違うとると?」


白瀬は、すぐには答えなかった。


ここで全部を教えてしまえば、話は早い。


けれど。


それでは、おたえ自身の商いにならない。


「どうだろうな」


白瀬は笑った。


「何で売れないと思う?」


「……分からん」


おたえは唇を噛んだ。


「うちの品物、悪かもんじゃなかとに……」


そのとき。


「おたえ!」


小春が、横から顔を出した。


「ちょっと、うちに任せてみんね!」


「……何ばすると?」


「お話ししてくる!」


「話?」


「うん!」


小春は、通りの向こうへ駆け出した。


そこには、小さな料理屋があった。


店先では、男が魚をさばいている。


小春は、満面の笑みで声をかけた。


「こんにちは!」


「ん? 何じゃ、娘っ子」


「うちら、諫早から来たとです!」


「ほう、諫早からか」


「うん! お魚も持ってきたと!」


「魚?」


男が手を止めた。


「何の魚じゃ?」


小春は、持ってきた干魚の話を始めた。


どんな魚なのか。


どこで獲れたのか。


村の漁師たちが、どれほど丁寧に干したのか。


おたえのように売り込むわけではない。


ただ、嬉しそうに話しているだけだった。


料理人は、しばらく黙って聞いていた。


そして。


「……ちょっと見せてくれんか」


小春が振り向いた。


「おたえー!」


「なんね!」


「お客さんたい!」


おたえの目が輝いた。


料理人は、干魚を手に取った。


指で押す。


匂いを嗅ぐ。


光に透かすように眺める。


「……ほう」


もう一度、品物を確かめた。


「こりゃ、丁寧に干してあるのう」


「そうたい!」


おたえが勢いよく答える。


「村の漁師が、手間ばかけて作ったとよ!」


「なるほど」


料理人は、少し考え込んだ。


「……ひとつ、焼いてみてもよいか?」


「もちろんたい!」


料理人は干魚を一枚買い、自分の店へ持ち帰った。


炭火の上に、網を置く。


干魚を乗せる。


じゅっ。


小さな音がした。


しばらくすると。


香ばしい匂いが、通りへ漂い始めた。


「……おっ?」


通りがかった男が鼻をひくつかせる。


「何じゃ、よか匂いじゃのう」


「魚たい!」


おたえが、すかさず答えた。


「諫早の魚ばい!」


料理人が、焼き上がった干魚を少しだけ口に運んだ。


噛む。


もう一度噛む。


そして。


「……うまい!」


その声に、おたえの顔がぱっと明るくなった。


「やろ!」


料理人は笑った。


「よし、残りも少し分けてくれ」


おたえは、一瞬固まった。


「……買うてくれると?」


「そう言うとるじゃろう」


「……本当に?」


「何じゃ、売りたくないのか?」


「売りたか!」


おたえは、慌てて品物を包み始めた。


銭を受け取る。


手のひらの中に、ずしりと重みが残る。


「……売れた」


小さな声だった。


「……売れたばい!」


次の瞬間。


「やったぁぁぁっ!」


おたえが飛び跳ねた。


「売れた! 売れたばい!」


小春も両手を上げる。


「やったね!」


「小春! ありがと!」


二人は手を取り合って跳ね回った。


その様子に、通りの人々が振り向く。


何事かと、近寄ってくる者もいた。


「何を売っとるんじゃ?」


「魚たい!」


「米もあると?」


「あるとも!」


先ほどまで誰も立ち止まらなかった軒先に、少しずつ人が集まり始めた。


白瀬は、思わず笑った。


「……やるなあ、小春」


澪も頷く。


「人の心を開くのは、あの娘の得意技じゃな」


「そうだな」


小春は、何も難しいことをしていない。


ただ、相手の話を聞き、自分たちのことを伝えた。


それだけで、商いの扉が開いた。


白瀬は、しみじみと思った。


自分一人では、決してできなかったことだ。


     ◇


「ちょっと見てくれんね!」


今度は健太が声を張り上げた。


先ほどから、港の荷役人たちが使う道具を見ていた健太。


どうやら、自分の道具も誰かに試してほしくなったらしい。


「何じゃ、これは」


通りがかった職人が足を止めた。


「火ば起こす道具たい!」


「火起こし?」


「そうたい! 火打ち道具と火口ば、使いやすかごとまとめたとよ!」


健太は得意げに包みを広げた。


白瀬が、すかさず手を伸ばす。


「待った! ここで火をつけるなよ!」


「分かっとる!」


「本当か?」


「……分かっとる!」


一瞬の間があった。


職人が吹き出した。


「そりゃ大事なことじゃ。火の用心を忘れん職人は信用できる」


男は道具を手に取り、作りを確かめた。


「ほう。使うものをひとまとめにしておるのか」


「そうたい!」


「持ち歩くには便利そうじゃな」


「やろ!」


「じゃが……」


男は木の継ぎ目を指さした。


「ここが少し弱いのう」


「……え?」


「何度も使えば、ここが緩むぞ」


健太は、目を丸くした。


男は続ける。


「それに、火口は湿気を嫌う。雨の日にも持ち歩くなら、もっと工夫がいるな」


「……そっか」


健太は黙り込んだ。


自分では、うまく作れたつもりだった。


諫早では、みんなが褒めてくれた。


けれど、この男は違った。


良いところを認めながら、悪いところも教えてくれる。


「……おじさん」


「何じゃ」


「どうしたら、もっと丈夫になると?」


男は目を細めた。


「ほう。聞くか」


「うん!」


「なら、ちょっと見ておれ」


男は道具を手に取り、木の継ぎ目を示した。


健太は、まばたきもせずに聞いていた。


白瀬は、少し離れたところから、その様子を見守った。


売れなかった。


だが、健太は悔しそうではない。


むしろ、嬉しそうだった。


やがて。


「白瀬しゃん!」


健太が駆け寄ってきた。


「おい、もっとよかもんば作れる気のしてきた!」


白瀬は、満面の笑みになった。


「そうか!」


「帰ったら、すぐ直す!」


「楽しみにしてるぞ」


健太は、道具を大切そうに包み直した。


その横で、ガタ吉が笠の下から呟く。


「おいなら、水に濡れても火起こしの道具ば守れる箱ば作りたか」


「それも面白そうだな」


「河童水工衆の仕事にも使えるかもしれんばい」


「よし。帰ったら一緒に考えよう」


「おう!」


二人は、こっそり拳を合わせた。


     ◇


夕方近く。


おたえが売り上げを帳面に書き込んでいると、一人の娘が店先に現れた。


年の頃は、白瀬より少し若いだろうか。


艶のある黒髪をきちんと結い、落ち着いた色の着物を着ている。


派手な装いではない。


けれど、その立ち居振る舞いには、どこか人目を引くものがあった。


娘は、米の見本をじっと見つめた。


「……この米、どこで作ったの?」


「諫早たい!」


おたえが胸を張る。


「今年、いっぱい採れたとばい!」


「へえ」


娘は、米をひとつまみ手に取った。


指先で転がす。


別の包みの米も確かめる。


「……ふうん」


おたえが首を傾げた。


「どがんしたと?」


「粒の揃い方が違うね」


「……え?」


「こっちは大きい粒が多い。でも、こっちは小さい粒も混じってる」


娘は、静かに続けた。


「乾き方も少し違うみたい」


おたえは、むっとした。


「ばってん、どっちもうまか米たい!」


「そうね」


娘は、あっさり頷いた。


「でもね」


「……なんね」


「買う人は、次も同じ米が来ると思うでしょう?」


おたえは黙った。


「料理屋なら、なおさらよ。今日と明日で米の炊き上がりが違えば、困る人もいる」


白瀬が、思わず口を挟んだ。


「……品質を揃える、か」


娘が顔を上げた。


「あなた、商人?」


「いや。諫早で田や水路の仕事をしてる」


「そう」


娘は、少しだけ微笑んだ。


「なら、覚えておいた方がいいわ」


「何を?」


「作る人が良いと思うものと、買う人が欲しいものは、同じとは限らないってこと」


白瀬は、言葉を失った。


確かにそうだ。


諫早では、米がたくさん採れれば、それだけで皆が喜んでくれた。


だが、長崎では違う。


買い手には買い手の都合がある。


毎日同じ味の飯を出したい料理人。


長く保存したい商人。


決まった日に、決まった量を受け取りたい問屋。


品物が良いだけでは、足りないのだ。


おたえは、ぐっと唇を噛んだ。


悔しい。


けれど、間違っていない。


「……名前、何て言うと?」


おたえが尋ねた。


「明美(ミンメイ)」


「ミンメイ?」


「そう。唐商いをする家の仕事を手伝っているの」


「うちは、おたえ!」


おたえは、勢いよく頭を下げた。


「諫早から来た商人たい!」


明美は、その顔をじっと見た。


そして、ふっと笑う。


「商人?」


「そうたい!」


「まだ見習いでしょう?」


横から白瀬が口を挟む。


「白瀬しゃん!」


おたえが振り向く。


「余計なこと言わんで!」


明美も笑った。


「面白い人たちね」


その目が、おたえの帳面に留まる。


「……それ、あなたが書いたの?」


「うん!」


「売れた品と、値段?」


「そうたい!」


明美は、少しだけ目を細めた。


「……へえ」


おたえは胸を張る。


「うちは、売れた銭ば忘れんごと書いとっと!」


「仕入れに使った銭は?」


「……え?」


「ここまで運ぶのに使った銭は?」


「……あ」


「それを引いても、儲かっている?」


おたえは、慌てて帳面を見た。


白瀬も、思わず覗き込む。


明美は、くすりと笑った。


「商いって、売れたら終わりじゃないのよ」


おたえは、顔を真っ赤にした。


「……そがんこと、分かっとる!」


「そう?」


「分かっとる!」


明美は、それ以上何も言わなかった。


ただ、米の包みをひとつ手に取った。


「これ、少し分けてくれる?」


「……買うてくれると?」


「ええ」


「……本当に?」


「良い米ならね」


おたえの目が輝いた。


「絶対うまかけん!」


「じゃあ、次に来るときも持ってきて」


「うん!」


「でも、今度は粒を揃えてね」


おたえは、少しだけ唇を尖らせた。


「……分かった」


そして、小さな声で付け加えた。


「もっとよか米ば、持ってくるけん」


明美は、嬉しそうに笑った。


「楽しみにしてる」


そう言って、去っていった。


白瀬は、その背中を見送った。


「……すごい子だったな」


「うん」


おたえは、手元の帳面を見つめていた。


「……白瀬しゃん」


「ん?」


「うち、まだまだ知らんことばっかりたい」


「そうだな」


「……ばってん」


おたえは、顔を上げた。


その目には、悔しさだけではない光が宿っていた。


「長崎は、面白かね!」


白瀬は、思わず笑った。


「だろ?」


「うん!」


おたえは、帳面をぎゅっと抱きしめた。


「うち、絶対、立派な商人になる!」


その声は、長崎の賑やかな通りへ、まっすぐに響いていった。


     ◇


その日の夕暮れ。


一行は、港を見下ろす小高い場所に立っていた。


西の空が赤く染まり、海には無数の光が揺れている。


大きな船の帆柱が、夕闇の中に黒く浮かび上がっていた。


港からは、まだ掛け声が聞こえてくる。


荷を運ぶ音。


船板を叩く音。


どこかの店で、夕飯の支度をする匂いが漂っていた。


長崎の町は、日が暮れようとしても、まだ眠ろうとはしていなかった。


白瀬は、仲間たちを見回した。


「どうだった? 初めての長崎は」


「すごかった!」


真っ先に答えたのは健太だった。


「おい、あがん大きか船ば初めて見た! 道具もいっぱいあった!」


「そうか」


「おい、もっとすごか道具ば作りたか!」


「どんな?」


「まだ分からん!」


「分からんのかい!」


「ばってん、絶対作る!」


健太は真剣だった。


白瀬は、笑って頷いた。


「楽しみにしてるぞ」


小春も手を挙げた。


「うちは、いろんな国の人とお話ししたか!」


「言葉が通じなくても?」


「通じるごとなればよかと!」


「なるほど」


「それで、たくさん友達ば作る!」


おたえが負けじと叫ぶ。


「うちは、諫早の品ば長崎中に売る!」


「おお!」


「そん次は、あの船に乗せて、海の向こうにも売る!」


「大きく出たなあ」


「当たり前たい!」


おたえは胸を張った。


「諫早のみんなが作ったもんたい。世界中の人に買うてもらうと!」


ガタ吉が、笠を押さえながら跳ねた。


「なら、おいたち河童水工衆も世界一になるばい!」


「何の世界一だ?」


「水の仕事たい!」


「いいな!」


「諫早だけじゃなく、どこの川でも困っとるもんがおったら助けると!」


白瀬は、思わずガタ吉の頭を撫でた。


あの小さな河童が。


父と兄を亡くし、幼いながら棟梁を継いだガタ吉が。


今は、世界を語っている。


「……そうだな」


白瀬の声が、少しだけ震えた。


「きっと、できるよ」


最後に、澪が口を開いた。


「わたしは……」


一同が振り向く。


澪は、静かに海を見つめていた。


「水の流れる先を、もっと知りたい」


「水の流れる先?」


小春が尋ねる。


「うむ。川も、海も、雨も。すべての水は、どこかへつながっておる」


澪は、白瀬を見る。


「諫早の水しか知らなんだわたしには、この町の水の声が、まだよく分からぬ」


「そっか」


「されど……」


澪は、少しだけ笑った。


「そなたたちと共になら、知ることができるやもしれぬ」


白瀬は笑った。


「じゃあ、まだまだ一緒だな」


「……当たり前であろう」


「はいはい」


「返事は一度でよいと言うたであろう!」


「はい!」


みんなが笑った。


小春は、そんな澪の横顔を見ていた。


矢上神社で見せた、あの寂しそうな顔は、もうどこにもない。


代わりに。


少しだけ、幸せそうな顔をしていた。


「……よかったね、澪しゃん」


小春が小さく呟く。


「何がじゃ?」


「ううん。何でもなか!」


「……また何か企んでおるな?」


「うふふ!」


澪は首を傾げた。


白瀬は、そのやり取りを見ながら、ふと考えた。


諫早で最初の水路を掘ったとき。


まさか、自分がこんな場所に立つ日が来るとは思わなかった。


あの頃は、目の前の村を救うだけで精一杯だった。


田を守る。


家を守る。


命を守る。


それだけだった。


けれど。


諫早の田に稲が実った。


魚が戻ってきた。


子どもたちが、未来を語るようになった。


そして今日。


その子どもたちは、世界を見た。


「……俺さ」


白瀬が、ゆっくりと口を開いた。


一同が振り向く。


「最初は、諫早を豊かにしたいと思ってたんだ」


誰も口を挟まない。


「みんなが食べるものに困らなくて、安心して暮らせる場所にしたかった」


白瀬は、海を見つめた。


「でも、今日ここへ来て分かった」


港では、まだ船が行き交っている。


「諫早だけで終わる話じゃないんだな」


おたえが首を傾げる。


「どがん意味?」


「諫早で作った米を、長崎の人が食べる」


「うん」


「諫早で作った道具が、遠くの誰かの仕事を楽にする」


健太が頷いた。


「うん!」


「その代わりに、長崎で見つけた技術や品物が諫早に届く」


小春が笑う。


「そしたら、諫早も長崎も、よか町になるね!」


「そういうこと!」


白瀬は、嬉しそうに頷いた。


「豊かさって、自分たちだけで抱え込むものじゃないんだ」


その言葉を、みんなが静かに聞いていた。


「誰かが作ったものが、別の誰かを助ける。そうやって、豊かさが行ったり来たりする」


白瀬は、仲間たちを見回した。


「そんな国を、作りたい」


少しの沈黙。


そして。


「……よかね」


おたえが言った。


「うち、そがん商いばしたか!」


「おいも!」


健太が手を挙げる。


「うちも!」


小春も続いた。


ガタ吉が、ぴょんと跳ねる。


「おいも仲間たい!」


白瀬は笑った。


「もちろんだ!」


澪は、その光景を静かに見つめていた。


そして。


「……そなたは、本当に欲張りな男じゃな」


「え?」


「諫早だけでは飽き足らず、今度は世界まで豊かにしようと言うのか」


「……欲張りかな」


「大いに欲張りじゃ」


澪は、少しだけ笑った。


「されど、嫌いではない」


白瀬は、一瞬言葉を失った。


「……そっか」


「うむ」


「じゃあ、これからも付き合ってくれるか?」


澪は、当然のように答えた。


「どこまでも」


その言葉に、白瀬は笑った。


夕日が、二人の横顔を照らしていた。


少し後ろでは、小春が口元を押さえている。


「……うふふ」


「小春、何ば笑いよっと?」


おたえが尋ねる。


「何でもなか!」


「さっきから、そればっかりたい!」


「だって、嬉しかとやもん!」


おたえには意味が分からなかった。


けれど、小春は知っている。


人には、口に出さなくても伝わる気持ちがある。


言葉にならないまま、少しずつ育っていくものがある。


今日の長崎は、きっと。


商売だけでなく、いろんなものが始まった日なのだ。


     ◇


その夜。


一行が宿で夕飯を囲んでいる頃。


港に近い一軒の商家では、まだ灯がともっていた。


店の奥。


帳場に座る一人の男が、静かに算盤を弾いていた。


年の頃は五十ほど。


上等な着物をまとい、白髪の交じった髭を整えている。


その前に、若い番頭が膝をついていた。


「旦那様」


「……何じゃ」


「本日、諫早から妙な連中が参りました」


男の指が止まった。


「諫早?」


「はい。米や干魚を持ち込み、町で商いを始めております」


「……ふむ」


男は、再び算盤を弾き始めた。


「田舎の行商人なら、珍しくもあるまい」


「それが……」


番頭が、少し声を落とした。


「ただの行商人ではないようでございます」


「ほう?」


「米は、なかなか良い出来でございました。干魚も丁寧に仕上げられております」


「それだけか?」


「いえ」


番頭は続けた。


「まだ幼い娘が、値を決め、売れた品を一つずつ帳面に記しておりました」


男の指が、ぴたりと止まった。


「……娘が?」


「はい」


「誰の手引きじゃ」


「髭の行商人が案内しておりましたが、商いを仕切っておるのは、その娘のようでございます」


男は、しばらく黙っていた。


「……面白い」


小さく笑った。


「諫早の田舎者が、長崎で商いを覚えようというのか」


「それから……」


番頭が言いにくそうに続けた。


「明美が、あの娘に声をかけたそうでございます」


男の表情が変わった。


「……明美が?」


「はい」


「ほう……」


男は、ゆっくりと立ち上がった。


窓の外には、港の灯が揺れている。


大きな船の帆柱が、夜の闇へ突き出していた。


「……あの娘が目をつけたとなれば、ただの田舎商いでは済まぬかもしれんな」


「いかがいたしましょう」


男は、しばらく考えていた。


そして、静かに言った。


「長崎は、夢だけで銭の稼げる町ではない」


番頭が頭を下げる。


「……はい」


「良い品を作れば売れる。安くすれば客が来る。田舎者は、そう思うておるのじゃろう」


男は、口元に薄い笑みを浮かべた。


「じゃが、この町の商いには、この町のやり方がある」


「……では」


「明日の朝、主だった買い手のところへ回れ」


「何と伝えましょう」


男は、ゆっくりと帳面を閉じた。


ぱたん。


乾いた音が、薄暗い部屋に響く。


「諫早の品には、手を出すなとな」


番頭が、わずかに目を見開いた。


「……承知いたしました」


男は、再び窓の外を眺めた。


港には、まだ灯が揺れている。


その向こう。


異国の船が、夜の海に静かに浮かんでいた。


「……さて」


男は、誰にともなく呟いた。


「諫早の若造ども。どこまでやれるか、見せてもらおうか」


     ◇


同じ頃。


宿では、健太が火起こし道具を抱えたまま眠っていた。


おたえは、売り上げの帳面を何度も見直している。


小春は、異国の商人からもらった干した実を、みんなに少しずつ分けていた。


ガタ吉は、腹いっぱい飯を食べて寝息を立てている。


澪は、そんな仲間たちを眺めながら、静かに微笑んでいた。


白瀬は、窓の外を見つめた。


遠くに、長崎の港の灯が見える。


「……明日も、楽しみだな」


ぽつりと呟く。


澪が、隣へやってきた。


「そうじゃな」


「きっと、まだまだ面白いことがあるぞ」


「……そなたがそう申すと、少々不安じゃ」


「何でだよ!」


「そなたの言う面白いことは、たいてい騒動を連れてくる」


「ひどいなあ」


澪は、小さく笑った。


「されど……」


「ん?」


「退屈はせぬ」


白瀬も笑った。


二人は、しばらく港の灯を眺めていた。


明日、何が待っているのか。


まだ誰も知らない。


ただひとつ、確かなことがあった。


諫早の小さな夢は、今日、長崎の海へ漕ぎ出した。


そして。


その夢を待ち受ける、大きな波もまた。


静かに動き始めていた。


最後までお読みいただき、ありがとうございます!


ついに長崎へ到着しました!


当時の長崎は、唐船や南蛮船が行き交い、異国の文化や品物が集まる国際貿易港でした。


ちなみに元和九年(一六二三年)は、まだ出島も眼鏡橋もない時代。これから大きく姿を変えていく長崎の歴史にも、白瀬たちが少しずつ関わっていきます。


そして今回、澪と小春は白瀬の意外な青春の一面を知ってしまいました。こちらの小さな波紋も、温かく見守っていただければ嬉しいです。


さて、諫早では頼もしかったおたえも、長崎ではまだまだ商人の卵。


次回は、明美(ミンメイ)との出会いをきっかけに、商いの厳しさを知ることに……。


第六章も、どうぞよろしくお願いいたします!

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