第三十五普請 その竹、ただじゃなか!
樋が一つできると、村には次の頼みがやって来ます。
けれど、竹も縄も、人の手も、いくらでもあるわけではありません。
今回は、おたえの勘定と、健太・小春のにぎやかなやり取りが、村の普請を少し先へ進めます。
竹の樋を、水が渡っていた。
浅い溝を越え、田の口へ落ちていく。朝日に透けた水は、細い銀の筋のようだった。
健太はその下にしゃがみ、結び目を一つずつ確かめていた。昨日は水ばかり追いかけていた目が、今朝は縄や支えにも向いている。
「こい、よかねえ」
背後から声がした。
鍬を肩に担いだ男が、樋と健太を交互に見ている。
「おいの田にも作れんかね。溝ば回って水ば持ってくるとは、骨の折れるとよ」
「作れるばい!」
健太は、ぱっと立ち上がった。
「向こうは、もうちっと長か竹の要るばってん、ここに支えば置けば――」
枝で地面に線を引く。
男が膝を折ってのぞくと、別の村人まで寄ってきた。
「そいなら、こっちにも頼みたか」
「こっちの田は、入口のところば直した方が先かもしれんね」
長吉も加わった。
白瀬の頭の中には、昨日の樋と、まだ見ていない幾つもの溝が並び始めていた。
あそこにも渡せる。ここを直せば、桶を持って往復する回数が減る。
「じゃあ、まず場所を見て――」
「その竹、誰んと?」
小さな声が、線の上へ落ちた。
おたえだった。
膝の上に古い板を置き、その脇には短い竹片と小石を並べている。昨日から数えていた材料の続きを、今朝も確かめていたらしい。
「竹なら、裏に生えとるばい」
健太が向こうを指す。
「誰の裏?」
「……誰のやったかね」
「縄は?」
「漁師のおじちゃんに――」
「網ば直す縄は、残っとると?」
健太の枝が止まった。
おたえは、並べた石を指で押さえた。
「その竹、ただじゃなか。銭の要らんでも、誰かが切って、運ばんば」
鍬を担いだ男が、自分の肩を見た。
「おいが手伝うつもりやったばってん……田の草も取らんばなあ」
白瀬は地面の線から顔を上げた。
頼みが一つ増えるたび、頭の中では樋だけが増えていた。
竹を切る人も、運ぶ人も、飯を炊く人も、同じ村で暮らしている。
「そうだな。作れるかどうかの前に、そろうか確かめよう」
おたえがうなずく。
けれど、新しく置こうとした石を、どこへ並べればよいか分からず、しばらく指先で転がしていた。
*
「縄は、今は出せんばい」
漁師は、納屋の戸口で首を振った。
足元には網が広がっている。
「昨日も、ずいぶんもらったからな」
白瀬が言うと、漁師は慌てて手を振った。
「白瀬どん、そげん気にせんでよか。ばってん、今日は――」
「おじちゃん、網のどこん破れたと?」
小春が横からしゃがみ込んだ。
「源太、こっち見てみんね」
源太も隣に座る。漁師は網の端を引き寄せた。
「ほら、ここたい。石に掛かってしもうてな」
「ここば直さんと、魚の逃ぐるね」
「そうたい。今夜までに直しとかんば、明日の漁に持っていけんとよ」
小春は、おたえを振り返った。
「縄、明日の漁に要るって」
おたえが板の上に印を付ける。
白瀬へ「出せない」と言うときには伏せられていた目が、小春に網を見せるうち、上がっていた。
小春は次の家でも、戸口で足を止めなかった。
竹を運べるか尋ねると、田の草取りの話になった。手伝いに来られるか聞くと、家に残る幼い子の話になった。
長吉の母は、炊事の手を止めて笑った。
「手伝いに出る人の飯も、誰かが用意せんばね。鍋も、急に大きゅうはならんとよ」
おたえは板を見下ろした。
竹。縄。人。
昨日は、それだけを並べていた。
今日は、その人が休む仕事まで付いてくる。
戸口を出ると、健太が道端にしゃがんでいた。地面に描いた図へ、また一本、支えを足している。
小春が袖をつまんだ。
「健太も来て。使う人の話ば、一緒に聞こう」
「おい、まだ描いとるとに」
「なら、描いたとば持って来ればよかたい」
「土ごと持っていくとか」
「板に描けばよかろうもん」
小春は笑い、落ちていた端材を拾った。
健太は少し口を尖らせたが、炭の欠片を受け取ると、今度は板へ線を引き始めた。
その間に、長吉は白瀬を二つの田へ案内した。
一つは入口から遠い隅まで水が届きにくい。もう一つは、昨日の水がまだ土に残っていた。
長吉は畦へ膝を付き、指を土へ入れた。
「こっちは、今日すぐには乾かんと思う。ばってん、また夕方に見に来るけん」
「明日も確かめよう」
白瀬が言うと、長吉はうなずいた。
「全部いっぺんに作らんでも、先にせんばところば見つけよう」
おたえは、その田の脇で石を並べ直した。
急いで欲しい人がいる。
手伝いたい人にも、別の仕事がある。
数を増やすだけでは、どちらも助からなかった。
*
翌朝、白瀬はおたえと小春を連れて、丸山のもとへ向かった。
丸山の手本には、知っているはずの文字が、知らない姿で並んでいる。
白瀬が一字の前で筆を止めると、丸山は手本の線を指で追った。
「ここから、こう続いておる」
「ああ……そこまでが一字なんですね」
「見慣れることじゃ。そなたの字も、なかなか珍しい」
丸山の目が、白瀬の書いた角張った文字へ落ちた。
脇で小春が口元を押さえた。白瀬が見ると、慌てて背筋を伸ばす。
「笑ったな」
「笑っとらんです」
頬だけが、まだ笑っていた。
文字の稽古のあと、おたえの控えを勘定奉行に見てもらうことになった。
おたえは板を両手で差し出したが、印の説明を始めたところで声が細くなった。
「こいが竹で……こっちが、縄で……」
勘定奉行の目が、板へ向いている。
おたえの指が動かなくなった。
「うちも聞いてよかですか」
小春が尋ねた。
勘定奉行がうなずくと、小春は漁師の網の話をした。草取りに出る人と、飯を用意する人の話も続けた。
「みんな、手伝いたかとは言うてくれたとです。ばってん、自分の仕事もあるけん」
おたえが顔を上げる。
「それで、来られる日も、ここに付けたとです」
止まっていた指が動いた。
勘定奉行は、一つずつ説明を聞いたあと、縄の印を指した。
「この縄が傷んだとき、替えはあるか」
おたえは板を見た。
樋を結ぶ縄は数えてある。
その次の縄は、なかった。
「……まだ、数えとらんです」
「では、足しておくとよい」
責める声ではなかった。
「この数で作れたとしても、使っておるうちに要る物が出る。誰に頼むにも、何が要るか分かっておった方が話しやすかろう」
おたえは、縄の印の隣へ、もう一つ小さな印を付けた。
板の上で、必要なものが増えた。
それなのに、何を確かめればよいかは、さっきより分かる気がした。
帰り際、白瀬は勘定奉行へ礼を言った。
「帳面の書き方も、また教えてください」
「そなたもか」
「私もです」
小春がおたえへ、そっと肘を寄せた。
今度は、おたえも少し笑った。
*
「細か縄なら、もっと用意できんやろか」
村へ戻ると、おたえは残っていた縄を二つ並べた。
健太は細い方を取り、端材へ巻いた。結び目を締め、木を少し動かしてみる。
縄が角へ食い込んだ。
もう一度動かすと、結び目がずれた。
「ここは、こっちの縄がよか」
太い方を指す。
「ばってん、全部に使うと足りんとよ」
「ここに木ば添えたら、縄は少のうできるかもしれん」
健太が図へ線を足した。
おたえも木の印を増やす。
減った縄の代わりに、木が要る。
おたえは二つの印を見比べた。
小春が健太の図をのぞき込んだのは、そのときだった。
「そこ、おじちゃんが鍬ば担いで通るとこよ」
「どこ?」
「ここ。この細か道たい」
健太は、小春の指の隣へ自分の指を置いた。
「ここに立てんと、竹の下がるばい」
「ばってん、人の通れんと困るたい」
「なら、どこに立てるとよ」
「見に行こう」
「また?」
「図の上ば歩いても、分からんやろうもん」
健太は図を持ち上げた。
白瀬も立ち上がる。
「俺も行く。支えを動かすなら、樋の渡し方も確かめたい」
田へ行くと、朝に頼みに来た男が畦を直していた。
小春が手を振る。
「おじちゃん、いつもどこば通ると?」
「ここたい」
男は鍬を担ぎ直し、田の脇の細い道を歩いた。
鍬の柄が、健太の考えていた支えの場所を通った。
次に、空の桶を二つ提げて歩く。
桶は、体よりずっと広く道を使った。
健太は地面に枝を置き、もう一度、男に通ってもらった。
片方の桶が枝へ触れた。
「ほらね」
小春が言う。
健太は枝を拾った。
図では細い線だった道を、目の前の男は肩と腕と桶を使って通っている。
「おじちゃん。こっちに置いたら、畦ば直すときに邪魔になる?」
今度は健太が尋ねた。
男はそこを踏み、鍬を下ろして考えた。
「そっちはよか。ばってん、向こうは泥の柔らかかばい」
ガタ吉が溝の縁へ降りた。
泥へ手を入れ、少し場所を変える。
「ここも、下はまだ緩か。立てるなら、もうちっと岸へ寄せた方がよかばい」
健太は図を描き直した。
道の両側へ支えを置く。離れた分、樋の下へ添える木も要りそうだった。
「そいで、竹の下がらんと?」
小春が聞く。
「そこば、試さんば分からん」
健太は答え、白瀬を見る。
「長さと支え方を一緒に確かめよう。水を通す前に、どのくらい動くかも見たい」
白瀬が言うと、健太は図の線をなぞった。
小春は、今度は途中で口を挟まなかった。
健太の話を聞き終えてから、おたえへ振り返る。
「道ば空けるための木も、数えんばね」
おたえがうなずいた。
少し離れたところでは、長吉が男と田の入口を見ている。
水がどこから入り、どの隅へ届きにくいのか。二人の指が、同じ場所を指した。
健太は図を胸へ引き寄せ、小春へ小さな声で言った。
「おいが話す前に、小春が全部聞いてしまうばい」
「なら、次は健太が聞いて。うち、横におるけん」
「話の途中で、急に連れていくなよ」
「ちゃんと聞いとけば、連れていかんでよかたい」
健太は返しかけた言葉を飲み込み、もう一度、男へ図を見せた。
小春はその隣へ並んだ。
*
納屋へ戻るころには、おたえの板に印が増えていた。
替えの縄。
道を空けるための木。
竹を運べる日。
飯を用意できる人。
おたえは板を膝に置いたまま、黙り込んだ。
「どうした」
白瀬が隣へ腰を下ろす。
「うちが数えるたびに、足りんものの増えると」
おたえの指が、縄の印をこすった。
「作ってほしかって言われたとに。うちが、待ってって言わんばと……?」
白瀬が口を開くより先に、澪が向かいへ座った。
「待ってもらう者を、そなた一人で決めるつもりか」
おたえが顔を上げる。
「長吉が田を見る。健太が形を考える。村の者は、自分の仕事を知っておる。そなたの数も、そこへ持っていけばよい」
「みんなで?」
「ここに、これだけおるであろう」
澪は白瀬まで見た。
小春がおたえの隣へ座る。
「話すとは、うちも手伝うけん。おたえは、何の足りんか教えて」
「小春」
澪が呼ぶ。
「約束をするときは、引き受ける者にも確かめるのじゃぞ」
「うん。健太にも聞く」
「おいは、もう隣におるばい」
健太が図を持ち上げた。
おたえの肩から、少し力が抜けた。
その様子を見ていた白瀬の腹が、不意に鳴った。
小春が目を丸くした。
「白瀬しゃんも、足りんと?」
「そなたは、まず飯じゃな」
澪が竹の皮の包みを差し出した。
長吉の母が持たせてくれた握り飯だった。
「俺の分?」
「ほかに誰がおる。皆は先ほど食べたぞ」
白瀬は朝からのことを思い返した。
帰ってからも、図と縄と田のことばかり考えていた。
「また、仕事を増やしかけたな」
「頼られると、嬉しいのであろう」
図星だった。
澪は目をそらさず続けた。
「そなたが全部を背負えば、わたしまで眺めておるだけになってしまう」
白瀬は包みを受け取った。
「澪にまで、面倒をかけるな」
「面倒かどうかは、わたしが決める。……まず、その冷めた飯を食え」
開いた包みの中には、握り飯が二つあった。
白瀬は一つを口へ運んだ。
冷めていたが、腹へ落ちると、さっきまで急いでいた気持ちも少し落ち着いた。
「ありがとう。助かる」
澪はうなずき、おたえの板へ目を戻した。
白瀬も、食べ終えるまで図には手を伸ばさなかった。
*
夕方、樋のそばへ村人が集まった。
おたえは地面に板を置き、竹片と石を並べた。
「今ある樋ば、先にしっかりさせたかとです。そいと、縄の傷んだときの替えば、用意しとかんば」
縄を結んだ場所へ、健太がしゃがむ。
ガタ吉は水の流れる側へ降りた。
次の樋の相談へ移ると、鍬を担いでいた男が顔をしかめた。
「次は、おいの田に来てくれるとね」
おたえは長吉を見た。
長吉は、別の田の持ち主と顔を見合わせる。
「先に、あっちの水の届かんところば直したか」
「おいの田も、いつまでも待てんばい」
小春が男のそばへ寄った。
「おじちゃんの田も、水の回りにくかとたいね。長吉、今日も見てきたと?」
「うん。土は、まだぬれとった。明日の朝も見に来るけん」
男が田へ目をやった。
「風の強うなったら、乾くとも早かとぞ」
「そんときは教えて。おいも、こっちば見とく」
長吉が答える。
白瀬も、二人のそばへ立った。
「田の様子が変わったら、順番も考え直そう。今は、見てきたことを合わせて決めたい」
男はしばらく考え、うなずいた。
「なら、朝は一緒に見ようかね」
おたえが板へ印を付ける。
健太は描き直した図を広げた。
「こっちは、鍬ば担いでも通れるように考えとる。ばってん、木の長さを確かめてから、もう一度試したか」
男は図をのぞいた。
「この木なら、うちに残っとるとの使えるかもしれん」
小春がおたえを呼ぶ。
二人で木の長さと、見せてもらえる日を聞いた。
竹の持ち主は、切ってよい場所を教えてくれた。
草取りのある人は、その仕事が終わってから来ると言った。長吉の母は、来られる人数が決まったら、飯の相談においでと笑った。
板の上の印に、一つずつ返事が付いた。
健太と村人が今の樋の支えを直し、ガタ吉が下から確かめる。
白瀬が結び目を見ている間に、澪は田の口へ歩いた。
長吉がその隣へしゃがむ。
水は、途切れず田へ届いていた。
おたえは竹片を一つ動かし、その場所へ石を置いた。
さっき決まった分だった。
*
「で、替えの縄ば買う銭は、どこから来ると?」
最後まで残った漁師が尋ねた。
おたえは、まだ印だけの縄を見た。
こちらには、返事が付いていない。
「魚ば売れんやろか」
源太が言った。
「食べる分と、村で要る分ば残して、売れるとのあるか聞いてみる」
おたえは田の方を見た。
苗はまだ小さい。ここで実る米を、今の銭として数えることはできなかった。
「魚なら……何尾あればよかと?」
「魚にもよるばい。こんくらいのと、こんくらいのとじゃ違うけん」
源太が両手の幅を変えた。
おたえは板へ丸を描きかけ、手を止めた。
同じ一尾でも、違う。
町へ持っていく間に、傷むこともあるのだろう。
考えていると、小春が道の方へ駆けていった。
「おじちゃん!」
魚買いが、漁師へ翌朝の荷の話をしに来ていた。
「よか魚って、どげんして分かるとですか?」
男は小春を見て、それから後ろの子どもたちを見た。
「急に、どげんしたと」
「魚ば売ったら、縄の買えるか知りたかと」
おたえが板を抱えて近づいた。
「同じ大きさなら、同じ値になるとですか」
「魚の種類にもよるし、傷んどれば買えんこともあるたい。何の魚かも見んで、銭の数は言えんばい」
「捕れる魚は、その日で違うとよ」
源太も口を添えた。
おたえは板を見下ろす。
魚の丸を幾つ描いても、まだ縄にはならなかった。
けれど、分からないことを聞ける相手は、目の前にいた。
「町で、売っとるところも見せてもらえますか」
「朝のうちに来ればよか。持ってくる魚のあるなら、そんとき見せてみんね。何を買えるかは、それからたい」
小春がおたえを振り返った。
おたえは、少し驚いている。
「もう、話ばつけたと?」
「話ば聞く約束たい。値段は、おたえも一緒に聞いてね」
白瀬は二人の後ろで笑った。
その横から、健太が図を持って出てくる。
「おいも、木や縄ば売っとるところ、見てみたか」
「よかよ。何ば聞きたかか、今度は先に教えてね」
「材料のことは、おいも自分で聞くばい」
小春が笑うと、健太も少し笑った。
「家の人に話して、仕事の相談も済ませてからだぞ。俺も一緒に行く」
白瀬が言うと、おたえは板を抱え直した。
魚買いが、その端に描きかけの丸をのぞく。
「そいは魚かね」
「……魚のつもりです」
「明日の朝は、ほんとの魚ば見せてくれんね」
源太が吹き出した。
おたえは頬を赤くしたが、丸を消さなかった。
「はい。何の魚なら買ってもらえるか、うちも見て、聞いてみたかです」
田の方から、水の落ちる音がする。
健太はその音を一度振り返り、図を畳んだ。
小春は魚買いに、町のどこへ行けばよいかを聞いている。
おたえは板の魚の隣に、小さな印を一つ付けた。
明日、確かめに行くことだった。
お読みいただき、ありがとうございます。
「うち、横におるけん」
人の話を聞く小春と、ものを作る健太。二人が一緒に動くことで、図の上だけでは見えなかった暮らしが見えてきました。
おたえも、足りないものを数えて悩むところから、自分で確かめに行く一歩を踏み出しています。
そして、飯を忘れる白瀬には、やはり澪が必要ですね(笑)。
次は町へ。魚は幾らで売れるのか、縄は幾らで買えるのか。
子どもたちの初めての商いを、どうぞお楽しみに。




