第三十七普請・前編 帰る家に、湯の煙
初めての商いを終え、村へ戻ってきた子どもたち。
健太の掌には、自分の手で作ったものが生んだ銭がありました。
けれど、帰ってきた納屋では、いつもの雨漏りが待っています。
第三十七普請は、前後編でお届けします。
まずは、皆で「帰る場所」を育てていくお話です。
「舟ば買う銭までは、なかばい」
納屋へ戻るなり、おたえは言った。
源太が目を丸くする。
「まだ、買うとは言うとらんたい」
「板の舟、さっきより大きゅうなっとる」
「おたえが描いたとやろうもん!」
小春が吹き出した。
板の端には、町の帰り道で描いた舟があった。魚の丸と竹の皿を足すうち、舟の縁が二重になり、いつの間にか立派な姿になっていた。
白瀬は空の籠を戸口へ下ろした。
「借りられるかも含めて、まず漁師さんに聞こう。岸も、川も、まだ確かめてないからな」
「うん。おい、聞いてくる」
源太はうなずいたが、おたえが包みを開くと、すぐに戻ってきた。
竹と縄の持ち主へ払う銭。
健太が作った分。
おたえはそれぞれを分け、板の印と見比べた。
「こいが、健太の分たい」
健太は差し出された銭へ手を伸ばしかけ、膝で指を拭いた。
受け取る。
掌を開く。
もう一度、閉じる。
「落とすなよ」
源太がのぞき込む。
「落とさん」
「さっきから、開けたり閉めたりしよるけん」
「見とるだけたい」
健太は銭を明かりへ向けた。
昨日まで竹だったものが、町の人の手へ渡った。自分の手には、この小さな銭が残った。
白瀬は何か言おうとして、やめた。
健太の顔を、もう少し見ていたかった。
そのとき、屋根が鳴った。
初めは、ぱらぱらと。
すぐに、声を張らなければ話せないほどの音になった。
「降ってきたね」
小春が戸口へ顔を向ける。
おたえの板へ、水が一滴落ちた。
「あっ」
舟の線が、黒くにじむ。
健太が板を引き、源太が道具を抱えた。白瀬も縄を奥へ移す。
長吉が桶を二つ運んできた。
迷わず、一つは柱の脇へ。
もう一つは戸口から三歩の場所へ。
そこへ水が落ちた。
「……よく分かったな」
白瀬が言うと、長吉は濡れた髪を払った。
「いつも、そこから落ちるけん」
母屋から、長吉の母が出てきた。
腕には、丸めた敷物がある。端から水が垂れていた。
「こっちもかね。長吉、奥の乾いとるとこ、空けてくれんね」
「母ちゃん、寝るとこも?」
「風の向きでね。今日は、よう入った」
軽い声だった。
長吉が荷を寄せる。母は敷物を広げず、立てかけた。
おたえはにじんだ舟を見た。
「魚は縄になったばってん、雨は止まらんね」
「雨まで買うて止められたら、たいした商人たい」
母が笑った。
健太は掌の銭を包み直し、懐へ入れた。
「母ちゃん」
「なんね」
「おい、屋根ば直す手伝いもできるやろか」
長吉の母は健太を見た。
雨の音の間で、少しだけ黙った。
「高かとこは、大人に任せんね」
それから、納屋の奥を指した。
「ばってん、道具ば濡らさん仕事なら、今も助かっとるよ」
健太はうなずいた。
隣で白瀬が、天井を見上げた。
桶の底を、水が打っていた。
*
翌朝、屋根を見てもらうために呼んだ大工は、母屋の軒をひと目見て、白瀬より先に長吉の母へ尋ねた。
「風雨のとき、ここから吹き込むとやろ」
「そうたい。こっちの端は、前に直してもろうたばってんね」
大工はうなずき、長吉へ指を曲げた。
「梯子ば持って来んね。上がるとは、おいたちだけぞ」
健太が梯子の下へ走った。
白瀬も手を添える。
屋根の上から、傷んだところの話が降ってくる。白瀬には分からない言葉が幾つもあった。
健太は、下ろされた古い縄をじっと見ていた。
「あんまり引くな。次に使えるとは限らんけん」
大工に言われ、手を緩める。
「おい、皿の脚なら作ったとです」
「ほう」
「畳めるごとして、魚ば載せて――」
「なら、そこの道具ば、使う順に並べてくれんね。魚の皿の話は、飯のとき聞こう」
健太は少し残念そうにしたが、すぐに道具を寄せた。
雨が上がった軒先へ、人が集まってきた。
屋根の話を聞きたい人ばかりではなかった。
「白瀬どん。向こうに家ば建てるなら、今のうちに場所ば決められんかね」
普請を手伝いに来る男が、田の手前を指した。
「毎日通うより、こっちに住めれば楽になるとよ。家の者とも、話ばしよる」
「浜へも遠うなかね」
漁師が口を添える。
「ばってん、あそこは、おいも聞いとったとぞ」
別の男が言った。
長吉の母が、白瀬を見た。
「寝るところの話は、雨のあとやと、よう出るね」
白瀬は田の向こうへ目をやった。
新しく現れた土地には、もう人の足跡がある。
その足跡の先へ、家を置きたい人がいた。
*
「ここから、ここまでたい」
男が打った杭へ、縄を張る。
別の男が、自分の杭を指した。
「そいじゃ、うちの戸口の前へ来るやろうもん」
「まだ戸口もなかとに!」
「建てたあとの話たい!」
小春が二人の間へ顔を出す。
「待って。こっちのおじちゃんは、なんでそこがよかと?」
「田へ近かけんね」
「こっちのおじちゃんは?」
「母親ば、遠う水汲みに行かせとうなかとよ」
小春は言い返さず、二人の杭を見た。
おたえも板を持ってしゃがむ。
家の印を二つ描くと、重なった。
白瀬はその間へ枝を置いた。
「ここは、道として空けておきたい」
「どんくらい?」
両手で幅を示す。
男の顔が曇った。
「そげん空けたら、家の狭うなるばい」
「荷物も通るから――」
「荷は、そんとき寄せればよかろうもん」
白瀬は地面へ線を引こうとした。
澪が、その手の前へ立った。
「白瀬」
顔を上げる。
「この者は、母親の話をしておるぞ」
枝を持つ指が止まった。
男の家には、まだ見ていない人がいる。
白瀬は枝を置いた。
「お母さんは、桶を持って歩けるんですか」
「少しずつならね。ばってん、足の弱うなってきたけん」
「その水を汲む場所を、先に一緒に見たいです」
男は白瀬を見て、それからうなずいた。
源太が、離れたところから空桶を二つ提げて来た。
「白瀬しゃん。こっちも見て」
男たちの張った縄の間を歩く。
片方の桶が、杭へ当たった。
源太は身体を横へ向ける。
今度は、もう片方が引っ掛かった。
「戸の前ば曲がるなら、ここで止まるばい」
「桶ば片っ方ずつ運べば――」
言いかけた男が、口を閉じた。
母親に何度も往復させたくないと言ったばかりだった。
長吉は、さらに向こうの縄を持ち上げていた。
「ここ、田へ行くときに通るとよ。苗も、鍬も」
男たちが、一斉に足元を見る。
おたえは家の印を消した。
「……まだ、決めんでよかね」
「そうだな」
白瀬は答えた。
澪が、その隣へしゃがむ。
「今日は、杭を抜けるうちに考えればよい」
遠くで大工の声がした。
「家ば建てる前から、戸口の喧嘩かね!」
小春が声を張った。
「今のうちにしとるとたい!」
大工が笑った。
男たちも笑ったが、杭はまだ抜かなかった。
*
水が出たと知らせに来たのは、掘る仕事を手伝っていた男だった。
候補地の脇に、浅い穴がある。
底の泥の間から、少しずつ水がにじんでいた。
「近うで汲めれば、話も違うばい」
男が器へすくい、口元へ運んだ。
すぐに眉を寄せる。
「……塩のある」
源太が穴へしゃがみ込んだ。
「海の水?」
「海にいた水が、まだ土の中に残っておる」
澪が答えた。
穴の縁へ指を置き、目を伏せる。
「上から来る水もある。ここでは混じってしまう」
「深う掘れば、変わると?」
白瀬は澪を見た。
澪は、すぐにはうなずかなかった。
「深ければ甘くなるとは限らぬ。そなたも、そう思っておるのであろう」
「……ああ」
村人の顔に落胆が浮かぶ。
小春が、水汲みを楽にしたいと言った男へ尋ねた。
「いつもは、どこから運びよると?」
「こっちたい。家ば建てる場所からやと、少し歩くばってん」
皆で、桶を持って歩いた。
水場では、女が二人、順を待っていた。
男が桶を差し出そうとすると、一人が止める。
「そっちの泥の付いとる桶ば、入れんでよ」
白瀬は男の手を見た。
試し掘りのそばで使った桶だった。
「すみません。別のを借りられますか」
「汲むとは、こいば使いよる」
女が柄杓を示した。
白瀬は受け取り、水を桶へ移した。
戻る道で、桶が腕へ食い込んだ。
源太は一度、地面へ下ろした。
「こいば、毎日かね」
「飯も炊くし、飲むしね」
男が答える。
白瀬は候補地へ戻り、おたえの板へ水場の印を足してもらった。
家と道だけを描いていたところに、桶を抱えて歩いた長さが加わった。
*
次の雨の翌朝、杭の場所へ来た男たちは、しばらく黙っていた。
昨日まで乾いていた低みへ、水がたまっている。
家を置こうとしていた場所だった。
「ここ、昔も雨のあとは、なかなか乾かんとよ」
年配の村人が言った。
ガタ吉が泥へ降り、草の根の間を探った。
「向こうへ落としたかばってん、ここで止まっとる」
流れの先には、人が通るために寄せた土があった。
白瀬が鍬を借りた。
「このまま掘り抜いていいか、先も見よう」
「おいが行く」
長吉が走りかけ、途中で止まった。
「……田へ入ると困るけんね」
白瀬はうなずいた。
ガタ吉と長吉が先を確かめる間、男たちは杭を抜いた。
一本ずつ、少し高い場所へ持っていく。
「おいの家、浜から遠うなったばい」
「寝床の水に浮くよりよかろうもん」
「舟の家なら、浮いてもよかとに」
源太が言った。
「家にまで舟ば付けるな」
健太が返すと、おたえが笑った。
小春は男の袖を引いた。
「母ちゃんの通る道は、こっちの方が曲がらんでよかね」
男が水場の方を見る。
「……そうたいね」
新しい杭が、地面へ入った。
*
田の苗が伸びる間に、母屋の雨漏りが直った。
健太が、古い縄と新しい縄を別々にまとめた。
雨の晩、長吉は桶を持って立ち上がりかけた。
天井を見る。
水が落ちてこない。
母が、口元を緩めた。
「今日は置かんでよかね」
長吉は桶を戻した。
敷物へ腰を下ろす。
足を伸ばす。
屋根を打つ雨の音は、前と同じだった。
それなのに、眠くなった。
*
新しく建てる家の柱がそろうまでには、さらに日が要った。
田の仕事がある日は、来る人が少ない。
木を運ぶ日には、漁師も手を貸した。
おたえの板には、来られる日の印と、まだ足りない物が並んだ。
材料をただで出せる人ばかりではない。持ち主と大工、家を建てる者が話をし、借りる物、払う物、働いて返す分を決めた。
健太の銭は、まだ懐にあった。
家一軒を買える銭ではない。
だから、持っている道具を手入れし、働ける日に出た。
白瀬が板へ描いた屋根を見て、大工が眉を上げる。
「この木で、そいだけ飛ばすと?」
「途中に柱を――」
「そこは、人の寝るとこやろ」
白瀬は図を見直した。
健太が横からのぞく。
「白瀬しゃんも、描き直すとやね」
「何度でも」
「なら、おいの板も、まだ使えるばい」
健太が差し出した板には、黒い線が何重にも残っていた。
白瀬は笑い、空いた端を借りた。
柱を起こす日、男たちが声をそろえた。
杭の場所を巡って言い争った二人も、同じ柱へ手を添えている。
「そっちへ倒すな!」
「お前が押しすぎるけんたい!」
「口より手ば動かさんね!」
大工の声で、二人が黙った。
柱が収まる。
縄を持つ手が、少しずつ緩む。
誰も、すぐには離れなかった。
小春が見上げた。
「……家の高さになった」
おたえは板の家の印を見た。
そこから顔を上げる。
今度は、本物の柱があった。
*
「長吉、動かんで」
夕方、長吉の母が息子の腕へ水をかけた。
泥が筋になって落ちる。
「そこは、もうよかたい」
「肘の裏が残っとる」
長吉は仕方なく腕を伸ばした。
隣では小春が、おたえの頬を指している。
「そっちも炭の付いとる」
「板ば触った手で、触ったとやね」
「また触るなって!」
源太が笑い、健太もつられて笑った。
長吉は洗い終えると、母の手から布を取った。
「母ちゃんも」
桶へ目を落とす。
底に、泥の混じった水が少し残っていた。
「うちは、あとでよか」
母は布を取ろうとした。
長吉は離さなかった。
「腕、まだ汚れとる」
「飯の支度ばせんば」
白瀬は、その腕を見た。
乾いた泥の筋が、肘まで続いている。
「……風呂があればな」
声に出ていた。
母が白瀬を見る。
「湯ば、沸かすと?」
「少しずつでも、身体を洗って、温まれる場所を作れないかと」
「誰の家に?」
「皆で使う場所に」
水を運んでいた女が、足を止めた。
「薪は?」
別の女も振り向く。
「水も、今より要るばい」
「釜ば買う銭もなかとに」
健太の手が、懐へ触れた。
おたえが首を振る。
「健太の分だけで、そろうもんじゃなか」
長吉の母は、桶を持ち上げた。
「あれば、うれしかよ。ばってん、湯ば沸かして、水ば運んで、片付けて……その間の飯は、誰が炊くとやろね」
白瀬は答えようとして、黙った。
母は風呂が嫌なのではない。
入れるまでの仕事を、先に数えていた。
「なら、おいが運ぶ」
長吉が言った。
「田は?」
「見る。そいが終わってから」
「一人じゃ、足りんばい」
源太が桶へ手を添えた。
「おいもする。ばってん、漁のときはできん」
「毎日、同じ人じゃなくてよかとやろ」
小春が白瀬を見る。
「作ったあと、母ちゃんたちだけに任せんとやろ?」
「そうしよう。できる日と仕事を、皆で確かめたい」
長吉の母は息子の顔を見た。
「長吉、桶を運んだだけで、終わりじゃなかとぞ」
「……うん」
長吉は、空になった桶を母から受け取った。
*
湯に入れる日が決まるより先に、場所を巡る話が始まった。
水場のすぐそばなら運ぶのが楽だという声に、水を汲む女たちが首を振る。
「泥ば流すとこと、飲む水ば汲むとこは、一緒にしたくなか」
澪もうなずいた。
「流した水の行く先まで見よう」
ガタ吉が地面へ降り、白瀬と外へ歩いた。
家から近く、飲み水を汲む場所を汚さず、使った水を逃がせる場所。
全てに都合のよい場所はなかった。
何度か歩き直し、家並みから少し離れた場所へ杭を打った。
飲む水を先に確保する。田へ回す水も勝手に取らない。湯に使う分がそろわぬ日は、沸かさない。
「せっかく作っても、毎日は入れんと?」
源太が尋ねた。
「始めはね」
白瀬が答える。
「毎日無理をして、使えなくなるよりいい」
源太は桶の重さを思い出したのか、うなずいた。
大工は湯屋の広さを聞き、白瀬の両手を下げさせた。
「そげん大きゅうは、今はできんばい」
「……ですよね」
「雨ば避けて、着替えるとこも要る。まず、こいくらいからたい」
小春が、目隠しになる囲いを指した。
「こっちから、見えんごとして」
男が首をかしげる。
「入り口ば、そっちに向ければ――」
「道の人から見えるやろうもん」
女たちが小春の横へ並んだ。
大工は道へ出て、一度振り返った。
「……ほんとたいね」
入り口の向きが変わった。
釜は丸山を通じて、貸してもらえる物を探した。運ぶ日には白瀬も同行し、傷みの有無を持ち主と確かめた。
湯を受ける大きな桶は、古い物をそのまま置けなかった。
桶を作る職人が底を見て、板の一枚を外す。
「ここば直さんと、湯の逃ぐる」
健太が、その手元へ身を寄せた。
端材を削って作った皿とは、音が違った。
職人は健太を見て、木片を渡した。
「触ってみんね。こっちと、こっち」
指でなぞる。
小さな差があった。
健太は、その木片を返すまで、何度も触った。
*
初めて水を流した日、健太の作った台へ桶が並んだ。
源太が得意そうに桶を置く。
その足の下で、泥が広がった。
「そこ、先に流せって!」
健太が叫ぶ。
「まだ湯にも入っとらんばい!」
「入る前やけんたい!」
小春が笑いながら水をかけた。
足の泥が落ちる。
流れた水が、出口の手前で止まった。
笑い声も止まった。
白瀬がしゃがむ。
「……ここ、少し高いな」
ガタ吉が出口をのぞいた。
「外も、土の寄っとる」
翌日、床と溝を直した。
また水を流す。
今度は細い流れになって、外へ抜けた。
澪がその先まで歩き、戻ってくる。
「よい。水汲み場へは戻らぬ」
白瀬はようやく立ち上がった。
肩が鳴る。
澪が見た。
「そなた、腰を伸ばせ」
「今、伸ばしてる」
「桶を持ったままで?」
白瀬の手には、まだ桶があった。
澪が取る。
「皆の休む場所を作って、そなた一人だけ休まぬつもりか」
「あと、この一つだけ――」
「その一つを、さっきも聞いた」
小春が二人を見て、笑いをこらえた。
「白瀬しゃん、座らんね。澪しゃんに桶まで取られたら、もう仕事のできんばい」
白瀬は腰を下ろした。
澪も隣へ座る。
桶は、二人の間へ置かれた。
*
「火、起こしてみるかね」
釜を掛ける場所で、長吉の母が白瀬へ火打ち道具を差し出した。
石と、鉄と、小さな火口。
白瀬は受け取り、母のやり方をまねた。
かち、と音がする。
もう一度。
小さな火花が散った。
「出た」
小春が身を乗り出す。
白瀬も顔を寄せた。
何も残っていなかった。
また打つ。
火花が落ちる。
火口の端に赤いところができ、白瀬が息を吹いた。
強すぎた。
母が、そっと手を添える。
「慌てんで。こっちへ移してから」
細い焚き付けを寄せる。
母の息で、煙が増えた。
火が立つ。
小春が目を丸くした。
「母ちゃん、早か!」
「毎日、飯ば炊きよるけんね」
白瀬は道具を返した。
「教えてもらわないと、湯を沸かすところまで行けなかった」
「家も湯屋も、白瀬どん一人で作ったわけじゃなかろ」
母は薪を足した。
その向こうで、健太が黙っていた。
さっきから、懐を押さえている。
「健太?」
白瀬が呼ぶ。
「……前の、もう一回やってみたか」
取り出したのは、小さな筒と棒だった。
小春が目を見開く。
「そい、まだ持っとったと!」
「捨てんたい」
健太は筒を両手で持った。
白瀬が話した、空気を押し縮めて火種を作る道具。
火の出なかった道具を、健太は持っていた。
*
湯屋の仕事が終わると、健太は納屋へ戻った。
筒へ棒を入れる。
押す。
抜いて、先を見る。
黒いままだった。
もう一度。
「押す力ば強うすればよかと?」
源太が尋ねた。
「力だけじゃない。中の空気が逃げていたら、押しても縮まらない」
白瀬が答える。
健太は棒へ巻いた糸をほどき、巻き直した。
少し太くする。
入らなくなった。
「……今度は、押せん」
小春が口を押さえる。
「笑うなよ」
「まだ笑っとらん」
「顔の笑っとる」
健太は糸を少し戻した。
棒を押すと、今度は途中で跳ね返る。
源太が身を引いた。
「おっ」
白瀬が手を添える。
「こっちへ向けないで。押すところを安定させよう」
健太は板の上へ筒を置き直した。
おたえが、変えた場所へ印を付ける。
「さっきと、今のとは、混ぜんごとするけん」
健太はうなずいた。
翌日は、棒が動きにくかった。
その次の日は動いたが、火口が赤くならなかった。
筒の中に指は入らない。削った道具を替え、内側の引っ掛かりを確かめる。
桶職人に見てもらうと、首を振られた。
「水ば止めるとと、動かしながら空気ば止めるとは、同じじゃなかね」
健太の肩が落ちる。
「ばってん、ここは、まだざらついとる」
職人が筒を返した。
「先に、こっちばそろえてみんね」
健太は顔を上げた。
夕方、長吉が田から戻ると、健太はまだ削っていた。
「苗の、また伸びたばい」
「そいは、よかね」
「見に来んと?」
「あと、ここだけ」
白瀬が笑いかけた。
澪が白瀬の袖を引く。
「そなたと同じことを言うておる」
笑いが止まった。
白瀬は健太の横へ座った。
「今日は、どこまで試せた?」
健太は筒と棒を見せた。
おたえが板を寄せる。
昨日の印と、今日の印。
白瀬は一つずつ聞き、最後に言った。
「それを残して、明日また試そう。暗くなる前に田を見てこようか」
健太はしばらく筒を見た。
布で包む。
「……持っていってもよか?」
「落とすなよ」
源太が言った。
「銭も、こいも、落とさんたい」
健太は、今度は自分から立ち上がった。
*
湯屋を使う前の最後の試しは、晴れた午後になった。
水を満たした桶の底から、しずくは落ちていない。
釜の周りは片付き、薪も必要な分だけ寄せてある。
長吉の母が火口を用意していると、健太が来た。
「その小さかと、分けてもろうてよか?」
母は健太の手の中を見た。
「そいで、火ば作るとやったね」
「……作りたか」
母は乾いた火口を少し分けた。
「うちのも、ぬれたら困るけん。包みはすぐ閉じてね」
健太は先端へ収めた。
小春たちが集まってくる。
白瀬は健太のそばへしゃがんだが、手は出さなかった。
筒を置く。
棒を入れる。
健太は一度、息を吐いた。
押し込む。
すぐに抜いた。
皆の顔が寄る。
先端は黒かった。
健太の指が止まる。
「……待って」
おたえが言った。
黒い端に、小さな赤い点があった。
ほんの少し。
目を離せば、見失いそうな大きさだった。
健太は何も言わなかった。
白瀬が隣で、静かに息を吸う。
「火種だ」
長吉の母が、用意していた焚き付けを寄せた。
「こっちへ」
健太が移す。
母は両手で包むように支え、息を送った。
煙が立つ。
細いものの間で、赤い色が広がった。
火が起きた。
「……ついた」
健太が言った。
母は火を焚き口へ移し、細い薪を添える。
「ついたばい」
小春が健太の肩へ触れた。
「健太、ついたよ!」
健太は筒を見て、それから母の手を見る。
薪が鳴った。
自分の作った道具から出た火が、釜の下で燃えている。
顔が、くしゃりと緩んだ。
「もう一回、できるやろか」
「その前に、今の分ば書かせんね」
おたえが板を出した。
「変えた糸と、火口と……今日は、こっちたいね」
健太はうなずいた。
何度か試した。
火種の出るときと、出ないときがあった。
源太がやると、初めは出なかった。
「おい、下手か」
「おいの道具が、まだ難しかとたい」
健太が答えた。
白瀬は、健太を見た。
少年は棒を抜き、糸の巻き方を確かめ直していた。
「できた、で終わらせないんだな」
「母ちゃんたちが使えんと、楽にならんやろ」
長吉の母は薪を足す手を止めた。
何も言わず、健太の頭へ一度だけ手を置いた。
健太が顔を赤くする。
おたえは筒の印を板へ描いた。
魚の丸とは、違う形。
「こい、欲しかって言う人、おるやろか」
小春が見る。
「もう売ると?」
「まだたい。源太も、もう一回できんば」
「おいが試すとか」
「健太だけ使えても、売れんやろうもん」
健太は、板の筒の印を見た。
「なら、使えるごとする」
白瀬は薪の火へ目を戻した。
赤い点は小さかった。
けれど、それを見つめる子どもたちの顔は、町で皿を売ったときより近くに寄っていた。
*
初めて湯を使う夕方、男たちが早々に集まってきた。
「おい、薪ば運んだけんね」
「おいは柱ば立てた」
「なら、大工が先たい」
大工は腕を組んだ。
「そいでよかなら、入るばい」
「待って!」
小春が道の真ん中へ立った。
「今日は、先に母ちゃんたちたい」
男たちが顔を見合わせる。
「そげん決まっとったと?」
「おじちゃんも、水運びの話のとき、うなずいとったやろ」
「……うなずいたかね」
おたえが板を見せた。
使う順を相談したときの印があった。
男はため息をついた。
「勘定だけじゃなかとやね、その板」
「忘れんためたい」
小春が笑い、男たちを道の向こうへ押し戻す。
「あとで呼ぶけん。こっちで待っとったら、母ちゃんたちの入りにくか!」
大工がいちばん先に背を向けた。
「なら、待つ間に、あっちの木ば片付けようかね」
白瀬も手を伸ばしかけた。
澪が見た。
白瀬は手を下げた。
「……分かった。今日は、運び終えた」
「よう覚えておったな」
澪の口元が緩んだ。
*
長吉の母は、母屋の前で手を拭いていた。
長吉が来ると、すぐに尋ねる。
「桶、運び終わったと?」
「うん」
「なら、その布ば干して。うちは、こっちば――」
「母ちゃん」
長吉が、乾いた着替えを差し出した。
母の手が止まる。
「今、行かんば」
「あとでよかたい」
「あとになったら、また仕事の出るやろ」
母は息子を見た。
長吉は着替えを下げなかった。
「こっちは、おいが片付ける。飯の支度は、小春の母ちゃんたちと、先に済ませたって」
「長吉、そげん勝手に――」
「みんなで話したと」
長吉の声が、少し小さくなった。
「母ちゃんにも、入ってほしかったけん」
母は布を置いた。
着替えを受け取る。
「……濡れたとこ、ちゃんと拭くとぞ」
「分かっとる」
「桶も伏せて」
「うん」
母はまだ何か言いかけ、やめた。
長吉の肩へ触れる。
「なら、行ってくるね」
息子の顔が明るくなった。
*
湯屋の中には、木と湯の匂いがあった。
長吉の母は囲いを見て、入り口の外へ一度目をやった。
道からは、見えない。
先に身体の泥を落とし、湯の前へ座る。
「熱うなかね」
隣の女が手を入れた。
「ちょうどよかよ」
母も触れる。
温かかった。
桶の縁へ手を掛け、ゆっくり身体を沈める。
足から、腰へ。
背を曲げると、肩まで湯が来た。
そのまま、動かなくなった。
「どうね」
隣から声がする。
母は返事をしなかった。
長い息が、こぼれた。
「……こげん、あったかかったとやね」
女が笑う。
「湯は、あったかかもんたい」
「知っとるよ」
母も笑った。
「ばってん、肩まで来るとは……」
言葉が続かなかった。
指が、湯の中で開く。
何も握っていない手を、母はしばらく見ていた。
*
長吉は母屋の前で、桶を伏せていた。
湯屋から、女たちの笑い声が聞こえる。
その中に、母の声があった。
顔を上げる。
小春が、乾いた布を抱えて歩いてきた。
「行った?」
「うん」
「また、あとでって言わんかった?」
「言うた」
「やっぱり」
小春が笑う。
長吉も笑った。
湯屋の屋根の向こうへ、細い煙が上がっている。
母は今、飯も炊いていない。
水も運んでいない。
誰かの背も洗っていない。
長吉は桶の底を拭いた。
もう一つの桶も、丁寧に伏せた。
*
白瀬と澪は、道の端へ並んで座っていた。
新しい家の一軒に、灯りがともる。
まだ壁を仕上げている家もある。積んだ木も残っている。
向こうの田では、長吉たちが植えた稲が風に揺れていた。
「全部、できたわけじゃないな」
白瀬が言う。
「そうじゃな」
澪は答えた。
湯屋から、また笑い声がした。
白瀬はそちらへ顔を向ける。
「でも、今日は入れた」
澪が、うなずいた。
「そなたが今日、欲しかったものは、それであろう」
「……うん」
少し離れた場所で、健太が筒を布へ包んでいた。
おたえが板を寄せ、小春と源太ものぞき込む。
何かを言い合い、四人で笑う。
長吉は片付けを終え、その輪へ歩いていった。
白瀬は湯屋の煙を見上げた。
ここへ来た日には、知らなかった声がする。
夕方になれば、それぞれの家へ帰っていく人がいる。
澪の袖が、白瀬の腕へ触れた。
「白瀬。呼ばれておるぞ」
小春が道の向こうで、手を振っていた。
「次、男の人たちたい! 白瀬しゃんも、ちゃんと入らんね!」
白瀬が立ち上がる。
澪も立ち、桶を持とうとした白瀬の手を見た。
「それは、空じゃ」
「……持っていかなくていいか」
「今日は、休みに行け」
白瀬は笑って、桶を置いた。
湯屋へ向かう道で、大工と肩が並んだ。
「ようやく、入れるばい」
「待たせました」
「待っとった間に、木も片付いたけんね」
二人は笑った。
入り口では、健太が洗い場の台を確かめていた。
白瀬を見ると、道を空ける。
「先に足ば流してよ。泥の残ったら、おいがまた直さんば」
「はい、先生」
健太が照れた。
湯の向こうで、誰かが大きく息を吐いた。
大工が、その声につられて笑う。
白瀬は洗った足を下ろし、初めて湯へ手を入れた。
温かかった。
明日も、ここへ帰ってこようと思った。
お読みいただき、ありがとうございます。
「うちは、あとでよか」
いつも自分のことを後回しにする長吉の母が、ようやく肩まで湯につかれました。
長吉たちが用意したのは、湯屋と、母が安心して休める時間だったのだと思います。
健太の道具にも、小さな火種が生まれました。
「自分が使える」から「誰かが使える」へ。ものづくりの夢も、少しずつ育っています。
次回は、第三十七普請・後編。
新しい暮らしが始まった村で、仲間たちの力が試されます。
続きも見届けていただけましたら、うれしいです。




