↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『海から百万石 ~江戸時代に転移した国交省の土木職員、水守と河童と有明海の大干拓に挑む~』  作者: 天手古まい


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
34/64

第三十四普請 先生、答えを教えんで!

長吉には、土と作物が見える。


健太には、水の道と仕組みが見える。


同じ場所に立っていても、見えているものは少し違うようです。


今回は、そんな二人が初めて力を合わせるお話。


さて――先生はちゃんと「先生」ができるでしょうか?

 朝。


 白瀬が納屋の戸を開けると――。



「……なんだ、これは」



 床にも。


 板切れにも。


 土間にも。


 文字、文字、文字。


 いや、文字らしきものまで含めれば、納屋じゅうが落書きだらけだった。



「白瀬しゃん! 見てくれんね!」


「おい、自分の名前ば書けるごとなったばい!」



 長吉が得意げに板切れを掲げる。


 確かに読める。


 昨日より、ずっと形になっていた。



「うちは数字たい!」


 おたえは土間に、覚えたばかりの数字を並べている。



「わたしの名を書いたのは、そなたか?」



 澪が一枚の板を拾い上げた。


 そこには、少々歪んだ字で『みお』らしきものが書いてある。



「うち!」


 小春が胸を張る。



「ほう」


 澪の口元が、ほんの少し緩んだ。



「よく書けておる」


「ほんと!?」


「うむ。ただし――」


 澪は板を裏返した。


「こちらに書いてある妙な顔は何じゃ」


「あ、それも澪しゃん!」


「小春」


「ひゃっ!」



 小春が逃げる。


 澪が追う。


 ガタ吉が腹を抱えて笑う。



「朝から元気だなあ……」



 白瀬は苦笑した。


 昨日から始まった、小さな学び場。


 もっとも、教えている白瀬自身も、この時代の文字を家老たちから習っている途中である。


 先生と呼ばれてはいるものの、先生だって生徒なのだ。



「ん?」



 ふと、一人だけ輪から離れている子に気づいた。



「健太。何してる?」



 健太は返事をしなかった。


 土間にしゃがみ込み、木切れで何かを描いている。


 文字ではない。


 線。


 もう一本の線。


 その間を、細い線が横切っている。



「こいが畑」


「うん」


「こっちが水の来よるところ」


「うん」


「で、ここん溝が邪魔すると」



 白瀬はしゃがみ込んだ。


 昨日教えた文字ではない。


 健太が描いているのは――図だった。



「水ば、こっちまで持ってきたかと」


「溝を越えて?」


「うん」



 健太は木切れを一本置いた。



「こがんして、水ば渡せんやろか」


「…………」



 白瀬の顔から笑みが消えた。


 悪い意味ではない。



 ――こいつ。



 長吉が土や稲を見るように。


 健太は、物の形と仕組みを見ている。



「白瀬しゃん?」


「ああ。いや……」



 白瀬は立ち上がった。



「やってみるか」


「よかと!?」


「もちろん」



 健太の顔がぱっと明るくなった。




     ◆




 問題の場所は、納屋からそう遠くなかった。


 畑へ水を引きたい。


 ところが途中に一本の溝があり、そのままでは水を向こう側へ渡せない。



「じゃっけん、こっちから掘り直せばよかと!」


「そがんしたら、こっちの水が減るたい!」


「なら、どうすっとや!」


「そいば今から考えるとたい!」



 大人たちまで言い合っている。


 白瀬が来ると、一斉にこちらを向いた。



「白瀬どん。ちょうどよかった。何か知恵はなかか?」


「先生、どうすっと?」



 子どもたちも白瀬を見る。



「え?」



 十数個の目が集中する。


 白瀬の頭には、すぐ答えが浮かんだ。


 水を通す樋を掛ければいい。


 勾配を取り、水が自然に流れる高さを確保する。


 材料は竹か木。


 継ぎ目から漏れるなら塞ぐ方法を考える。



「それなら――」



 言いかけて。


 白瀬は口を閉じた。



「白瀬しゃん?」


「どうしたと?」



 昨日のことを思い出した。


 読み書きを教えた。


 算術も教えるつもりだ。


 測量だって教えたい。


 水のことも。


 農業のことも。


 知っていることなら、いくらでも教えられる。



 だが――。



 自分がいなくなったら?



 白瀬は健太を見た。



「今日は、俺は答えを言わない」


「ええええっ!?」



 子どもたちから大ブーイングが起きた。



「先生なのに!?」


「先生じゃろ!」


「教えてくれん先生って何ね!」



「うるさい、うるさい!」



 白瀬が耳を塞ぐ。



「自分たちで考える!」


「ずるかー!」


「何がずるいんだ!」



 その横で。


 澪が、ふっと笑った。



「ようやく先生らしくなってきたではないか」


「え?」


「そなたが昨日申したのであろう。先生とは、人に教える者だと」


「言ったけど」


「ならば、考えることも教えよ」


「…………」



 白瀬は澪を見る。



「水守先生」


「何じゃ」


「たまに、すごくいいこと言うよな」


「たまに、とは何じゃ」


「痛っ!」



 脛を蹴られた。



「なんで蹴るんだよ!」


「知らぬ」



 澪はぷいと横を向いた。



 だが、その口元は少しだけ笑っていた。




     ◆




「できた!」



 健太が声を上げた。


 竹を割り、木を添え、縄で縛った簡単な樋。


 溝のこちら側から向こう側へ渡してある。



「よし。水ば流すばい!」


「待て待て。俺は離れる」


「なんでね?」


「なんとなく嫌な予感がする」


「白瀬しゃん、臆病たい」


「経験と言え」



 健太が水を入れた。



 ちょろちょろ。



「おお!」


「行ったばい!」



 ところが。



 ぽた。


 ぽたぽた。



「ん?」



 継ぎ目から水が漏れ始めた。



「漏れよる!」


「押さえろ!」


「どこば!?」


「全部たい!」



 健太と長吉が慌てて押さえる。


 なんとか漏れを止める。



「よし!」



 再び水を流す。



 今度は――。



「…………」


「…………」


「…………」



 水が途中で止まった。



 長吉が覗き込む。



「健太」


「なんね」


「水が昼寝しよるぞ」


「うるさか!」



 子どもたちが爆笑する。



「じゃあ、こっちば上げればよか!」



 健太が樋の端を持ち上げた。



「お、おい。そんなに上げたら――」


「行けえ!」



 ざあっ!



「うわっ!」



 水が勢いよく飛び出した。



 そして。



 ばしゃっ!



「…………」



 白瀬の顔面を直撃した。



 一瞬。


 静寂。



「ぶはははははっ!」



 真っ先に笑ったのはガタ吉だった。



「白瀬しゃん、水ん勉強ば身体でしよるばい!」


「ガタ吉……」


「よか先生たい!」


「あとで覚えてろよ」


「河童に水ば掛けても効かんばい!」


「くそっ」



 村人たちまで笑い始めた。



 澪は横を向いて肩を震わせている。



「澪」


「……何じゃ」


「笑ってるだろ」


「笑うておらぬ」


「こっち向け」


「断る」




     ◆




 だが。


 健太だけは笑っていなかった。


 止まった樋を睨んでいる。



「なんで流れんとやろ……」



 白瀬は口を出しかけた。


 そして、また飲み込む。



「健太」


「ん?」


「水は、どっちへ流れる?」


「低か方」


「じゃあ、さっきなんで途中で止まった?」



 健太は樋を見る。



「…………」



 しゃがむ。


 横から見る。


 反対側へ回る。



「あ」



 健太の目が変わった。



「途中が高うなっとる」


「そうだな」


「なら……」



 健太は考え込む。



「高さば測ればよか?」


 白瀬が笑った。



「そういうことだ」


「でも、どうやって測ると?」


「そこは教える」



 白瀬は道具を取りに戻った。




     ◆




 今度は白瀬が全部やらなかった。


 健太に持たせる。


 長吉にも手伝わせる。


 そして、ガタ吉が水の中から樋を見る。



「もちっと、こっちば上げた方がよかばい」


「なんで分かると?」


「水が行きたがっとるけん」


「水が?」


「水は嘘つかんばい」



 ガタ吉は樋を指差した。



「高かところから低かところへ行きたがる。無理に曲げたら怒るし、止めたら溜まる。道ば作ってやれば走ると」


「…………」



 健太が樋を見る。


 次に、水を見る。



「なら……」


 ぽつりと言った。



「水が行きたか道ば、作ってやればよかと?」


「そうたい!」


 ガタ吉が笑う。



 白瀬も思わず笑った。



「そういうことだ、健太」



 大学で習った言葉なら、いくらでもある。


 勾配。


 流量。


 水頭。


 摩擦。


 だが、今はそれでいい。



 ――水が行きたがる道を作る。



 それが分かれば、あとから言葉はいくらでも付けられる。




     ◆




「そがん面倒なことせんでもよかろう」



 見ていた年配の男が言った。



「昔から、水ば引くときゃ土ば見て、水ば見て、低か方へ溝ば切る。そいでよか」


 健太の手が止まる。



 白瀬は男を見る。



「だったら、それも健太に教えてやってください」


「……何?」


「俺は、この土地で何十年も水を引いたことはありません」



 白瀬はしゃがんで土を掴んだ。



「俺が知ってることもあります。でも、皆さんにしか知らないこともある」


「…………」


「ガタ吉にしか分からない水のこともある。澪にしか見えない水もある」



 そして、健太を見る。



「全部使えばいいんです」


「白瀬どん……」


「新しいやり方が、昔からのやり方より偉いわけじゃない。役に立つものを残せばいい」



 男はしばらく黙っていた。


 やがて健太の横へしゃがんだ。



「健太」


「……なんね?」


「ここの土ば触ってみろ」


「土?」


「湿っとるじゃろ」


「うん」


「水はな、見えんところでも動いとる」



 健太が土を握る。



「……ほんとや」


「じゃろ?」



 男が笑った。



「道具ばっかり見とったら、土に笑われるばい」


「うん!」



 白瀬は何も言わなかった。


 それでいい。


 先生は一人でなくていい。




     ◆




 もう一度。


 樋を組み直す。


 継ぎ目を塞ぐ。


 高さを確かめる。


 村人の経験で土台を直す。


 ガタ吉が水の流れを見る。


 そして最後に、健太が自分の手で樋を固定した。



「よかぞ」


「流すばい!」



 水が入る。



 ちょろ。



 ちょろちょろ。



 樋の中を進む。



「行け……」


 健太が呟く。



「行け……!」



 一度、流れが鈍くなる。



 全員が息を呑んだ。



 だが。



 するり。



 水が進んだ。



 そして――。



 ざあっ!



 溝の向こう側へ、水が落ちた。



「行った!」



 健太が飛び上がった。



「行ったばい!」


「水が渡った!」


「やったー!」



 長吉たちが健太へ飛びつく。



「健太、すごか!」


「おいも作れるばい!」


「長吉は田んぼば見とけ!」


「なんでや!」



 また笑いが起こった。



「白瀬どん、さすがたい」



 村人が言った。



 だが白瀬は首を振った。



「俺じゃありません」


「え?」


「作ったのは健太です」



 健太を見る。



「失敗して、考えて、直した。俺はちょっと口を出しただけです」


「ちょっと?」


 澪が言った。


「ずぶ濡れにはなっておったがな」


「それは言わなくていい」


「大事な働きであろう」


「どこがだ」


「皆を笑わせた」


「先生の仕事じゃない!」



 また笑い声が広がった。



 その真ん中で。


 健太だけは、流れ続ける水を見ていた。



 じっと。


 嬉しそうに。



 白瀬はその横顔を見て思った。



 ――長吉とは違う。



 長吉は土を見る。


 稲を見る。


 どうすれば育つのかを考える。



 健太は形を見る。


 仕組みを見る。


 どうすれば動くのかを考える。



 まだ子どもだ。


 できることなんて、ほんの少ししかない。



 それでも。



 芽は、もう出ている。




     ◆




「白瀬しゃん」


「ん?」



 夕方。


 皆が片づけを始めた頃。


 おたえが白瀬の袖を引いた。



「どうした?」



 おたえは板切れを持っていた。


 そこには数字が並んでいる。



「竹が六本」


「うん」


「縄が、こんだけ」


「うん」


「木も使うた」


「そうだな」


「大人も三人手伝うた」


「……うん?」



 白瀬は嫌な予感がした。



「おたえ」


「なんね」


「何を数えてる?」


「使うたもん」



 おたえは当然のように答えた。



「で?」



 おたえが首を傾げる。



「これ、いくら掛かったと?」


「…………」



 白瀬が固まった。



 健太も固まった。



 ガタ吉が一歩下がった。



「銭の話になったばい……」



「だって」



 おたえは指を折る。



「一個ならよかよ。でも、これば村じゅうに作るとやろ?」


「まあ……必要なら」


「なら、竹も縄もいっぱい要るたい」


「そうだな」


「誰かが作らんばいかん」


「そうだな……」


「そいで」



 おたえは板切れを白瀬へ突き出した。



「村じゅうに作るなら、いくら要ると?」


「…………」



 答えられなかった。



 技術的に作れる。


 役にも立つ。


 だが、作れることと、広げられることは違う。



「白瀬しゃん?」


「ちょっと待ってくれ」


「先生なのに分からんと?」


「先生にも分からないことはある!」


「昨日から、そいばっかりたい」


「ぐっ……」



 澪が、くすりと笑った。



「先生」


「なんだよ」


「次の生徒が待っておるぞ」



 白瀬は、おたえを見る。



 長吉は、土を見ていた。


 健太は、水の道を見ていた。



 そして、おたえは――。



 銭を見ていた。



 白瀬はまだ知らない。



 この小さな少女の目が、やがて村の外へ向き。



 諫早の外へ。



 さらに、その先へ。



 人と物と銭をつなぐ道を見つけることになるなど――。



 このときは、まだ。



 誰も知らなかった。

お読みいただき、ありがとうございます!


長吉は「どう育てるか」。


健太は「どう作るか」。


白瀬が役目を決めたのではなく、二人自身が「もっと知りたい」「もっと作りたい」と思い始めました。


そして最後に出てきた、おたえの一言。


「作れても、続けられんかったら意味なかやろ?」


米を増やすにも、道具を作るにも、人と物と――銭がいります。


どうやら次の授業は、白瀬先生にも少々手強そうです。


次回、第三十五普請。


今度は、おたえが動きます。


よろしければブックマーク・評価・感想で応援していただけると嬉しいです!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。