第三十七普請・後編 火事は水より速い
雨漏りをしない家と、仕事のあとに身体を休める湯屋。
皆で作った場所に、少しずつ日々の暮らしが馴染んできました。
使う人が増えれば、仕事も増える。
そして、慣れてきたころに見落としてしまうこともあります。
第三十七普請・後編。
手に入れた暮らしを、今度は皆で守るお話です。
「おいが運んだ薪で、三日は沸かせるばい」
男が胸を張ると、小春は積まれた薪を見た。
「なら、三日とも片付けに来てくれると?」
「……薪の話ばしよるとぞ」
「うちも薪の話たい。そこの桶、取れんごとなっとる」
男が足元を見る。
薪の束の向こうに、空桶が二つ取り残されていた。
源太が笑いながら手を伸ばした。
「薪ば運ぶ人の、桶も運べばよかとたい」
「お前は、口ば運びすぎる」
「口は、いつも付いてくるけんね」
湯屋の前で、笑い声が上がった。
初めて皆で湯を使った日から、幾度か湯を沸かした。
田の仕事が長引く日には、来る人も遅くなる。
漁の都合で、先に身体を洗いたい人もいる。
沸かす日を決めても、皆の一日は同じようには終わらなかった。
「今日、最後に床ば流すとは?」
おたえが板を抱えて尋ねる。
さっきまで声の大きかった男たちが、互いの顔を見た。
「おいは、この前したばい」
「おいも、水ば運んだ」
「水運びと床流しは、別たい」
おたえの指が、板の印をたどる。
健太は洗い場の台へしゃがみ、緩んだところを締め直していた。
「使う人の増えると、直すところも増えるね」
白瀬が言う。
「増えんで壊れるより、よかたい」
健太は台を揺らした。
今度は、動かなかった。
「ばってん、泥は先に落としてほしか」
「そいは、おいば見て言うとると?」
源太が自分の足を見た。
まだ泥は付いていない。
「今日は言うとらん」
「今日は、ってなんね!」
小春がまた笑った。
湯を沸かす釜の下では、細い薪が音を立てていた。
火を見ている男が、外から呼ばれる。
「ちょっと、こっちば持ってくれんね!」
運んできた木が、道へ斜めに掛かっていた。
男は火ばさみを置き、そばで桶を洗っていた別の男へ声をかけた。
「あと、頼むばい」
「おう」
桶を洗う男は、顔を上げずに答えた。
釜の中には、もう湯ができている。
薪を足す仕事は終わっていた。
男は焚き口を見てから、また桶へ目を戻した。
*
夕方、風が変わった。
干していた布が、片側へ大きく膨らむ。
小春は布を外し、腕へ重ねた。
湯屋の中から、男たちの声がする。
「今日は、ちょうどよか」
「お前が水ば足したけん、さっきよりぬるか」
「なら、釜の湯ば自分で運ばんね」
いつもの声だった。
小春は笑いかけた。
その鼻へ、違う匂いが入った。
薪が燃える匂い。
けれど、釜の煙より低いところから来ている。
布を抱え直し、湯屋の脇へ回りかけた。
地面の近くで、白い煙が細く上がっていた。
灰を寄せる場所だった。
風が吹く。
煙の中に、赤いものが見えた。
乾いた削り屑の端が、光っている。
「……おじちゃん?」
誰も答えない。
小春は一歩下がった。
赤いところが、ふっと明るくなる。
小さな炎が立った。
「火!」
声が裏返った。
「湯屋の横、燃えよる!」
布を道の端へ置き、小春は湯屋の入り口へ走った。
「出て! 横で火の出とる!」
中の笑い声が止まる。
「なんて?」
「火たい! こっちから出て!」
釜のそばにいた男が顔を出した。
灰の向こうを見るなり、駆けだす。
「水ば持って来い!」
白瀬が納屋から出てきたときには、薪の束の端まで炎が届いていた。
束を縛った縄が、黒く縮む。
風に押され、炎が湯屋の方へ倒れた。
白瀬の足が速くなる。
男が水桶を抱えて来た。
湯屋から、着物を手にした男たちが飛び出す。
その一人と、桶を運ぶ男がぶつかった。
「危な――」
水がこぼれた。
道へ広がる。
桶の底が、地面へ当たった。
白瀬は声を張った。
「出る人を先に! 桶は、いったん止まって!」
炎の向こうで、薪がはぜた。
音に、小春の肩が跳ねる。
さっきまで干していた布が、風で地面を滑った。
「小春、こっちへ!」
澪が腕を引いた。
小春は湯屋を振り返る。
「まだ、中に――」
「呼ぶのじゃ。入ってはならぬ」
澪が道の開いている方を指した。
小春はそこへ立った。
「こっちたい! 着物は持ったままでよかけん、先に出て!」
白瀬は、戻ろうとした男の肩を止めた。
「何を取りに?」
「手拭いの――」
「あとにしてください!」
男の顔が、ようやく白瀬へ向いた。
背後から、また人が出てくる。
白瀬はその肩を道の方へ押し出した。
*
水路は、すぐそこにあった。
昼間も、水が流れていた。
それなのに、白瀬の手には水がなかった。
「桶!」
叫ぶと、おたえが走ってきた。
渡そうとした桶の底に、割れ目がある。
おたえはそれを横へよけた。
「こっち!」
次の桶を白瀬へ渡す。
源太は水路のそばへ降りようとした。
漁師が腕をつかむ。
「お前は、ここで受けろ!」
男が足場を確かめてから、水を汲む。
源太は差し出された桶へ両手を掛けた。
重かった。
持ち上げようとすると、膝が曲がる。
「一人で運ばんでよか! 次へ渡せ!」
源太は、隣へ来た男へ桶を差し出した。
水が揺れる。
男の手へ重さが移った。
澪が水路沿いを見た。
「向こうは浅い。ここで汲め!」
ガタ吉が、煙の来ない側から水へ入る。
桶を差し出す大人の手元へ、水のある場所を示した。
「こっちは足の着く! ばってん、その先は掘れとるけん、入らんで!」
水が上がる。
隣へ渡る。
また、次へ。
白瀬が受け取ったときには、桶の縁から水がこぼれていた。
火のそばにいる男へ渡す。
水が薪へ掛かった。
白い煙が、どっと上がる。
男が顔を背けた。
「まだ、下の燃えとる!」
次の桶が来ない。
白瀬が振り返った。
曲がり角で、人が止まっていた。
家の前に積んだ木と、囲いの間。
昼間なら、身体を横へ向けて通れる場所だった。
水桶を抱えた男は、横を向けなかった。
「そこの木をどけて!」
白瀬が叫ぶ。
健太が駆け寄った。
いちばん上の細い木を引く。
下の木まで動きかけた。
「待て、崩れる!」
大工が健太を下がらせ、太い木を押さえた。
「お前は、向こうの短かとば!」
健太がうなずく。
二人で一本ずつ道の外へ寄せた。
桶を抱えた男が通る。
おたえは空桶を受け取り、源太のいる方へ戻した。
何も持たずに戻ろうとした人へ、桶を差し出す。
「こいも! 空のば、持って戻って!」
小春は湯屋から出た人を、家並みから離れた方へ連れていった。
「さっき、一緒に入っとったとは?」
「あの男たい」
「その人は、出とる。あと一人、おらんかった?」
「先に帰ったばい」
「誰か見た?」
返事を待つ間にも、背後で水の音がした。
薪の束が崩れる。
大人たちの声が上がる。
小春は振り返りかけ、目の前の男を見る。
「誰か、帰るとこ見た?」
別の男が手を上げた。
「おいと一緒に出た。家の方へ行ったばい」
小春は大きく息を吐いた。
それから、白瀬へ叫んだ。
「中には、もうおらん!」
白瀬の肩が、一瞬だけ下がった。
「そのまま、皆と離れていて!」
また桶を受け取る。
炎は低くなっていた。
けれど、薪の間に赤いところが残っている。
男たちは水を掛け、道具で薪を動かし、隠れていた火へまた水を送った。
白瀬の腕が震え始めたころ、炎が見えなくなった。
誰も、すぐには桶を置かなかった。
*
空が暗くなるまで、男たちは焼けた薪を確かめた。
湯屋の脇には、濡れた灰と黒い木が残った。
薪を覆っていた小さな囲いは、一部が焼けている。
湯屋の板にも、焦げた跡が付いていた。
大工がそこを確かめ、白瀬へ顔を向けた。
「こっちは、直せる」
白瀬は板へ触れようとして、手を止めた。
「……家の方へ行かなくて、よかった」
「よかったばってん、次もここで止まるとは限らんぞ」
白瀬はうなずいた。
水路のそばで、源太が座り込んでいた。
両手を開く。
閉じる。
指の付け根が赤くなっている。
健太は道の木を見ていた。
おたえの板は、地面に伏せてあった。
小春が、白瀬の前へ来た。
「みんな、おった」
「うん」
「家に帰った人も、聞いてきた」
「ありがとう」
小春は口を結んだ。
目が、湯屋の横へ向く。
「……うち、最初、釜の煙かと思った」
白瀬がしゃがんだ。
「でも、違うと思って、知らせてくれた」
「もうちょっと、遅かったら?」
白瀬は答えかけた。
小春の手が、震えていた。
その手へ、自分の手を添えた。
「怖かったな」
小春がうなずく。
もう一度、うなずく。
澪が、小春の背へ手を置いた。
小春は二人の間へ、少しだけ身体を寄せた。
向こうで、男の声がした。
「誰が火ば消したとね!」
白瀬は顔を上げた。
*
「おいが、最後の薪ば寄せた」
釜を見ていた男が答えた。
「燃えとるとは、もうなかった」
「灰の中まで見たとか!」
「見たつもりやったとよ!」
男の声も大きくなる。
桶を洗っていた男が、二人の間へ出た。
「おいも、そばにおった」
「なら、お前が見とけば――」
「頼まれたとは、釜の湯のことやと思った。もう薪ば足さんでよかかって」
最初の男が、その顔を見る。
「火の始末まで、頼んだつもりやった」
しばらく、誰も話さなかった。
風が、濡れた木の匂いを運んだ。
別の男が、焼けた薪へ手を向けた。
「そこへ薪ば寄せたとは、おいたい」
昼間、三日は沸かせると胸を張った男だった。
「雨の来そうやったけん、囲いの中へ入れた」
健太が、焼けた木の脇を見た。
「削り屑も、そこにあった」
大工がうなずいた。
「仕事のあとで、寄せとったな」
白瀬は釜と灰の場所、その間の地面を見た。
「ここへ置いていいと言ったのは、俺です」
皆が振り向く。
「使うときに近いから、助かると思った。灰を置くところとの近さを、確かめていなかった」
責めていた男が口を開いた。
白瀬は、その顔を見た。
「誰が何をしたかは、残したいです。俺が決めたことも含めて」
おたえが板を拾った。
表の土を払い、白瀬の横へ来る。
「火の印と、薪の印、別に描く?」
「うん。あと、人が替わったところも」
おたえは炭を握った。
いつもの勘定より、ゆっくり描いた。
長吉の母が、湯屋の入り口へ来た。
焦げた板を見る。
濡れた道を見る。
「せっかく、皆で入れるごとなったとに」
声は大きくなかった。
火の始末をした男が、顔を伏せた。
母はその横を通り、洗い場をのぞいた。
健太の台が残っていた。
大きな桶も、そこにある。
「……こいは、使えると?」
大工が答えた。
「確かめて、傷んだとこば直せばね」
「なら、直さんばね」
母は外へ戻った。
「湯ば沸かすとこだけじゃなか。片付けるとこまで」
伏せていた男の顔が、少し上がった。
*
翌朝、湯屋では火を起こさなかった。
白瀬たちは、昨日、水が止まった曲がり角へ集まった。
家の前に積んだ木は、昨夜のまま道の外へ寄せてある。
それでも、囲いの角は残っていた。
「こいば引いたら、うちの前の狭うなる」
持ち主が言った。
家の場所を決めたときにも、道の幅を惜しんだ男だった。
白瀬は囲いを見る。
男が苦労して立てたものだった。
「どこへ移せるか、一緒に見たいです」
「昨日は、木のあったけん詰まったとやろ」
「木をどけたあとも、桶が角へ当たっていました」
源太が空桶を持ってきた。
向こうから、長吉が短い木を抱えて歩く。
二人は角で止まった。
源太が桶を引く。
長吉が木を立てる。
それで、どうにかすれ違えた。
男は腕を組んで見ていた。
「そげんすれば、通れるたい」
長吉が木を下ろした。
「おいらならね」
源太が桶を両手で抱える。
「水の入っとったら、こげんは動かせんかった」
小春が、男を見る。
「昨日、おじちゃんの母ちゃん、ここば通ったよ」
男の腕がほどけた。
「湯屋へ行っとったと?」
「入る前やった。うち、こっちへ来てって言うたけど、ここで止まったけん、向こうへ回った」
男は家の方を見た。
戸口に、母親が座っている。
昨夜は帰るのが遅いと叱られた。
煙の話も聞いた。
けれど、どの道を通ったかまでは聞いていなかった。
男は囲いの縄をほどいた。
「……どんくらい、引けばよかとね」
白瀬が枝を拾いかける。
澪の視線に気づき、手を止めた。
源太の桶を見る。
長吉の木を見る。
「まず、桶を持つ人と、出てくる人が一緒に通れるところまで、試しませんか」
男はうなずいた。
杭を揺する。
抜けなかった。
「こい、よう打っとるばい」
源太が言う。
「おいが打ったけんたい」
男はもう一度、力を掛けた。
長吉が木を置き、そばへ寄る。
健太も手を添えた。
「せーの!」
杭が抜けた。
男が後ろへよろける。
小春が笑いかけ、それから、抜けた穴を見た。
昨日ここで止まった人が、今日は通れる。
おたえが板の線を消した。
今度は、少し広く描き直した。
*
薪は、釜や灰から離れた場所へ移した。
「遠うなったばい」
運んでいた男がぼやく。
「運ぶ分だけ、先に出しておけばよか」
別の男が答えた。
「余ったら?」
「戻すとたい」
「また運ぶとか」
「昨日は、水ば何べんも運んだろ」
男は黙って、薪を抱え直した。
灰を扱う場所も、周りを片付けた。
長吉の母と、普段火を使う村人が集まり、最後にどこを確かめるかを話した。
白瀬は横で聞いた。
大工が、焦げた板を外す。
健太は受け取った板を、使えるものと使えないものへ分けた。
おたえは、絵を描いていた。
桶。
火。
薪。
それから、皆が集まる場所に立つ木。
「こいは、魚に見えんね?」
源太が板をのぞく。
「桶たい」
「いや、こっち」
「火たい!」
「なら、もうちょっと上ば尖らせたら?」
おたえが炭を止める。
健太が、横から細い線を足した。
小春が見る。
「ああ、火たいね」
「……最初から火やったとに」
おたえは言ったが、足された線は消さなかった。
文字だけで決めれば、読める人しか確かめられない。
絵だけでも、描いた人にしか分からないことがある。
板を見た村人へ、一つずつ尋ねた。
「こいを見たら、どこへ行くと思う?」
返ってきた答えに、また描き直す。
昼過ぎ、皆で一度、動いてみた。
火は起こさなかった。
小春が声を張る。
「湯屋から出て! こっちへ!」
男たちが道を歩く。
桶を持った男まで、その後へ付いていった。
「おじちゃん、水は向こうたい!」
おたえが呼び止める。
男が振り返る。
「出ろって言われたけん!」
皆が笑った。
白瀬も笑いかけ、桶を受け取った。
「そうですよね。誰に言っているか、分かるようにしよう」
小春が板を見る。
次は、湯屋から出る人へ向けて手を広げた。
水を運ぶ男には、漁師が名前を呼んだ。
源太が桶を受ける。
隣の大人へ渡す。
空桶が戻る。
健太が、道へ飛び出た木の端を指した。
「こい、また当たるばい」
持ち主が引っ込める。
長吉は集まる場所で、来た人を小春と確かめた。
「おいの母ちゃん、まだ来とらん」
「今、歩いてきよる」
母が二人の前へ来た。
「走れん人も、おるけんね」
白瀬はうなずいた。
皆が来るまで、思っていたより時間がかかった。
その時間も、おたえの板へ残した。
*
湯を沸かす日、火の始末をした男は、早くから来ていた。
薪を運び、釜のそばを掃く。
誰かが来るたび、顔を上げる。
すぐに下げる。
白瀬が水桶を下ろすと、男が言った。
「おい、今日は最後までおる」
「途中で替わるときは、その人と一緒に確かめましょう」
「うん」
男は焚き口を見た。
そこへ、もう一つ、水桶が下ろされた。
昨日、いちばん大きな声で責めた男だった。
「今日は、おいも見とく」
火の始末をした男は、桶と顔を交互に見た。
「お前も、湯に入るとやろ」
「入るばい。そいから戻る」
「最後は、遅うなるぞ」
「お前一人なら、もっと遅うなるやろ」
男が、少し笑った。
二人で薪を確かめる。
白瀬は空いた桶を持ち、外へ出た。
入り口で、長吉の母と会った。
腕には、着替えがある。
「今日は、早かですね」
「あとでって言うたら、あの子のまた来るけん」
母が家の方を向く。
長吉は布を干していた。
こちらへ気づき、手を振る。
母も小さく振り返した。
「先に入ってくるね」
誰かに押されなくても、足が湯屋へ向いた。
白瀬は、その背中を見送った。
釜の煙が上がる。
小春が顔を上げ、煙の出ている場所を確かめた。
それから、おたえの隣へ戻っていく。
白瀬の横へ、澪が来た。
「また、煙を見るようになったな」
「……昨日は、見るのが怖かった」
白瀬は答えた。
自分で作った場所から、火が出た。
村人が運んだ木も、健太が直した台も、あの湯へ入った母親たちの声も。
何もかも、消えるかもしれなかった。
「水は、近くにあったんだ」
白瀬は水路の方を見る。
「水を通すだけでは、足りなかったな」
「人も通る」
澪は、広がった曲がり角を見た。
桶を抱えた男が通る。
向こうから来た女と、立ち止まらずにすれ違う。
「昨日止まったところを、今日は通れた」
白瀬がうなずく。
澪の指が、その袖へ掛かった。
「そなたも、あの道を通って帰る者じゃ」
白瀬は澪を見た。
「うん」
「皆を守ると言うなら、自分の分も数えておけ」
白瀬は返事をし、手にした桶を置いた。
澪が眉を上げる。
「まだ、水運びの途中であろう」
「あ、そうか」
「休むときと働くときくらい、選べ」
少し向こうで、小春が吹き出した。
白瀬も笑った。
桶を持ち直した指には、昨日の痛みが残っていた。
*
夏が進むにつれ、湯屋の前を通る足は、道に馴染んだ。
薪を運ぶ日。
床を洗う日。
湯を沸かさない日。
板の印が変わるたび、小春が家々へ声をかけた。
健太は台を直し、火を起こす筒も試していた。
火種ができれば、試した分を必ず始末する。
長吉の母へ見てもらってから、布に包む。
源太が二度続けて火種を作れた日、おたえは板へ大きな丸を描いた。
「こいは、魚の丸じゃなかけんね」
「分かっとるたい」
源太が笑った。
健太は筒を受け取り、棒の先を確かめる。
「次は、小春もできんば」
「うち、源太より上手にできるかもよ」
「なら、やってみろたい」
言い合う二人の向こうから、足音が来た。
「白瀬しゃん!」
長吉だった。
息を切らしている。
けれど、顔は明るかった。
「田! 来て!」
白瀬が桶を置く。
澪も立ち上がった。
長吉は、広くなった曲がり角を走っていく。
前から来た村人が、道の端へ寄った。
「なんね、また水か!」
「違う! 穂!」
男が立ち止まる。
白瀬も、一瞬だけ足を止めた。
穂。
長吉が振り返った。
「出とると! 昨日より、増えとる!」
今度は、白瀬も走った。
*
田の緑の間から、細い穂が顔を出していた。
まだ、米が詰まった黄金色の穂ではない。
けれど、葉とは違う形が、確かにそこにある。
長吉は畦へしゃがみ、指を近づけた。
触れずに止める。
「こっちにも。向こうにも」
後から来た村人が、田をのぞいた。
「おお……」
別の男が笑い、田へ足を踏み入れかける。
「入らんで!」
長吉が立ち上がった。
「踏むやろ!」
「ちょっと見るだけたい」
「ここから見える!」
男は足を戻した。
そばの女が笑う。
「長吉に叱られたばい」
「田のことは、もう、あいつの方がよう見とるけんね」
男も笑った。
長吉の頬が赤くなる。
けれど、田から目は離さなかった。
「まだ、水も見るけん。刈るとは、先たい」
白瀬は、その横へしゃがんだ。
長吉が選んだ苗。
村人と一緒に植えた田。
昨日まで見ていた葉の間に、実りへ続くものがある。
「長吉」
「うん」
「見つけてくれて、ありがとう」
長吉は口元を引き締めた。
引き締めきれず、笑った。
「明日も見るたい」
源太が田の向こうを指した。
「こいが、全部、米になると?」
「なるごと、世話ばすると!」
長吉が答えた。
皆が笑う。
白瀬は、穂の先へ目を戻した。
最初の米は、弥助と岩蔵へ。
その約束を果たす日は、まだ来ていない。
だからこそ、この田を、明日も見なければならなかった。
*
帰り道、おたえは田と湯屋を何度も振り返った。
新しい家の前で、男が木を削っている。
干した布が揺れている。
健太の籠には、竹の皿と、包んだ筒が入っていた。
おたえが尋ねる。
「皿、まだ作れる?」
「竹と縄のあればね。ばってん、頼まれた分が先たい」
「分かっとる」
源太が肩を寄せた。
「また、町へ行くと?」
おたえは答えず、広くなった道を見た。
桶を抱えた人が通る。
籠を背負った漁師が通る。
町へ売りに行った日は、知らない人の声に、自分の声が埋もれた。
それでも、魚を見てくれた人がいた。
健太の皿を欲しいと言った人がいた。
今度は、その人たちが、ここを歩いたら。
「……向こうへ行くだけじゃなくて」
おたえが言った。
「こっちにも、来てもらえんやろか」
小春の顔が上がる。
「町の人に?」
「魚ば見に来てもよか。皿ば頼みに来てもよか。村の人も、欲しか物ば持って来てもらえたら……」
白瀬が足を止めた。
おたえの板には、魚と皿の印がある。
その隣へ、今度は人を描き始めた。
一人。
もう一人。
小春が、にやっと笑った。
「なら、うちが呼びに行くたい」
「まだ! 場所も、日も、決めとらん!」
「おたえが決めるとやろ?」
おたえは炭を止めた。
白瀬を見る。
白瀬は、板の人たちを見た。
「どこなら、皆が来ても通れるかな」
おたえは、広がった道から、その先の空いた場所へ目を向けた。
源太も見る。
健太も見る。
田へ向かう長吉を、小春が呼び止めた。
「長吉! ちょっと、こっち!」
長吉が戻ってくる。
五人の顔が、板の上へ集まった。
おたえは人の印の前へ、小さな籠を描いた。
今度の籠は、空ではなかった。
お読みいただき、ありがとうございます。
煙に気づいた小春。水を渡した源太。道を空けた健太。空桶を集めたおたえ。
それぞれの働きがつながり、湯屋は残りました。
そして、自分の家の前を少しでも広く取りたかった男が、自分で杭を抜く。
家族の通る道だと気づいたことで、同じ場所の見え方が変わったのだと思います。
長吉の田にも、ようやく穂が顔を出しました。
最初の米を弥助と岩蔵へ捧げる約束まで、あと少し。大切に育てていきます。
次回、第三十八普請「市場の日」。
「売りに行く」を経験したおたえが、今度は「来てもらう」商いへ踏み出します。




