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『海から百万石 ~江戸時代に転移した国交省の土木職員、水守と河童と有明海の大干拓に挑む~』  作者: 天手古まい


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第四十一普請 長崎へ持っていくもの

第六章「長崎商売合戦」開幕です!


あれから一年。

海だった土地には黄金色の稲穂が実り、子どもたちも大きく成長しました。


今回は、初めての収穫で交わした約束と、白いご飯を囲んだ忘れられない一日を振り返ります。


そして、いよいよ舞台は長崎へ!


米と魚と知恵、そして仲間たちの夢を荷物に詰めて、新しい挑戦が始まります。

 あれから一年――。


 元和九年、秋。


 有明の海を渡る風が、黄金色の稲穂を揺らしていた。


 かつて潮が入り込み、草さえ満足に育たなかった土地。


 そこに今、見渡す限りの田が広がっている。


 高来津。


 新しい田と水路、湯屋、そして人の集まる納屋を中心に、いつしかそう呼ばれるようになった一角である。


「おたえ! こっちの荷は、どこへ置けばよか!」


「そいは長崎行き! そっちは違う!」


「どっちたい!」


「縄の色ば見んね!」


 朝から納屋は大騒ぎだった。


 米俵が積まれ、干した魚が運び込まれ、麦や豆の袋が並ぶ。


 その隅では、健太が何やら筒を握りしめている。


「……よし。こいなら大丈夫」


「健太! また試しよっと?」


「最後の確かめたい!」


「さっきも言うた!」


「さっきはさっき! 今は今たい!」


 おたえが両手を腰に当てる。


 その様子を見ながら、白瀬湊一は苦笑した。


「一年経っても、騒がしいなあ」


「何を言うておる」


 隣で澪が涼しい顔をしている。


「そなたが始めたのであろう」


「……そうでした」


「しかも、これから長崎へ行くと言う。騒ぎが大きくなるだけではないか」


「否定できない」


 足元でガタ吉が笑った。


「おいは楽しみばい! 長崎には、見たこともなか魚のおるとじゃろ?」


「魚を見に行くわけじゃないぞ」


「食うてもよかろ?」


「……まあ、それはいいけど」


 ガタ吉は満足そうにうなずいた。


 そんなところへ、以前から村に出入りしている髭の行商人がやって来た。


「ほう。こりゃまた、たいした米の山じゃな」


 男は俵を一つ叩いた。


「これだけあるなら、長崎へもう少し持っていってもよかろう。向こうじゃ米はいくらあっても困らん」


「そいは、売らん米たい」


 即座に声が飛んだ。


 長吉だった。


 まだ少年の顔を残しているが、日に焼けた腕はたくましく、指には小さな傷が幾つもある。


 長吉は俵に手を置いた。


「こいは冬を越す米。そっちは来年の種籾。向こうの分は納める米たい」


「おお、そうか」


「売ってよか分は、ちゃんと別にしとる」


 行商人が感心したように笑った。


「ほう。そこまで考えとるのか」


「当たり前たい。食う米のなくなったら、何のために作ったか分からんけん」


 その言葉に、湊一は思わず長吉を見つめた。


 一年前なら、こんなことを堂々と言えただろうか。


「長吉」


「なんね、白瀬しゃん」


「大きくなったな」


「……何ば言いよっと」


 長吉は照れくさそうに顔を背けた。


 そして、小さな包みを湊一へ差し出す。


「こいが、長崎へ持っていく米たい」


 開いた包みの中には、きれいに選り分けられた米粒があった。


 湊一は、その一粒を指先でつまむ。


 小さくて、硬くて、軽い。


 けれど――。


 その米ができるまでに、どれほど多くの手が働いたことか。


 指先の白い粒を見つめているうちに、湊一の脳裏に、昨年の秋が鮮やかによみがえった。


     ◇ ◇ ◇


 元和八年、秋。


「……もう一遍、数えるけん」


 おたえが言った。


「またか!」


「これで三遍目ぞ!」


「何遍数えても変わらんじゃろ!」


「うるさか! 間違っとったら困ると!」


 村人たちが笑う。


 けれど、おたえは真剣だった。


 目の前には、脱穀を終えた籾が積まれている。


 最初の升がいっぱいになった。


 次の升も。


 さらに次の升も。


 用意していた入れ物が足りなくなり、慌てて別の納屋から運んできたほどだ。


「……おかしか」


 年配の農民が首をひねった。


「何がです?」


 湊一が尋ねる。


「こげん採れるはずのなか。あん田は、海じゃったとぞ」


「まあ、そうですよね」


「それに……」


 男は、籾の山を見た。


「同じ広さの、普通の田と比べても……こいは多すぎる」


 湊一は、おたえの手元を覗き込んだ。


 今年の収穫前に見込んだ量。


 近隣の田で、同じ広さから得られる量。


 そして、目の前で量った新田の籾。


 何度確かめても、答えは同じだった。


「……一・五倍」


 湊一がつぶやく。


「え?」


 健太が顔を上げた。


「目標達成だよ」


「目標?」


「同じ広さの普通の田に比べて、五割増し。ずっと目指していた数字だ」


 長吉が目を丸くした。


「……ほんとに?」


「ああ。本当だ」


「ほんとに……?」


「長吉」


 湊一は笑った。


「お前たちが、育てたんだ」


 その瞬間だった。


「うおおおおおおっ!」


 源太が叫んだ。


「採れたばーい!」


「米じゃ!」


「米のできたぞ!」


「豊作たい!」


 歓声が弾けた。


 抱き合う農民。


 空へ手を突き上げる漁師。


 飛び跳ねる子どもたち。


 ガタ吉は両手いっぱいに籾をすくい、頭の上から降らせようとして――。


「こらっ! 大事な米ば撒くな!」


 長吉に叱られた。


「おいも嬉しかとに!」


「嬉しかなら拾わんね!」


「……はい」


 大笑いが起こった。


 けれど、その輪の中で。


 長吉だけは、しばらく動けなかった。


 そっと籾へ手を差し入れる。


 指の間を、米粒がさらさらと落ちていく。


 水が足りなかった日。


 塩が浮いて、苗の葉が弱った日。


 大風で倒れた稲を、母と二人で起こした朝。


 何度も失敗した。


 何度も叱られた。


 それでも、毎朝田へ行った。


 土を触った。


 水を見た。


 稲に声を掛けた。


 あの小さな苗が。


 こんなにたくさんの米になった。


「長吉」


 背後から母の声がした。


「……母ちゃん」


 母は、息子の手を見つめていた。


 泥と傷で、すっかり硬くなった手。


 その手を、そっと包む。


「よう、育てたね」


 たったそれだけだった。


 長吉は口を開きかけた。


 けれど、何も言えなかった。


 代わりに、母の袖を強く握った。


 母も、何も言わなかった。


 ただ、二人で籾の山を眺めていた。


 やがて長吉が、ぽつりと言った。


「……白瀬しゃん」


「ん?」


「先に、持って行く所のある」


 湊一はうなずいた。


「ああ」


 澪も。


 ガタ吉も。


 その言葉を待っていた。


 この米には、最初に届けなければならない人がいる。


 いや――。


 二人、いるのだ。


     ◇


「今日は、この米を白く搗いて食べないか」


 湊一がそう言ったとき、村のおかみたちは目を丸くした。


「……白く?」


「はい」


「麦も入れんと?」


「入れません」


「粟も?」


「なしです」


「……米だけ?」


「米だけです」


 しん、と静まり返った。


 やがて、一人のおかみが恐る恐る尋ねた。


「白瀬どん……熱でもあるとね?」


「ありません!」


 村人たちが笑う。


 だが、無理もなかった。


 米は、何より大切な作物だった。


 納める分を確保する。


 来年の種を残す。


 冬を越すための食い扶持もいる。


 白く搗けば、目減りもする。


 それほど貴重な米を、麦や粟を混ぜず、皆で腹いっぱい食べようと言うのだ。


「もったいなか……」


 誰かがつぶやいた。


 湊一は、用意された米を指さした。


「納める分も、種籾も、冬を越す分も、ちゃんと分けてあります。それでも、これだけ残ったんです」


「ばってん……」


「米は、年貢として納めるためだけのものじゃありません」


 湊一は、村人たちを見渡した。


「皆が食べて、生きていくためのものです」


 誰も口を挟まなかった。


「田を耕した人がいる。泥の中で水路を掘った人がいる。苗を育てた人も、稲を守った人もいる」


 湊一は、長吉の肩に手を置く。


「その人たちが、自分の作った米を食べられないなんて、そんなの寂しいでしょう」


 長吉が顔を上げた。


「……食べて、よかと?」


「もちろん」


「白か飯ば?」


「ああ」


「腹いっぱい?」


「今日くらいは、腹いっぱい食べよう!」


 長吉はしばらく黙っていた。


 やがて。


「……なら、おいが搗く!」


 勢いよく袖をまくった。


「おいも!」


 健太が飛び出す。


「うちも手伝う!」


 小春が続く。


「待たんね! 使う分ば先に量らんば!」


 おたえが慌てて走ってきた。


「おいは魚ば持ってくる!」


 源太はもう走り出している。


「おいは!」


 ガタ吉が両手を上げた。


「おいは食う係たい!」


「働け!」


 全員の声が重なった。


     ◇


 臼に米を入れる。


 杵を持ち上げる。


 とん。


 とん。


 とん。


 最初は長吉が搗いた。


 次に健太が替わる。


 力加減を誤って米を散らし、母親たちに叱られた。


 大人の男たちも加わった。


 搗いた米をふるいにかけ、また搗く。


 糠が落ち、米の色が少しずつ変わっていく。


「……白か」


 小春が感嘆の声を漏らした。


「雪のごたる」


「雪よりうまかぞ!」


 誰かが言った。


「まだ食っとらんやろ!」


 笑いが起きる。


 湊一も臼を覗き込んだ。


 現代なら、店で当たり前のように売られていた白米。


 だが、この村では、これほどの量を皆で搗き、腹いっぱい食べることなど、滅多にない。


 ようやく米が搗き上がった。


 大きな釜に水を張る。


 研いだ米を入れる。


 薪に火が入り、やがて湯気が立ち始めた。


「まだか!」


「まだ!」


「もうよかろ!」


「まだたい!」


 源太が釜の蓋に手を伸ばし、おかみにぴしゃりと叩かれた。


「開けたらいかん!」


「ちょっと見るだけたい!」


「見ても飯は早う炊けん!」


 その横ではガタ吉が、釜の周囲をぐるぐる回っている。


「……匂いのし始めた」


「ガタ吉、近すぎる」


「ばってん、よか匂いのするとぞ」


「分かるけど!」


 湊一まで腹が鳴った。


 澪が、ちらりとこちらを見る。


「……そなたもか」


「……聞こえた?」


「川向こうまで聞こえそうじゃ」


「そんなに大きくないだろ!」


 澪は口元を隠して笑った。


 そして、しばらくして。


 釜の蓋が開いた。


 ふわり。


 白い湯気が立ち上る。


 その向こうには、つやつやと輝く白い飯があった。


「…………」


 誰も声を出さなかった。


 炊き立ての米の甘い香りが、あたりいっぱいに広がっていく。


 長吉が、喉を鳴らした。


「……白瀬しゃん」


「うん」


「こい……食べてよかと?」


 湊一は答える代わりに、二つの椀を差し出した。


「まずは、二人の分だ」


 長吉は、はっとした。


 そして静かにうなずいた。


 最初の杓子を取る。


 白い飯を、そっとすくう。


 一つ目の椀へ。


 もう一つ。


 二つ目の椀へ。


 誰も急かさなかった。


 誰も先に食べようとはしなかった。


 湯気を立てる二つの椀を、皆が見つめていた。


     ◇


 水の見える場所へ、村人たちが集まった。


 湊一が一つの椀を持つ。


 もう一つは、ガタ吉が大事そうに抱えている。


 隣には澪。


 そして、長吉たち。


 弥助。


 岩蔵。


 あの試験干拓が崩れた日。


 二人は、帰ってこなかった。


 弥助は、人の命を守ろうとした。


 岩蔵は、仲間を逃がそうとした。


 あれから、何度も思い出した。


 眠れない夜もあった。


 水音を聞くだけで、胸が苦しくなる日もあった。


 それでも。


 田を造った。


 水路を掘り直した。


 壊れた場所を確かめ、同じことを繰り返さぬよう、皆で考えた。


 ようやく、米が実ったのだ。


 湊一は、二つの椀を静かに置いた。


「……できました」


 声が少し震えた。


「あの場所に、米ができました」


 何か、もっと立派な言葉を言わなければと思った。


 でも、出てこなかった。


 あのとき、二人が生きていてくれたら。


 この米を一緒に食べられたら。


 そう考えてしまう。


 隣で澪が膝をついた。


「……見事な実りじゃ」


 静かな声だった。


「そなたたちが守ろうとしたものは、今もここにある」


 澪は、田の広がる方を見た。


「だが……」


 言葉を切る。


「そなたたちにも、食べてほしかった」


 ガタ吉は、岩蔵の椀を少しだけ直した。


「岩蔵」


 年長の河童たちが、後ろで頭を下げている。


「おいら、米ば作ったぞ」


 いつもの元気な声ではなかった。


「人間と河童と、一緒に作ったとぞ」


 小さな手で、椀の縁に触れる。


「……うまかぞ、きっと」


 返事はなかった。


 ただ、秋の風が吹いた。


 水面に小さな波紋が広がる。


 湊一は、それをじっと見つめていた。


 豊作になったからといって、二人が帰ってくるわけではない。


 失ったものが、帳消しになるわけでもない。


 それでも。


 この実りを、二人に見せたかった。


 皆が、しばらくその場を離れなかった。


     ◇


「……きらきらしとる」


 弥助の幼い娘が、椀を覗き込んでいた。


 供えた米とは別に、弥助の妻子へ新米を届けたのだ。


 母親は、娘の前へ椀を置いてやった。


「食べんね」


「……よかと?」


「よかよ」


 娘は小さな手で椀を持つ。


 一口。


 ゆっくり噛む。


 また一口。


 その目が、大きくなった。


「……あまか」


 母親が笑った。


「そうね」


「母ちゃんも食べんね」


「母ちゃんは、あとでよか」


「一緒に食べたか」


 娘は、自分の椀を差し出した。


 母親は、しばらくその白い飯を見つめていた。


 あの人も、こうして食べたかっただろう。


 娘と向かい合って。


 くだらない話をしながら。


 何度も、おかわりをして。


 ふいに、夫の声が胸によみがえった。


『お前にも、腹いっぱい食わせちゃる』


 あの人は、約束を果たせなかった。


 けれど。


 今、目の前に米がある。


 娘が笑っている。


 母親は、娘から椀を受け取った。


 一口、食べた。


「……おいしかね」


 それだけ言うと、目に涙が浮かんだ。


 娘は不思議そうに母親を見る。


「母ちゃん?」


「なんでもなかよ」


 母親は涙を拭い、笑った。


 娘も笑った。


 そして。


「……おかわり、してよか?」


 母親は、一瞬だけ目を閉じた。


 それから、しっかりとうなずいた。


「よかよ。今日は、あるけん」


 そばにいた小春が、空いた椀を受け取った。


「いっぱい、よそってよか?」


「……うん」


「なら、いっぱいよそうね!」


 小春は、山盛りの飯をよそった。


 娘が歓声を上げる。


 その声を聞きながら、母親はまた笑った。


 涙を浮かべたまま。


 けれど、確かに笑っていた。


 岩蔵の身内にも、新米が届けられた。


 河童水工衆は、水辺で椀を囲んだ。


 岩蔵と長く仕事をしてきた年長の河童が、飯を口に運んだ。


「……あいつにも食わせたかったのう」


 その隣で、ガタ吉は黙っていた。


 みんなへ米が行き渡るまで、自分の椀を受け取ろうとしなかった。


 やがて、年長の河童が声を掛ける。


「若棟梁」


「……なんね」


「お前も食わんか」


 差し出された椀を、ガタ吉は両手で受け取った。


「……いただきます」


 一口。


 もぐもぐと噛む。


 そして。


「……うまか」


 小さな声だった。


 年長の河童は何も言わず、ガタ吉の頭をそっと撫でた。


     ◇


 村の宴が始まったのは、それからだった。


「さあ!」


 湊一が声を張った。


「皆で食べよう!」


 待ちかねていた村人たちの前に、白い飯が並んだ。


 焼き魚。


 煮た豆。


 畑で採れた菜。


 そして、湯気を立てる飯。


「……こげん白か飯、腹いっぱい食べてよかとやろか」


「さっきから何遍も聞いとるぞ!」


「ばってん、夢のごたるけん!」


「なら、夢ん中でも食わんね!」


 誰かが笑った。


 皆が椀を持つ。


 一口。


 そして――。


 静かになった。


 驚くほど、静かになった。


 長吉も。


 健太も。


 おたえも。


 源太も。


 小春も。


 誰もが黙って、飯を噛んでいた。


「……甘か」


 ぽつりと、声がした。


「なんね、こい」


「米だけで、こげん甘かと?」


「蜜でも入れたとか?」


「入れてません!」


 湊一が笑う。


「米の甘さですよ!」


「……米って、こげんうまかったとね」


 その言葉が、あちこちから聞こえた。


 源太は焼き魚を一口食べた。


 続いて白飯。


 さらに魚。


 また飯。


「……こいは、いかん」


「何が?」


 健太が尋ねる。


「止まらん!」


「なら、止めんでよか!」


「そうたい!」


 二人で笑いながら、飯をかき込む。


 おたえは、いつもなら皆の食べる量まで気にするのに、今日は自分の椀に夢中だった。


「おたえ、もう一杯食べる?」


 小春が尋ねる。


「……うん」


「聞こえんよ?」


「……食べる」


「もっと大きな声で!」


「食べるったい!」


 笑いが起こった。


 ガタ吉は、飯と魚を交互に見比べていた。


「……困った」


「何がだ?」


 湊一が尋ねる。


「飯もうまか。魚もうまか」


「いいことじゃないか」


「どっちからおかわりすればよか?」


「両方すればいいだろ」


 ガタ吉が目を輝かせた。


「白瀬! そなた、天才たい!」


「今頃気づいたか!」


 また笑いが弾けた。


 その少し離れたところで。


 長吉は、母親の椀を見つめていた。


「母ちゃん」


「なんね」


「もう一杯、食べんね」


「母ちゃんは、よかよ。お前が食べんね」


「……今日は、母ちゃんも食べんば」


 長吉は母の椀を取った。


 そして、白い飯をよそった。


 少し山盛りに。


 母親が困ったように笑う。


「こげん、食べきれんよ」


「残ったら、おいが食べる」


「……ふふっ」


 母親は椀を受け取った。


 一口。


 ゆっくり噛む。


「……おいしかね」


 長吉が顔を上げた。


「ほんとに?」


「うん」


 母親が笑った。


「お前の米は、うまかね」


 その瞬間。


 長吉は、今日初めて、心の底から笑った。


「……うん!」


 そして、自分の椀を抱えて食べ始めた。


     ◇


「白瀬しゃん!」


 源太が手を上げた。


「こげんうまかなら、もう麦は要らんね!」


「いや、それは駄目だ」


「……なんで?」


 湊一は、源太の前に煮た大豆の鉢を寄せた。


「これも食べよう」


「豆?」


「うん。麦も豆も大事なんだ」


 湊一は自分の椀を見た。


 現代なら、普段から口にしていた白い飯。


 だが、白米だけに偏った食生活が続けば、脚気を招くことがある。


 米を白く搗くと、体に必要な栄養の一部まで削り落としてしまうからだ。


「白い飯はうまい。でも、こればっかり食べていたら、体に足りないものが出てくる」


「足りんもの?」


「そう。だから普段の麦も残そう。豆も食べる。魚も菜も、ちゃんと食べる」


 源太は、しばらく豆を見つめていた。


 そして、ひょいと口へ放り込む。


「……うまか」


「だろ?」


「なら、どっちも食べればよかとね!」


「そういうこと!」


 近くにいたおかみたちが顔を見合わせた。


「なら、明日は豆ば煮とかんばね」


「麦も、今までどおり使おうで」


「今日は白か飯でよかろ!」


「そりゃ、そうたい!」


 大笑いになった。


 湊一は、ほっと息を吐いた。


 白い飯を食べられるようになること。


 そして、健やかに暮らしていけること。


 その両方が必要なのだ。


 ふと隣を見ると、澪が静かに飯を食べていた。


「……どう?」


 湊一が尋ねる。


「何がじゃ」


「白い飯」


 澪は少し考えた。


「……うまい」


「だろ?」


「うむ」


 そして、少しだけ微笑んだ。


「じゃが、それだけではない」


「ん?」


 澪は、宴の輪を見渡した。


 子どもに飯をよそう母親。


 笑いながら魚を分ける漁師。


 おかわりを求める河童。


 皆が、腹いっぱい食べている。


「皆、よい顔をしておる」


 湊一は、しばらく黙っていた。


 やがて、うなずく。


「……そうだな」


 澪がこちらを見る。


「そなたが欲しかったのは、こういう景色であろう?」


「……うん」


 湊一は、笑った。


「これが見たかったんだ」


 澪も笑った。


「ならば、まだまだ働かねばならぬな」


「えっ、今日くらい休ませてくれよ」


「明日からでよい」


「……優しい」


「今日だけじゃ」


「ひどい!」


 澪が楽しそうに笑う。


 ガタ吉が割り込んできた。


「二人とも、まだ飯のあるぞ!」


「食べ過ぎだぞ!」


「豊作じゃけん、よかろ!」


 湊一は思わず吹き出した。


 そうだ。


 豊作なのだ。


 あの日、海に向かって引いた一本の線。


 失敗し、壊れ、それでも諦めずに造った田。


 そこに、米が実った。


 誰かの腹を満たし。


 誰かを笑顔にした。


 それが何より嬉しかった。


 この日の白い飯の味を、湊一は生涯忘れないだろうと思った。


     ◇ ◇ ◇


「……白瀬しゃん?」


 長吉の声で、湊一は我に返った。


 目の前には、米の包み。


 納屋では、相変わらず荷造りの音が響いている。


「どうしたと? ぼうっとして」


「いや……ちょっと思い出してた」


「何ば?」


「去年の白い飯」


 長吉が、ふっと笑った。


「……うまかったねえ」


「ああ」


「母ちゃん、三杯も食べたとぞ」


「そうだったな」


「今でも言いよる。あん日の飯は忘れられんって」


 長吉は嬉しそうに笑った。


 だが、すぐに真面目な顔へ戻る。


「ばってん、今年はもっと忙しかった」


「だろうな」


「去年うまくいったけん、ほかの田でも試したかって言う人が増えたと」


 そのとき。


「長吉どん!」


 納屋の外から声がした。


 別の村の農民だった。


「ちょっとよかか。来年の田のことで聞きたかことのある」


「なんね?」


「あっちの低か田にも、同じように水ば入れたかとばってん……」


 長吉は話を聞き、首をかしげた。


「そっちは、ここと高さの違うけんね」


「なら、どうすればよか?」


「……一遍、見に行こうで」


 長吉は即答しなかった。


「水の入り方ば見らんと、分からん。母ちゃんたちにも相談してから決めよう」


 農民が感心したようにうなずく。


「そうか。なら明日、頼むばい」


「うん!」


 長吉は元気よく答えた。


 その後ろ姿を、湊一は黙って見送った。


 一年前。


 長吉の言葉を、子どもの遊びだと笑っていた大人たちがいた。


 今は違う。


 大人たちが長吉に相談する。


 もちろん、長吉一人で田を動かしているわけではない。


 母親も、年配の農民も、皆で考える。


 それでも。


 長吉はもう、教わるだけの少年ではなかった。


「……頼もしくなったなあ」


 湊一がつぶやくと、澪が隣に立った。


「そなたがすべて教えたわけではあるまい」


「うん?」


「長吉は、田からも学んだ。母からも、村の者からもな」


 澪は穏やかに笑った。


「よき先生が、たくさんおるのじゃ」


 湊一も笑う。


「……そうだな」


 ふと、納屋の向こうを見た。


 去年より広がった田。


 新しい水路。


 改めて石を積み直した樋門。


 塩抜きに時間のかかった土地もあった。


 春になって、ようやく苗を植えられた田もあった。


 同じ広さの田から、突然何倍もの米が採れるようになったわけではない。


 人が手を入れられる土地が増えたのだ。


 そして、前年に試した工夫が、既存の田にも少しずつ広がっていった。


 刈った草を肥やしにする。


 水を入れる時期を見極める。


 苗を強く育てる。


 水が溜まりすぎれば逃がし、足りなければ皆で順番を決める。


 どれも地味な仕事だった。


 けれど、誰か一人の仕事ではなくなった。


 それが何より大きかった。


     ◇


「長吉ーっ!」


 今度は源太の声が響いた。


「米ば、こっちまで積むなーっ!」


「なんね!」


「魚ば干す場所のなくなる!」


「そっちは漁師の場所じゃなかろ!」


「今日は漁師の場所たい!」


「勝手に決めんで!」


 二人の言い合いに、納屋中が笑った。


 源太の後ろから、大人の漁師たちが魚籠を運び込んでくる。


 一つ。


 二つ。


 さらに三つ。


「……また増えたのか?」


 湊一が尋ねる。


「増えた!」


 源太が胸を張った。


「今日はようけ獲れたばい!」


「昨日もそんなこと言ってなかったか?」


「昨日も獲れたけん!」


「なるほど」


 湊一は苦笑した。


 水路の整備と川の流れの見直し。


 漁師たちが長年知っていた潮の動き。


 河童水工衆が把握している川底の地形。


 それらを持ち寄り、漁場へ出る道や時間を相談するようになっていた。


 もちろん、海が毎日恵みをくれるわけではない。


 潮が悪ければ漁に出られない。


 風が強ければ舟を戻す。


 それでも、以前より魚を獲れる日が増えていた。


「こっちは干す魚。こっちは今日食べる分」


 源太が籠を分けていく。


 大人の漁師が魚を一尾取り上げた。


「源太、こいはまだ干さんでよか」


「なんで?」


「身の厚かけん、もう少し開かんば乾かん」


「……ああ、そっか!」


 源太は魚を受け取り、手際よく並べ直した。


 その横ではガタ吉が、縄を使って荷を縛っている。


「よし! こいでよか!」


「ガタ吉、そこは違う!」


「なんでたい!」


「持ち上げたら片寄る!」


「……ほんとか?」


 二人で荷を持ち上げた。


 ぐらり。


「うわっ!」


「ほら見ろ!」


「……もう一遍たい!」


 ガタ吉が縄を結び直す。


 今度は、しっかり持ち上がった。


「できた!」


「よし!」


 二人は笑って手を合わせた。


 その姿に湊一は目を細めた。


 田も。


 海も。


 人が増えたわけではないのに、仕事は確かに広がっている。


 いや。


 できる仕事が増えたのだ。


     ◇


「健太!」


 突然、村のおかみが納屋へ駆け込んできた。


「こい、まだ返さんでよかと?」


 手には、一本の火起こしの筒があった。


 健太が振り返る。


「ああ、そいは貸しとったやつたい!」


「借りとったとばってん……」


 おかみは筒を抱きしめた。


「もう返したくなか」


「……え?」


「銭ば払うけん、うちのにしてくれんね!」


 健太の顔が、ぱっと明るくなった。


「ほんとに!?」


「ほんとたい! こいがあると、朝の火起こしがずいぶん楽になる!」


「よっしゃ!」


 健太は両手を突き上げた。


 その様子を見ながら、湊一はもう一つの冬の出来事を思い出していた。


     ◇


 昨年の冬。


 健太は、作ったばかりの筒を得意げに差し出した。


「白瀬しゃん! できた!」


「おお!」


「こいなら、火ば起こすとが楽になる!」


 筒の中で棒を動かし、摩擦で火種を作る仕組み。


 まだ力加減が難しく、誰でも簡単に使えるわけではない。


 それでも、健太なりに工夫を重ねた道具だった。


 湊一が使ってみる。


 うん。


 悪くない。


「いいじゃないか!」


「じゃろ!」


 健太は胸を張った。


 ところが。


 試しに使ってもらった村のおかみは、困った顔をした。


「……こい、握りにくか」


「え?」


「途中で手の痛うなる」


「そがんことなかよ! こうやって……」


 健太が実演する。


 確かに動く。


 ところがおかみに渡すと、うまく力が伝わらない。


「……おかしか」


 健太が首をかしげた。


「うちは、できんよ」


「ばってん、おいはできる!」


 健太の声が少し大きくなった。


 そのとき。


「健太」


 小春が声を掛けた。


「なんね!」


「ちょっと貸して」


 小春は筒を受け取った。


 そして、おかみに尋ねる。


「どこが痛かと?」


「ここたい」


「どがん握りよると?」


「こうじゃ」


 小春はじっと見つめた。


 おかみの指は、健太より短い。


 握る力も違う。


 同じ道具でも、同じようには使えないのだ。


「……健太」


「なんね」


「ここの握るところ、少し変えられん?」


 健太は黙った。


 筒を受け取る。


 握ってみる。


 今度は、おかみの手を思い浮かべながら。


「……なるほど」


 しばらくして、顔を上げた。


「直してみる!」


 その日から、健太の試行錯誤が始まった。


 握りを変える。


 棒の動きを確かめる。


 実際に使ってもらう。


 失敗する。


 また直す。


 ようやく使える形になったとき、おかみが笑った。


「こいなら、うちにも使える!」


 健太は、嬉しそうに笑った。


「……よかった!」


 だが、それで終わりではなかった。


 評判を聞きつけ、注文する者が増え始めたのだ。


「うちにも一つ!」


「おいん家にも!」


「三つ頼めんか!」


 健太は喜んだ。


 喜んで――。


 全部引き受けようとした。


 そして数日後。


 作業台へ突っ伏して眠ってしまった。


「……健太?」


 湊一が覗き込む。


 返事がない。


 周囲には、削りかけの木片が散らばっていた。


 その横で、おたえが腕を組んでいた。


「……馬鹿たい」


「……まあ、頑張りすぎたな」


「作れん数まで約束したら、いかんと!」


 そこへ、さらに注文が入った。


「あと二つ、頼めんかね?」


 おたえは首を横に振った。


「今すぐには渡せん」


「……そうか」


 相手が残念そうにすると、おたえは続けた。


「ばってん、次の分なら頼める。いつまでに幾つ欲しかか、教えてくれんね」


「なら、十日ほど先に一つ……」


「うん。それなら話してみる」


 おたえは、健太の仕事の進み具合を確かめた。


 そして、相手と渡す日を決めた。


 湊一が感心していると、おたえが振り返った。


「なんね?」


「いや、偉いなと思って」


「何が?」


「売れそうだからって、無理に引き受けなかっただろ」


 おたえは不思議そうな顔をした。


「当たり前たい」


「え?」


「いつ出来るか分からんもんば売ったら、次に来てもらえんたい」


 湊一は目を丸くした。


 そして――笑った。


「……参ったな」


「何が?」


「いや。おたえには、教えることがなくなりそうだ」


「まだまだあるやろ!」


 おたえが笑う。


「うちは、もっと商いのうまくなりたかと!」


     ◇ ◇ ◇


 現在。


「こっちはよか。こっちは、まだ直さんば」


 健太が、長崎へ持っていく筒を一つずつ選んでいた。


 その横で小春が、実際に握って確かめている。


「こっちは、少し重かね」


「なら、こっちにする?」


「うん。女の人にも使ってもらうなら、こっちの方がよか」


「よし!」


 おたえは出来上がった品を数えた。


「まずはこれだけ。向こうで欲しか人のおるか、確かめると」


「もっと作ってから行けばよかとに」


 健太が言う。


 おたえは、にやりと笑った。


「売れるか分からんもんば、山ほど持って行ってどうすると?」


「……そりゃ、そうたい」


「ばってん、欲しか人の多かったら?」


「そんときは、もっと作る!」


「そうたい!」


 二人が笑う。


 小春も嬉しそうにうなずいた。


「うちは、使ってくれる人ば探す!」


「頼むぞ、小春!」


「任せんね!」


 三人のやり取りを見て、湊一は思った。


 もう、自分が一つ一つ指示する必要はないのだ。


 自分で考える。


 自分で決める。


 失敗したら、また直す。


 そうやって、子どもたちは育っている。


 かつての自分が、ここへ来たときと同じように。


     ◇


「白瀬殿!」


 納屋の外から声がした。


 振り返ると、丸山が歩いてくるところだった。


「丸山様!」


「いやはや、ずいぶん賑やかですな」


「いつものことです」


「それは結構」


 丸山は笑いながら、積まれた荷を眺めた。


「米に魚。道具までありますか」


「はい。まずは向こうで見てもらおうかと」


「なるほど」


 丸山はうなずいた。


 そして、懐から帳面を取り出した。


「ところで、白瀬殿」


「はい?」


「今年の収穫ですが……領内からの報告が、ようやく揃いました」


 湊一は顔を上げた。


「どうでした?」


 丸山は、少しだけ間を置いた。


 そして。


「米だけで、三万石に届きました」


「…………」


 湊一は固まった。


「……え?」


「三万石です」


「……三万?」


「はい」


「……魚も、麦も合わせて?」


 横からおたえが尋ねた。


 丸山は首を横に振る。


「いいえ。米だけです」


「……米だけ!?」


 おたえが叫んだ。


 納屋中が静まり返った。


「三万石……?」


「そげん採れたと?」


「うちの田だけじゃなかよね!?」


「もちろんです」


 丸山は帳面を開いた。


「新しく田になった土地。それまで作付けできなかった場所。そして、各地の田で増えた収穫を合わせた数字です」


 湊一は帳面を覗き込んだ。


 そこには、幾つもの村の名が並んでいた。


 高来津だけではない。


 白瀬たちが直接手を入れていない田もある。


 別の村で、工夫を試した農民がいる。


 水路を直した者がいる。


 新しい田を拓いた者がいる。


 そして、それぞれが米を実らせた。


「……すごいな」


 湊一はつぶやいた。


 もともと一万石と数えられていた領地。


 そこから実際に収穫された米が、今年は三万石に届いた。


 もちろん、領地の石高そのものが三万石に改められたという話ではない。


 今年、皆の手で得た実りの量なのだ。


「……本当に、すごい」


 湊一は、帳面に並ぶ村の名を指で追った。


 顔も知らない農民がいる。


 会ったことのない子どもたちがいる。


 けれど。


 そこにも、飯を食べて笑う家族がいるのだろう。


「白瀬殿」


 丸山が静かに言った。


「殿も、大変お喜びです」


「……直孝様が?」


「はい」


 そして、もう一通の書状を取り出した。


「これは、殿から白瀬殿へ」


 湊一は、背筋を伸ばした。


「……ありがとうございます」


 書状を受け取る。


 紐を解く。


 ゆっくりと開いた。


 そこには、見慣れ始めた筆の文字が並んでいた。


 一年前なら、ほとんど読めなかっただろう。


 だが、今は違う。


 丸山や勘定方の者たちに教わり、少しずつ文字を覚えてきた。


 湊一は、ゆっくりと読み進めた。


「……年貢として、納める分のほかは……」


 途中で止まった。


「丸山様。ここの字は……」


「ああ、それは『備え』です」


「……なるほど」


 湊一は、もう一度初めから読んだ。


 そこには、直孝の思いが記されていた。


『年貢として納める分のほかは、領内のため、人のために生かしてほしい』


『皆が食う飯に、次に蒔く種に、田や水路を守る備えに』


『商いで得た銭も、また人が働き、暮らしていけるように使ってくれ』


 湊一の指が、文字の上で止まった。


 さらに、書状は続いていた。


『白瀬。この土地で働く者が、働いた甲斐があったと笑えるようにしてほしい』


『それが、わしの望む豊かさじゃ』


 湊一は、しばらく動かなかった。


 あの日。


 領主と、腹を割って話した。


 土地だけが豊かになっても意味がない。


 作る人がいる。


 運ぶ人がいる。


 売る人がいる。


 そして、食べる人がいる。


 物と銭が巡り、皆の暮らしが少しずつよくなっていく。


 そんな領地にしたいと語り合った。


 直孝は、それを覚えていてくれたのだ。


 書状の最後には、こうあった。


『長崎で見聞きしたこと、帰ってから聞かせよ』


 湊一は、思わず笑った。


「……分かりました」


 誰に聞かせるでもなく、つぶやいた。


「必ず、聞かせます」


 そして、丁寧に書状を畳んだ。


 丸山が微笑む。


「殿は、白瀬殿を信じておられます」


「……ありがたいです」


「その代わり」


「はい?」


「向こうで、たくさん学んできてください」


 丸山は、長崎への紹介状も差し出した。


「商人への取り次ぎは手配しております。必要なら職人を訪ねることもできましょう。ただし、商いがまとまるかどうかは、皆様次第です」


「十分です」


 湊一は深く頭を下げた。


「本当に、ありがとうございます」


「礼は、帰ってから聞かせる土産話で結構」


 丸山は笑った。


 湊一は、紹介状を大切にしまった。


 長崎へ行く。


 米を見てもらう。


 魚を売る。


 道具を試してもらう。


 けれど、それだけではない。


 向こうで、何が求められているのかを知る。


 どんな品なら喜ばれるのか。


 どんな荷造りなら、傷まずに届けられるのか。


 どれほどの数を、無理なく送り続けられるのか。


 知らなければならないことは、山ほどある。


 そして、その答えを持ち帰る。


 この土地で働く人たちのために。


「……よし」


 湊一が小さく拳を握った。


 そのとき。


「ああ、そうでした」


 丸山が思い出したように言った。


「奥方様からも、言付けがございます」


「……奥方様?」


 嫌な予感がした。


「長崎へ行く前に、白瀬殿の縁談も決めてしまえばよいのに、と」


「…………」


 湊一は固まった。


 隣で、澪が紹介状を整える手を止めた。


「……ほう」


 静かな声だった。


 怖い。


 なぜだか、ものすごく怖い。


「いや、あの、丸山様?」


「はい」


「長崎の商いと、縁談は何の関係が……」


「さて」


 丸山は、涼しい顔で答えた。


「旅から戻られたら、ぜひご返事を、と」


「……返事が必要なんですか!?」


 小春が、澪の隣で口元を押さえている。


 笑いをこらえているのが丸分かりだった。


 ガタ吉まで首をかしげる。


「白瀬、嫁ばもらうと?」


「もらわない!」


「なんで?」


「今は長崎の話をしてるだろ!」


 すると澪が、ぽつりと言った。


「……別に、わたしは構わぬぞ」


「えっ?」


 湊一が振り返った。


 澪は、つんと顔を背ける。


「そなたが誰を娶ろうと、そなたの勝手じゃ」


「……そう?」


「うむ」


 少し間を置いて。


「ただし」


「……ただし?」


「水路を見ぬ者に、この土地の普請は任せられぬ。それだけじゃ」


「……嫁にも土木の知識が必要なの!?」


 納屋中に笑いが起きた。


 丸山は、そんな二人を見ながら、ひときわ楽しそうに笑っていた。


 きっと奥方も、今頃同じ顔をしているのだろう。


     ◇


 その日の夕方。


 長崎行きの荷は、ようやくまとまった。


 米の見本。


 少量の干魚。


 健太の火起こし道具。


 ほかにも、村で作り始めた品が幾つか。


 どれも、大きな商売になるかは分からない。


 だが、皆の手で生まれたものだった。


「白瀬しゃん」


 長吉が声を掛けた。


「留守の田は、任せとってよかばい」


「……頼むな」


「母ちゃんも、村の皆もおるけん」


「うん」


「水路も、毎日見る」


「ありがとう」


 源太も胸を張った。


「魚の方も任せんね!」


「おう」


「長崎で売れるって分かったら、次の荷ば用意するけん!」


「頼もしいな」


「ばってん、売れんかったらちゃんと言ってくれんね!」


 湊一が目を丸くした。


「なんで?」


「売れん魚ば、また山ほど干しても困るたい!」


「……なるほど」


 湊一は笑った。


「そのとおりだ」


 年配の農民が、長吉の肩に手を置く。


「田は、わしらも見とく。お前一人に任せるわけにはいかんけんな」


 漁師たちも、源太の背中を叩いた。


「魚のことも、わしらがおる」


「分かっとる!」


 源太が笑った。


 河童水工衆も、水路の見回りを引き受けた。


 年長の河童が、ガタ吉へ言う。


「若棟梁。こちらは任せて、行ってこい」


「……よかと?」


「よか。お前も外を見てこねばな」


 ガタ吉は、しばらく年長の河童を見つめた。


 そして、大きくうなずいた。


「うん!」


 その足で、母親のところへ駆けていった。


「母ちゃん! おい、長崎へ行ってくるばい!」


「気をつけて行くとよ」


「うん!」


 妹が飛び出してきた。


「兄ちゃん! お土産!」


「何がよか?」


「甘かもん!」


 弟も負けじと手を上げる。


「おいは、珍しか貝!」


「……貝?」


「大きかやつ!」


 ガタ吉が困った顔をした。


「そがん持って帰れるか分からんばい!」


「兄ちゃん、若棟梁やろ!」


「若棟梁と貝は関係なか!」


 母親が笑った。


 妹と弟も笑う。


 ガタ吉も、つられて笑った。


 父も、兄も、もういない。


 それでも、守りたい家族がいる。


 そして今は、守ってくれる仲間もいる。


 ガタ吉は母親の手をぎゅっと握った。


「……行ってくるけん」


「うん。楽しんでおいで」


 母親は、優しく答えた。


     ◇


 夜。


 湯屋の明かりが、ぽつぽつと灯っていた。


 夕飯には、麦の混じった飯が並んでいる。


 煮た豆。


 焼き魚。


 畑の菜。


 一年前の白い飯の宴を思い出しながら、湊一は箸を動かした。


 あの日の言葉は、今も暮らしの中に残っている。


 食べ終えると、湊一は水路へ向かった。


 月明かりが、水面を照らしている。


 新しく造った水路。


 石を積み直した場所。


 樋門のある方角。


 明日から、しばらく見られなくなる。


「……大丈夫かな」


 思わずつぶやいた。


「大丈夫であろう」


 背後から声がした。


 澪だった。


「……聞いてた?」


「うむ」


 澪は湊一の隣に立った。


 水路を見つめる。


「去年なら、そなたは何度も戻って確かめたであろうな」


「……今も、気にはなるよ」


「知っておる」


 澪は静かに答えた。


「じゃが、任せた者がおる」


「……うん」


「長吉も、源太も。村の者も、河童たちも」


 澪は湊一を見た。


「そなたが戻らねば、何もできぬ土地ではなくなったのじゃ」


 湊一は、その言葉を噛みしめた。


 最初は。


 自分が何とかしなければと思っていた。


 水路を造る。


 田を拓く。


 皆を説得する。


 何もかも、自分が動かなければ始まらないと思っていた。


 けれど、今は違う。


 長吉が考える。


 源太が動く。


 健太が作る。


 おたえが売る。


 小春が人をつなぐ。


 そして、大人たちも、河童たちも。


 それぞれが、自分の仕事を持っている。


「……そうだな」


 湊一は笑った。


「俺がいなくても、ちゃんと回るんだ」


「うむ」


「……ちょっと寂しいな」


 澪が笑った。


「贅沢なことを言う」


「そうかな」


「そうじゃ」


 少しだけ、静かな時間が流れた。


 水音が聞こえる。


 遠くで、誰かの笑い声がした。


「……湊一」


 澪が、ふいに名を呼んだ。


「ん?」


「わたしも、長崎を見たい」


 湊一は、澪を見た。


 彼女は水面ではなく、遠くの闇を見つめていた。


「海の向こうでは、人はどのように暮らしておるのか」


「うん」


「どのようなものを作り、どのようなものを食べるのか」


「うん」


「知らぬことが、まだたくさんあるのであろう?」


 湊一は微笑んだ。


「……たくさんあると思う」


「ならば、見たい」


 澪は、少し照れたように笑った。


「水を見るためだけではない。わたし自身が、見てみたいのじゃ」


 湊一の胸が、ほんの少し温かくなった。


 澪は、ただの水守ではない。


 この土地の水を守るためだけに、ここにいるわけでもない。


 澪にも、見たい景色がある。


 知りたいことがある。


 自分の夢がある。


「……一緒に行こう」


 湊一が言った。


 澪は、こちらを見た。


「うむ」


 そして、いつものように、少しだけ偉そうに笑った。


「そなた一人では、道に迷うやもしれぬしな」


「……そこは信用してほしい」


「そうか?」


「そうだよ!」


「では、道案内は任せた」


「……えっ」


 澪が楽しそうに笑った。


 湊一も笑った。


 月明かりの下。


 二人は、しばらく水の流れる音を聞いていた。


     ◇


 翌朝。


 高来津は、まだ薄い朝靄に包まれていた。


 道の先には、長崎へ向かう一行が集まっている。


 白瀬湊一。


 水守の澪。


 河童のガタ吉。


 そして。


「荷は全部あるね!」


 おたえ。


「火起こしの筒、よし!」


 健太。


「頼まれたことも、ちゃんと控えとる!」


 小春。


 髭の行商人が案内役となり、領側が手配した大人たちも荷を運ぶ。


 初めての長崎行き。


 まずは陸路で、品物を見てもらうための旅だ。


 売れるかどうかも分からない。


 どんな人と出会うかも分からない。


 それでも。


 皆の顔は明るかった。


「白瀬しゃん!」


 長吉が、最後に米の包みを渡した。


「向こうで、食べてもろうてね」


「ああ」


「……うまかって言われたら、教えてくれんね」


 湊一は笑った。


「もちろん」


 長吉も笑った。


「うん!」


 源太が干魚の包みを差し出す。


「魚も忘れんでよ!」


「分かってる!」


「売れそうか、ちゃんと聞いてくれんね!」


「分かったって!」


「それから!」


「まだあるのか!?」


 皆が笑った。


 源太は、にかっと笑う。


「楽しんで来んね!」


 湊一は、一瞬だけ言葉に詰まった。


 そして、大きくうなずいた。


「……ああ!」


 おたえが、荷に付けた札を確かめる。


 健太は、自分の作った道具を抱え直す。


 小春は、見送りの村人たち一人一人へ手を振った。


 ガタ吉は、母親と妹弟へ大きく手を振っている。


 澪は、皆の顔をゆっくりと見渡した。


 そして、湊一の隣に立つ。


「……行くか」


「うん」


 そのとき。


 髭の行商人が、ふっと笑った。


「一つ、言うとくぞ」


 皆が振り返る。


「長崎じゃ、高来津の名ば知っとる者は、まだおらん」


 おたえが目を細めた。


「……そうね」


「お前たちの米も、魚も、道具も。向こうの者にとっちゃ、どこの誰が作ったか分からん品たい」


「うん」


「口でうまかと言うだけじゃ、簡単には売れんぞ」


 少しだけ、空気が引き締まった。


 健太が、自分の筒を握り直す。


 小春も、真面目な顔になった。


 湊一は、何か言おうとした。


 けれど。


 その前に、おたえが一歩踏み出した。


「……なら」


 少女は、にやりと笑った。


「覚えてもらって来るたい」


 行商人が目を丸くする。


「……何?」


「高来津の米はうまか。魚もうまか。道具も便利たい」


 おたえは、荷に付けた札をぽんと叩いた。


「ばってん、そいば知らん人には、分からんやろ?」


「……まあ、そうじゃな」


「なら、食べてもらう。使ってもらう。話ば聞いてもらう」


 おたえは胸を張った。


「そいで、覚えてもらうと!」


 健太が笑った。


「よし!」


 小春も続く。


「うちが、いっぱい人ば集める!」


 ガタ吉が両手を上げた。


「おいも食べる!」


「ガタ吉は食べるだけじゃ駄目!」


「……また駄目か!」


 笑い声が広がった。


 湊一も笑った。


 そうだ。


 ここまで来たのだ。


 かつて海だった場所に、田を造った。


 川を整えた。


 魚が戻った。


 米が実った。


 子どもたちが育った。


 人が集まった。


 今度は、その実りを外へ届ける。


 知らない人に食べてもらう。


 知らない人に使ってもらう。


 そして、得たものをまた、この土地へ持ち帰る。


 直孝の書状を懐へ確かめる。


 長吉から受け取った米の包みを持ち直す。


 小さな包みだ。


 けれど、その重みは確かだった。


 そこには。


 弥助と岩蔵へ捧げた、二つの椀がある。


 弥助の娘が求めた、二杯目の飯がある。


 母親へ白い飯をよそった、長吉の手がある。


 そして。


 腹いっぱい食べて笑った、皆の顔がある。


「……よし!」


 湊一は、前を向いた。


「行こう!」


 高来津の人々が、一斉に手を振った。


「行ってこーい!」


「気をつけてなー!」


「土産話ば待っとるぞー!」


 長吉が叫んだ。


「うまかって言われたら、教えてくれんねー!」


 源太も負けずに叫ぶ。


「魚も忘れんなよー!」


 笑いながら、湊一たちは歩き出した。


 秋の風が吹く。


 背後には、黄金色の田。


 前には、まだ見ぬ長崎への道。


 米を作るだけなら、ここまで来られた。


 けれど。


 米を作った人が豊かになるには、その先がいる。


 今度の普請は、土を掘る仕事ではない。


 人を知り、品を届け、銭の流れる道を拓く仕事だ。


 そして、その道の先には。


 日本の外からも、人と品が集まる町が待っている。


 長崎。


 まだ誰も、高来津の名を知らない。


 だが――。


「……白瀬しゃん」


 おたえが、歩きながら振り返った。


「なんだ?」


「長崎の商人さんたちは、商いの上手かとやろ?」


「……そうだろうな」


「ふふっ」


 少女は、楽しそうに笑った。


「なら、勝負たい!」


「……おいおい」


 湊一は思わず笑った。


 その後ろで、行商人が呆れたようにつぶやく。


「……こりゃ、長崎の商人衆も大変じゃな」


 誰も、その言葉を否定しなかった。


 こうして。


 海から始まった小さな国づくりは、ついに長崎へ向かう。


 土と水から生まれた実りを携えて。


 次に拓くのは――。


 人と、物と、銭の流れる道。


 そして、まだ誰も知らない。


 この小さな一行が、長崎の商人たちを巻き込む、とんでもない騒動の始まりになることを。

最後までお読みいただき、ありがとうございます!


ついに米の収穫は三万石に到達しました!\

もちろん、これは白瀬一人の力ではありません。


長吉たち子どもたち、村人、漁師、河童水工衆、そして犠牲となった弥助と岩蔵。


皆が積み重ねてきた努力の実りです。


「米を作る」から「米を届ける」へ。


次回はいよいよ長崎へ到着!\

異国の文化と商人たちが集う港町で、おたえたちの商売は通用するのでしょうか?


新章も、笑いあり、驚きあり、そして少しの恋模様も交えながらお届けします。


引き続き、白瀬たちの挑戦を応援していただけると嬉しいです!


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