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『海から百万石 ~江戸時代に転移した国交省の土木職員、水守と河童と有明海の大干拓に挑む~』  作者: 天手古まい


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第三十六普請 魚一籠で、何が買える?

いつもお読みいただき、ありがとうございます。


今回は、おたえの初めての商いです。


板に魚の丸を描いていたおたえが、本物の魚を持って町へ。

値を尋ねる緊張も、買い手の返事を待つドキドキも、初めての経験です。


健太の小道具と、小春の声かけを頼りに、どんな一歩を踏み出すのか。

どうぞお楽しみください。

 「……よか鯛の、あります」


 朝の浜で、おたえは誰もいない方へ言った。


 小さな波が、砂の上を滑って戻る。

 返事はなかった。


「あります!」


「聞こえたばい」


 後ろから小春の声がして、おたえは肩を跳ねさせた。


「いつからおったと!」


「よか鯛のあります、から」


「最初からやん!」


 小春が笑う。

 おたえは板で口元を隠した。


 昨夜は、寝ようとすると町のことを考えてしまった。

 魚を見せて、値を聞いて、銭を受け取る。買えた縄を持って帰ったら、長吉はどんな顔をするだろう。


 何度も思い浮かべたのに、いざ朝になると、腹の辺りが落ち着かない。


「ほんとの魚、持って来たばい」


 源太が籠を指した。


 大きな鯛が二尾。

 小さな鯛が八尾。


 漁師たちが家で食べる分と、いつもの売り荷を分け、そのあとで普請のために出してくれた魚だった。


 おたえは一尾ずつ指し、板へ丸を描く。

 大きな丸が二つ、小さな丸が八つ。


 その横には、昨日から縄の印があった。


「この分ば売って、替えの縄ば買うてきてよか」


 町へ同行する漁師が言った。


 おたえは持ち主を覚える印も付け、うなずいた。


「うちも、値ば聞いてよかですか」


「よかよ。ばってん、分からんまま、うんうん言わんごとね」


「はい」


 返事だけは、大きくできた。


「待った。魚ば入れる前に、こい」


 健太が、細長い竹の皿を差し出した。


 薄く割った竹を並べ、縁を付けてある。両端には短い縄の輪があった。籠の片側へ入れると、底まで収まる。


「町で見せるとき、こげんして――」


 輪を持って引き上げる。


「魚ば何べんもつかまんで、いっぺんに出せると」


「おお!」


 小春が手を伸ばした。


「うちもやってみたか」


「石で試したとき、ここが緩んだけん、締め直しとる。両方の輪ば持てよ」


 漁師が結び目を確かめ、小さな鯛を四尾だけ並べた。

 小春が皿を上げる。


 朝の光を受けて、魚の腹が白く光った。


「おたえ。こいなら、よう見えるばい!」


 おたえは思わず、板の丸と見比べた。


 籠の底で重なっていた魚が、四尾きれいに並んでいる。


「……こげん見せたら、買ってもらえるやろか」


「そいは、おたえが聞くとたい」


 健太は皿を戻した。


 竹は使ってよいと聞いてきた端材で、縄も余った短いものだった。

 籠の反対側へ残りの魚を収めると、白瀬が持ち上げた。


「よし。行こうか」


 畦から長吉が手を振る。


「田の方は、おいが見とくけん!」


 溝から顔を出したガタ吉も、手を振った。


「樋も見とくばい。町の話、聞かせてくれんね」


 家の者には昨夜のうちに話を済ませてある。

 澪が包みを持ち、小春が源太を呼んだ。


 おたえは縄の印へ一度触れ、板を抱え直した。


 今日は、これを本物にして帰りたかった。


     *


 町へ近づくにつれ、道を行く人が増えた。


 荷を担いだ男。

 桶を提げた女。

 店先へ竹を立てかける人。


 小春は、道を譲ってくれた人にも、籠をのぞいた人にも声をかけている。


「おはようございます!」


「魚ば持って来たと?」


「そうたい。今日は売りに来たとよ」


 おたえの背筋が伸びた。


 売りに来た。


 小春が言うと、簡単なことのように聞こえる。

 けれど、板を抱えた手は、じっとりしていた。


 魚買いの店では、もう籠が幾つも下ろされていた。


「こっちは、どこに置くとね!」


「その桶ば先に寄せんね!」


 魚を指す手が動き、銭の音がする。

 昨日、村で話した男も、その中にいた。


 おたえは口を開いた。


「おじ――」


 荷を担いだ人が前を横切った。

 声は、自分の耳にしか届かなかった。


 今度こそ。


「あの、魚ば――」


「この鯛は、こっちたい!」


 別の声に押され、続きを飲み込む。


 小春が店先へ顔を出した。


「おじちゃん、昨日の小春たい! おたえも、ほんとの魚ば持って来たよ!」


 男が振り向いた。


「おお。丸の魚か」


「今日は泳がん魚たい」


 小春が言うと、男が笑った。

 人の通らぬ場所を指してくれる。


 健太と源太が籠を寄せ、おたえもその前へしゃがんだ。


「見せてみんね」


 健太が縄の輪を持つ。


 竹の皿が上がり、小さな鯛が四尾並んだ。

 近くで荷を渡していた別の売り手まで、手を止めた。


「ほう。こいは出しやすかね」


 魚買いが皿をのぞく。


 おたえの胸が弾んだ。

 きれいに見えている。朝、浜で並べたときと同じだ。


「こっちに、大きかとも二尾あります」


 源太が籠を指した。


 男は魚を一尾ずつ確かめた。


 おたえは、その手を見ている。

 長く見ている魚は高くなるのだろうか。すぐ戻した魚は、買ってもらえないのだろうか。


「今朝は、鯛のよう届いとるとよ」


 男が言った。


「小さかとは、この四尾。大きかとは、一尾もらおうかね」


 おたえは、板へ目を落とした。


 四つと、一つ。


「……あとの魚は?」


「店に置ける分も、売れる分もあるけんね。今日は全部は受けられん」


 頭の中で、十個の丸が止まった。


 全部、銭になると思っていた。


「こっちの大きかとは、尾の――」


 男が、もう一尾を持ち上げた。


 源太が息をのむ。


 尾が折れていた。


 籠の編み目へ、細い先が挟まっている。

 浜では、こんな形をしていなかった。


「持って歩く間に、掛かったとやね」


 同行の漁師が籠を引き寄せた。


 健太も、皿のない側をのぞいた。

 口元から笑みが消える。


「姿のよか鯛を頼まれとる分には、こいは出せん」


 魚買いは、その一尾を脇へ置いた。


 おたえの頬が熱くなった。


 あれほど大きな魚を出してもらったのに。

 村を出るときには、皆が手を振ってくれたのに。


「……五尾だけ、とですか」


「今買う分は、そうたい」


 男が代金を示す。


 おたえは、その銭と残った魚を見た。


 喉の奥が詰まり、何も言えなくなった。


 白瀬が、半歩近づく。


 澪の指が、その袖へ掛かった。


「待て。あの子が、まだ口を開こうとしておる」


 おたえは板を膝へ置いた。


 丸の大きさは、自分で分けた。

 なら、分からないことも、自分で聞かなければ。


「その値は、大きか一尾と、小さか四尾で、どげん分かれとるとですか」


 男は銭を分けて見せた。

 横で漁師も、一緒に確かめてくれる。


 おたえは聞き終え、深く息を吸った。


「……そいで、お願いします」


 初めて受け取る代金だった。


 指へ載った銭は、思ったより冷たい。

 落とさぬよう、手を丸めた。


「おたえ。売れたばい」


 小春が、小さな声で言った。


 おたえはうなずいた。

 うれしかった。


 けれど、籠を見れば、まだ五尾残っている。


     *


 店の奥から、湯気が上がった。


 塩の匂いがする。

 村で食べた魚の汁を、おたえは思い出した。


 身を食べたあとも、頭や骨を鍋へ入れていた。

 皆で椀を回して、底に残った汁まで飲んだ。


「源太」


 おたえは、尾を折った鯛を指した。


「こいも、汁にできると?」


 源太が漁師を見る。

 漁師は魚を確かめ、うなずいた。


「朝捕れたとたい。尾を折っただけやけん、汁には使える」


 おたえは残りの四尾を見る。


 町の人も、あの汁を飲んでくれたら。


「おじちゃん。この魚で、汁ば作って、少し飲んでもらえんやろか」


 魚買いが眉を上げた。


「ここで?」


「はい。うち、村で食べて、おいしかったけん……」


 小春が、おたえと魚を見比べた。

 それから、奥へ身を乗り出す。


「おばちゃん! こっち、ちょっと見てくれんね!」


 飯の支度をしていた女が、手を拭きながら出てきた。


 話を聞き、魚を見てから、おたえの前へしゃがむ。


「鍋と器は貸せるよ。あとで洗うのを手伝ってくれればね。ばってん、塩と薪の分は要るとよ」


 女が示した分へ、おたえは銭を置いた。


 並べた銭が、少なくなる。


 魚を食べてもらっても、残りが売れるとは限らない。

 何も増えずに、塩と薪の分だけなくなるかもしれない。


 指が、銭から離れなかった。


「やめとくかね」


 女が尋ねた。


 おたえは、尾を折った鯛を見る。

 魚の目に、店先の明かりが映っていた。


 村から持ってきた、この一尾。

 まだ、おいしく食べられる。


「……少しだけ、やってみたかです」


 同行の漁師へ顔を向ける。


「縄ば買うための魚やったとに。こいを汁に使っても、よかですか」


 漁師は、しばらく魚を見た。


「この一尾なら使ってみんね。塩と薪の分は、先によけとくとぞ」


「はい」


 おたえはようやく、銭から指を離した。


 魚買いが店先の端を指す。


「通る人の邪魔にならんごとしんね。客の選んだ分なら、残りの魚もさっきの値で引き取ろう」


 おたえは顔を上げた。


「……ほんとですか」


「選んでくれる人のおればね」


 小春が、おたえの肩へ触れた。


「うち、声ばかけてみる」


 健太は竹の皿を寄せる。

 源太も、残る四尾を並べ直した。


 白瀬が水を運び、澪が器をそろえる。


 おたえは板の大きな丸へ、小さな鍋を描き足した。


 健太がのぞき込む。


「魚から湯気の出よる」


「鍋たい」


「ああ。鍋か」


「そげん見えん?」


「……言われれば」


 小春が吹き出した。


 おたえは二人をにらんだが、自分でも少し笑ってしまった。


     *


 女が鱗と内臓を取り、切り分けた鯛を小鍋へ入れた。


 頭と骨からも、汁が出る。

 灰汁をすくい、塩を少し入れると、湯気の匂いが変わった。


 骨をよけ、澄んだ汁を椀へ注ぐ。


「まず、言い出した子が飲んでみんね」


 おたえは両手で椀を受け取った。


 熱い。

 息を吹きかけ、一口飲む。


 塩の向こうから、魚の味が広がった。


 おいしい。


 尾が折れていたことなど、舌には分からなかった。


 おたえは店先へ出た。


「あの……汁のあります」


 通りの女が、ちらりと見た。

 そのまま歩いていく。


「魚の汁、飲んでみらんですか」


 今度の男は、手を振った。


「急いどるけん、またね」


 椀を持った手が、少しずつ下がる。


 うちが、おいしかって思うだけやろか。


 健太が竹の皿を上げた。

 源太は魚の向きをそろえた。


 小春が、店へ入ってきた女の桶を見た。


「おばちゃん、今日は何人で食べると?」


「三人たい。なんね」


「魚ば探しよると?」


「そげん大きかとの要らんとよ。小さかとでよか」


「なら、こっち見てみんね」


 小春が手を差し出す。

 健太が持つ皿の前へ、女が足を止めた。


「あら。きれいに並んどるね」


 おたえは、椀を持ち直した。


「こいも、同じ鯛で作った汁です。一口、飲んでみてもらえんですか」


「魚屋で汁の出ると?」


 女が魚買いを見る。

 男がうなずくと、女は椀を受け取った。


 唇が、椀の縁へ触れる。


 おたえは、その顔を見た。


 女は何も言わない。

 もう一口、飲む。


 店の奥で、鍋の蓋が鳴った。


 長かった。

 たった二口なのに、浜から町まで歩いたときより長く感じた。


「……塩だけで、こげんなると?」


 女が言った。


 奥の女が笑う。


「鯛から出る味たい。頭と骨も使えばよかとよ」


 買い物の女が、皿へ目を落とした。


 指が動く。


「なら、この二尾ばもらおうかね」


 おたえは、息を止めた。


 二尾。


 魚を選んでくれた。


「はいっ!」


 声が裏返った。

 女が笑う。


「そげん大きか返事せんでも、聞こえとるよ」


 おたえの耳まで熱くなった。


 魚買いが客へ値を告げ、それからおたえへ向き直る。


「そっちからは、この二尾を、さっきの値で買うてよかね」


 今度は慌てず、魚と銭を確かめた。


「はい。お願いします」


 女が魚を受け取った。


「骨も使ってみるけんね」


「はい。ありがとうございます!」


 おたえは頭を下げた。


 女の足が店を出ていく。

 その背中が人の間へ消れてから、おたえはようやく小春を見た。


「……売れた」


「うん」


「汁、飲んでくれて」


「見とったよ」


「魚も、買うてくれた」


 小春が、おたえの手をぎゅっと握った。


「売れたばい!」


 健太も皿の向こうで笑っている。

 源太は、残る二尾を見やすい方へ寄せた。


「そこの汁、まだあると?」


 声がした。


 さっき、足早に通り過ぎた女が戻ってきていた。


「向こうまで、よか匂いのしよったけん」


 おたえはすぐには返事ができなかった。

 小春が肘で、ちょんと押す。


「……あります! 魚の汁、飲んでみてください!」


 今度は、通りへ声が出た。


 女が椀を受け取る。


 飲んでから、竹の皿をのぞいた。


「この二つも、もらえると?」


 おたえは魚買いを見た。

 男がうなずく。


「そっちの残りも、引き取ろう」


 健太の持つ皿から、最後の魚がなくなった。


 おたえは空いた場所へ目を落とした。


 何もない。


 朝、自分たちで並べた四尾が、全部なくなっている。


 魚買いが代金を置いた。

 女は魚を包んでもらい、桶を抱え直した。

 その姿を見て、やっと動けた。


「ありがとうございました!」


 頭を下げた拍子に、小春と額がぶつかった。


「痛っ」


「小春、近か!」


「おたえが急に下げるけん!」


 源太が吹き出し、健太まで皿を揺らした。


 奥の女が顔を出す。


「喜ぶのはよかばってん、器ば割らんごとね。洗い物は、まだ残っとるよ」


「はい!」


 四人の返事が、今度はそろった。


     *


 汁の味見は、そこで終わりにした。


 小春が、のぞき込む人へ知らせる。


「今日はもう終わったとよ。魚のことなら、おじちゃんに聞いてね!」


 おたえは塩と薪の分を払い、残る銭を数えた。


 九尾を売った。

 一尾を汁に使った。


 板の印をたどると、十尾全部の行き先が分かった。


 銭を包もうとしたとき、店先から声がした。


「そい、おいにも一つ作ってくれんね」


 朝、皿を上げたときに手を止めた、別の魚売りだった。


 健太が顔を上げる。


「そいって?」


「その竹の皿たい。魚ば見せるたびに籠へ手を突っ込まんでよかなら、助かるけん」


 男は、健太の手元を指した。


「お前が作ったとね」


「……うん。端っこの竹で」


 健太の目が丸くなった。


 おたえは男を見た。

 竹の皿を見た。


 それから、健太を見た。


 口の端が、ニヤリと上がった。


「健太」


「なんね」


「こいも、売れるごたるね」


 健太が、皿を持ち直す。


「魚の入っとらんとに?」


「魚ば入れたか人のおるけん」


 小春が、おたえの横顔をのぞいた。


「……いま、よか顔したね」


「いつも、よか顔たい」


「そげん意味じゃなかばい」


 おたえは男へ向き直った。


「竹と縄の分も要るし、作るには手間もかかるとよ」


「そら、ただでくれとは言うとらん。幾らになるとね」


 そこで、おたえの口が止まった。


 知らない。

 まだ、数えていない。


 健太も自分の皿を見ている。


 おたえは、さっき払った塩と薪の分を思い出した。


「……そこは、帰ってから考えます。先に、籠の大きさば見せてもらってよかですか」


 健太が、すぐに顔を上げた。


「そうたい。同じ皿じゃ、入らんかもしれん」


 男が籠を寄せる。

 健太の皿より、ずっと幅が広かった。


「これなら、底の竹も増やさんば」


 健太が両手で幅を測る。

 おたえは板の空いたところへ、籠と皿の印を描いた。


 魚買いも、店の籠を一つ引き寄せた。


「おいのも、合うとができるなら見せてくれんね。ばってん、魚の重さで外れんごとせんばぞ」


「村でもう一度、試します」


 健太が答えた。


 おたえは二人の顔と、二つの籠を覚える印を付けた。


 作れるか。

 何が要るか。

 幾らなら渡せるか。


 まだ返事はできない。

 けれど、欲しいと言ってくれる人が、目の前に二人もいた。


 魚がなくなった籠の横で、おたえは竹の皿をそっとなでた。


 朝には、魚を運ぶための道具だった。

 いまは、次に町へ持ってきたいものになっていた。


「おたえ、洗い物!」


 小春に呼ばれ、慌てて板を抱える。


 水へ手を入れてからも、頬は緩んだままだった。


     *


 縄の店では、健太が短い見本と樋の図を広げた。


「水のかかるところで、竹ば支えるとです」


 店の人が縄を寄せ、太さと撚りを見せる。


 健太が確かめ、小春が必要な長さを分けてもらえるか尋ねた。

 おたえは値を聞き、包んだ銭を出した。


 買える。


 皆で相談した長さの、替えの縄が買える。


 店の奥へ目をやると、健太も同じ方を見ていた。

 竹の皿を結ぶのによさそうな縄がある。


「こっちも、あったら――」


 健太が言いかけ、口を閉じた。


 おたえは、板の縄の印を指した。


「今日は、こっちば先に買う」


「うん。魚ば出してもらった分やけんね」


 健太がうなずいた。


「皿の分は、帰ってから、どのくらい要るか一緒に見よう」


 おたえが言うと、健太の顔がまた明るくなった。


 店の人が縄を分け、束にしてくれる。


 おたえは銭を渡した。

 代わりに、縄を受け取る。


 ざらざらした手触り。

 腕へ掛かる重さ。


 昨日、板へ描いた線が、手の中にあった。


「重たか?」


 白瀬が尋ねる。


「……重たかです」


「俺が持とうか」


 おたえは束を抱き直した。


「ばってん、うちが持って帰りたか」


 白瀬が笑ってうなずいた。


 店を出ると、荷を担いだ男が道を譲ってくれた。

 小春はもう、その荷を見上げている。


「こい、どこから持って来たと?」


「川端たい。舟から下ろして、こっちまで運ぶとよ」


「舟で来たとね」


 おたえも、通りの向こうへ目を向けた。


 家並みの先に、川があるらしい。

 荷を担ぐ男の後ろ姿を、しばらく見送った。


     *


 村の田が見えると、おたえの足が速くなった。


 縄が重い。

 腕も痛い。


 それでも、畦に長吉を見つけた途端、走りたくなった。


「長吉!」


 長吉が顔を上げる。


 おたえは束を持ち上げた。


「買えたばい!」


 長吉が駆けてきた。

 縄へ触れ、目を丸くする。


「魚が、ほんとに縄になったとやね!」


 その言葉で、おたえの胸へ、もう一度うれしさが押し寄せた。


 町で聞いた声。

 汁を飲む人の顔。

 空っぽになった竹の皿。


 一度に話したくなって、口が追いつかない。


「最初、五尾しか買ってもらえんで、それで、大きかとが――」


「待て待て。初めから聞かせんね」


 魚を出してくれた漁師が、腰を下ろした。


 おたえは板を置く。

 縄と、残った銭も並べる。


 最初の五尾。

 尾を折った一尾と、その魚で作った汁。

 塩と薪に使った分。

 あとから買ってもらえた四尾。


 何度か言葉が詰まったが、板の印へ戻れば、続きが出てきた。


「そいで、この縄ば買うて、銭はこいだけ残っとります」


 話し終えると、漁師が縄を取った。


「よか。替えに使えるね」


 おたえは、ようやく肩の力を抜いた。


 健太が竹の皿を置き、源太が籠の隙間を指す。


「ここへ尾が掛かったとです。次は、こっち側も考えんば」


 漁師が普段の入れ方を見せてくれた。

 小春は近くを歩く別の漁師まで呼んでくる。


「おじちゃんも、こっち見てくれんね。町の人にも、この皿の欲しかって言われたとよ!」


 健太が顔を赤くする。


「まだ、作れるか考えるって言うただけたい」


「二人も欲しかって」


 小春が指を二本立てた。


 長吉が、おたえを見る。


「魚以外も売ると?」


 おたえは板の端を、そっと皆へ向けた。


 魚の丸の横に、竹の皿の印がある。


「……健太が作れるって言うたらね」


 健太が、皿の輪を握った。


「魚ば入れて、もう一回試す。大きさの違う籠にも、ちゃんと合わんばいかんけん」


「うち、竹と縄がどれだけ要るか、数える」


 おたえが言うと、健太はうなずいた。


 ガタ吉が縄を受け取り、長吉と納屋へ向かう。

 濡れぬ場所へ掛けておこうと話している。


 おたえはその背を見送り、板の縄へ短い線を一本付けた。


 買えた印だった。


 白瀬が隣へ座る。


「どうだった。初めて売りに行って」


 おたえは少し考えた。


「……怖かった」


 白瀬がうなずく。


「魚、買わんって言われたとき、次に何ば言えばよかか、分からんくなって」


 炭の跡が付いた指を見る。


「汁ば飲んでくれたときも、何も言わんけん……おいしくなかとやろかって」


 澪が、板をのぞき込んだ。


「待つ間は、長かったであろう」


「うん」


 おたえはうなずいた。

 そのときの胸の音を、まだ覚えている。


「ばってん、買うって言ってくれたら」


 顔が勝手に緩んだ。


「うち、もう一回、同じ返事ば聞きたくなった」


 白瀬も、澪も笑った。


     *


 二日後、納屋の前には、竹の皿が三枚並んでいた。


 初めの一枚と、新しく作った大きな一枚、小さな一枚。


 健太は、初めの皿を持ち上げた。


「こいは、魚ば見せる間、ずっと持っとかんばやった」


 縄の輪が掛かっていた指には、まだ少し赤い跡がある。


 今度は新しい皿を持ち上げ、底へ畳んでいた竹の脚を起こした。

 開きすぎぬように結んだ縄が、ぴんと張る。


 地面へ置くと、皿は低い売り台になった。


「こげんすれば、手ば離せる」


 小春が、その前へしゃがんだ。


「魚ば見せながら、汁も渡せるね!」


「銭も受け取れる」


 おたえが続けた。


 健太はうなずき、皿の縁を指す。


「こっちも高うした。籠の編み目へ、尾が出んごと」


 縁の内側は、源太が指でなぞって確かめていた。

 引っ掛かるところは、もう一度削る。


 初めに付けた脚は、横から触るとぐらついた。

 健太は横竹を足し、結び直した。白瀬が重しを載せ、源太が端を押しても、今度はぐらつかなかった。


 ガタ吉が下からのぞく。


「畳んだら、また籠に入るとね」


「うん。二つとも、町で見せてもろうた籠に合わせとる」


 健太が脚を戻す。


 小春が、もう一度起こした。

 おたえもやってみる。


 何度やっても、同じ形になる。


 おたえは板へ、使った竹と縄の分を記していた。

 材料は持ち主と話をつけ、品が売れたあとで代金を払うことにしてある。


 その横へ、健太が作るのに使った時間の印を付けた。


「竹と縄だけじゃ、健太の分がなくなるけんね」


 健太は、少し照れた顔で皿を拭いた。


 おたえは板の印をたどり、考えていた値の横へ線を付ける。


 これなら持って行ける。

 けれど、町の人が出してくれるかは、まだ分からない。


 小春が、納屋の戸口から手を振った。


「おじちゃんたちには、明日の朝、見せに行くって伝えといたよ!」


 おたえの指が止まった。


 また、町へ行く。


 今度は、健太の作ったものを持って。


     *


「……前のと、違うとね」


 初めに欲しいと言った魚売りが、竹の皿をのぞいた。


 健太が籠から皿を上げる。

 脚を起こし、店先へ置いた。


 男の眉が上がった。


「台になると!」


「選ぶ間、持っとかんでよかとです」


 小春が魚買いから小さな鯛を借り、皿へ並べた。

 健太が手を離す。


 魚は、見やすい高さに並んだままだった。


 男が身をかがめ、一尾を指す。

 もう片方の手は、空いている。


「こいなら、客に見せながら、銭も数えられるね」


 おたえは黙って、その手を見ていた。


 魚買いも、皿の縁へ触れる。


「尾も、こっちに収まるとね」


「籠へ入れたままでも、編み目へ出にくうしとります」


 源太が答えた。


 そこへ、隣の店から髭の男が近づいてきた。


「なんば見よると」


 小春がすぐに顔を上げる。


「魚ば運ぶ皿たい。出したら、そのまま台になるとよ」


 健太が、もう一度脚を畳んで見せる。

 髭の男も、手を伸ばした。


「おいにも一つくれんね」


 おたえは三人の顔を見た。


 魚買いは、自分の籠に合う小さい方を確かめている。

 初めの魚売りと髭の男の手は、同じ大きな皿へ伸びていた。


 大きな皿は、一枚しかない。


 おたえの口の端が、上がった。


「今日、持って来たとは、この二枚だけです」


「なら、大きか方は、おいがもらう」


 魚売りが銭を出した。


 おたえは、その銭を見る。

 納屋で考えた値に、まだ届いていなかった。


「もう、こいだけ出してもらえんですか」


 板へ指を置く。


 男が皿を見て、銭を足した。


「これで、どげんね」


「その値なら、おいも欲しか」


 髭の男が割って入った。


「おいは、あと二枚足すけん」


「待たんね。最初に頼んだとは、おいたい」


「まだ値の決まっとらんとやろ?」


 男たちの声が重なる。


 健太が、皿を持つ手へ力を入れた。

 小春はおたえを見る。


 おたえは板を抱え直した。


「なら、もう一枚、出せるとですか」


 魚売りが顔を上げる。


「……上手かね」


 けれど、手は皿から離れなかった。

 髭の男も、銭をしまわない。


 おたえの胸が、どくんと鳴った。


 まだ、欲しい。


 この値でも、二人とも欲しいのだ。


「あと、一枚なら――」


 魚売りの指が、止まった。


「そこまで上がるなら、今日は考え直そうかね」


 髭の男も、口を曲げた。

 銭を入れた袋の口を、指で寄せる。


 店先が、急に静かになった。


 おたえは、二人の手を見た。


 皿へ伸びていた手。

 いまは、銭をしまおうとしている手。


「……いまの一枚は、足さんでよかです」


 言葉がすっと出た。


「さっきの値で、どうですか」


 魚売りが、おたえを見る。

 髭の男も袋の口を開いた。


「そいなら、出せるばい」


「おいもたい」


 おたえはうなずいた。


「同じ値なら、最初に声ばかけてくれた、おじちゃんへ渡します」


 魚売りが、皿へ手を置いた。


「よか。もろうた」


 髭の男が、惜しそうに息を吐く。


「遅かったか」


「次の分も、欲しかですか」


 おたえが尋ねると、男はもう一度、皿を見た。


「出来たら、見せに来んね」


「はい。今度は、おじちゃんの籠も見せてください」


 小春がすぐに、男の店と、いつ荷を出すのかを聞き始めた。


 おたえは、大きな皿の代金を数えた。

 納屋で考えた分より、増えている。


 健太が、目を丸くしていた。


「……こげん、なるとね」


 おたえは、ニヤリと笑った。


「手ば二つ空けられるとよ。おじちゃんたちには、よか道具やったとたい」


 魚買いが、小さな皿を引き寄せた。


「こっちも、今から値の上がるとかね」


 おたえは板を見て、初めに考えた値を示した。


「こっちは、こいでお願いします」


「大きかととは、違うと?」


 おたえは、小さな皿と、そのそばの籠を見る。


「こいは、おじちゃんの籠に合わせとるけん。あっちのおじちゃんたちには、小さすぎるやろ」


 髭の男がうなずく。


「おいの荷には、ちょっと足らんね」


 魚買いが、皿を籠へ収めた。

 隙間へ指を入れて確かめ、もう一度持ち上げる。


「うん。こいでよか」


 今度は、値を競う声は上がらなかった。

 それでも、竹と縄の分と、健太の作った分を残せる値だった。


 魚買いが銭を渡す。

 おたえが受け取る。


 健太の手から、二枚目の皿が離れた。


     *


 店を離れたところで、健太が振り返った。


「おたえ。これなら、十枚くらい作れたら――」


「そんなに、誰が買うと?」


 おたえが尋ねた。


 健太は口を開きかけ、店の方を見る。


「さっき、三人も欲しかって」


「二人は、もう持っとるばい」


 おたえは、空になった籠を指した。


「あのおじちゃんたち、次も同じとば買うやろか」


 健太の目が、籠へ戻った。


 おたえも町の通りを見る。


「髭のおじちゃんには、聞いてみよう。ほかにも要る人のおれば、また作ればよか。ばってん、先にいっぱい作って、誰も手ば伸ばさんかったら……」


 言葉が止まる。


 魚汁を勧めても、人が通り過ぎていったときの手の冷たさを思い出した。


「うち、そいは嫌たい」


 健太は少し考え、うなずいた。


「なら、次の籠ば見てからにする」


「うん。皿が重すぎたとか、脚が使いにくかったとかも、聞いてみたか」


「そいは、おいも聞く」


 白瀬は、二人の後ろで足を止めていた。


 澪が、その顔をのぞく。


「どうした」


「……いや」


 白瀬はおたえを見た。


 値を上げたとき、二人の手はまだ皿へ伸びていた。

 上げすぎたときには、銭をしまう方へ動いた。


 おたえは、その間で止めた。


 売れた勢いで数を増やす前に、次は誰が欲しがるのかを見ている。


 白瀬は、一つも教えていなかった。


「おたえ。さっき、もう一枚足すのをやめたの、どうして?」


 おたえが振り向いた。


「……あそこで、もう嫌になりそうやったけん」


「分かったのか」


「分かるっていうか……」


 おたえは、自分の手を見た。


「うちも、買えん値になったら、手ば引っ込めるやろ。おじちゃんたちも、そげんしよった」


 白瀬は、しばらく何も言えなかった。


 魚を売るとき、あれほど声を詰まらせていた子が。

 銭を受け取る指を震わせていた子が。


 いまは、自分より先に、買い手の気持ちへ手を伸ばしている。


「……参りました」


 白瀬が頭を下げた。


 おたえが目を丸くする。


「なんで、白瀬しゃんが謝ると?」


「謝ってるんじゃない。今のは、俺が教わった」


 澪の口元が、わずかに緩んだ。


「そなたにも、よい先生がおったな」


 小春が、おたえの肩へ腕を回す。


「おたえ先生たい!」


「小春、重たか!」


「魚も皿も、売れた先生!」


 健太が笑った。

 源太も、空の籠を持ち上げて笑う。


 おたえは頬を赤くしたが、代金の包みは落とさぬよう、しっかり抱えていた。


     *


 村へ帰れば、まず材料の代金を払う。

 健太の作った分も、確かめて渡す。


 おたえは歩きながら、板の印をたどった。


 最初は、魚が十尾。

 今日は、竹の皿が二枚。


 同じ丸を幾つ描いても、町で付く値は同じではなかった。


 次は、何を持って行こう。


 川端から荷を担いだ男が、通りへ出てきた。

 小春が声をかける。


 おたえも、その先の川へ目を向けた。


「魚と皿ば、舟で運べんやろか」


 源太が顔を上げる。


「町の、どこへ着ければよかとやろね」


「まず、荷を下ろせる岸を確かめねばならぬな」


 澪が言った。


「そこから店までの道も見ねばならぬぞ」


 村の川の底は、ガタ吉にも見てもらいたい。

 大きな皿を抱えて歩くときより、魚を揺らさず運べるのだろうか。


 おたえは板の空いたところへ、川の線を引いた。


 村から町へ。

 売って、買って、また村へ。


 その途中へ、小さな舟を描き添える。


 健太がのぞき込んだ。


「舟にまで脚ば付けるなよ」


「付けんたい!」


 小春が吹き出した。


 白瀬は少し後ろから、板へ顔を寄せる子どもたちを見ていた。


 おたえの口が、また、あの形に上がる。


 今度は何を思い付いたのだろう。


 白瀬まで、その続きを知りたくなっていた。

お読みいただき、ありがとうございました。


魚が縄になり、健太の工夫にも値が付く。

初めての商いで、おたえの中に眠っていた商人の顔がのぞきました。


健太が作り、小春が人をつなぎ、源太が魚の知恵を添える。

仲間に支えられたおたえの勘には、白瀬も思わず脱帽です。


そして、気になり始めたのは川を使った運び方。

村と町を結ぶ道が、次の挑戦につながっていきます。


おたえたちの初商いを楽しんでいただけましたら、

ブックマークや評価、感想をいただけると励みになります。


これからも『海から百万石』をよろしくお願いいたします。

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