第三十九普請 名付けで、てんてこ舞い
魚を売る場所に、名前を付けよう。
ただそれだけの話だったはずが……。
舟を並べたい者、米蔵を建てたい者、店を構えたい者。
それぞれの夢が膨らんで、今日も村は賑やかです。
第三十九普請、どうぞお楽しみください。
「五日ほどしたら、また通るばい」
髭の男が答えると、おたえは板へ印を付けた。
健太が横からのぞく。
「皿は、それまでに作る」
「筒は?」
おたえが尋ねると、健太は包みへ目を落とした。
「まだ、誰でも使えるとは言えん」
「なら、試してもらうだけたいね」
健太がうなずく。
おたえは、皿の印と少し離れたところへ、もう一つ印を付けた。
今度は、売れたつもりの勘定をしなかった。
男は籠を背負い、日除けを外した広場を見渡した。
「ほかにも、ここで品ば見せよるって教えとくたい」
「ほんとね!」
「ばってん、ここは何という所ね?」
おたえは口を開いた。
閉じた。
「……長吉んちの納屋から、こっちへ来て」
「湯屋の角ば曲がるとたい」
源太が付け足す。
長吉は田を指した。
「新しか田の手前って言うた方が分かる」
「そっちから来たら、手前じゃなかばい」
小春に言われ、長吉の指が止まった。
男は皆の顔を順に見た。
「おい、もう一遍来られるやろうか」
笑い声の中で、おたえだけが板を見つめていた。
*
「おたえ市、でよかろ」
翌朝。
おたえは、納屋へ入るなり言った。
板には、既に自分の名が書いてあった。
小春が指をさす。
「もう決めとるやん」
「字の稽古たい」
源太が板を裏返す。
裏にも、おたえ。
「熱心かねえ」
「両方せんば、覚えんやろ!」
源太は笑いながら板を戻した。
「魚ば売る所たい。大漁の方がよか」
「皿も売るとよ」
「皿にも魚ば載せるやろ」
源太には、もう見えていた。
川べりへ、舟が並んでいる。
一艘や二艘ではない。
籠を持った男たちが走り、銀色の魚が朝日に光る。向こうの舟にも、こちらの舟にも、まだ魚がある。
『源太! こっちは、どこへ下ろすとね!』
いつも自分を叱る漁師が、返事を待っている。
源太は舟の先へ片足を掛けた。
『大きかとは、こっち。小さかとは、あっちたい!』
『分かった!』
よい返事だった。
源太は、さらに顎を上げた。
『明日は、おいについて来んね。もっと獲れる所ば――』
「源太」
「慌てんでよか!」
「誰の慌てとるとね」
目の前に、漁師が立っていた。
舟はなかった。
片足を掛けていたのは、空の魚籠だった。
源太が慌てて足を下ろすと、籠が傾き、小春が押さえた。
「そいば取りに来たとたい。持ってこんね」
「……うん」
おたえが肩を震わせている。
源太は籠を持ち上げた。
「ばってん、舟のいっぱい来る所にしたかとは、ほんとたい」
漁師は笑うのをやめ、川の方を見た。
「そうね。帰ってきて、すぐ荷ば下ろせる所のあれば、助かる」
「魚も、いっぱい売れる」
「売り切れん分ば干す所も要るばい」
源太の顔が明るくなる。
夢の中の舟の列に、魚を干す場所が増えた。
*
「田もあるとに、魚だけね」
長吉の声は、源太が籠を運んで戻ってきても変わらなかった。
戸口から、新しい田が見える。
長吉は朝も、葉と穂の様子を確かめてきたところだった。
「実り、とか。そげん名前のよか」
「まだ、刈っとらんばい」
「今から実ると!」
言った途端、長吉の目の前で、田の色が変わった。
青みの残る稲が、黄金色へ染まる。
風が渡るたび、重そうな穂が一斉に揺れた。
刈っても、刈っても、まだある。
俵を運び込んだ男が、納屋の戸口で立ち往生していた。
『もう入らんぞ』
母が困った顔で、中をのぞく。
『こげん採れたら、どこへ置けばよかとね』
困っているのに、笑っている。
長吉は、その顔をもっと見たかった。
今夜の飯をどうしようかと考える顔ではない。
明日の分まで残せるかと、鍋をのぞく顔でもない。
米が多すぎて困る顔。
長吉は胸を張った。
「なら、蔵ばもう一つ建てればよか」
「その前に、ここば片付けんね」
母が、戸口の鍬を指していた。
米俵は消えた。
納屋の中には、いつもの籠と道具があった。
長吉は、黙って鍬を立て直した。
「蔵まで建てると?」
小春が尋ねる。
「……要るごと、したか」
母は長吉を見た。
それから、戸口に残っていた縄を拾う。
「なら、広う使えるごとしとかんばね」
長吉もしゃがみ、竹の切れ端を寄せ始めた。
源太が、魚籠を抱えたまま言った。
「舟も要る。蔵も要る。大きゅうなるね」
「うちの店もあるけん」
おたえが、間髪を入れずに付け足した。
*
話は納屋から道へ出て、水汲み場を回り、昼前には昨日の売り場へ戻ってきた。
名前を付けるらしい。
それだけで、人が寄った。
「大漁はよか名たい」
漁師が言えば、農民が首を振る。
「田の方まで大漁じゃ、落ち着かん」
「なら、実りか」
「それじゃ、魚の分の入っとるか分からん」
おたえは人だかりを眺めた。
「昨日、こげん来てくれたら……」
「今日は、銭の要らんけんね」
長吉の母に返され、唇を尖らせる。
健太は、日陰で竹を削っていた。
「道具ば作る所でもあるとに」
ぼそりと言うと、近くで聞いていた男が膝を打った。
「なら、細工町たい」
健太の手が止まった。
細工町。
その名のついた仕事場には、よく切れる小刀がある。
大きさの違う鑿も、穴を開ける道具も、手を伸ばせば届く場所に並んでいる。
長崎から来たという職人が、健太の皿を裏返す。
『ここの脚は、どうして畳めるとね』
健太は説明する。
職人が、自分の作った品も取り出す。
そちらの継ぎ目は、見たことのない形をしていた。
それと、これを合わせたら。
健太は炭を取り、竹の端へ線を引いた。
「ここば、こうして……」
もう一本。
その横へ、小さな丸。
線の上へ、おたえの指が置かれた。
「そいは、頼まれた皿ね?」
「……違う」
「先に、皿」
「今、よかことの浮かんだとに」
「皿のできてから、浮かべて」
「消えるばい」
おたえは考え、板の隅を指した。
「ここへ残しとけばよか。ばってん、今日は作らん」
健太は急いで印を写した。
納める品が先だ。
それでも、あとで試すものが一つ増えた。
竹を削る手が、さっきより少し速くなった。
*
「おいらに聞かんで、何ば決めよるとね!」
ガタ吉が来ると、輪がもう一回り大きくなった。
小春が説明する。
ガタ吉は、最後まで聞くなり言った。
「河童町!」
「人間の住めんごたる名前たい」
「住んでよかばい」
「なんでお前の許しの要るとね!」
皆が笑ったが、ガタ吉は胸を張ったままだった。
そこが河童町なら、妹も弟も、堂々と遊びに来られる。
母も、心配そうに何度も振り返らずに済む。
川から顔を出せば、人間が手を振るのだ。
『若棟梁、こっちば頼む!』
ガタ吉がうなずくと、妹と弟が顔を見合わせる。
『兄ちゃん、すごか!』
そう。
兄ちゃんは、すごいのだ。
ガタ吉は、さらに胸を反らした。
「おいに任せとけばよか!」
「なら、そこの杭ば抜いてくれんね」
筵を抱えた男が、足元を指した。
ガタ吉はまばたきした。
妹も弟も、そこにはいなかった。
「……これね」
杭を引き抜く。
男が礼を言った。
今の礼も、悪くなかった。
「ばってん、河童も来てよか所には、するとぞ」
今度は少し、小さな声だった。
男は筵を置き、ガタ吉を見た。
「そりゃ、来んね。お前らの手も入っとる場所たい」
ガタ吉は抜いた杭を抱え直した。
名前を譲るとは、まだ言わなかった。
*
白瀬は、広場へ来て足を止めた。
魚の名。
田の名。
細工の名。
河童の名。
それぞれの名に、それぞれの味方が付いている。
「……何が始まったの?」
「名前の相談」
小春が答えた。
相談というには、皆の姿勢が前のめりだった。
「順番に聞こう。まず――」
「白瀬町で、よかろうもん」
誰かが言った。
白瀬は、自分の名前が飛んできた方を見た。
「この人のおる所って言えば、分かるたい」
「それは、ちょっと困る」
おたえが目を細めた。
「うちの名前のときは、聞こうって言うたとに」
「まだ聞いてないよ」
「自分の番になったら、すぐ断るとね」
白瀬は返事を探し、見つからず、澪を見た。
澪は木陰で、楽しそうに眺めていた。
「何かあるたび、そなたが呼ばれるであろうな」
「助けてくれないの?」
「わたしにまで火の粉を飛ばすでない」
「なら、水守様の里は?」
女の声に、澪の口が閉じた。
「水のよか所って、分かるばい」
「水場も、きれいに使わんばね」
澪は、広場の向こうを見た。
水桶が整然と並んでいる。
汲みに来た者がこぼれた水を拭き、子どもが水路へ葉を投げる前に手を止める。
よい光景だった。
その脇に、小さな供え物の台がある。
春には春の。
秋には秋の。
丸く、つやつやした団子が――。
「澪しゃん」
小春が袖を引いていた。
「何じゃ」
「今、何ば考えよったと?」
「水を大事にする名は、悪くないと」
「口元の緩んどるばい」
澪は唇を結んだ。
ガタ吉が指を折る。
「水守様の里なら、団子ば供える所も要るね」
「団子で決めるとは言うておらぬ」
「まだ、誰もそげん言うとらんばい」
白瀬は、助けなかった。
*
皆の案を残そうと、板を一枚、地面へ置いた。
源太は魚を描いた。
長吉は稲を描く。
ガタ吉は頭に皿のある顔を描いた。
白瀬は、その隣へ名を書いていく。
丸山の手本を見て覚えた字なら、以前ほど手が止まらなくなっていた。
くずした字も、見慣れたものなら拾える。
もっとも、長い書状になると、どこまでが一つの字なのか、まだ迷う。
先日も、人の名だと思って読んだところを、丸山に「そこは日付です」と直されたばかりだった。
「先生、そこの字は?」
「細工。健太の分」
小春が指で確かめ、健太を見る。
健太が、少し嬉しそうにうなずいた。
おたえは板の空いた場所を探している。
白瀬は、その手元を見ながら言った。
「皆の案を、少しずつ合わせられないかな」
おたえが、ぱっと顔を上げた。
言わなければよかった、と白瀬は思った。
「大漁!」
「実りも」
「細工」
「河童!」
「水守様も、残さんば」
「おたえも!」
小春が指を折り、順番を覚える。
健太は板の端を見た。
「入らんね」
「板ば継げばよか」
男が一枚持ってきた。
健太が並べる。
おたえが、もう少し横へずらす。
そこへ、草を詰めた籠を担いだ女が来た。
「ちょっと、通してくれんね」
板が道を塞いでいた。
長吉が立ち上がる。
「そこは通るって、言うたろ!」
「店は、もう少し奥にするとたい」
「今、板の出とる!」
白瀬が片端を持ち、ガタ吉が杭を寄せる。
おたえも慌てて籠を動かした。
道が空くと、女は皆を見回した。
「名前の付いたら、通れん所になるとね」
「ならん!」
返事だけは揃った。
女が去ったあと、小春が息を吸った。
「うち、町で人に教えるつもりで、言うてみるけん」
板を指で追う。
「今度は、大漁実り河童細工――」
「細工が先たい」
「河童ば後ろへやらんでよか!」
「もう一遍!」
小春は顔を上げた。
「大漁実り細工河童水守おたえの……」
そこで、肩が揺れた。
口を押さえ、しゃがみ込む。
「客の着く前に、うちの息の切れる!」
漁師が吹き出した。
長吉の母も笑った。
白瀬は長い板を持ったまま、空を見上げた。
水路の線を引くより、ずっと難しかった。
*
笑いが収まると、小春は板の前へ座り直した。
「誰かに来てもらうための名前やったとよね」
おたえがうなずく。
「ばってん、皆の欲しかものは、分かったばい」
小春は魚の絵を指した。
「源太は、舟の寄れる所」
「魚ば下ろす所も」
今度は稲。
「長吉は、田と、米ば置く所」
「運ぶ道も空けとかんば」
「健太は、仕事場」
「道具も」
「ガタ吉は?」
ガタ吉は、頭に皿のある絵を見た。
「おいらも、家族も、来てよか所」
小春はうなずき、最後におたえを見た。
「店」
おたえが答える。
「品のいっぱいある店。町まで行かんでも、要るものの買えるごと」
「なら、針と糸は置いてくれんね」
長吉の母が言った。
「縄も」
男が続ける。
「刃物の柄ば直してもらえる所もあれば、助かる」
健太が顔を上げた。
白瀬は、板の上を見渡した。
さっきまで、どの名を残すかで争っていた。
今は、そこへ何を置くかの話になっている。
おたえが炭を取り、魚と店の間へ線を引いた。
「源太の持って来た魚ば、うちが売る」
「皿は?」
「健太のも売るたい」
長吉の稲へも線を伸ばしかけて、止めた。
まだ実っていない米を、もう売れたようには数えない。
「米は、採れてから相談たいね」
長吉がうなずいた。
澪が、板のそばへ膝をついた。
「高来の名を、借りてはどうじゃ」
*
「高来……轟の谷の方ね」
ガタ吉が顔を上げた。
澪は、静かにうなずいた。
「そなたも知っておるか」
「母ちゃんから聞いた」
小春が、ガタ吉へ顔を向ける。
「ガタ吉の家のある所?」
「違う。おいらの住む大川とは、別の川たい」
ガタ吉は山の方を見た。
「あっちの水の始まる所は、大事にせんばならん場所やって。普段、住む所じゃなかと」
「どうして?」
「一族の、昔の約束の残っとるけん」
そこまで言い、ガタ吉は嘴を少し伏せた。
「ばってん、おいは、まだ行ったことなか。大きゅうなったら連れて行くって、母ちゃんの」
いつもは川底のことを得意げに教えるガタ吉が、その谷のことは、母から聞いた言葉を選んで話していた。
小春は、今度は澪を見た。
「澪しゃんにも、大事な所?」
「そうじゃ」
風が渡った。
板の上の炭の粉が、わずかに動いた。
「昔、水を閉じ込めず、山から里へ、里から海へ渡そうとした者たちがおった」
澪は、自分の指先を見た。
「水を恐れるだけでも、欲しがるだけでも、うまくはゆかぬ。行く先を見て、分け、導く。その願いが、今も残っておる」
「その教えを、澪しゃんも受け継いどると?」
小春が尋ねる。
澪はうなずいた。
ガタ吉も、板へ目を落とした。
稲と魚の間に、おたえの引いた線がある。
「高来なら、おいらにも関わりのあるね」
長吉が、田を見た。
水を入れること。
余った水を出すこと。
そのどちらも、皆で覚えてきた。
「……田だけの名前にせんでも、よかか」
源太が、ゆっくりとうなずいた。
それから、川を指す。
「なら、津も付けようで」
「津?」
おたえが聞き返す。
「舟の寄る所たい。ここで作ったもんば積んで、よそからも荷ば運んで来ると!」
「まだ、立派な船着き場もなかぞ」
漁師が言った。
源太は、朝と同じように胸を張った。
「これから作る!」
今度は、皆の顔を見て言った。
ガタ吉が、すぐに川下を指す。
「ばってん、あっちは潮の引いたら浅か。底ば見んば、舟は寄せられん」
「見てくれるとね?」
「見るたい。そこは、おいらの仕事ばい」
健太が竹を膝へ置く。
「荷ば下ろす台も要るね」
「田への道は、空けとってよ」
長吉が念を押す。
「そこも含めて、場所を確かめよう」
白瀬が言うと、おたえが板を引き寄せた。
「店の場所もね」
小春が笑った。
それから、一息で呼んでみる。
「高来津」
*
たかきつ。
おたえも、口の中で繰り返した。
短い。
言いやすい。
町で声を掛ける自分が、思い浮かぶ。
今度は、高来津へ。
魚も、道具も、欲しい品も。
頭の中だけで客を並ばせるのは、そこでやめた。
来てほしいなら、伝えに行かなければ。
「うち、そいがよか」
おたえが言った。
漁師も、農民も、もう一度その名を口にする。
「少し、立派すぎんね」
そう言っていた男が、縄の束を持ち上げた。
「なら、こいは高来津へ置いとけば――」
「もう使いよる!」
源太が指をさした。
「試したとたい!」
おたえは笑った。
字の稽古と言い張った自分と、あまり変わらなかった。
村そのものの名を変えるわけではない。
納屋の先。
湯屋の角。
新しい田のそば。
皆が違う言い方をしていた一角に、ようやく同じ呼び名ができた。
白瀬は、一枚の板を膝へ載せた。
炭を持ち、字の間を見てから書き始める。
高。
来。
津。
おたえが、そばからのぞいた。
「先生、今日は手本ば見らんとね」
「この字は、丸山さんに習ったからな」
少し得意になった。
健太が板を傾けて見る。
「ばってん、『津』だけ大きか」
白瀬も見た。
確かに、大きかった。
「……舟が寄るから、広くした」
「字の中には、寄らんばい」
源太に返され、白瀬は笑った。
読める。
今日のところは、それでよかった。
源太が炭を受け取り、下へ魚を描こうとする。
長吉も手を伸ばした。
「稲も」
「おいらも!」
ガタ吉が身を乗り出す。
小春が額を押さえた。
「また、始まった……」
「下だけ。一つずつ」
健太が指で余白を分ける。
「はみ出したら、削るけん」
皆の手が、少し慎重になった。
おたえは端へ、小さな店の屋根を描いた。
その下に、自分の名を足す。
小春と目が合った。
「店の名前は、うちが決めるけんね」
「なら、その店は、どこへ出すと?」
おたえは、道の一番目立つところを指した。
「ここ!」
「そこは田への道たい!」
長吉の声に、今度はおたえも笑った。
*
約束の五日目。
髭の男は、看板の前で足を止めた。
「高来津、ね」
声に出してから、下の絵を眺める。
「魚と、稲と……こいは河童ね?」
「おい!」
ガタ吉が胸を張った。
男は看板とガタ吉を見比べ、笑った。
「分かりやすか」
そのひと言に、小春がほっとした顔をした。
男が持ってきた糸を見に、女たちが集まる。
源太が籠を寄せ、荷を下ろす場所を空けた。
健太は、作り上げた皿を持ってくる。
男の籠へ、少し傾けて入れた。
底へ収まると、ぐらつかなかった。
「ここば持って、上げてみて」
男が持ち上げる。
籠の口に、引っ掛からない。
入れる。
出す。
もう一度。
「よか。こいなら使いやすか」
健太の肩が、少し下がった。
おたえが約束した値を告げ、銭を受け取る。
板に付けていた注文の印へ、線を引いた。
皆で大きな町を思い描いたあとに、まず一つ。
約束した品が、使う人の手へ渡った。
*
火起こしの筒は、人の足が落ち着いてから見せた。
湯屋の脇へ移り、健太がやってみせる。
小さな火種に、男が目を丸くした。
次は、男の手で試す。
一度目は、何も起きない。
持ち方を確かめ、もう一度。
おたえは、黙って待った。
二度目に小さな火種ができると、男は筒を眺めた。
「不思議かねえ」
「ばってん、まだ失敗するときのある」
健太は正直に言った。
男が指を置く。
「ここ、もう少し持ちやすかったら、力ば掛けやすかばい」
健太は、同じ場所を握ってみた。
「……直してみる」
使ったものを片付けてから、男は広場を見渡した。
女たちが糸を選んでいる。
小春が次に欲しい品を聞いている。
板には、高来津。
「長崎にも、こういう物ば見たがる者のおる」
おたえの顔が上がった。
「ばってん、おいの話だけじゃ、よう伝わらんかもしれんね。皿も、筒も、使うところば見せた方が早か」
健太が白瀬を見る。
白瀬も、男の話を待った。
「今度、お前らが長崎で見せてみんね」
おたえは、すぐに返事をしかけた。
行く。
売る。
今度こそ、いっぱい。
そこまで浮かび、隣の健太を見た。
作るのは、健太だ。
人へ声を掛ける小春にも、聞かなければ。
おたえは小春を呼び、男の話を伝えた。
健太が筒の包みを押さえる。
「直してから、見せたか」
「うちも、行ってみたか」
小春が言った。
白瀬の隣へ、澪が来ていた。
ガタ吉も、少し離れて聞いている。
おたえは看板を振り返った。
大きすぎる「津」。
魚と稲と、河童。
端には、自分の店。
まだ舟の列も、米の詰まった蔵も、大きな仕事場もない。
でも、健太の皿は売れた。
次の品を頼む人も来た。
この場所で作ったものを、長崎の人にも使ってもらいたい。
そう思うと、胸が弾んだ。
知らない町で、また誰にも振り向いてもらえなかったら、と考えると怖かった。
おたえは板を抱え直した。
「おじちゃん、次はいつ長崎へ行くと?」
髭の男が、顔を向ける。
おたえは健太と小春を見てから、もう一度、男を見上げた。
「うちらも、一緒に行きたか。健太の作ったもんば、うちらの手で売ってみたか」
お読みいただき、ありがとうございます。
さんざん揉めて生まれた名前は「高来津」。
まだ小さな一角ですが、皆の頭の中では、もう立派な町になっているようです。
澪の夢には、しっかり団子もありましたね。
ガタ吉が母から聞いた轟の谷の話。
そこに残る古い約束も、心の片隅に置いていただけたら嬉しいです。
そして、おたえたちの目は長崎へ。
思い描いた商いが、知らない町でも通じるのか。次の挑戦も見守ってください。
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