第四十普請 この地を、豊かにしよう
第五章、最終話です。
川を守り、海と向き合い、田を作り、人を育て、そして商いへ。
今回は、白瀬と領主が初めて腹を割って「この地の未来」を語ります。
それぞれが見つけ始めた夢にも、ぜひ注目してください。
筆先が、止まった。
「……違うな」
白瀬は眉間に皺を寄せ、反故紙の裏に書いた文字を睨んだ。
もう一度、手本を見る。
そして、書く。
「……これで、どうだ」
「白瀬しゃん」
「ん?」
「さっきん方が、まだ読めたばい」
「おたえ、今それ言う?」
納屋の中に笑い声が広がった。
白瀬がこの時代へ来たばかりの頃は、文字などほとんど読めなかった。
自分の名前を書くことすら怪しい。
それが今では、家老に教わり、子どもたちと一緒になって覚え、どうにか簡単な文なら読めるところまで来ている。
「先生も大変たいねえ」
健太が妙に偉そうに頷く。
「誰のために勉強してると思ってんだ」
「おいらのため?」
「違う」
「即答された!」
また笑いが起こる。
その時だった。
「白瀬殿」
納屋の外から声がした。
城からの使いだった。
「殿がお呼びでございます」
「……また?」
白瀬が思わず呟く。
使いは何とも言えない顔をした。
「また、とは……」
「いや、こっちの話です」
一通の書状が差し出された。
白瀬は受け取る。
少し前なら、そのまま澪か誰かに渡していた。
だが今日は違った。
白瀬は書状を開き、ゆっくりと文字を追う。
「……登……城……されたし」
納屋が静かになった。
おたえが目を丸くする。
「白瀬しゃん、読めた!」
「読めたぞ!」
白瀬自身が一番嬉しそうだった。
「先生が勉強しよる!」
「先生だから勉強するんだよ!」
健太に言い返す。
その横で澪が書状を覗き込み、わずかに目を細めた。
「そなた」
「ん?」
「喜ぶのはよいが――」
澪が書状を指差す。
「これは遊びの呼び出しではないぞ」
白瀬の笑顔が消えた。
「……分かってるよ」
「顔が分かっておらぬ」
ガタ吉が白瀬を見上げる。
「また怒らるっと?」
「だから、なんでみんな俺が怒られる前提なんだよ」
誰も答えなかった。
「否定しろよ!」
◇◇◇
城へ向かう道すがら。
白瀬は、この数か月を思い返していた。
川を見た。
水と戦った。
堤を造った。
壊れた。
人が死んだ。
もう二度と同じことを繰り返さないために、皆で考えた。
海へ出た。
魚が戻った。
田を作った。
土を育てた。
蜂まで飼い始めた。
子どもたちは、いつの間にかそれぞれの道を見つけ始めている。
長吉は土を見る。
健太は物を作る。
おたえは銭を見る。
源太は海を見る。
小春は人を見る。
そしてガタ吉は水を見る。
澪は――。
「何だ」
横を歩いていた澪が振り向いた。
「いや」
「今、わたしを見たであろう」
「見ただけ」
「ならばよい」
澪は前を向く。
白瀬は小さく笑った。
澪は、白瀬を見る。
誰よりも近くで。
時には止め、
時には背中を押し、
時には何も言わず、ただ隣にいる。
「……ありがとな」
「何がだ」
「何でもない」
「妙な男よ」
それ以上、澪は聞かなかった。
◇◇◇
城へ着いた白瀬は、いつもの評定の間へ通されるものと思っていた。
だが違った。
案内されたのは、小さな座敷だった。
「こちらでございます」
「……ここ?」
襖が開く。
中にいたのは――領主ただ一人。
家老もいない。
重臣もいない。
白瀬は少し戸惑った。
「白瀬、入れ」
「は、はい」
白瀬は座る。
「今日は……お一人ですか」
「そなたと話がしたかった」
「私、何かやらかしました?」
領主は呆れたように白瀬を見る。
「心当たりが多すぎるであろう」
「……否定できません」
領主が吹き出した。
だが笑ったのは、それだけだった。
しばらくして表情を改める。
「白瀬」
「はい」
「そなたがこの地へ来てから、この領は随分と騒がしくなった」
「申し訳ありません」
「褒めておる」
「殿も澪と同じで、褒め方が分かりにくいんですよ」
「水守殿と一緒にするな」
また少し笑う。
そして領主は、庭へ目を向けた。
「川が荒れた」
「はい」
「村が水に沈みかけた」
「はい」
「海へ堤を築いた」
「はい」
「そして崩れた」
白瀬の顔から笑みが消えた。
領主は続ける。
「弥助」
白瀬が顔を上げる。
「岩蔵」
胸の奥が痛んだ。
領主は、二人の名を覚えていた。
「……はい」
「最初に採れた米を、あの二人に供えるそうだな」
「そのつもりです」
「誰から聞いたか、ではないぞ」
領主は白瀬を見る。
「領内で起きたことだ。わしが知らぬでどうする」
白瀬は黙った。
あの日。
崩れた堤。
濁流。
叫び声。
遺された家族。
忘れたら、また死ぬ。
白瀬は、あの日からずっと、それだけは胸に刻んでいる。
領主が静かに言った。
「わしは、あの二人が死んだ普請を良かったとは思わぬ」
「はい」
「そなたも、自分を許してはおらぬのであろう」
白瀬は、しばらく答えなかった。
「……たぶん、一生」
「ならば、それでよい」
「え?」
「忘れぬ者になら、次を任せられる」
白瀬は、領主を見つめた。
これまで。
領主は領主だった。
許可を求める相手。
報告する相手。
この土地の一番上にいる人。
だが今。
初めて白瀬には、この人もまた、同じ土地を見ている一人の人間に見えた。
領主が続ける。
「その後、魚が戻った」
「はい」
「田も増えた」
「まだ途中ですけどね」
「蜂まで飼い始めたと聞いた」
「それは……まあ」
「子どもに読み書きまで教えておる」
「私も一緒に習ってます」
「知っておる」
「そこまで報告されてるんですか!?」
「おかげで、わしのところへ面白い話ばかり上がってくる」
領主は笑った。
「初め、そなたを奇妙な男だと思うた」
「それは否定できません」
「次に、役に立つ男だと思うた」
「ありがとうございます」
「だが今は違う」
白瀬の表情が変わる。
領主は真っ直ぐ白瀬を見た。
「この男ならば――」
一呼吸。
「この領の先を、共に考えられると思っておる」
白瀬は、何も言えなかった。
◇◇◇
「白瀬」
「はい」
「聞きたいことがある」
領主が姿勢を正した。
「この領を豊かにするには、どうすればよい」
予想していなかった問いだった。
「……それを、私に聞くんですか?」
「殿とて何でも知っておるわけではない」
領主は苦笑した。
「田を増やしたい」
「はい」
「水路も造りたい」
「はい」
「道も直したい。堤も強くしたい。蔵も要る。船も要る」
「……はい」
「だがな」
領主が小さく息を吐いた。
「何をするにも、銭が要る」
白瀬は黙って聞く。
「不作になれば年貢が減る」
「水が出れば普請で銭が消える」
「足りぬからと民から取れば、今度は民が痩せる」
領主は少し笑った。
「殿様というものは、思うほど自由ではないぞ」
白瀬は思わず呟いた。
「……役所みたいだな」
「やくしょ?」
「いえ。何でもないです」
白瀬は腕を組んだ。
少し考える。
それから近くの紙を引き寄せた。
「少し借ります」
「何をする」
「考えます」
紙の中央に、大きな丸を一つ。
その中へ書く。
村。
……少々歪んでいた。
領主が眉を上げる。
「読めるようにはなったが、字はまだ下手だな」
「今そこはいいんです」
その周りに、
田。
海。
山。
市。
職人。
白瀬は順番に書いていく。
「今まで、俺たちはここばかり見ていました」
田を指した。
「米は国の基であろう」
「はい。間違ってません」
「ならば何が足りぬ」
「米以外です」
領主が黙る。
「田を増やす」
「収穫を増やす」
「それは絶対に必要です」
白瀬は紙を指でなぞる。
「でも、田だけ増やしても限界が来ます」
「では?」
「魚があります」
一つ。
「蜂蜜があります」
二つ。
「木工、農具、道具」
三つ。
「まだまだ、この土地で作れる物がある」
白瀬は領主を見る。
「それを、外へ売ります」
「商いか」
「はい」
領主は腕を組んだ。
「そして商いで得た分、年貢を増やすのか」
「違います」
白瀬は即答した。
領主の眉が動いた。
「違う?」
「取る量を増やすんじゃありません」
白瀬は中央の丸を指で叩く。
「取れる元を、大きくするんです」
領主が黙る。
白瀬は続けた。
「百姓が豊かになる」
「漁師が稼ぐ」
「職人に仕事が増える」
「それを運ぶ人にも仕事ができる」
「売る人も儲かる」
「儲かった人が、また何かを買う」
紙の上を指が巡っていく。
「銭が回るんです」
「回る……」
「はい」
「領内だけじゃない」
「外へ物を売れば、外の銭がこっちへ入ってくる」
「その銭で鉄を買う」
「薬を買う」
「布を買う」
「新しい道具を買う」
「そしてまた田を増やす」
「水路を造る」
「堤を強くする」
「道を直す」
白瀬の指が、最初の田へ戻った。
「そうしたら、またもっと作れる」
領主は、しばらく紙を見ていた。
「銭を取って終わりではない」
白瀬が頷く。
「回すんです」
長い沈黙。
やがて領主が言った。
「つまり」
「はい」
「民を富ませれば、領も富むと?」
白瀬は少し考えた。
「……逆です」
「逆?」
「民が貧しいまま」
白瀬はゆっくり言う。
「領地だけ豊かになるなんて、無理だと思います」
言ってから、
しまった。
と思った。
さすがにこれは、殿様に向かって言う言葉ではなかったかもしれない。
白瀬が恐る恐る顔を上げる。
領主は――。
笑っていた。
「そなた」
「はい」
「よく殿に向かって、そのようなことを言えるな」
「……すみません」
「謝るな」
領主の笑みが消える。
「わしも、そう思う」
白瀬は目を見開いた。
領主は庭を見た。
「わしはな、白瀬」
少しだけ声が柔らかくなる。
「この土地を、父祖から預かっておる」
「預かる?」
「そうだ」
領主は頷く。
「わしの物ではない」
「先代から受け取り」
「いずれ次へ渡す」
「ならば――」
領主が遠くを見る。
「受け取った時より、少しでも良くして渡したい」
白瀬は息を止めた。
その言葉は。
どこか、自分が水路や堤を造る時に考えていたことと同じだった。
自分だけが助かればいいのではない。
今日だけ持てばいいのではない。
明日。
十年後。
百年後。
そこに暮らす誰かのために残す。
「……私も」
白瀬が言った。
「私も、同じです」
「何がだ」
「自分が――」
一瞬だけ、言葉に詰まる。
「自分がいなくなった後にも、残るものを作りたい」
領主が白瀬を見る。
「いなくなった後?」
「……いつかは、人はいなくなりますから」
白瀬は笑ってごまかした。
領主は少しだけ何かを考えたようだったが、それ以上は聞かなかった。
「白瀬」
「はい」
「そなたがどこから来た者なのか」
白瀬の身体が僅かに強張った。
「未だに、わしには分からぬ」
「……はい」
「だが」
領主は言った。
「いつか話せる時が来たなら聞こう」
白瀬は、ゆっくり頭を下げた。
「ありがとうございます」
「今はそれでよい」
◇◇◇
領主は紙へ目を戻した。
「ならば白瀬」
「はい」
「そなたの知恵を、わしに貸せ」
白瀬は少し驚いた。
それから笑った。
「だったら」
「何だ」
「殿も、私に貸してください」
「何をだ」
「力です」
領主の目が細くなる。
「俺には――」
白瀬は言い直さなかった。
「村人へ命じる権利もありません」
「山の木を勝手に使うこともできない」
「大勢の人を集めることもできない」
「領外の商人に、俺を信用しろと言っても無理です」
白瀬は領主を見る。
「だから」
「俺にできないことを、殿がやってください」
「殿にできないことを――」
白瀬は胸を張った。
「俺がやります」
領主は、白瀬をじっと見た。
やがて。
「ははっ」
笑った。
「随分、大きく出たな」
「駄目ですか?」
「いや」
領主は愉快そうに頷いた。
「それでこそ、そなたらしい」
そして、先ほどの紙を指差す。
「では聞こう」
「はい」
「外へ売ると言ったな」
「言いました」
「どこへ売る」
白瀬は少しだけ黙った。
佐賀。
近隣の市。
いくつもの選択肢はある。
だが。
人が集まり。
銭が動き。
見たこともない物が集まる町。
白瀬は顔を上げた。
「長崎です」
領主の表情が変わった。
「……長崎か」
「はい」
「白瀬」
「はい」
「長崎を、村の市と同じと思うな」
「もちろん」
「商人も多い」
「銭も大きい」
「様々な思惑が絡む」
「そなたが失敗するだけなら、まだよい」
「いや、良くないですよ」
「最後まで聞け」
「はい」
「わしが後ろ盾となれば」
領主は静かに言った。
「そなたは諫早の名を背負う」
白瀬の表情から笑みが消える。
「……はい」
「失敗した時」
「白瀬という妙な男が失敗した、では済まぬ」
「諫早が笑われる」
その言葉は重かった。
しかし白瀬は逃げなかった。
「だから」
「最初は小さくやります」
「小さく?」
「何が売れるか」
「誰が買うか」
「いくらなら買ってくれるか」
「逆に、長崎から何を持って帰れるか」
「まず見ます」
領主が頷く。
「戦で言う物見か」
「まあ……市場調査です」
「また妙な言葉を」
「売る前に、相手を知るってことです」
「なるほど」
「最初から大儲けしようとしたら、たぶん失敗します」
白瀬の頭に、一人の少女が浮かんだ。
盛大な夢を描き、
売れず、
悔しがり、
それでもまた商いに向き合った少女。
「失敗は、もうしましたから」
「誰がだ?」
「いや。こっちの話です」
領主は怪訝な顔をしたが、追及しなかった。
「ならば条件がある」
「何でしょう」
「帳面をつけよ」
「帳面?」
「誰が作った」
「誰が運んだ」
「何を幾つ売った」
「いくらで売った」
「どれだけ銭が残った」
「すべて書け」
白瀬の目が少し見開かれる。
「……それ、いいですね」
「商いは銭を生む」
領主の声が低くなる。
「そして銭は、人を変える」
白瀬は頷いた。
「だから隠さない」
「皆で分かるようにする」
「そういうことですね」
「できるか?」
白瀬は笑った。
「適任がいます」
頭に浮かぶ。
算盤代わりの石を並べ、
銭勘定に目を輝かせる少女。
「たぶん本人は、大喜びします」
◇◇◇
領主が立ち上がった。
奥へ行き、一通の書状を持って戻る。
白瀬の前へ置いた。
「持ってゆけ」
「これは?」
「長崎へ行く時に使え」
白瀬が書状を見る。
「わし一人の名で、長崎の商いを好きにできるわけではない」
「はい」
「ゆえに、必要なところへ話は通す」
「道中も整える」
「人も付けよう」
「必要ならば馬も、舟も考える」
「だが」
領主は書状へ手を置いた。
「これは、何でも好きにしてよいという免状ではない」
「分かってます」
「それとな」
領主が白瀬を見る。
「これは銭ではない」
白瀬も、その意味を理解した。
「……はい」
「わしの名だ」
領主は書状を白瀬へ押し出す。
「わしの信用を――」
「そなたに預ける」
白瀬は両手で受け取った。
紙一枚。
なのに。
これまで持ったどんな道具より、重く感じた。
「必ず」
白瀬は言った。
「返します」
「何をだ」
「信用を」
領主が少し笑った。
「それは返すものではなかろう」
「では?」
「増やして返せ」
白瀬も笑った。
「……分かりました」
◇◇◇
話は終わった。
白瀬が立ち上がろうとした時だった。
「白瀬」
「はい?」
「一つだけ聞いておこう」
「何です?」
領主が、先ほど白瀬の書いた紙を見る。
「そなた」
「この領を、どこまで豊かにするつもりだ」
「どこまで……」
白瀬は困った。
本当に困った。
「田を増やして」
「魚も増やして」
「商いも増やして」
「その先だ」
「その先……」
白瀬は窓の向こうを見た。
遠くにあるのは、有明海。
あの海と戦い、
失敗し、
それでももう一度向き合った。
「そうですねえ」
白瀬は、半分冗談で言った。
「百万石くらい?」
「…………」
領主が固まった。
「百万石?」
「目標は大きい方がいいでしょう」
「そなた、この領の広さを分かって言っておるのか」
「土地が足りないなら」
白瀬は海を見た。
「海から取ればいい」
領主も、つられて海を見る。
一瞬。
そして――。
「はははははっ!」
領主が声を上げて笑った。
「海から百万石か!」
「いや、そこまで笑います?」
「笑うわ!」
ひとしきり笑い。
それから領主は、白瀬を見る。
「よい」
「え?」
「ならばやってみせよ」
「……言いましたね?」
「申した」
「後で無理とか言わないでくださいよ」
「そなたこそ逃げるな」
二人は顔を見合わせる。
そして同時に笑った。
その時。
「まあまあ」
襖の向こうから声がした。
二人の笑いが止まった。
襖が開く。
「随分と楽しそうなお話ですこと」
「…………」
領主の顔が引きつる。
「いつからおった」
奥方はにこりと笑った。
「民が貧しいままでは、辺りからでしょうか」
「ほとんど最初からではないか!」
白瀬は笑いを噛み殺した。
奥方の視線が白瀬へ向く。
「それで、長崎へ行かれるのでしょう?」
「はい」
「まあ」
奥方は楽しそうに手を合わせた。
「長崎には珍しい物がたくさんあるのでしょうねえ」
「たぶん」
「お菓子なども?」
「仕事ですよ?」
「分かっております」
絶対分かっていない。
「それと白瀬殿」
「はい」
「長崎の娘を連れて帰ってはいけませんよ」
「なんでそうなるんですか!」
領主が顔を覆った。
「また始まった……」
「水守殿にも、よう申し付けておきましょう」
「澪を巻き込まないでください!」
白瀬の声が城内に響いた。
◇◇◇
城門を出る。
そこには皆がいた。
澪。
ガタ吉。
長吉。
健太。
おたえ。
源太。
小春。
白瀬を見るなり、おたえが駆け寄ってきた。
「白瀬しゃん!」
「おう」
「なんて言われた!」
「怒られたと?」
健太まで聞く。
「お前らなあ」
ガタ吉も心配そうに白瀬を見る。
「首、まだついとるばい」
「そんな呼び出しじゃない!」
白瀬は笑った。
そして、わざと難しい顔をする。
「ただ――」
「大変なことになった」
「えっ」
みんなの顔が固まる。
白瀬は懐から一通の書状を出した。
「次の商売先が決まった」
おたえの目が一瞬で変わる。
「どこ!」
白瀬は少し勿体ぶった。
「長崎」
「…………」
一呼吸。
二呼吸。
「ながさきぃぃぃ!?」
城門の前に声が響いた。
「し、静かにしろ!」
白瀬が慌てる。
だがもう遅い。
「長崎って、人のいっぱいおるところやろ!」
最初に騒ぎ出したのは小春だった。
「そうだな」
「いろんなところから人の来るって聞いたばい!」
小春の目は輝いている。
「どがん人のおるとやろ!」
「お前は品物より人か」
「当たり前たい!」
小春は胸を張る。
「うち、人ば見たか!」
「話したか!」
「仲良うなりたか!」
白瀬は笑った。
「小春なら、着いて半日で友達作りそうだな」
「半日?」
小春が首を傾げる。
「そがんかからんばい」
「ですよね」
次に健太。
「白瀬しゃん!」
「ん?」
「長崎には、こっちに無か道具もあると?」
「たぶん山ほどある」
「見たか!」
「やっぱりそこか」
「見て、覚えて」
健太は自分の手を見る。
「帰って作る!」
だが一度口を閉じた。
「いや」
首を振る。
「もっとよかもん作る」
白瀬は少し驚いた。
ただ真似るのではない。
越えようとしている。
「いいな」
「うん!」
源太も前へ出る。
「おいも行きたか」
「魚か?」
「長崎ん魚も見たかばってん」
源太は少し照れた。
「有明ん魚ば持っていったら」
「長崎ん人も、うまかって言うてくるっとやろか」
「言わせよう」
「本当?」
「ちゃんと旨い魚を持っていけばな」
源太が笑う。
「なら、おいが捕る!」
長吉は、少し離れたところで黙っていた。
「長吉?」
「……おいは」
長吉が顔を上げる。
「長崎の田んぼば見たか」
「田んぼ?」
「土地の違えば、作り方も違うとやろ?」
「どがん肥やしば使うとか」
「どがん米ば作るとか」
「おいが知らんこと、まだいっぱいあるとやろ?」
白瀬は頷いた。
「ある」
「なら」
長吉は言った。
「知りたか」
その言葉に、白瀬はしばらく返事ができなかった。
大人に言われたまま鍬を持っていた少年が。
今は自分から、知らないことを知りたいと言う。
「長吉」
「何?」
「いい百姓になるな」
「まだ子どもたい!」
「そうだったな」
「笑うな!」
そして――。
おたえ。
妙に静かだった。
腕を組み、ずっと考えている。
「……おたえ?」
「長崎」
「うん」
「人、多かとよね」
「多い」
「銭も、いっぱい動くとよね」
「まあな」
おたえの目が、きらりと光る。
白瀬は身構えた。
「お前、まさか――」
「何が、いくらで売れるか見たか」
「……ん?」
少し違った。
「こっちで売れたけんって」
おたえが言う。
「長崎でも売れるとは限らんやろ?」
白瀬の表情が変わる。
「それに」
「いっぱい持っていって、売れんかったら困る」
少し前。
自信満々で始めた商い。
儲かったら何を買う。
誰に褒められる。
どれだけ立派な商人になる。
全部夢見て。
そして現実にぶつかった。
悔しくて。
悔しくて。
それでも諦めなかった。
「おたえ」
「何?」
「成長したな」
「何ね、急に」
「いや」
おたえは少し照れた。
「それに……」
「ん?」
「儲かったら」
おたえは皆を見る。
「村のみんなにも、仕事のできるやろ?」
白瀬は何も言わなかった。
ただ笑った。
おたえも、すぐに笑う。
「まあ!」
胸を張る。
「うちも、いっぱい儲けるばってん!」
「そこは変わらないのか!」
「当たり前たい!」
皆が笑った。
最後にガタ吉。
「おいも行く」
「長崎に?」
「うん」
ガタ吉は遠くを見る。
「長崎ん水が、どがん流れ方しよるか見たか」
「水?」
「川だけやなか」
「港もある」
「舟もいっぱい来る」
「人がいっぱい住んどるなら、水ん使い方も違うはずたい」
ガタ吉は少しだけ笑った。
「父ちゃんや兄ちゃんの知らんかった水ん道も、あるかもしれん」
白瀬は黙って聞く。
「いっぱい見て」
「いっぱい覚えて」
「持って帰る」
白瀬は、その頭をくしゃっと撫でた。
「そうしよう」
「皿まで触るな!」
「そこ気にする!?」
笑いが起こった。
そして白瀬は澪を見る。
澪だけは、皆の話を黙って聞いていた。
「澪は?」
「わたしか」
「みんな言ったから」
澪は少し考える。
「わたしは商いなど分からぬ」
「うん」
「銭の勘定も、おたえほど出来ぬ」
おたえが得意げに胸を張った。
「されど」
澪は白瀬を見る。
「そなたが妙なことを始めた時」
一歩、近づく。
「止める者は必要であろう」
「俺、暴走する前提?」
「する」
即答だった。
「するばい」
ガタ吉。
「する」
健太。
「するたい」
おたえ。
「絶対する」
小春。
「お前ら!」
また笑い声。
その中で。
澪が、ごく小さな声で言った。
「それに――」
白瀬だけを見る。
「そなた一人で行かせるつもりはない」
白瀬が、一瞬だけ黙った。
そして笑う。
「……ありがとう」
「礼など要らぬ」
澪は、もう前を向いている。
「行くのであろう?」
「ああ」
白瀬は皆を見た。
小春は、人を見たい。
健太は、技を見たい。
源太は、魚を届けたい。
長吉は、農を学びたい。
おたえは、商いを知りたい。
ガタ吉は、水を知りたい。
澪は――。
自分の隣に立とうとしている。
白瀬はふと気づいた。
誰一人、
白瀬について行く、
とは言わなかった。
皆が。
それぞれ自分の理由で。
自分の夢で。
長崎へ行こうとしている。
そのことが。
白瀬には、たまらなく嬉しかった。
「じゃあ」
白瀬は西を向く。
「行くか」
「長崎へ!」
おたえ。
「道具ば見に!」
健太。
「魚ば売りに!」
源太。
「学びに!」
長吉。
「友達作りに!」
小春。
「水ば見に!」
ガタ吉。
そして澪。
「……皆の暮らしを豊かにするためであろう」
「…………」
全員が止まる。
「あ」
白瀬が言った。
「そうだった」
「それもたい!」
おたえが胸を張る。
「お前は儲けが先か!」
再び笑い声が上がった。
白瀬は、その中で懐に触れた。
そこには領主から預かった書状がある。
領主の名。
領主の信用。
そして。
この土地を豊かにしたいという、一人の男の夢。
今まで。
白瀬は必死だった。
目の前の水を止める。
目の前の命を救う。
目の前の田を守る。
それだけで精一杯だった。
だが。
いつの間にか。
一緒に夢を見る者が増えていた。
水守がいる。
河童がいる。
子どもたちがいる。
村人がいる。
漁師がいる。
職人がいる。
そして――。
この土地を預かる領主がいる。
もう、自分一人で何かを変える話ではない。
皆で。
次の世代へ残すものを作る。
田を拓いた。
水を通した。
海と向き合った。
魚を戻した。
人を育てた。
物を作り始めた。
ならば、次は。
人をつなぐ。
物をつなぐ。
銭をつなぐ。
外から富を呼び込み。
それをまた、この土地へ返す。
白瀬は遠く、西を見た。
その先には。
まだ見ぬ、大きな町がある。
長崎。
白瀬は笑った。
「海から百万石、か」
澪が首を傾げる。
「何を申しておる」
「いや」
白瀬は皆と並んで歩き出す。
「ちょっと、大きな夢の話」
まだ。
それは夢でしかない。
けれど。
夢を見る者が一人ではないのなら。
いつか。
本当に届くのかもしれない。
この小さな土地から。
海を越え。
人をつなぎ。
未来へ。
――次の普請は、土を掘らない。
人と。
物と。
銭の流れを拓く。
その舞台は――。
長崎。
第五章、ここまでお付き合いいただきありがとうございました。
最初は目の前の水害をどうにかするだけで精一杯だった白瀬たちですが、いつの間にか、
「どう生き残るか」から
「どう豊かになるか」へ。
そして今回、白瀬だけではなく、長吉、健太、おたえ、源太、小春、ガタ吉、それぞれが自分なりの夢を持ち始めました。
領主ともようやく、許可を出す側・もらう側ではなく、同じ土地の未来を考える関係へ。
次なる舞台は――長崎。
第六章では、これまでとは少し違う「商いの普請」が始まります。
人と物と銭が集まる大きな町で、白瀬たちは何を見るのか。
そして諫早から持ち込んだ品々は、本当に通用するのか。
次章も、どうぞよろしくお願いいたします。




